うるわしの軛 続
嫌だった。たぶん、怖かった。
触れ合うこと。一緒の時を過ごすこと。明日か、明後日か、いつ失うかも分からない表情を覚えてしまうこと。
きっとあの頃の私に尋ねても、親しくする意味がないだけなのだと言って、頑なに認めようとはしないのだろうけれど。
太腿の上の塊が身じろぐ。
ちょうど報告書を書き上げたところだ。膝を貸し与えていた横顔に手を添え、肉の薄い頬を撫でてみる。長めの前髪を上げ、形の良い眉をなぞっていると、手のひらが掠めた睫毛が微かに震えた。
「ん……」
重たげな瞼がゆっくりと持ち上がる。その下から覗く濃茶の目は微睡みの中でたゆたい、まだ夢を見ているかのようだ。
指先で目元をくすぐり、頬に触れ、乾いた唇を軽く押して。そうやって遊ばれているうちに、彼の意識は徐々にこちら側に戻ってきたらしい。
「俺、寝てた?」
御手杵は細く開いた目元にぎゅっと力を込め、眩しそうに何度か瞬きをした。私はその上に手を掲げ、眠たげな彼のために庇を作ってあげる。
「ええ。そこまでがっつり寝られるとは思いませんでした」
「うん……あー、眠い」
ふわあと欠伸を漏らし、頭をぐりぐりと私のお腹に押し付けてくる。低い声がずん、と身体の奥に落ちてきて、それと同時に足先にピリッと軽い痛みが走った。
「ま、待って……あんまり動かないで。そっと降りてください……」
「なんで?」
「痺れちゃった」
書類に向かっている間ずっと貸し出していた足はもう限界だ。私の言葉を聞き、膝の上の男は大人しく動きを止める。止めた、までは良かった。けれどもあろうことか、御手杵はろくに反応できない足の裏に手を伸ばしてきて。
「ひ」
痺れた素足を撫でられて思わず顔が引きつる。堪えきれなかったらしい含み笑いが空気に混じり、私の耳に届いた。
「こら、御手杵」
「悪い」
叱ると一応は謝ってきたものの、楽しそうな表情を見るに全く反省はしていない様子だ。
身体を起こした御手杵は首をこきこき回し、大きく二度目の欠伸。私はやっと解放された足を崩し、床に手をついて若干屈んだ体勢になり回復を待った。
「仕事、終わったのか?」
「はい……」
「じゃあ寝ようぜ」
「寝たい、ですけど、もうちょっとかかりそうです……」
正座には慣れているつもりだったのに。こんなに痺れたのは久しぶりのことで、なんだかとても情けない気持ちになる。
「情けないなあ」
「誰のせいですか」
きっ、と睨むと御手杵は甘く笑い、「俺」と朗らかに返してきた。分かってるじゃないか。
御手杵は一足早く潜り込んだ布団の中で私の様子を観察している。大きな口から何度目かの欠伸がこぼれた頃、ようやく足の指に感覚が戻ってきた。
「なあ」
「なんですか?」
尋ね返すと、掛け布団の下からもぞもぞと現れた両腕が私のほうに向かって開かれた。
「抱き枕がほしい」
「……抱き枕?」
「ん」
随分と懐かしい物の名だ。一緒に買いに出かけたのはもう2年近く前になるが、大柄な男に抱かれていながらもそれは未だ健在で、槍三人の部屋に変わらず置いてあるはずだ。
「私に持ってこいと仰ってる?」
言外にようやく収まった痺れのことを含ませて問えば、御手杵は違うと首を横に振った。だがその手はまだこちらに伸びていて、何かを求めているみたいだ。
赤味を帯びた瞳は柔らかく、じっと私の目を見つめている。それでふと答えが思い当たってしまって、私は呆れ混じりにもう一度問いかけた。
「……抱き枕って、私のことですか?」
どうやら正解だったらしい。ぱあっと御手杵の顔が輝いた。
「な、おいで」
「……もう」
布団に横たわる御手杵の隣には一人分のスペースがちゃんと用意されている。それはずっと前から当たり前になっていた光景で、仮に私が先に布団に入ったとしても同じように片側に寄るだろう。けれども、そんなささやかな暗黙の約束に、今でさえ喜びを感じてしまう自分がいる。
広い胸に飛び込む。御手杵の腕が背中に回り、そのままぎゅっと抱きしめられた。
「俺の抱き枕……」
