ゆきとはる

 底冷えするような寒さは足元からやってくる。二枚重ねた靴下をすり抜け、ズボンの裾からも容赦なく忍び込んでくる冷気に、御手杵の背筋はぞくっと震えた。
 吐き出した息が白い。肩を竦め、歯を食いしばりながら薄暗い廊下を足早に進む。目的地はもう目の前だ。足音が耳に入ったらしく、御手杵が口を開く前に障子の向こうから声が掛かる。

「どなたですか?」
「俺ー。入るぜ」

 言いながら既に手は戸を引いていた。冬の夜の寒さは屋内でも洒落にならない。一刻も早く温もりたくて、逃げ込むように部屋に足を踏み入れる。
 八畳の和室はあたたかみのある空気に包まれていた。入った瞬間になんだかほっとしてしまい、強ばった身体から力が抜ける。座卓の前で膝を崩していた女は恋人の姿を認めると頬を緩め、どうしたの、と小さく首を傾げた。そう尋ねながらも視線は御手杵の手元に吸い寄せられており、大方予想はついているようだ。

「ああ、りんご持ってきたんだけどさ。食べるか?」
「ありがとうございます。いただきますね……あ、うさぎだ」

 丸い瞳がささやかな喜びに満ちる。
 期待通りの反応に気を良くし、御手杵は自慢げに胸を張った。

「俺が剥いたんだぜ」
「御手杵が? 可愛いことするんですね」
「だろ?」

 堂々と同意してみせれば、女は目を細めてくすくすと穏やかに笑った。
 八等分に切られた林檎は背の部分が「く」の字型に切り取られている。残った皮は二股に分かれ、うさぎの耳のようにぴょこんと跳ねていた。それほど難しいものでもないが、こまごました装飾に手間を惜しまなかったことに対して、御手杵は無性に誇らしい気持ちでいる。

「食べてもいい?」
「おう。どーぞ」

 女は何かとても貴重なものを目にしているかのように器の中身をしげしげと眺める。それから、いただきます、と丁寧に手を合わせた。
 しゃく、と小気味の良い音。
 おいしいと呟くのを聞きながら、御手杵は上機嫌で女のすぐ後ろに腰を下ろした。この部屋も十分あたたかいが、身体を触れ合わせればもっとあたたかいに決まっているのだ。
 だが、恋人を抱きしめようとしたその瞬間、あるものが彼の目に留まった。
 胸元へ流された髪の間から、透き通るように白いうなじが覗いている。決して見慣れていないというわけではないのだが、普段長い髪の下に隠れているだけに、こうして露わにされているとやけに新鮮に感じられる。
 ふと、胸の内で好奇心が疼いた。いや、悪戯心と言うべきなのだろうか。判別のつかない感情に突き動かされるまま、御手杵は女のうなじにそろりと手を伸ばす。
 一瞬触れた肌はたまらなくあたたかかった。だが、その温もりをゆっくりと堪能する時間は与えられない。

「ひぇあっ」

 前触れのない接触に女はひっくり返った悲鳴を上げて身震いし、御手杵の手を振りほどく。
 彼は目を丸めつつ、持ち上がろうとする頬を口元へ無理やり引きつけた、が。

「っ、……ぶ、はは、ははははっ、なんだその声!」

 堪えようとしたのだが我慢が効かなかった。
 おそらくは御手杵の手が冷たかったのだろう。この部屋でぬくぬくとあたたまっていた彼女には相当こたえたようだ。それにしても、なんて声を出すんだか。
 女は肩を竦め、身体を縮こめたまま黙りこくっている。拗ねてしまったのかもしれない。機嫌を直してもらおうとその身体に腕を回す。しかし彼女の細い手がそれを阻み、抱きしめることを許さない。

