感傷のようなものよ
腹の上を何かが這いまわっている奇妙な感覚に、まどろんでいた頭が覚醒した。それは割れた腹筋の上をするすると移動し、へその周りをくるりと回っている。羽のような軽やかさ。害意はないようだが、その絶妙な強さがなんともこそばゆい。
御手杵は薄く瞼を持ち上げ、紅葉の色をした瞳を自身の胴体に向ける。
いつものTシャツが胸の少し下まで捲られており、曝け出された肌に、折れそうなほど細い指が乗っていた。その指の根を辿って行くと、幅の狹い甲と、恐ろしく華奢な手首が目に入る。さらに奥に視線を移せば、柔らかな素材の布地に包まれた腕の向こうに、とうに慣れ親しんだ女の顔があった。
御手杵の主であり、伴侶でもある女だ。
彼女は口元に楽しげな笑みを浮かべ、御手杵の腹をべたべた撫で回している。くすぐったい。へそを指で擦られ、思わず腹に力が入った。
「あら」
今気づいたと言った調子で女が声を上げた。目と目がまっすぐに繋がる。
「起きてたんですか?」
悪びれもしない声が降ってくる。御手杵は寝起き早々苦笑した。こっちはその悪戯好きな手に起こされたのだ。
「お腹出しっぱなしじゃ、風邪引いちゃいますよ」
「あんたが捲ったんだろ?」
「元から捲れてたんですよ」
「じゃあ戻してくれよ」
「ちょっと触りたくなって」
ふふ、と女は小さく笑い、するりと御手杵の腹を撫で上げた。その、触りたいという気持ちが御手杵には分からない。彼女のようにふんわりと柔らかく、沈み込むような白磁の肌なら触りがいもあるというものだが、それに比べて自分の皮膚はただただ硬いだけで、肌触りも全く良くはない。
「楽しいのか?」
「ええ」
「ふうん……」
納得はできないながらも、愛おしい女が顔を綻ばせているのならば、多少腹を差し出すにやぶさかでない。
とりあえずは放っておくことにして、御手杵は目を瞑り、午睡の続きに洒落込むことに決めた。開け放たれている障子のその向こうでは、昼下がりの暖かな光が庭いっぱいに降り注いでおり、その和やかさが縁側を通じて部屋の中にまで伝わってくる。こんな日に昼寝をしないのは太陽への冒涜だ。
だが、腹部へのやり過ごせない刺激に、御手杵は早くも眠ることを諦めかけた。
女の指がへその窪みに添えられ、小さな円を描くように弄り始めたからだ。
「ちょ、ちょっと待った」
「なぁに?」
「くすぐってえ……」
ひくりと頬が引き攣る。女は一瞬ぽかんとした後、小さく笑って手を引っ込めた。それからころんと身体を倒し、御手杵の腕を枕にして横になる。
ほっと息をつきながら、枕にされたのとは逆の腕で彼女を抱き寄せた。相手の顔が手のひらひとつ分の距離より近くにあるのも、もう驚くようなことではない。
「あんた、いつまでここにいられるんだ?」
「三時半まで」
時計を見る。あと五分もない。
御手杵は非番だが、彼女はそうではないのだ。仕事の合間を縫って会いに来たのだろう。同じ屋敷に暮らしているのだから会おうと思えばいつでも会えるのだが、二人きりの時間はいつになっても貴重だった。
名残惜しさを感じていると、女の手が再び御手杵の腹のあたりをまさぐり始めた。
「っ、ン……なんだよ?」
「んー……」
先程から彼女は妙にへそに御執心だ。御手杵がTシャツの裾をきちんと引っ張っても、わざわざそれを捲くり上げてわざわざ服の下に手を忍び込ませてくる。
「あのね」
「おう」
「御手杵のおへそは、どこに繋がっていたんだろうなって、考えてたのよ」
甘える時のような口調で女が言う。
御手杵は意味が分からず頭を捻った。
「繋がってた?」
「産まれるまでね、赤ちゃんは母親のお腹の中で、ここに繋がってた管を通して栄養をもらうの」
「へえ……」
御手杵はぼんやりと頷いた。それは槍が初めて知った知識で、生命の根幹に関わる、感嘆さえ覚えるようなものだ。だが、それと同時に感じたくもない差異を目の当たりにさせられ、酷くつまらない気分になる。
考えるまでもなく答えは一つだ。
御手杵は、どの女の身体にも繋がってはいなかった。
自分に限らず刀剣男士は皆同じで、人の女から産まれてきたわけではない。肉体を与えたのは、他ならぬ目の前の『審神者』だ。
「変なこと聞くんだな」
「そう?」
「そうだろ」
「……ん、そうよね」
女がしっとりと目を伏せる。御手杵は自身の腹のあたりで揺蕩っていた手を掴み、大きさの違う指を絡めた。
