無題16
突然だが、俺の主は酒が弱い。
チューハイ一口で顔を赤くするし、缶半分も飲めば、騒がしい酒宴の真ん中でもすとんと眠りに落ちてしまう。一度目を閉じてしまえば、起きるのは大抵明け方になってから。そのくらい弱い。
そんな主を部屋まで運ぶのは、本丸に来て一年が過ぎた頃からずっと、変わらず俺の役目だった。陽に当てたふかふかの布団を敷き、なんにも知らず眠る彼女の身体を横たえて、肩までしっかり布団を被せる。たったそれだけの役目。
けど、他の誰にも譲らない。触らせない。本当は他の刀に彼女の寝顔を見られることさえ嫌なのだが、暴れるだとか、泣き喚くだとか、そういう風に酒癖が悪いわけでもないので、さすがに酒を飲むなと言い含めることもできなかった。
それだから、本音を言えば。本丸全体で宴会をする時はいつも、俺は複雑な気分でいるのだ。
「今日はちゃんと寝る前に部屋戻れよ」
先日、この本丸にもようやく日本号がやって来た。今夜はその歓迎会だ。普段より豪華な食事と上等な酒が出るから、主役だけじゃなくて、ここにいるほとんどの奴らが楽しみにしている。
それは目の前の女も例外じゃない。
「当たり前じゃないですか。さすがにほとんど初対面の人の前でそこまで気を抜きませんよ」
主は……あまねは心の底からそう思っているようで、なんの引け目もなくにこにこ微笑んでいる。俺はわざとらしいくらい大きなため息をついた。
「あんたなあ、今までのこと思い出しながらでもそんなこと言えるのか?」
「う。……で、でも大丈夫です。今日は全然飲むつもりはないんです。本当ですよ」
じいっとあまねを見下ろす。たぶん、寝るんだろうなあ。こんなこと言ってるけど。
俺の視線を受けて、あまねはきまり悪そうに口元を緩めた。
「でも……もし寝ちゃっても、御手杵が部屋まで連れて行ってくれますもんね?」
そりゃあ連れてくけど。広間で寝かせとくわけにもいかないから、そりゃあ部屋までちゃんと運ぶけれど。
俺が逆らえないと分かって甘えてるのだから、全くずるい女だ。
でも、なんだかんだそうやって甘えられるのは嫌いじゃない。正直に言うと、好きだし、嬉しい。独占欲と、優越感なんてものを感じてもいる。だから俺は促されるがまま、彼女をどろどろに甘やかしてしまう。刺すことしかできなかったはずなのになあ。
「ひゃっ」
悔しくなって、あまねの頭に手を置いてくしゃくしゃと髪を掻き乱す。
「やだ、何するんですか」
「なんでもない」
「なんでもないのに人の髪をくしゃくしゃにしないでください」
「はいはい」
むすっとした顔。本当はそんなに怒っていないくせに。指で髪を梳き、元通りに整えてやると、あまねはころっと表情を変え、甘く微笑んでみせた。
きっと今日の夜も振り回されるんだろう。一時間もしないうちにうとうとして、赤らんだ顔ですやすや眠り始めるに違いない。子どもみたいにあどけない顔で、しとやかな色気を纏って。……本当、仕方のない主だ。
かくして夜がやってくる。
昼間の俺の予想は、半分当たりで半分外れといったところだった。
「御手杵御手杵。わたし、今日いっぱい起きてますよ!」
「お、おう……そうだな……」
夜が更け、机の上のつまみも大分量が減ってきた。刀剣達は最初はいくつも並んだ長机に均等に座っていたのだが、人数が減ってくると、少人数で卓を囲み、盃を片手にまったりと語らうようになっていた。いや、勿論終始ぶっちぎったテンションで騒ぎ続けてる奴らもいる。その一方で座布団に抱きつきながら寝落ちている奴もいて、広間の隅に寂しく放置されていた。身体がでかい奴は運ぶのが大変なのだ。腹の上のブランケットは、誰かのささやかな優しさだろう。
そんなこんなで、広間はそこそこ混沌とした様相を呈している。そしてこの時間になっても、あまねはまだ宴会の場に残っていた。
「もーなんで? なんで嬉しそうじゃないの? わたしは御手杵と一緒に飲めるの嬉しいのにー」
