ささやかなふりで言った
※突然の学パロ(先生×生徒)
「う、うそ……」
呆然と呟くあまねの頭を撫でる。小さな恋人は泣き出しそうな顔で俺を見上げた。
「せ、先生……どうしよう」
「あー、まあ、落ち着け。な?」
「でも、閉じ込められちゃった……」
あまねが引手に指を掛ける。ぐっと力を込めているが、鍵のかかった戸はびくともしない。
まさか体育倉庫に閉じ込められる日がやってくるとは思わなかった。年に一度来るか来ないか、そのくらい馴染みのない場所だというのに。
どうにか戸を開けようと四苦八苦する指に、そっと自分の手を重ねる。小さく柔らかい手はすっぽりと俺の手の中に収まった。
「先生……」
「鍵かかってるんだから。無理すんなよ」
土曜の学校だ。教師や生徒の数は平日と比べて格段に少ない。開けてもらえなかったらと焦るのも分かるが、どうやってもあまねには鍵のついた戸を開けるなんてことはできないだろう。いや、そもそもそんなことをする必要はないのだ。
「ほら」
不安そうな瞳で見つめてくるあまねに内ポケットから取り出した携帯を見せる。泣き出す直前のように張り詰めていた目が丸くなり、それからふにゃりと崩れた。
「よかった……。も、もう、持ってたなら最初から言ってください」
「ん、悪い」
動揺していたことを恥じる様子なのが可愛らしい。そんな気持ちが伝わってしまったのか、あまねは頬を赤らめて顔を俯けた。
「えっと……職員室とかなら、きっと誰かいますよね」
「ああ、そうだな」
頷きながら携帯をポケットにしまう。え、と納得のいかない様子で長い睫毛が上下に動いた。
「もう少し一緒にいないか? こんなとこだけど……今、地学室は部活のやつらが使ってるんだよな、珍しく。……だからそこは使えないし」
「部活って、先生は行かなくていいんですか?」
「おう。……あ、今日は、な。いつも行ってないわけじゃないぞ」
補足するとあまねの頬が少しだけ緩む。
二人きりになれるのは久しぶりだ。彼女が俺と同じ思いでいることは知っている。だが、ちょっとした悪戯心が働いて、小さな口が開く前に俺は畳み掛けるように言った。
「ああ、でも、あんたは勉強しに来てたんだよな」
「あ……」
「あー……じゃあやめとくか。テストも近いし。教師が生徒の勉強の邪魔しちゃ駄目だよなあ」
言いながら携帯を取り出した手は、驚くほど素早い動きで押しとどめられた。反射的にしてしまったことだったらしく、あまねの顔には後から表情がついてくる。
「ん、どうした?」
「っ、あの……その……勉強は、ちょっと休み、で……。休憩したいです……先生と……」
照れの混じった上目遣いに胸をつつかれる。
いじらしい子だ。こんなふうに求められたくて、つい意地悪な言い方をしてしまった。
「息抜きも大事だもんな」
囁けば、あまねがこくりと頷いた。
扉上部の小窓から微かな光が差し込むだけの薄暗い倉庫は埃っぽく、湿ったような独特の匂いがする。狭い部屋の中には授業や部活で使われる体育用具が所狭しと詰め込まれている。ボールのあふれかけているカゴ、折り畳まれた卓球台――その奥に、最近は使われていないらしい跳び箱がひっそりと置かれていた。
「なんだか、変な感じがします」
跳び箱の上に隣り合って腰かける。あまねは俺の腕に肩を擦り寄せて、ソックスに包まれた足をぶらぶらと遊ばせている。
「変って?」
「いつもは準備室なのに、こんなところで一緒にいるのが……新鮮、っていうか」
色気のない黴臭い場所だというのにあまねはどこか浮き足立った表情だ。それを隠すように彼女は視線を足元に落とし、口元をきゅっと引き締める。
「体育倉庫デート……」
けれども、恋人が口の中でぼそりと呟いた言葉はしっかりとこちらにまで聞こえていて。いけないとは思いつつ、俺はついつい吹き出してしまった。
あまねが弾かれたように顔を上げる。その顔は見る間に赤くなり、唇は言葉を引き出せないままはわはわと蠢いた。
「っ、……じ、自宅デートがあるなら体育倉庫デートがあってもいいじゃないですか!」
「そうかあ?」