眠そうな声の寝ぼけた言葉が頭の上から降ってくる。どうやら私は元祖抱き枕に勝利したようだ。馬鹿みたいだけれど、ちょっとだけ嬉しい。
逞しい腕に抱かれ、目を閉じる。なんだか眩しいなと思ったのも当然で、部屋の明かりが点けっぱなしなのだ。だけど困ったことに、今はどうしても布団から出て明かりを消す選択肢が選べない。
「寝ちゃいそうです」
「寝たらだめなのか」
「電気……」
眠気の移った私の声に、ああ、と納得がいった様子で御手杵は頷く。頷いただけだ。布団から出ることも私を離すこともない。
「先に起きたほうが電気消そう」
「次に起きたらもう朝かもしれませんよ」
「そしたら俺のこと起こして」
朝まで寝る気満々な上、先に起きる気もないじゃないか。心では突っ込みを入れたものの、口は無気力に「分かった」と承諾していた。
「あったかい」
とろけそうな声が耳をくすぐる。つよく抱きしめられているのに苦しくはない。心地の良い体温に溶けていく。人のぬくもりに安心するのは私も一緒だった。
変わったなあ。そう、ぼんやり思う。おそらく抱き枕の話が出たからだろう。ふと、その時の自分の振る舞いを思い出してしまい、背中がむず痒くてたまらなくなる。自分を誤魔化すつもりで御手杵の胸に頭を擦りつけた。
「お、甘えてるのか?」
「んーん……違う……」
「う。違うのか……」
御手杵はわざとらしくショックを受けたような声で言い、私の頭を撫でてくる。優しい手つきが気持ちいい。訂正だ、やっぱり甘えていたみたい。
こんなふうに心を許せる人ができるなんて思ってもいなかった。二年前の私が見たらきっと驚くに違いない。いや、馬鹿なことをしていると笑うかもしれない。
確かに、あんな壁を作っておきながらここまで見事に陥落してるのは馬鹿みたいだ。でも、いい。馬鹿でいい。この手のひらを知らないままでいるほうがずっと嫌だ。
それに、変わったのは私一人じゃない。
「御手杵は」
「ん?」
「私を甘やかすの、好きですよね」
言いながら御手杵を見つめれば、きょとんとした顔と目が合った。
「当たり前だろ」
当たり前。確かに、恋人を甘やかしたいというのはそこそこ一般的な感情かもしれないけれど。でも、御手杵だって昔のままならそんなこと思わなかったに違いないのだ。
本丸に来た時の御手杵は戦うことしか考えられない槍だった。与えられた時間を持て余し「退屈だなあ」と呟くのを、何度耳にしたか分からない。けれどもいつしかその数は減っていた。
人は変わる。槍は変わる。御手杵は相変わらず畑仕事や馬の世話は嫌いみたいだけど、好きなものは増えていった。あの日買いに出かけた抱き枕。畑仕事の合間に食べるアイス。一緒に歩いた月夜の庭。御手杵のために作った特大おにぎり。夜更しをするくらいはまり込んだゲーム。寒い日にこたつに潜るのも大好きで、寝落ちて風邪をひいたこともあったっけ。
それから――。
「ほら、寝るぞ」
「ん……」
御手杵は私の手を好きだと言った。自分ではそこまでとも思えない髪を綺麗だと撫でた。冬のかさついた唇にさえ飽きもせず口づけをして、私が傍にいると安心するのだと微笑んでくれた。
奇跡みたいなことだ。本来なら線の重なることがなかったはずの存在が、同じ想いを返してくれた。
「ねえ、御手杵」
「んー……?」
眠たげな目が少しだけ開く。
「抱き枕、は嫌」
「嫌か?」
腕の力が弱まった。ほんの少し寂しげな御手杵の胸に、離さないでと縋るように顔を寄せる。
「名前がいい」
名前を呼んでほしい。私の名を、他の誰でもない御手杵の口から聞きたい。私の大好きな声で。唇で。そのために、私は名前を教えたのだから。
御手杵は少しだけ笑ったみたいだった。
「あまね」
大きな手が頬に触れる。紡がれた声が胸に染み渡っていく。自分の名前がこんなにも愛おしいものだなんて、御手杵に呼ばれるまで私は知らなかった。
「俺のあまね?」
悪戯っぽい言い方で彼は尋ねる。私はそれに乗ってあげることにした。
「御手杵のあまね」