煮え切らない返事があまねには不満だったらしい。頬を膨らませながら俺の左腕に組みついて、ぐいぐい引っ張っている。その腕に自身の胸が当たっているのも全く気にしていない。ここは広間で、他の刀剣もすぐ近くにいるのに、だ。
「うん、それは嬉しいけどさ……」
「嬉しい?」
「嬉しい。嬉しいから、ちょっと離れようか」
「やだー」
この酔っぱらいめ。
仕方なしに無理やり腕を引っこ抜く。するとあまねは俺の腰に腕を回して、今度は背中にぴたっと抱きついてきた。
「おてぎね冷たぁい」
「あんたが熱いんだよ……」
そこそこ飲んではいるが、彼女に比べれば素面同然だ。
背中に柔らかい感触。無意識、というよりも、寧ろ積極的でさえあった。もしかして、状況はさっきより悪化しているんじゃないだろうか。
少し離れて飲んでる奴らが時々チラッとこっちを見ては、にやついた笑みを残していく。その後に楽しげな笑い声。酒の肴にされているに違いない。立場が逆なら俺だってそうするさ。
「あー……ほら、乾杯。乾杯しようぜ。一緒に飲むんだろ。こんなにくっついてたらできないぜ」
「ん! 乾杯する」
手近にあったグラスにビールを注ぐ。ただし、一杯だけだ。もう一個のグラスにはオレンジジュース。あまねは俺の背中にぴったり貼りついているから、酒が一滴も入っていないことにも気づかないだろう。
「はい、乾杯」
「かんぱーい」
ほろほろに酔った指先にグラスをしっかり握らせて、カチッとその端をぶつける。あまねはこくんと喉を鳴らし、おいしー、ととろけた笑顔を見せた。
「なあ、あまね……」
そろそろ部屋に戻らねえ?
そう提案しかけたところで、俺達に一番近い障子がすうっと引かれた。
姿を現したのは今夜の主役。厠にでも行っていたのか、庭で酔いでも覚ましていたのか。日本号は俺達の姿を認めると、くいっと口の端を上げて笑った。
「嬢ちゃんは随分甘えん坊だな」
日本号は広間全体を見渡し、机を挟んで俺達の向かいに腰を下ろした。あまねはグラスを両手で持ちながら、ぽけっと気の抜けた顔で日本号を眺めている。
「今日は……酷い……」
「アンタも大変だ」
たぶん疲れた顔をしていたんだろう。日本号が労うように徳利を向けてきたので、俺はお猪口を差し出し、注がれた酒を遠慮なく呷った。
俺と日本号のやり取りを見ながら、あまねは昼間の言葉を思い出していたらしい。オレンジジュースを机に置き、ささっと居住まいを正し始めた。
「にほんごう元気だ?」
「これでも結構酔ってるがなあ。まあ、まだまだいけるぜ」
「じゃあ私お酌します!」
酒で溶けた頭でも、出会って間もない刀の前でだらしのない姿を見せるのは良くないと、そのくらいの分別をわきまえることはできたらしい。それでも、子どもみたいな舌っ足らずな喋り方は全く変わっていないのだが。
あまねの指は、爪の先までほんのり赤みを帯びている。零さないように、慎重に。日本号の手にしたお猪口に酒を注ぐ様子を、俺は黙って見守った。
「ありがとよ」
「いーえ!」
ほっとした様子で、ご機嫌な顔で。あまねが日本号にふわりと笑いかける。
あ、どうしよう。おもしろくない。
途端にそんな黒い気持ちが湧いてきて、俺は慌てて頭を振った。ついさっきまで、離れてほしいだとか、ちょっと面倒だとか、そう感じていたのはどこのどいつだ。
手持ち無沙汰に、手のひらの中でお猪口を転がす。にこにこと愛嬌を振りまくあまねを見る。そんなふうに笑うな。いや、でも、邪険に扱えと、そう要求したいわけでもない。じゃあ何なんだ。自分でも分からない。
……俺も、結構酔ってるのかもしれない。
自己嫌悪に塗れながら、悶々と目の前の二人を見つめる。ふと、日本号と目が合った。
「御手杵はいいのか?」
「っ! だめー」
俺のちっぽけな嫉妬は見え見えだったんだろう。視線の交わった一瞬であっさり露呈してしまうくらいに。