くつくつ笑う俺の横であまねは物言いたげな表情で口を尖らせている。
付き合ってからもう半年が経とうとしていた。その間、二人で出かけるということについて一度も考えなかったわけではない。
だが、俺は教師で、あまねは俺の教え子だ。どう考えても世間の糾弾を免れない関係で、校外ならば二人きりでいるところを見られただけで怪しまれかねない。今のところ安息地となっているのは俺が鍵を持っている地学準備室のみで、それ以外の場所では俺とあまねはただの一教師と一生徒。
「……なあ、あまね」
危ないことは分かっている。だが、こんなのをデートと思わせてしまうのは申し訳ない。
「あんた、俺とデートしたいか?」
「えっ?」
驚きと喜びがあまねの顔を染め上げ、しかしすぐに奥へと引っ込んでいく。
「それは……その、でも、見つかっちゃったら先生に迷惑かけちゃうし、だから、私は別に……」
目を伏せつつ、健気にそんなことを言う。それが強がりなのだと分かっていたから、俺は白い頬を両側から挟み、その顔をじいっと見つめた。
「サングラスとかで変装したらいけるか……? 髪も下ろして……あとは化粧とか……」
すっぴんでも綺麗なのは若さというやつなんだろうか。でも、化粧をした姿も絶対に可愛いに違いない。そう思うのは惚れた欲目なのだろうが、それでも彼女の私服姿を想像すると高校時代に戻った気持ちで心が弾んだ。
「えっ……! デート、できるんですか?」
「あ、やっぱり行きたいよな」
「う」
あまり優しくない言い方をしてしまったらしい。あまねが申し訳なさそうに口を噤む。だが、その表情からは隠しきれない期待がほろほろこぼれてくる。
高校生。年頃の女の子だ。友人の中にも付き合っている奴はいるだろうし、周りを見て憧れることだってあるのかもしれない。
「車でさ、少し遠くまで行ったら知り合いに会うこともそんなにないと思うんだが」
「それって……」
「ん、デートしようぜ」
俺の言葉を聞いた瞬間、あまねの顔はぱああっと輝き、やがて柔らかな喜びに満たされていった。
「嬉しい……」
言葉にできない様子で俺の胸にぎゅっと顔を寄せてくる。頭を撫でると、黒目がちな目が心地よさそうに細められた。
あまねの望むことなら何でもしてやりたいと思う。男として、恋人として。我慢を強いているのは自分のくせに、あまねの笑顔を見ると心からそう思うのだ。
だが、恋人の嬉しそうな表情に胸を和らげられる一方で、掛けたはずの制限が消えつつあることへの危惧も確かに感じていた。そもそも、最初は生徒に手を出すつもりなんて、全く、これっぽっちもなかったのだ。
体育倉庫に閉じ込められるという奇っ怪な状況に陥ったのだって、『制限』をまた一つ外してしまったせいだ。元々、二人で会うのは地学準備室だけにしようと決めていた。決めていたはずなのだが、最近どうにも慌ただしい日が続き、二人の時間がなかなか取れなかった。そんな時に、運悪く体育教師に捕まり備品を運ぶ仕事を任されたあまねを見つけたものだから、思わず後を追いかけてしまって。がたつく戸を閉めて個室に二人になると急に気分が高まって、少し、本当に少しだけのつもりで物陰でキスをしていたら、体育教師がやって来て鍵を閉めてしまった――とか。
思い返し、とことん自分が嫌になった。見つかっていたらと思うと背筋が寒くなる。その癖、今すぐ誰かしらに連絡をしてここから出してもらおうとも思わない。よくあまねに呆れられなかったものだ。
だが、このままその制限が外れていけばどうなるか。
「なあ」
「はい」
胸のあたりの女の子が不思議そうに俺を見上げる。先の喜びが今も心を震わせているようで、ふっくらした唇は幸せそうな笑みの形を浮かべていた。その微笑みに気圧され、俺はぐっと言葉に詰まってしまう。
「先生?」
「ああ、いや……」
あまねがこてんと首を傾げる。俺を信頼しきったあどけない表情。心臓を鋭いもので穿たれた気分だ。
「もし……万一……いや億が一だけど」
「……?」
「あー、その…………もし、俺があんたを家に呼ぼうとしたら、」