「触るの禁止」
「えっ」

 じとりとした目が御手杵を見遣る。その気になれば抵抗を無視して抱きしめることもできたのだが、御手杵は大人しく腕を引っ込めた。

「怒ったのか?」
「怒ってはいませんけど」

 そう言いながらも、ふん、と口を尖らせている。その拗ねた表情で彼女は部屋の隅にあるヒーターを指差した。

「ほら、そこであったまってから来てください」
「分かったよ……」

 指先をあたためれば触れてもいいらしい。後ろ髪を引かれながらヒーターの前に移動した。
 しゃく、しゃく。御手杵が熱に手をかざす後ろで、りんごを頬張る音がする。

「心臓が止まるかと思いました」
「そんなにか?」
「そんなにですよ」

 つんとした声色は分かりやすい怒りのアピールだ。
 本当に止まらなくて良かった、と御手杵はぼんやり思う。例えだと知ってはいるのだが。

「何をどうしたらそんなに冷たくなるんですか」
「えー、別に何も……あ、雪だるま作ったからか?」

 時間としてはかなり前、日が暮れてもいない頃の話だから、実際のところどれほど関係があるかは分からない。しかし、手が冷たいとなるとやはりそれが原因のように思えてしまう。短刀の真似をして作り始めると意外と楽しくて、素手のままついつい作りこんでしまったのだ。

「雪だるま?」
「おう。槍兵とこんのすけの。力作だぜ?」
「え、やだ、見たい。もう、どうしてもっと早く教えてくれないんですか」

 涼やかな声が弾んでいる。思えば、その場にいた短刀やら蜻蛉切やらには進んで見せたのだが、この女に見てもらうという考えに至らなかったことが自分でも不思議だった。

「明日見ればいいんじゃないか?」
「今日の夜、たぶんずっと雪ですよ。……んー、降ってる……埋もれちゃうかな」

 振り向けば、窓に近づいた女が外に向けてじっと目を凝らしているところだった。興味津々といった様子だ。それが嬉しくて、なんとしても見せてやりたい気持ちになる。
 うさぎのりんご一つで喜んでくれる女なのだ。自分の作った雪だるまを目にすれば一体どんな反応を見せてくれるだろう。その笑顔に思いを馳せると、御手杵の身体には徐々に意欲がみなぎってきた。

「じゃあ明日も作る」

 そう言うと、女は御手杵の顔を見て僅かに目を丸くした。

「作るんですか?」
「ああ。今度はちゃんと手袋使うぞ」
「今日は素手だったんだ……」

 道理で、と女は少し呆れた表情だ。
 指先が冷えると触れたい人に触れられないのだから、手袋の有無は重要なのだ。御手杵はそれをついさっき知った。

「それで、次は一番に見せるからな」
「……ふふ。楽しみにしてます」

 御手杵の言葉を聞き、女はふんわりと目を細めた。身体の芯までとろけるような微笑みだ。急に彼女を抱きしめたい気持ちがこみ上げてきて、御手杵は暖房に向き直りそそくさと自分の手の温度を確認する。
 そろそろ触れてもいいだろうか。まだ、彼女には冷たいだろうか。自分の顔や足に当てて測ってみるが、どうにもよく分からない。
 そうしてもだもだ悩んでいると、背後で畳を踏む音がする。どうしたのかと振り向けば、いつの間にか女が自分のすぐ後ろに座っていた。そして先ほど御手杵がしたように腰元に腕を回し、ぎゅっと身体を寄せて抱きついてくる。

「お、あっためてくれるのか?」
「違いますよ。私があったまってるんです」

 背中に柔らかな体温を感じる。捻くれたことを言いながら、彼女はすりすりと顔を押しつけるしぐさを見せた。
 腰にしがみついていた小さな手が御手杵の腕に触れ、指先に向かって伝っていく。やがて細い指は御手杵の手のひらに辿り着き、大きさの違う右手と左手が不格好に重なった。

「どうだ?」
「まだ冷たい」

 と言いながらも、手を離すつもりはないらしい。

「俺、あんたにあっためてほしいな」

 奇をてらわずに頼んでみると、女の纏う空気がふわっと和らいだ。男の無骨な指の間にしなやかな指が入り込み、きゅっと手を握られる。そんなささやかな触れ合いに心は温もり、御手杵は、へへ、と気の抜けた笑い声を漏らした。

「素直でしたからね」
「あんたのほうは今日は素直じゃないよなあ」
「さっきのを根に持ってるんですよ」
「……わ、悪かったよ……」

 言わずもがな、うなじに突然手を当てて驚かせたことを指しているのだろう。御手杵の弱腰の謝罪に女はくすっと笑い、もう許してます、と柔らかな声で囁いた。

「だから抱きついてるの」
「……じゃあ、前からがいい」

 言いながら、くるりと後ろへ向き直る。
 春めいた瞳と視線が結ばれる。彼女が甘く微笑んだのを見て、御手杵はそっと女を抱きしめた。

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