あまねが俺の傍に寄る。その距離は、机を挟んで向かい合っていた日本号との距離よりも、ずっとずっと近い。
「えへへ。御手杵にもお酒ついであげるね」
「おう……」
徳利が傾けられる。澄んだ水音。俺の手の中に戻ってきたあまねが、安息を注ぐ。
「満更でもなさそうじゃねえか」
日本号が席を立つ。苦笑とともに残されたその言葉には、申し開きもできなかった。
「ね、わたし、ちゃーんとしてたでしょ?」
あまねが自慢気に胸を張る。色んな面で同意はほとんどできなかったが、なんだか褒めてほしそうだったから、そっと頭を撫でてやった。
大きな目が気持ち良さそうに細められる。ふんわりと頬が緩む。もっと、とねだるように俺の胸に顔を寄せて、あまねは心地よさげに瞼を下ろした。
もしかすると、今なら素直に聞いてくれるかもしれない。
「なあ、二人になるか?」
「お部屋いくの?」
「そう」
あまねが俺を見上げる。段々と、眉尻が下がっていく。ああ、聞いてくれないやつだ。
「やだ!」
あまねはそう叫ぶやいなや、ふん、と顔を背けてしまった。そして目を合わせないまま、ぐりぐりと頬を俺の胸に擦りつけ始める。
「あまね、」
「やだーここにいるの」
何をそんなにこだわっているんだか。
いや、確かに以前、お酒を飲んでもすぐ寝てしまうからつまらない、とあまねがこぼしていたのを聞いたことがある。まだ眠りたくない。楽しい時間を過ごしたい。そういった理由なら分からなくもないのだが、だからといって広間に居座る理由も、もうほとんどないだろうに。
「酒持ってくか? まだ飲みたいんなら」
「ここで飲む……」
「じゃあ俺だけ戻るかな」
「それもだめ」
「あんた、酔っ払うとワガママになるんだなあ」
否定の言葉は聞こえてこなかった。普段よりたくさんの要求をぶつけている自覚は、酔った彼女にも僅かながらあったのかもしれない。
「明日絶対『死にたい気持ち』っていうのになってるぞ」
「ならないもん」
一人で帰らせまいとしてか、あまねは俺のシャツをぎゅっと掴んでいる。たぶん、他の奴らなんかとっくに目に入っていないんだろう。いっそ、俺もあまねと同じくらい酔ってしまっていれば楽だったろうに。
大きく息を吐く。仕方ない。
「ひゃあっ?」
あまねの薄い背中に腕を回す。いつもより熱い身体。その体温を思い切り抱き寄せて、肩口に顔を寄せた。
大丈夫、誰も見てない、見てない……。
「ちゃんと言わないと分かんねえ?」
「お、おてぎね……?」
呼ばれた名前には動揺が滲んでいた。俺の表情を確かめたかったのか、あまねは上体だけで身じろぎ、どうにか隙間を作ろうともがいている。
その微弱な抵抗を丸ごと押さえつけながら、俺は声を潜め、あまねの耳元で囁いた。
「俺が、あんたと二人きりになりたいんだ」
抱く腕に力を込める。ちゅ、と、わざと音を立てて、小さな耳に口づける。
あまねの息が止まったのが分かった。
「あ、ぅ……」
暫しの沈黙の後で、意味をなさない音が胸の中から聞こえた。
腕の力を緩め、あまねの顔を覗き込む。
ふしゅるるる。湯気の出る音が聞こえた気がしたが、それはきっと幻聴だったのだろう。
「ふたりになる……」
かわいそうなくらい真っ赤な顔。しっとりと潤んだように見える黒い瞳は動揺と期待で艶めいて、いじらしく俺を見つめている。細い指はついさっきまで皺ができるくらいがむしゃらに俺のシャツを握っていたのだが、今はもうすっかり力が抜けているようだった。
「立てるか?」
「え、ぁ……む、むり……」
「じゃあ運ぶぜ」
背中と膝の裏を支え、くたりとした身体を持ち上げる。小さく悲鳴を上げるあまねに構わず、足で障子を開けて、誰とも目を合わせないまま廊下に逃げ出した。
目論見は上手くいった。しかしどうにも敗北したような気持ちを覚えながら、俺はあまねを抱えて広間を去るのだった。
突然だが、俺の主は酒が弱い。