「もし、どこかに繋がっていたらと、思ったの」
たおやかな指が御手杵の手を握り返す。同じヒトの手とは思えないくらい、小さくて、細くて、柔らかな手。御手杵と女が持っているのは、どうしようもなく違うものばかりだ。
「……一番ありえるのは、あんたなんじゃないか」
「私?」
女はきょとんと目を丸くした。無垢な表情だった。
「繋がってるのは。俺に身体を与えたのはあんただろ?」
天下三名槍が一本、御手杵。
彼が槍として地上に生まれ、御手杵の名を与えられたのは遥か過去の話だ。
そして、それを核とし同じ姿形を取った刀剣男士ならば、この世に数多存在する。
だが、今彼女の前にいて、その手に触れた自分は紛れもなく唯一無二の存在なのだ。それを彼はしかと自覚していた。
他のどこにもありはしない。彼女がいたから、今ここに存在している。世界に触れている。胸がつまるほど深く、繋がっている。
細い指から一瞬、力が抜けた。それからもう一度、震えるほど強く男の手を握り、離さない。
「……それじゃあ私、御手杵のお母さんになっちゃいますよ」
冗談めいた口調で言い、女はくすくすと笑った。
御手杵も口元を緩め、それから、ふっと息をこぼす。
「そりゃあ困るなあ」
「ええ、とても困ります」
「何もできなくなる」
女を抱き寄せ、唇を奪う。彼女はそっと瞼を下ろし、僅かに強ばった唇を受け入れた。角度を変えながら、御手杵はふっくらとした唇に何度も触れるだけの口づけをする。
だが、舌の先で彼女の唇を舐めたところで、胸をトン、と軽く押された。
「もう行かないと」
視線だけで時刻を確認する。長針は六の字を既にいくらか過ぎていた。
「五分じゃ足りねえ」
身体を起こした女が微笑み、御手杵の額を撫でる。指先が眉の下に触れ、促されるまま瞼を下ろすと、唇に柔らかなものが舞い降りた。
「また後で」
未練がましくも伸ばしかけた手を握り込み、悪戯っぽく手を振った彼女を見送る。
御手杵はひとつ息を吐き、午睡に戻ろうと再び目を閉じた。瞼の裏には常と変わらず、女の姿が焼き付いていた。
腹の上を何かが這いまわっている奇妙な感覚に、まどろんでいた頭が覚醒した。それは割れた腹筋の上をするすると移動し、へその周りをくるりと回っている。羽のような軽やかさ。害意はないようだが、その絶妙な強さがなんともこそばゆい。
御手杵は薄く瞼を持ち上げ、紅葉の色をした瞳を自身の胴体に向ける。
いつものTシャツが胸の少し下まで捲られており、曝け出された肌に、折れそうなほど細い指が乗っていた。その指の根を辿って行くと、幅の狹い甲と、恐ろしく華奢な手首が目に入る。さらに奥に視線を移せば、柔らかな素材の布地に包まれた腕の向こうに、とうに慣れ親しんだ女の顔があった。
御手杵の主であり、伴侶でもある女だ。
彼女は口元に楽しげな笑みを浮かべ、御手杵の腹をべたべた撫で回している。くすぐったい。へそを指で擦られ、思わず腹に力が入った。
「あら」
今気づいたと言った調子で女が声を上げた。目と目がまっすぐに繋がる。
「起きてたんですか?」
悪びれもしない声が降ってくる。御手杵は寝起き早々苦笑した。こっちはその悪戯好きな手に起こされたのだ。
「お腹出しっぱなしじゃ、風邪引いちゃいますよ」
「あんたが捲ったんだろ?」
「元から捲れてたんですよ」
「じゃあ戻してくれよ」
「ちょっと触りたくなって」
ふふ、と女は小さく笑い、するりと御手杵の腹を撫で上げた。その、触りたいという気持ちが御手杵には分からない。彼女のようにふんわりと柔らかく、沈み込むような白磁の肌なら触りがいもあるというものだが、それに比べて自分の皮膚はただただ硬いだけで、肌触りも全く良くはない。
「楽しいのか?」
「ええ」
「ふうん……」
納得はできないながらも、愛おしい女が顔を綻ばせているのならば、多少腹を差し出すにやぶさかでない。
とりあえずは放っておくことにして、御手杵は目を瞑り、午睡の続きに洒落込むことに決めた。開け放たれている障子のその向こうでは、昼下がりの暖かな光が庭いっぱいに降り注いでおり、その和やかさが縁側を通じて部屋の中にまで伝わってくる。こんな日に昼寝をしないのは太陽への冒涜だ。
だが、腹部へのやり過ごせない刺激に、御手杵は早くも眠ることを諦めかけた。