殴ってでも目を覚まさせてくれ――と、言いたかったのだが。
「えっ……!」
続きを口にする前にあまねの顔は陽が差したかのように輝き、きらきらとした期待が黒の瞳に満ちあふれた。俺はぎょっとしてふにゃふにゃ緩んだ薄桃色の頬を摘む。
「こら、喜ぶなっ。……俺を止めてほしいんだって」
「でも、そんなこと言われたら、私……だめです、付いていっちゃう……先生の家……」
マシュマロのような頬をぐにぐに引っ張られながらもあまねは期待の消えない甘い顔だ。
小さく息を吐く。本当にこいつは、男の理性が吹き飛ぶ言葉を平気で言ってくれる。
「あーもう、俺はあんたを大切にしたいのに」
「先生は私を大切にしてくれてると思いますよ。優しいし……」
「そういう意味じゃないって。分かるだろ?」
頬を摘んでいた指を離す。あまねが物欲しげな表情で俺を見つめてきた。頬に手を添えて顔を近づけてみれば、薄い瞼がとろんと落ちる。
「ほら」
口づけを待つ唇に親指を押しつける。ぱちぱちと瞬きをした後、あまねは胸を突くような切なげな顔で俺を見つめた。
「そんな顔するなよ」
「……さっきはしてくれたのに」
「だから、あれは……本当は、だめだったろ」
入口から見えない位置だったから生き延びているが、危険な状況だったことに変わりはない。
「もう危ないことはしたくないんだって」
そう言うとあまねは俯き、何かを堪えるように唇をきゅっと結んだ。
胸がずくりと重くなる。デートの約束をした直後だ。言っていることが矛盾しているのには俺だって気づいていた。
彼女に対して誠実でいたいのなら、本当はどうあるべきなのか。答えは分かりきっているのに、覚えてしまった唇の感触が邪魔をする。
「……でも……」
互いの逡巡を感じる沈黙の中で、あまねがぽつりと口を開いた。
「でも私はしたいです……。キスも、抱きつくのも、いつもしたいって思ってて……デートだって、先生が困るって分かってるのに、したくて……」
あまねの細い手がスラックス越しの太腿に触れてくる。意図しない接触に身体が震えた。戸惑いながら彼女を見つめれば、夜の色を注いだ瞳に心臓を射抜かれ、息が止まる。
「全部、私のせいなんです」
甘く、柔らかな香りが頭の奥をぐらりと揺らす。控えめな微笑みからは匂い立つような色気が感じられ、得体の知れないものがぞくぞくと俺の全身を駆け巡っていいく。
この子はこんな表情をしただろうか。年下の、まだ高校を出てさえいない幼い女の子が。
「先生はちゃんとした大人で、しっかりした人で……本当は生徒なんかに手を出す人じゃないんです。こうなってるのは私が誘ったからで……先生は何にも悪くないんです」
何もかも自分が悪いのだと、そう告げる少女は俺に比べて酷く落ち着いているように見える。唆してくる甘い言葉は、もしかすると全て彼女の本心であるのかもしれなかった。
リップクリームの添えられた唇はつやつやと潤み、うっとりするような淡い桃色を乗せている。そこから囁かれる言葉は俺をどうしようもなく駄目にしていくもので、それは分かっているのに、優しい声が心地良くてならない。
「先生は、私に誑かされてるだけですよ。だから……」
「……馬鹿」
釘付けになる目を剥がし、呆れた素振りで息を吐いた。それでも胸の奥に喜びが満ちているのは、俺が救いようもなく馬鹿な奴だからなんだろう。
白い頬を撫でる。輪郭に沿うように手を添えると、ゆるりとあまねの目が細められた。
「俺も悪い大人だけどさ……」
柔らかな唇を指先でなぞる。呼応するように薄く開かれた歯の奥で、赤い舌が誘っている。
「あんたも相当悪い子だな」
女から返されるのは自分の罪を知る微笑みだ。とろけた瞳は毒薬のように甘く、俺の身体をじわり、じわりと蝕んでいく。
きっと、もう手遅れだ。
「そうです、悪い子なんです……」
俺はあまねの言葉につられるように唇を重ね――
「……ッ」
それに気づくことができたのは運が良かったと言うより他にない。
弾かれたように跳び箱を降り、急ぎ入口の前に立つ。後ろから響くあまねの戸惑った声に混じり、壁の向こうから明るい鼻歌が微かに聞こえた。