チューハイ一口で顔を赤くするし、缶半分も飲めば、騒がしい酒宴の真ん中でもすとんと眠りに落ちてしまう。一度目を閉じてしまえば、起きるのは大抵明け方になってから。そのくらい弱い。
そんな主を部屋まで運ぶのは、本丸に来て一年が過ぎた頃からずっと、変わらず俺の役目だった。陽に当てたふかふかの布団を敷き、なんにも知らず眠る彼女の身体を横たえて、肩までしっかり布団を被せる。たったそれだけの役目。
けど、他の誰にも譲らない。触らせない。本当は他の刀に彼女の寝顔を見られることさえ嫌なのだが、暴れるだとか、泣き喚くだとか、そういう風に酒癖が悪いわけでもないので、さすがに酒を飲むなと言い含めることもできなかった。
それだから、本音を言えば。本丸全体で宴会をする時はいつも、俺は複雑な気分でいるのだ。
「今日はちゃんと寝る前に部屋戻れよ」
先日、この本丸にもようやく日本号がやって来た。今夜はその歓迎会だ。普段より豪華な食事と上等な酒が出るから、主役だけじゃなくて、ここにいるほとんどの奴らが楽しみにしている。
それは目の前の女も例外じゃない。
「当たり前じゃないですか。さすがにほとんど初対面の人の前でそこまで気を抜きませんよ」
主は……あまねは心の底からそう思っているようで、なんの引け目もなくにこにこ微笑んでいる。俺はわざとらしいくらい大きなため息をついた。
「あんたなあ、今までのこと思い出しながらでもそんなこと言えるのか?」
「う。……で、でも大丈夫です。今日は全然飲むつもりはないんです。本当ですよ」
じいっとあまねを見下ろす。たぶん、寝るんだろうなあ。こんなこと言ってるけど。
俺の視線を受けて、あまねはきまり悪そうに口元を緩めた。
「でも……もし寝ちゃっても、御手杵が部屋まで連れて行ってくれますもんね?」
そりゃあ連れてくけど。広間で寝かせとくわけにもいかないから、そりゃあ部屋までちゃんと運ぶけれど。
俺が逆らえないと分かって甘えてるのだから、全くずるい女だ。
でも、なんだかんだそうやって甘えられるのは嫌いじゃない。正直に言うと、好きだし、嬉しい。独占欲と、優越感なんてものを感じてもいる。だから俺は促されるがまま、彼女をどろどろに甘やかしてしまう。刺すことしかできなかったはずなのになあ。
「ひゃっ」
悔しくなって、あまねの頭に手を置いてくしゃくしゃと髪を掻き乱す。
「やだ、何するんですか」
「なんでもない」
「なんでもないのに人の髪をくしゃくしゃにしないでください」
「はいはい」
むすっとした顔。本当はそんなに怒っていないくせに。指で髪を梳き、元通りに整えてやると、あまねはころっと表情を変え、甘く微笑んでみせた。
きっと今日の夜も振り回されるんだろう。一時間もしないうちにうとうとして、赤らんだ顔ですやすや眠り始めるに違いない。子どもみたいにあどけない顔で、しとやかな色気を纏って。……本当、仕方のない主だ。
かくして夜がやってくる。
昼間の俺の予想は、半分当たりで半分外れといったところだった。
「御手杵御手杵。わたし、今日いっぱい起きてますよ!」
「お、おう……そうだな……」
夜が更け、机の上のつまみも大分量が減ってきた。刀剣達は最初はいくつも並んだ長机に均等に座っていたのだが、人数が減ってくると、少人数で卓を囲み、盃を片手にまったりと語らうようになっていた。いや、勿論終始ぶっちぎったテンションで騒ぎ続けてる奴らもいる。その一方で座布団に抱きつきながら寝落ちている奴もいて、広間の隅に寂しく放置されていた。身体がでかい奴は運ぶのが大変なのだ。腹の上のブランケットは、誰かのささやかな優しさだろう。
そんなこんなで、広間はそこそこ混沌とした様相を呈している。そしてこの時間になっても、あまねはまだ宴会の場に残っていた。
「もーなんで? なんで嬉しそうじゃないの? わたしは御手杵と一緒に飲めるの嬉しいのにー」