女の指がへその窪みに添えられ、小さな円を描くように弄り始めたからだ。
「ちょ、ちょっと待った」
「なぁに?」
「くすぐってえ……」
ひくりと頬が引き攣る。女は一瞬ぽかんとした後、小さく笑って手を引っ込めた。それからころんと身体を倒し、御手杵の腕を枕にして横になる。
ほっと息をつきながら、枕にされたのとは逆の腕で彼女を抱き寄せた。相手の顔が手のひらひとつ分の距離より近くにあるのも、もう驚くようなことではない。
「あんた、いつまでここにいられるんだ?」
「三時半まで」
時計を見る。あと五分もない。
御手杵は非番だが、彼女はそうではないのだ。仕事の合間を縫って会いに来たのだろう。同じ屋敷に暮らしているのだから会おうと思えばいつでも会えるのだが、二人きりの時間はいつになっても貴重だった。
名残惜しさを感じていると、女の手が再び御手杵の腹のあたりをまさぐり始めた。
「っ、ン……なんだよ?」
「んー……」
先程から彼女は妙にへそに御執心だ。御手杵がTシャツの裾をきちんと引っ張っても、わざわざそれを捲くり上げてわざわざ服の下に手を忍び込ませてくる。
「あのね」
「おう」
「御手杵のおへそは、どこに繋がっていたんだろうなって、考えてたのよ」
甘える時のような口調で女が言う。
御手杵は意味が分からず頭を捻った。
「繋がってた?」
「産まれるまでね、赤ちゃんは母親のお腹の中で、ここに繋がってた管を通して栄養をもらうの」
「へえ……」
御手杵はぼんやりと頷いた。それは槍が初めて知った知識で、生命の根幹に関わる、感嘆さえ覚えるようなものだ。だが、それと同時に感じたくもない差異を目の当たりにさせられ、酷くつまらない気分になる。
考えるまでもなく答えは一つだ。
御手杵は、どの女の身体にも繋がってはいなかった。
自分に限らず刀剣男士は皆同じで、人の女から産まれてきたわけではない。肉体を与えたのは、他ならぬ目の前の『審神者』だ。
「変なこと聞くんだな」
「そう?」
「そうだろ」
「……ん、そうよね」
女がしっとりと目を伏せる。御手杵は自身の腹のあたりで揺蕩っていた手を掴み、大きさの違う指を絡めた。
「もし、どこかに繋がっていたらと、思ったの」
たおやかな指が御手杵の手を握り返す。同じヒトの手とは思えないくらい、小さくて、細くて、柔らかな手。御手杵と女が持っているのは、どうしようもなく違うものばかりだ。
「……一番ありえるのは、あんたなんじゃないか」
「私?」
女はきょとんと目を丸くした。無垢な表情だった。
「繋がってるのは。俺に身体を与えたのはあんただろ?」
天下三名槍が一本、御手杵。
彼が槍として地上に生まれ、御手杵の名を与えられたのは遥か過去の話だ。
そして、それを核とし同じ姿形を取った刀剣男士ならば、この世に数多存在する。
だが、今彼女の前にいて、その手に触れた自分は紛れもなく唯一無二の存在なのだ。それを彼はしかと自覚していた。
他のどこにもありはしない。彼女がいたから、今ここに存在している。世界に触れている。胸がつまるほど深く、繋がっている。
細い指から一瞬、力が抜けた。それからもう一度、震えるほど強く男の手を握り、離さない。
「……それじゃあ私、御手杵のお母さんになっちゃいますよ」
冗談めいた口調で言い、女はくすくすと笑った。
御手杵も口元を緩め、それから、ふっと息をこぼす。
「そりゃあ困るなあ」
「ええ、とても困ります」
「何もできなくなる」
女を抱き寄せ、唇を奪う。彼女はそっと瞼を下ろし、僅かに強ばった唇を受け入れた。角度を変えながら、御手杵はふっくらとした唇に何度も触れるだけの口づけをする。
だが、舌の先で彼女の唇を舐めたところで、胸をトン、と軽く押された。
「もう行かないと」
視線だけで時刻を確認する。長針は六の字を既にいくらか過ぎていた。
「五分じゃ足りねえ」
身体を起こした女が微笑み、御手杵の額を撫でる。指先が眉の下に触れ、促されるまま瞼を下ろすと、唇に柔らかなものが舞い降りた。
「また後で」
未練がましくも伸ばしかけた手を握り込み、悪戯っぽく手を振った彼女を見送る。
御手杵はひとつ息を吐き、午睡に戻ろうと再び目を閉じた。瞼の裏には常と変わらず、女の姿が焼き付いていた。
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