錆びかけた金属が擦れる音。それに続き、ガラリと比較的軽い音を立てて戸が開いていく。
「わあッ!?」
正面、目線より下のほうから悲鳴が上がる。
そりゃあ鍵の閉まった体育倉庫に、それも扉のすぐ先に人がいたら驚きもするだろう。冷静に状況を捉える振りで動揺する心を誤魔化して、相手が口を開く前に先手を打った。
「ああ、浦島。ありがとうな。助かった」
「へ? あ、な、何……?」
余程驚いたらしい。心臓の当たりを掴むようなしぐさを見せながら、眩しい髪が特徴的な男子生徒は俺と体育倉庫の中をきょろきょろ見回している。
「閉じ込められてさ、困ってたんだよ」
「え、そう、なんですか?」
「そうそう。浦島が来てくれて助かったぜ。……な、籠宮」
「は、はい……!」
スカートの前を抑えながらぴょいと跳び箱を降り、あまねがこちらへ近づいてくる。
「あれ、籠宮さん……?」
「浦島くん、ありがとう」
「いいけど……なんでこんなところに閉じ込められてるんだ?」
「ん、えっとね、荷物運ぶの頼まれちゃって……」
そういえば浦島はあまねと同じ二年だったか。同じクラスではなかったはずだが、知り合いではあったらしい。
あまねはこうなった経緯について適当に嘘を織り交ぜながら話している。その誤魔化し方が上手いのか、浦島が純粋なのか、彼に疑っている様子は見られない。
一安心、だろうか。
「あの、じゃあ、私はこれで」
「ああ、あんたも災難だったな」
「いえ……!」
一つ頭を下げ、あまねが足早に去っていく。少し間を開けて俺もこの場を離れることにした。
「ああ、そうだ……籠宮が俺と閉じ込められてたってこと、あんまり広めないでやってくれるか? 変に騒ぎ立てられたらかわいそうだ」
「はーい。……あー、びっくりした……」
「悪い悪い。じゃあな」
浦島に言い置き、校舎のほうへと向かう。
そう遠くには行っていないだろうという確信があった。その予想通り、体育館を出て渡り廊下を抜けた先、校舎の隅っこの自販機の陰で早くもあまねを発見する。
「ほら、危なかった」
自販機を眺めながら声を潜めて話しかける。周囲に人影は見えないが、念のためだ。
壁に背中を預けたあまねは視線を下げて黙り込んでいる。
「籠宮?」
再び声を掛けても口を閉ざしたまま。その時間があまりにも長いために、俺の中には段々と不安が持ち上がってくる。
さすがに危険すぎたと感じているのかもしれない。……もう二人で会わない、とでも言われたら。
社会的な位置を考えるのなら、互いにそれが一番いいのだろう。明確な答えは既に出ている。そうは思いながらもやはりあまねの唇からそれを聞きたいとは思えなくて、俺はぐっと口を引き結びながら彼女の顔を覗き込んだ。
「……邪魔された」
そこにあった表情は予想していたものとは異なっていて。
ぷくーっと頬を膨らませ、あまねはいじけた口ぶりでそんなことを言った。
「……はは」
それを聞いた瞬間なんだかどっと疲れた気分になり、それと同時に腹の底から変な笑いが込み上げてきた。
「あんたも懲りないなあ」
「だって……」
あまねがその顔いっぱいに不満を表す。欲しい玩具を買ってもらえない子供のような表情だ。さっきのあれは一体なんだったんだと、呆れと疑問と安心と、色々なものがないまぜになった複雑な気持ちで俺はあまねの頭に手を置いた。
ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱す。今までこんな扱いをしたことがなかったからだろう、あまねはきょとんとした顔で俺を見つめた。
素直で、そうだと思えばワガママで、大人びているかと思えば子供らしくて。色んな顔で大人を翻弄する悪い子を、結局のところ俺は手元で甘やかしたくてならないらしい。
「……また今度な」
二人で会えるのはしばらく先になるかもしれないが、次に会う時にはたくさんキスをして、嫌だと言うまで抱きしめてやりたい。嫌だと言わないならずっと。それから、一緒にデートの計画を立てようか。
※突然の学パロ(先生×生徒)
「う、うそ……」