煮え切らない返事があまねには不満だったらしい。頬を膨らませながら俺の左腕に組みついて、ぐいぐい引っ張っている。その腕に自身の胸が当たっているのも全く気にしていない。ここは広間で、他の刀剣もすぐ近くにいるのに、だ。
「うん、それは嬉しいけどさ……」
「嬉しい?」
「嬉しい。嬉しいから、ちょっと離れようか」
「やだー」
この酔っぱらいめ。
仕方なしに無理やり腕を引っこ抜く。するとあまねは俺の腰に腕を回して、今度は背中にぴたっと抱きついてきた。
「おてぎね冷たぁい」
「あんたが熱いんだよ……」
そこそこ飲んではいるが、彼女に比べれば素面同然だ。
背中に柔らかい感触。無意識、というよりも、寧ろ積極的でさえあった。もしかして、状況はさっきより悪化しているんじゃないだろうか。
少し離れて飲んでる奴らが時々チラッとこっちを見ては、にやついた笑みを残していく。その後に楽しげな笑い声。酒の肴にされているに違いない。立場が逆なら俺だってそうするさ。
「あー……ほら、乾杯。乾杯しようぜ。一緒に飲むんだろ。こんなにくっついてたらできないぜ」
「ん! 乾杯する」
手近にあったグラスにビールを注ぐ。ただし、一杯だけだ。もう一個のグラスにはオレンジジュース。あまねは俺の背中にぴったり貼りついているから、酒が一滴も入っていないことにも気づかないだろう。
「はい、乾杯」
「かんぱーい」
ほろほろに酔った指先にグラスをしっかり握らせて、カチッとその端をぶつける。あまねはこくんと喉を鳴らし、おいしー、ととろけた笑顔を見せた。
「なあ、あまね……」
そろそろ部屋に戻らねえ?
そう提案しかけたところで、俺達に一番近い障子がすうっと引かれた。
姿を現したのは今夜の主役。厠にでも行っていたのか、庭で酔いでも覚ましていたのか。日本号は俺達の姿を認めると、くいっと口の端を上げて笑った。
「嬢ちゃんは随分甘えん坊だな」
日本号は広間全体を見渡し、机を挟んで俺達の向かいに腰を下ろした。あまねはグラスを両手で持ちながら、ぽけっと気の抜けた顔で日本号を眺めている。
「今日は……酷い……」
「アンタも大変だ」
たぶん疲れた顔をしていたんだろう。日本号が労うように徳利を向けてきたので、俺はお猪口を差し出し、注がれた酒を遠慮なく呷った。
俺と日本号のやり取りを見ながら、あまねは昼間の言葉を思い出していたらしい。オレンジジュースを机に置き、ささっと居住まいを正し始めた。
「にほんごう元気だ?」
「これでも結構酔ってるがなあ。まあ、まだまだいけるぜ」
「じゃあ私お酌します!」
酒で溶けた頭でも、出会って間もない刀の前でだらしのない姿を見せるのは良くないと、そのくらいの分別をわきまえることはできたらしい。それでも、子どもみたいな舌っ足らずな喋り方は全く変わっていないのだが。
あまねの指は、爪の先までほんのり赤みを帯びている。零さないように、慎重に。日本号の手にしたお猪口に酒を注ぐ様子を、俺は黙って見守った。
「ありがとよ」
「いーえ!」
ほっとした様子で、ご機嫌な顔で。あまねが日本号にふわりと笑いかける。
あ、どうしよう。おもしろくない。
途端にそんな黒い気持ちが湧いてきて、俺は慌てて頭を振った。ついさっきまで、離れてほしいだとか、ちょっと面倒だとか、そう感じていたのはどこのどいつだ。
手持ち無沙汰に、手のひらの中でお猪口を転がす。にこにこと愛嬌を振りまくあまねを見る。そんなふうに笑うな。いや、でも、邪険に扱えと、そう要求したいわけでもない。じゃあ何なんだ。自分でも分からない。
……俺も、結構酔ってるのかもしれない。
自己嫌悪に塗れながら、悶々と目の前の二人を見つめる。ふと、日本号と目が合った。
「御手杵はいいのか?」
「っ! だめー」
俺のちっぽけな嫉妬は見え見えだったんだろう。視線の交わった一瞬であっさり露呈してしまうくらいに。
あまねが俺の傍に寄る。その距離は、机を挟んで向かい合っていた日本号との距離よりも、ずっとずっと近い。
