逃げ口上に混ぜた恋

 二月十四日。
 この日付が意味するところを御手杵は知っている。

 演練の際、他の審神者の刀が話題にしているのを耳にしたのだ。
 二月十四日。バレンタインデー。聞くところによれば、彼らの本丸では毎年審神者が全員分のチョコレートを用意し、翌月刀剣達がささやかなお礼を彼女に贈るのだという。日頃の礼を兼ねたこのやり取りは現世ではごく一般的なイベントらしい。だが、刀剣達に配られるそのチョコは所謂『義理チョコ』というもので、それに対しただ一人にだけ送られるであろう『本命チョコ』の行方が彼らの間では話題なのだとか。
 勿論、御手杵の意識に強く刻まれたのはこの『本命チョコ』の存在だ。
 彼の思い出せる限り、去年のこの日は何事もなく過ぎたはずだ。その時は御手杵と審神者は恋仲ではなかったし、顕現して一年足らずの刀剣達も人の世には疎かった。
 だが、今年はどうだろう。本丸で過ごすうちに男士らは現世に馴染み、時にはイベントに乗じて普段と違う一日を楽しむことも増えてきた。御手杵と主である人の娘は心を交わし、温もりを知り、短いながらも色鮮やかな季節を過ごしてきた。
 彼女の『ただ一人』は自分以外にありえない。確信さえ抱いている。だが、それにも関わらず――あるいはそれ故なのか、既に多くのものをもらっていることを知りながら、御手杵は貪欲にもその証が欲しくなったのだ。
 こうして振り返ると、随分人に絆されたものだと思う。
 その日は御手杵の所属する第一部隊の出番はなかった。代わりに割り当てられた内番を、彼は最初から最後までそわそわと落ち着かない気分で過ごすことになる。粟田口の短刀がきゃっきゃと騒いでいるのを見かけたが、本丸は予想していたよりも静かで、彼は何事もなく夕暮れを迎えた。
 いつもと違う時間が訪れたのは夜の十時になってからのことだ。
 御手杵は恋人である女の部屋に呼び出されていた。風呂上がりの身体からは胸がすくような良い香りがする。その中にほんのりといつもと違う甘い匂いを嗅ぎ取った気がして、彼の期待はいよいよ高まっていく。

「その、御手杵って……今日が何の日か知ってます?」

 来た!
 御手杵は意気揚々と答えようとした。のだが、言葉が口を出る直前、今まで意識にさえ上らなかった急な不安に襲われる。
 彼女は本当に自分と同じこと、つまり、バレンタインデーのことを指しているのだろうか? そうだとしても、素直に答えると、一日中それを待ち望んでいたことが筒抜けになってしまうのではないか?
 御手杵の答えが誤っているにせよ、正しいにせよ、彼女の問いに答えるのはどちらも同じくらい恥ずかしい気がしたのだ。

「……え、今日って何かあったのか?」

 節分はこの間だったしなあ。
 なんてとぼけた言い草だろう。口を衝いて出たのは自分でもくだらないと思う嘘だった。だが、御手杵の返事を聞き、彼女はほっとした様子で頬を緩めた。

「ううん、知らないならいいんです」

 寒いですね。そう囁いて、御手杵との距離を詰めてくる。
 高さの違う肩。指先が触れる。彼女が寒いと言ったから、御手杵はそっと自分の手を重ねてみた。

「手、冷たいな」
「そうですか? 御手杵のほうが冷たい気がします」
「じゃあ同じくらいか」

 ん、と頷いて、彼女が黙り込む。なんとなくいつもと様子が違う。どう話を切り出すかを迷っているようにも見え、御手杵まで平素の振る舞いを忘れてしまいそうだった。

「あのね」
「ん?」
「お腹すいてる?」
「いや、夕飯いっぱい食べたからなあ」

 隣の女が御手杵を見上げる。どことなく不安げな表情に意識が引っ張られ、彼女の問いに何も考えずつい思ったままを口に出してしまう。

「そ、そっか……」

 失言だったと気づいたのはそのしょんぼりした顔を見てからだ。

「え、や、間違っ……うん、そろそろ小腹がすいてきたかもしれねえ!」
「本当?」
「おう!」

 これからお菓子を受け取るかもしれないのに、どうしてこんな気の利かない答えを返してしまうのだろう。自分を叱咤してやりたくなる。
 違う。別腹。別腹なのだ、甘いものは。
 御手杵の訂正を聞き、女は蕾が綻ぶような笑顔を浮かべ、それからその無邪気な喜びを恥じるようにきゅっと唇を結ぶ。ここまでくると、御手杵の期待は確信に変わりつつあった。

「あのね、今日は出陣部隊もみんな無事に帰ってきたし、提出する書類なんかも、いつもより少なかったんですよ」
「ああ、そうなのか」
「はい。……それで、時間があったから、たまにはお菓子とか……作ってみようかなって思って」