呆然と呟くあまねの頭を撫でる。小さな恋人は泣き出しそうな顔で俺を見上げた。
「せ、先生……どうしよう」
「あー、まあ、落ち着け。な?」
「でも、閉じ込められちゃった……」
あまねが引手に指を掛ける。ぐっと力を込めているが、鍵のかかった戸はびくともしない。
まさか体育倉庫に閉じ込められる日がやってくるとは思わなかった。年に一度来るか来ないか、そのくらい馴染みのない場所だというのに。
どうにか戸を開けようと四苦八苦する指に、そっと自分の手を重ねる。小さく柔らかい手はすっぽりと俺の手の中に収まった。
「先生……」
「鍵かかってるんだから。無理すんなよ」
土曜の学校だ。教師や生徒の数は平日と比べて格段に少ない。開けてもらえなかったらと焦るのも分かるが、どうやってもあまねには鍵のついた戸を開けるなんてことはできないだろう。いや、そもそもそんなことをする必要はないのだ。
「ほら」
不安そうな瞳で見つめてくるあまねに内ポケットから取り出した携帯を見せる。泣き出す直前のように張り詰めていた目が丸くなり、それからふにゃりと崩れた。
「よかった……。も、もう、持ってたなら最初から言ってください」
「ん、悪い」
動揺していたことを恥じる様子なのが可愛らしい。そんな気持ちが伝わってしまったのか、あまねは頬を赤らめて顔を俯けた。
「えっと……職員室とかなら、きっと誰かいますよね」
「ああ、そうだな」
頷きながら携帯をポケットにしまう。え、と納得のいかない様子で長い睫毛が上下に動いた。
「もう少し一緒にいないか? こんなとこだけど……今、地学室は部活のやつらが使ってるんだよな、珍しく。……だからそこは使えないし」
「部活って、先生は行かなくていいんですか?」
「おう。……あ、今日は、な。いつも行ってないわけじゃないぞ」
補足するとあまねの頬が少しだけ緩む。
二人きりになれるのは久しぶりだ。彼女が俺と同じ思いでいることは知っている。だが、ちょっとした悪戯心が働いて、小さな口が開く前に俺は畳み掛けるように言った。
「ああ、でも、あんたは勉強しに来てたんだよな」
「あ……」
「あー……じゃあやめとくか。テストも近いし。教師が生徒の勉強の邪魔しちゃ駄目だよなあ」
言いながら携帯を取り出した手は、驚くほど素早い動きで押しとどめられた。反射的にしてしまったことだったらしく、あまねの顔には後から表情がついてくる。
「ん、どうした?」
「っ、あの……その……勉強は、ちょっと休み、で……。休憩したいです……先生と……」
照れの混じった上目遣いに胸をつつかれる。
いじらしい子だ。こんなふうに求められたくて、つい意地悪な言い方をしてしまった。
「息抜きも大事だもんな」
囁けば、あまねがこくりと頷いた。
扉上部の小窓から微かな光が差し込むだけの薄暗い倉庫は埃っぽく、湿ったような独特の匂いがする。狭い部屋の中には授業や部活で使われる体育用具が所狭しと詰め込まれている。ボールのあふれかけているカゴ、折り畳まれた卓球台――その奥に、最近は使われていないらしい跳び箱がひっそりと置かれていた。
「なんだか、変な感じがします」
跳び箱の上に隣り合って腰かける。あまねは俺の腕に肩を擦り寄せて、ソックスに包まれた足をぶらぶらと遊ばせている。
「変って?」
「いつもは準備室なのに、こんなところで一緒にいるのが……新鮮、っていうか」
色気のない黴臭い場所だというのにあまねはどこか浮き足立った表情だ。それを隠すように彼女は視線を足元に落とし、口元をきゅっと引き締める。
「体育倉庫デート……」
けれども、恋人が口の中でぼそりと呟いた言葉はしっかりとこちらにまで聞こえていて。いけないとは思いつつ、俺はついつい吹き出してしまった。
あまねが弾かれたように顔を上げる。その顔は見る間に赤くなり、唇は言葉を引き出せないままはわはわと蠢いた。
「っ、……じ、自宅デートがあるなら体育倉庫デートがあってもいいじゃないですか!」
「そうかあ?」
くつくつ笑う俺の横であまねは物言いたげな表情で口を尖らせている。