「えへへ。御手杵にもお酒ついであげるね」
「おう……」
徳利が傾けられる。澄んだ水音。俺の手の中に戻ってきたあまねが、安息を注ぐ。
「満更でもなさそうじゃねえか」
日本号が席を立つ。苦笑とともに残されたその言葉には、申し開きもできなかった。
「ね、わたし、ちゃーんとしてたでしょ?」
あまねが自慢気に胸を張る。色んな面で同意はほとんどできなかったが、なんだか褒めてほしそうだったから、そっと頭を撫でてやった。
大きな目が気持ち良さそうに細められる。ふんわりと頬が緩む。もっと、とねだるように俺の胸に顔を寄せて、あまねは心地よさげに瞼を下ろした。
もしかすると、今なら素直に聞いてくれるかもしれない。
「なあ、二人になるか?」
「お部屋いくの?」
「そう」
あまねが俺を見上げる。段々と、眉尻が下がっていく。ああ、聞いてくれないやつだ。
「やだ!」
あまねはそう叫ぶやいなや、ふん、と顔を背けてしまった。そして目を合わせないまま、ぐりぐりと頬を俺の胸に擦りつけ始める。
「あまね、」
「やだーここにいるの」
何をそんなにこだわっているんだか。
いや、確かに以前、お酒を飲んでもすぐ寝てしまうからつまらない、とあまねがこぼしていたのを聞いたことがある。まだ眠りたくない。楽しい時間を過ごしたい。そういった理由なら分からなくもないのだが、だからといって広間に居座る理由も、もうほとんどないだろうに。
「酒持ってくか? まだ飲みたいんなら」
「ここで飲む……」
「じゃあ俺だけ戻るかな」
「それもだめ」
「あんた、酔っ払うとワガママになるんだなあ」
否定の言葉は聞こえてこなかった。普段よりたくさんの要求をぶつけている自覚は、酔った彼女にも僅かながらあったのかもしれない。
「明日絶対『死にたい気持ち』っていうのになってるぞ」
「ならないもん」
一人で帰らせまいとしてか、あまねは俺のシャツをぎゅっと掴んでいる。たぶん、他の奴らなんかとっくに目に入っていないんだろう。いっそ、俺もあまねと同じくらい酔ってしまっていれば楽だったろうに。
大きく息を吐く。仕方ない。
「ひゃあっ?」
あまねの薄い背中に腕を回す。いつもより熱い身体。その体温を思い切り抱き寄せて、肩口に顔を寄せた。
大丈夫、誰も見てない、見てない……。
「ちゃんと言わないと分かんねえ?」
「お、おてぎね……?」
呼ばれた名前には動揺が滲んでいた。俺の表情を確かめたかったのか、あまねは上体だけで身じろぎ、どうにか隙間を作ろうともがいている。
その微弱な抵抗を丸ごと押さえつけながら、俺は声を潜め、あまねの耳元で囁いた。
「俺が、あんたと二人きりになりたいんだ」
抱く腕に力を込める。ちゅ、と、わざと音を立てて、小さな耳に口づける。
あまねの息が止まったのが分かった。
「あ、ぅ……」
暫しの沈黙の後で、意味をなさない音が胸の中から聞こえた。
腕の力を緩め、あまねの顔を覗き込む。
ふしゅるるる。湯気の出る音が聞こえた気がしたが、それはきっと幻聴だったのだろう。
「ふたりになる……」
かわいそうなくらい真っ赤な顔。しっとりと潤んだように見える黒い瞳は動揺と期待で艶めいて、いじらしく俺を見つめている。細い指はついさっきまで皺ができるくらいがむしゃらに俺のシャツを握っていたのだが、今はもうすっかり力が抜けているようだった。
「立てるか?」
「え、ぁ……む、むり……」
「じゃあ運ぶぜ」
背中と膝の裏を支え、くたりとした身体を持ち上げる。小さく悲鳴を上げるあまねに構わず、足で障子を開けて、誰とも目を合わせないまま廊下に逃げ出した。
目論見は上手くいった。しかしどうにも敗北したような気持ちを覚えながら、俺はあまねを抱えて広間を去るのだった。
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