真実からは遠い唇

※5月2日のさにわんらいのお題をお借りしたけどワンライじゃなくなりました。
【どうやったって君に勝てない/押し倒した理由について】





「今なら許してあげる」

 凍りついた心臓が動き出す。首の後ろを冷たいものがつうっと流れていく感覚がした。
 御手杵の顔の向こうに、天井が見える。
 押し倒されているのだ。この状況で危機感を感じないほど私は鈍くはないし、彼を信頼してもいなかった。唇が気丈に振る舞うことを覚えていたのだけが救いだ。弱さを見せれば、その瞬間きっと喉笛に喰らいつかれる。
 御手杵は唇をぎゅっと結び、私を見下ろしていた。真面目な顔だ。思っていたよりもずっと理性的に見えて、少しだけ混乱する。

「あんたが欲しい」

 心臓がどくりと跳ねた。
 何度も聞いた言葉が違う響きを持っているのは、この体勢のせいだ。自分より何回りも体格の大きい男に組み敷かれている、恐怖のせい。ときめきなんてものじゃない。好きでもない男なんて害にしかならない。

「お断りします」

 御手杵は酷く傷ついた顔をした。でも、優しさで包んでなんてあげない。もうそんなことはしてあげない。私だって、御手杵の言葉に数えきれないほどの傷を刻まれている。鋭い傷。きっと全部刺し傷だ。

「何度も言ってるでしょ」
「俺も何度も言ってるだろ。諦めないって」
「しつこい」

 耳にタコができるほど聞かされた。もううんざりだ。何度言われたって私は頷かない。死ぬまで受け入れはしない。

「しつこい男は嫌われるのよ」
「知らねえ。槍だから」
「都合のいいことばかり言う」

 両腕を引っ張り出し、御手杵の肩を押し返す。びくともしない。ああ、誰がただの槍にこんな屈強な男の身体を与えたんだ。
 女だったらまだ良かった。私はこんなことで悩まずに済んだ。
 御手杵が上体を起こす。ようやく解放されるのかと思ったが、あちらにそんな意図は微塵もなかったらしい。骨ばった大きな手が私の手首を掴む。抵抗する間もなく両手が纏められ、床の上に押さえつけられた。

「最低」
「主」
「離して」
「俺の何が駄目なんだ」

 手首を拘束するのとは逆の手が、私の頬に触れる。親指が唇をなぞる。噛んでやろうかと、少しだけ悩んだ。
 御手杵の顔を見つめる。激昂されるかと思ったが、恐ろしく整った顔は、寧ろどこか悲しげだ。
 駄目なところなんか聞いて、どうしたいんだろう。どうしようもない。御手杵には何もできない。その表情がさらに曇ることを予想しながら、唇を開く。

「人じゃないところ」

 御手杵は槍だ。付喪神だ。人のような形をして、人のような振る舞いをして、人のような言葉を吐いても、決して人にはなれない。隔絶した存在なのだ。私はそれを受け入れられない。
 御手杵は僅かに眉を寄せた。それだけだった。たぶん、とうに知っていた事実だったからだろう。
 目を逸らす。意味もなく天井を眺めて、もう一度喉を震わせる。

「それから、私を好きなところ」

 最高に趣味が悪い。そう付け加えると、少しの沈黙の後で御手杵が嘆息した。

「どうにもならないことばかり指摘するんだな」
「そうよ。だからどうにもならないの」

 御手杵の求める関係にはなれない。なりたいとも思っていない。
 だから、できることならきっと、忘れたほうが幸せなのだ。他の誰よりも武器らしく見えた御手杵が私を好きになったのは、何かの間違いに違いない。たぶん、何かの弾みに線が一本ずれてしまった。互いの糸が絡まってしまった。
 誤りは正さなければならない。私のことを忘れてほしい。忘れて、最初に戻れたら、今度は間違わせない。
 どうしたら忘れてくれるだろう。記憶を失わせるにはどうしたらいい?
 ――例えば、あの短刀のように。あの脇差のように。あの太刀のように。あの、槍のように。
 燃えれば。
 もう一度、燃えてしまえば。

「……」

 口の中の水分が急速に失われていく。代わりに、なぜか目の奥に熱いものがあるのを感じた。

「どうにもならなくても、俺は、」
「やめて」

 言葉を遮る。刺すことに長けた槍の言葉は、私の皮膚を貫いて、容易に心臓まで辿り着いてしまう。聞きたくない。これ以上、何も感じたくない。

「私、あなたが想像するよりずっと酷いことを考えてるのよ」
「なんだ?」
「言ったら幻滅するようなこと」

 口にすれば、私への好意は一瞬で憎悪に反転するだろう。やっぱりふさわしくない。御手杵には、私みたいな人間は、ふさわしくない。私が人でないものを受け入れられないのと同じ。そもそも違う存在なのだから。

「なら、言えばいい」

 唇を噛んだ。目を閉じた。口にすれば御手杵は私を嫌う。それは都合のいいことかもしれない。でも。でも、そんなの、言えるわけがない。
 違う、嫌われるのが怖いわけじゃない。御手杵を傷つけたくないから口を噤んでいるわけでもない。そんな優しい人になれない。ただ、私の、醜い部分を他人に知られるのが嫌だから。自分が酷い人間であることを目の当たりにするのが嫌だったから。

「言えないのか」
「……っ」
「それなら、まだ好きだ」

 黙りこんだ私の頬を熱い手のひらが撫でる。おそるおそる、瞼を持ち上げた。

「馬鹿みたい」

 口元を柔らかく緩め、御手杵は笑っている。
 触れる手が優しくて嫌になる。泣きたい気持ちと怒りたい気持ちが混ざり合って、頭の中がぐちゃぐちゃだった。気持ちが悪い。けれど、吐いてしまうこともできない。楽にはなれない。

「あんたは」

 御手杵の顔が近づく。私の手首を押さえつける腕の力が、少しだけ弱まった。今なら逃げることができるかもしれない。でも。

「嘘はつかないけど、本当のことも言わないな」

 御手杵のその一言が、私の声を丸ごと奪い取った。
 唇を塞がれる。キスをされているんだと、数秒遅れて理解した。
 何をするんだと心の中で詰った。私の何を知っているのと嘲った。でも、どういうわけか手も足も全く動かない。身体が熱い。心臓の音が狂い出す。煩くて、煩くて、身体が壊れてしまいそう。違う。嫌だ。こんなことは嫌なのに。
 ふと、御手杵の言葉が頭の中に響いた。
 本当のこと。言えずに喉の奥にしまい込んでいた言葉。
 私は、本当は。



 触れ合った場所が熱い。
 その温度にやられて、燃えてしまいたいと思った。
 


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