付き合ってからもう半年が経とうとしていた。その間、二人で出かけるということについて一度も考えなかったわけではない。
だが、俺は教師で、あまねは俺の教え子だ。どう考えても世間の糾弾を免れない関係で、校外ならば二人きりでいるところを見られただけで怪しまれかねない。今のところ安息地となっているのは俺が鍵を持っている地学準備室のみで、それ以外の場所では俺とあまねはただの一教師と一生徒。
「……なあ、あまね」
危ないことは分かっている。だが、こんなのをデートと思わせてしまうのは申し訳ない。
「あんた、俺とデートしたいか?」
「えっ?」
驚きと喜びがあまねの顔を染め上げ、しかしすぐに奥へと引っ込んでいく。
「それは……その、でも、見つかっちゃったら先生に迷惑かけちゃうし、だから、私は別に……」
目を伏せつつ、健気にそんなことを言う。それが強がりなのだと分かっていたから、俺は白い頬を両側から挟み、その顔をじいっと見つめた。
「サングラスとかで変装したらいけるか……? 髪も下ろして……あとは化粧とか……」
すっぴんでも綺麗なのは若さというやつなんだろうか。でも、化粧をした姿も絶対に可愛いに違いない。そう思うのは惚れた欲目なのだろうが、それでも彼女の私服姿を想像すると高校時代に戻った気持ちで心が弾んだ。
「えっ……! デート、できるんですか?」
「あ、やっぱり行きたいよな」
「う」
あまり優しくない言い方をしてしまったらしい。あまねが申し訳なさそうに口を噤む。だが、その表情からは隠しきれない期待がほろほろこぼれてくる。
高校生。年頃の女の子だ。友人の中にも付き合っている奴はいるだろうし、周りを見て憧れることだってあるのかもしれない。
「車でさ、少し遠くまで行ったら知り合いに会うこともそんなにないと思うんだが」
「それって……」
「ん、デートしようぜ」
俺の言葉を聞いた瞬間、あまねの顔はぱああっと輝き、やがて柔らかな喜びに満たされていった。
「嬉しい……」
言葉にできない様子で俺の胸にぎゅっと顔を寄せてくる。頭を撫でると、黒目がちな目が心地よさそうに細められた。
あまねの望むことなら何でもしてやりたいと思う。男として、恋人として。我慢を強いているのは自分のくせに、あまねの笑顔を見ると心からそう思うのだ。
だが、恋人の嬉しそうな表情に胸を和らげられる一方で、掛けたはずの制限が消えつつあることへの危惧も確かに感じていた。そもそも、最初は生徒に手を出すつもりなんて、全く、これっぽっちもなかったのだ。
体育倉庫に閉じ込められるという奇っ怪な状況に陥ったのだって、『制限』をまた一つ外してしまったせいだ。元々、二人で会うのは地学準備室だけにしようと決めていた。決めていたはずなのだが、最近どうにも慌ただしい日が続き、二人の時間がなかなか取れなかった。そんな時に、運悪く体育教師に捕まり備品を運ぶ仕事を任されたあまねを見つけたものだから、思わず後を追いかけてしまって。がたつく戸を閉めて個室に二人になると急に気分が高まって、少し、本当に少しだけのつもりで物陰でキスをしていたら、体育教師がやって来て鍵を閉めてしまった――とか。
思い返し、とことん自分が嫌になった。見つかっていたらと思うと背筋が寒くなる。その癖、今すぐ誰かしらに連絡をしてここから出してもらおうとも思わない。よくあまねに呆れられなかったものだ。
だが、このままその制限が外れていけばどうなるか。
「なあ」
「はい」
胸のあたりの女の子が不思議そうに俺を見上げる。先の喜びが今も心を震わせているようで、ふっくらした唇は幸せそうな笑みの形を浮かべていた。その微笑みに気圧され、俺はぐっと言葉に詰まってしまう。
「先生?」
「ああ、いや……」
あまねがこてんと首を傾げる。俺を信頼しきったあどけない表情。心臓を鋭いもので穿たれた気分だ。
「もし……万一……いや億が一だけど」
「……?」
「あー、その…………もし、俺があんたを家に呼ぼうとしたら、」
殴ってでも目を覚まさせてくれ――と、言いたかったのだが。
「えっ……!」