 何もやましいことなどないはずなのに、何を隠したいのか、女の言葉はどこか言い訳がましい。御手杵としては早く核心に触れたくて、もどかしい気持ちでいっぱいだ。

「それでね、自分用に作ったんですけれど、結構量が多くなっちゃって……」
「もしかして、俺にくれるのか?」

 我慢ができず、ついに自分から言ってしまった。
 女は御手杵と目を合わせ、こくんと小さく顎を下げる。

「甘いの、控えめにしたつもりだから……食べてくれますか?」
「おう、勿論!」

 威勢よく頷けば、女はふにゃっと顔を緩め、ありがとうと礼を言った。その返事だけで十分だと言わんばかりの笑顔に、御手杵は彼女をくしゃくしゃに抱きしめたい気持ちになる。
 ちょっと待ってくださいね。そう言って女は立ち上がり、棚の上から小綺麗な箱を手に取って机の上に広げた。脇にはフォークもきちんと用意されている。

「おお……」

 手作りだというケーキを見て、御手杵は感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。
 菓子を作る工程については詳しくはないが、それが丁寧に作られたものだということは一目見て理解できた。全体としてはシンプルなチョコレートケーキだ。きめの細かいスポンジは三層に分かれ、それぞれの間には少し薄めの色のクリームが挟み込まれている。四角く切られたそれはどこから見ても断面が綺麗で、御手杵は首を伸ばしたり引っ込めたりしながら、短くない時間それを眺め続けていた。

「お、俺が食べていいんだよな?」
「ん……食べてください」

 胸を高鳴らせながらフォークを差し入れ、一口サイズに切ったケーキをそっと口に運ぶ。御手杵が来る直前まで冷やされていたのだろう。しっとりした生地となめらかなクリームが馴染み、溶けるような口当たりが気持ちいい。
 ふわりと酒が香る。彼女の言った通りそこまで甘くはなく、これなら甘いものが得意でない御手杵でも食べることができそうだ。

「……どうですか?」
「すげえ美味い! あんた、お菓子作るのも上手なんだな」
「そ、そんなことないですよ。……でも、良かった」

 女は当然、御手杵以上に緊張していたに違いない。
 甘やかな笑顔が降り注ぐ。その顔になるのは、贈り物を受け取ったこちらのほうだろうに。
 その笑顔に見惚れながら、やっぱり、と思う。
 自分用に作ったなんて嘘だ。自分で食べるつもりだったなら彼女はもっと甘く作るだろうし、酒も向こうの好みにしては少し効きすぎている。

 遠回しだなあ。御手杵は小さく笑ってしまった。
 ばれないように言い訳を並べて、言葉を選んで、ありったけの想いをひっそりと差し出してくる。元はと言えば自分が『何の日か知らない』なんてくだらない嘘をついたせいなのだが、全体の構図が丸見えになっているために彼女の努力は若干空回り気味で、それが御手杵には可愛くてならない。
 一口、ケーキを食べる。もう一口。
 隣の女は心底幸せそうな笑顔を浮かべ、御手杵をにこにこ見つめている。
 そんな顔をしたら駄目だ。もし自分が本当に何も知らなかったとしても、その笑顔を見たらきっと一瞬で分かってしまう。
 半分ほど食べたところで御手杵はフォークを置いた。限界だった。
 女が不思議そうに首を傾げる。その瞳を不安が過る前に、御手杵は彼女を抱き寄せた。

「ひゃ、っ」

 小さな身体がびくっと跳ねた。そんな反応まで可愛く思えてならず、頭の中が沸騰する感覚を覚えながら御手杵は唇をぐっと噛み、女をぎゅーっと腕の中に閉じ込める。

「ん、どうしたんですか……?」

 胸元で御手杵を見上げる女は、疑問符を浮かべながらもやはり嬉しげだ。今更ながら、ふつふつと罪悪感が湧き上がってきた。

「ごめん」
「へ……?」
「ごめん、本当は知ってた。今日、バレンタインってやつなんだろ?」

 義理チョコ。友チョコ。逆チョコ。色々な形があるようだが、基本は女性が想い人にチョコレートを渡し、秘めた気持ちを伝える日、らしい。

「知ってた……?」
「知ってた」
「えっ、え……」

 黒目がちの目が丸くなる。じわじわと肌が赤くなっていく。

「え、じゃあ、……えっと、つまり……」
「ん。これ、俺のために作ってくれたんだよな?」

 その言葉がトドメとなったようだ。自分の意図が最初からばればれだったことに気づき、女は口を開けたまま言葉を失くす。
 頬も、首元も、これ以上ないくらい火照っている。女は呆然とした顔で御手杵の胸を緩く押し、ふらっと背後に逃げようとした。
 離してなどやるものか。さらに強く抱きしめてやれば、「ああ……」と女は魂の抜けたような声を漏らして硬直した。かと思えば唐突に顔を上げ、御手杵をキッと睨みつけてくる。