続きを口にする前にあまねの顔は陽が差したかのように輝き、きらきらとした期待が黒の瞳に満ちあふれた。俺はぎょっとしてふにゃふにゃ緩んだ薄桃色の頬を摘む。
「こら、喜ぶなっ。……俺を止めてほしいんだって」
「でも、そんなこと言われたら、私……だめです、付いていっちゃう……先生の家……」
マシュマロのような頬をぐにぐに引っ張られながらもあまねは期待の消えない甘い顔だ。
小さく息を吐く。本当にこいつは、男の理性が吹き飛ぶ言葉を平気で言ってくれる。
「あーもう、俺はあんたを大切にしたいのに」
「先生は私を大切にしてくれてると思いますよ。優しいし……」
「そういう意味じゃないって。分かるだろ?」
頬を摘んでいた指を離す。あまねが物欲しげな表情で俺を見つめてきた。頬に手を添えて顔を近づけてみれば、薄い瞼がとろんと落ちる。
「ほら」
口づけを待つ唇に親指を押しつける。ぱちぱちと瞬きをした後、あまねは胸を突くような切なげな顔で俺を見つめた。
「そんな顔するなよ」
「……さっきはしてくれたのに」
「だから、あれは……本当は、だめだったろ」
入口から見えない位置だったから生き延びているが、危険な状況だったことに変わりはない。
「もう危ないことはしたくないんだって」
そう言うとあまねは俯き、何かを堪えるように唇をきゅっと結んだ。
胸がずくりと重くなる。デートの約束をした直後だ。言っていることが矛盾しているのには俺だって気づいていた。
彼女に対して誠実でいたいのなら、本当はどうあるべきなのか。答えは分かりきっているのに、覚えてしまった唇の感触が邪魔をする。
「……でも……」
互いの逡巡を感じる沈黙の中で、あまねがぽつりと口を開いた。
「でも私はしたいです……。キスも、抱きつくのも、いつもしたいって思ってて……デートだって、先生が困るって分かってるのに、したくて……」
あまねの細い手がスラックス越しの太腿に触れてくる。意図しない接触に身体が震えた。戸惑いながら彼女を見つめれば、夜の色を注いだ瞳に心臓を射抜かれ、息が止まる。
「全部、私のせいなんです」
甘く、柔らかな香りが頭の奥をぐらりと揺らす。控えめな微笑みからは匂い立つような色気が感じられ、得体の知れないものがぞくぞくと俺の全身を駆け巡っていいく。
この子はこんな表情をしただろうか。年下の、まだ高校を出てさえいない幼い女の子が。
「先生はちゃんとした大人で、しっかりした人で……本当は生徒なんかに手を出す人じゃないんです。こうなってるのは私が誘ったからで……先生は何にも悪くないんです」
何もかも自分が悪いのだと、そう告げる少女は俺に比べて酷く落ち着いているように見える。唆してくる甘い言葉は、もしかすると全て彼女の本心であるのかもしれなかった。
リップクリームの添えられた唇はつやつやと潤み、うっとりするような淡い桃色を乗せている。そこから囁かれる言葉は俺をどうしようもなく駄目にしていくもので、それは分かっているのに、優しい声が心地良くてならない。
「先生は、私に誑かされてるだけですよ。だから……」
「……馬鹿」
釘付けになる目を剥がし、呆れた素振りで息を吐いた。それでも胸の奥に喜びが満ちているのは、俺が救いようもなく馬鹿な奴だからなんだろう。
白い頬を撫でる。輪郭に沿うように手を添えると、ゆるりとあまねの目が細められた。
「俺も悪い大人だけどさ……」
柔らかな唇を指先でなぞる。呼応するように薄く開かれた歯の奥で、赤い舌が誘っている。
「あんたも相当悪い子だな」
女から返されるのは自分の罪を知る微笑みだ。とろけた瞳は毒薬のように甘く、俺の身体をじわり、じわりと蝕んでいく。
きっと、もう手遅れだ。
「そうです、悪い子なんです……」
俺はあまねの言葉につられるように唇を重ね――
「……ッ」
それに気づくことができたのは運が良かったと言うより他にない。
弾かれたように跳び箱を降り、急ぎ入口の前に立つ。後ろから響くあまねの戸惑った声に混じり、壁の向こうから明るい鼻歌が微かに聞こえた。
錆びかけた金属が擦れる音。それに続き、ガラリと比較的軽い音を立てて戸が開いていく。
「わあッ!?」
正面、目線より下のほうから悲鳴が上がる。
そりゃあ鍵の閉まった体育倉庫に、それも扉のすぐ先に人がいたら驚きもするだろう。冷静に状況を捉える振りで動揺する心を誤魔化して、相手が口を開く前に先手を打った。
「ああ、浦島。ありがとうな。助かった」
「へ? あ、な、何……?」
余程驚いたらしい。心臓の当たりを掴むようなしぐさを見せながら、眩しい髪が特徴的な男子生徒は俺と体育倉庫の中をきょろきょろ見回している。
「閉じ込められてさ、困ってたんだよ」
「え、そう、なんですか?」
「そうそう。浦島が来てくれて助かったぜ。……な、籠宮」
「は、はい……!」
スカートの前を抑えながらぴょいと跳び箱を降り、あまねがこちらへ近づいてくる。
「あれ、籠宮さん……?」
「浦島くん、ありがとう」
「いいけど……なんでこんなところに閉じ込められてるんだ?」
「ん、えっとね、荷物運ぶの頼まれちゃって……」
そういえば浦島はあまねと同じ二年だったか。同じクラスではなかったはずだが、知り合いではあったらしい。
あまねはこうなった経緯について適当に嘘を織り交ぜながら話している。その誤魔化し方が上手いのか、浦島が純粋なのか、彼に疑っている様子は見られない。
一安心、だろうか。
「あの、じゃあ、私はこれで」
「ああ、あんたも災難だったな」
「いえ……!」
一つ頭を下げ、あまねが足早に去っていく。少し間を開けて俺もこの場を離れることにした。
「ああ、そうだ……籠宮が俺と閉じ込められてたってこと、あんまり広めないでやってくれるか? 変に騒ぎ立てられたらかわいそうだ」
「はーい。……あー、びっくりした……」
「悪い悪い。じゃあな」
浦島に言い置き、校舎のほうへと向かう。
そう遠くには行っていないだろうという確信があった。その予想通り、体育館を出て渡り廊下を抜けた先、校舎の隅っこの自販機の陰で早くもあまねを発見する。
「ほら、危なかった」
自販機を眺めながら声を潜めて話しかける。周囲に人影は見えないが、念のためだ。
壁に背中を預けたあまねは視線を下げて黙り込んでいる。
「籠宮?」
再び声を掛けても口を閉ざしたまま。その時間があまりにも長いために、俺の中には段々と不安が持ち上がってくる。
さすがに危険すぎたと感じているのかもしれない。……もう二人で会わない、とでも言われたら。
社会的な位置を考えるのなら、互いにそれが一番いいのだろう。明確な答えは既に出ている。そうは思いながらもやはりあまねの唇からそれを聞きたいとは思えなくて、俺はぐっと口を引き結びながら彼女の顔を覗き込んだ。
「……邪魔された」
そこにあった表情は予想していたものとは異なっていて。
ぷくーっと頬を膨らませ、あまねはいじけた口ぶりでそんなことを言った。
「……はは」
それを聞いた瞬間なんだかどっと疲れた気分になり、それと同時に腹の底から変な笑いが込み上げてきた。
「あんたも懲りないなあ」
「だって……」
あまねがその顔いっぱいに不満を表す。欲しい玩具を買ってもらえない子供のような表情だ。さっきのあれは一体なんだったんだと、呆れと疑問と安心と、色々なものがないまぜになった複雑な気持ちで俺はあまねの頭に手を置いた。
ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱す。今までこんな扱いをしたことがなかったからだろう、あまねはきょとんとした顔で俺を見つめた。
素直で、そうだと思えばワガママで、大人びているかと思えば子供らしくて。色んな顔で大人を翻弄する悪い子を、結局のところ俺は手元で甘やかしたくてならないらしい。
「……また今度な」
二人で会えるのはしばらく先になるかもしれないが、次に会う時にはたくさんキスをして、嫌だと言うまで抱きしめてやりたい。嫌だと言わないならずっと。それから、一緒にデートの計画を立てようか。
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