「変なところで嘘つかないでください……!」
「ああ、うん、悪かった」
「悪い……悪いです……意地が悪い……!」

 赤らんだ頬を隠すように御手杵の胸に顔をぐりぐりと押しつけてくる。叫びは悲痛だがそのしぐさはただひたすら可愛らしくて、御手杵はさらさらの髪と頭を宥めるように撫でていた。
 そうしていると、胸元からすんっと鼻を啜る音が聞こえた。

「な、涙出そう……」

 伏し目がちな瞳には既に雫が溜まっている。ほんの少し傾ければ、今にでもこぼれ落ちてしまいそうだ。

「うえ!? そ、そんなにか?」
「う……」
「お、俺、すげえ嬉しいから! だから、泣くなよ……」

 閉じた瞼の下から透明な雫が染み出してきて、御手杵は慌てて指先で拭い取った。
 慰め方がこれで正しいのかも分からない。吐いた嘘は、自分が思っていたより質の悪いものだったらしい。一雫、二雫で女の涙は止まったが、それでも御手杵にとっては十分すぎるほどの衝撃だった。

「……初めてなんです」

 顔を俯けたまま女が言う。
 
「好きな人に、チョコあげるの、初めてで、……本当は、最初から素直に渡せば良かったんですけど……でも……」

 接続詞を置いて言葉は止まる。
 それは怒るというよりも、悲しむというよりも、どちらかと言えば拗ねているかのような口振りだった。
 バレンタインは人の間ではごく一般的なイベントらしい。鈍いことに御手杵はたった今思い至ったのだが、審神者になる前の彼女が自分の知らない誰かに思いを寄せ、チョコを渡していた可能性もないわけではなかったのだ。尤も、気づいた瞬間には否定されていたので、杞憂にさえなりはしなかったのだが。

「俺、あんたの初めてのチョコもらえたのか」
「……そうですよ」

 静かに肯定したその声からは、恥じらいと、震えるような勇気が滲み出ている。
 その事実を知ると、御手杵の胸にはたまらず愛しさがこみ上げてきた。

「あのさ、俺、バレンタイン知ったの一週間くらい前なんだけど」

 御手杵の胸の中で女は口を閉じたままでいる。だが、ちゃんと耳を傾けてくれていることはなんとなく分かった。

「あんたのチョコが欲しいなって思って、それからずっとそのこと考えてた」

 改めて口にするとなんだか気恥ずかしい。
 だが、これは返事なのだ。彼女がチョコレートと一緒に、御手杵に渡してくれた想いへの。

「今日もさ、あんたがくれるのかどうかがずっと気になってて……気になりすぎて、内番の時に長谷部に弛んでるって怒られたんだぜ? 燭台切には見透かされるしさあ……」

 あいつ、そういうの敏いよなあ。
 誤魔化すようにぼやいて、女の頭を撫でる。

「でも、いざあんたを前にすると、……その、なんだ、緊張して、変な嘘ついちまった。……ごめん。けど、すげえ嬉しかった」

 少しして、女がそっとこちらを見上げた。
 彼女の艶のいい頬に手を添え、わずかに開いた唇を親指でなぞる。御手杵は自身の身体の熱さを自覚せずにはいられなかった。

「……俺の恥ずかしい話もしたから、これでおあいこにしてくれないか?」

 そう言って笑いかける。だが、彼女を宥めるつもりだったのに、その意図に反して女の頬の血色はさらに良くなっていく。

「御手杵……」
「おう」
「御手杵、は……私のこと、大好きなんですね」
「……あー、うん」

 彼女は夢でも見ているようなふんわりした表情で、御手杵が頷くとその輝きは一層増す。気恥ずかしさに襲われながら、女のすべらかな頬を両手で包んだ。

「あんたも人のこと言えないけどな」

 ちゅっと唇を啄む。
 そういうの、ずるい。目を丸くした女が口の中でぽそりと呟いた。

「ケーキ、」
「うん?」
「もう、いらない?」
「え、いる。いらないわけないだろ」
「食べてください」

 腕をすり抜け、女はそそくさと御手杵の後ろに回る。赤くなった頬を見られたくないのか、背中に顔を押しつけてぴたりと抱きついている。
 御手杵はもう一度フォークを手に取った。恋人の作ってくれたケーキはやはりとても美味しくて、彼の顔を綻ばせる。

「あのね、今日は初めてだったから……」
「ん」
「次はもっと、その……スムーズに渡します」

 今もらったケーキも食べきっていないのに彼女は早くも来年の約束を取り付けてくる。単に上手くやり直したいというわけではないのだろう。きっとその意味を分かっている。

「楽しみにしてる」

 甘いチョコレート。甘い甘い心。口の中でとろけていくそれを、御手杵は愛おしく思った。

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