一拍置き、二人で笑い合った。段々と恥ずかしさは増し、誰にも見られていないのに頬には熱が集まってくる。
御手杵のあまね、だって。なんて言葉だろう。頭の中で繰り返すだけで顔が変に緩んでしまう。
恋人同士の戯言。それでも、紛れもない真実だ。
ねえ、きっと、もう離れられないね。
囁きにさえならなかった言葉が空気を震わせることはない。
けれども、ほんの少し。私を抱く腕に力が込められたのを感じ、閉じた瞼の裏にはどうしようもなく愛おしさが滲んでいった。
嫌だった。たぶん、怖かった。
触れ合うこと。一緒の時を過ごすこと。明日か、明後日か、いつ失うかも分からない表情を覚えてしまうこと。
きっとあの頃の私に尋ねても、親しくする意味がないだけなのだと言って、頑なに認めようとはしないのだろうけれど。
太腿の上の塊が身じろぐ。
ちょうど報告書を書き上げたところだ。膝を貸し与えていた横顔に手を添え、肉の薄い頬を撫でてみる。長めの前髪を上げ、形の良い眉をなぞっていると、手のひらが掠めた睫毛が微かに震えた。
「ん……」
重たげな瞼がゆっくりと持ち上がる。その下から覗く濃茶の目は微睡みの中でたゆたい、まだ夢を見ているかのようだ。
指先で目元をくすぐり、頬に触れ、乾いた唇を軽く押して。そうやって遊ばれているうちに、彼の意識は徐々にこちら側に戻ってきたらしい。
「俺、寝てた?」
御手杵は細く開いた目元にぎゅっと力を込め、眩しそうに何度か瞬きをした。私はその上に手を掲げ、眠たげな彼のために庇を作ってあげる。
「ええ。そこまでがっつり寝られるとは思いませんでした」
「うん……あー、眠い」
ふわあと欠伸を漏らし、頭をぐりぐりと私のお腹に押し付けてくる。低い声がずん、と身体の奥に落ちてきて、それと同時に足先にピリッと軽い痛みが走った。
「ま、待って……あんまり動かないで。そっと降りてください……」
「なんで?」
「痺れちゃった」
書類に向かっている間ずっと貸し出していた足はもう限界だ。私の言葉を聞き、膝の上の男は大人しく動きを止める。止めた、までは良かった。けれどもあろうことか、御手杵はろくに反応できない足の裏に手を伸ばしてきて。
「ひ」
痺れた素足を撫でられて思わず顔が引きつる。堪えきれなかったらしい含み笑いが空気に混じり、私の耳に届いた。
「こら、御手杵」
「悪い」
叱ると一応は謝ってきたものの、楽しそうな表情を見るに全く反省はしていない様子だ。
身体を起こした御手杵は首をこきこき回し、大きく二度目の欠伸。私はやっと解放された足を崩し、床に手をついて若干屈んだ体勢になり回復を待った。
「仕事、終わったのか?」
「はい……」
「じゃあ寝ようぜ」
「寝たい、ですけど、もうちょっとかかりそうです……」
正座には慣れているつもりだったのに。こんなに痺れたのは久しぶりのことで、なんだかとても情けない気持ちになる。
「情けないなあ」
「誰のせいですか」
きっ、と睨むと御手杵は甘く笑い、「俺」と朗らかに返してきた。分かってるじゃないか。
御手杵は一足早く潜り込んだ布団の中で私の様子を観察している。大きな口から何度目かの欠伸がこぼれた頃、ようやく足の指に感覚が戻ってきた。
「なあ」
「なんですか?」
尋ね返すと、掛け布団の下からもぞもぞと現れた両腕が私のほうに向かって開かれた。
「抱き枕がほしい」
「……抱き枕?」
「ん」
随分と懐かしい物の名だ。一緒に買いに出かけたのはもう2年近く前になるが、大柄な男に抱かれていながらもそれは未だ健在で、槍三人の部屋に変わらず置いてあるはずだ。
「私に持ってこいと仰ってる?」
言外にようやく収まった痺れのことを含ませて問えば、御手杵は違うと首を横に振った。だがその手はまだこちらに伸びていて、何かを求めているみたいだ。
赤味を帯びた瞳は柔らかく、じっと私の目を見つめている。それでふと答えが思い当たってしまって、私は呆れ混じりにもう一度問いかけた。
「……抱き枕って、私のことですか?」
どうやら正解だったらしい。ぱあっと御手杵の顔が輝いた。
「な、おいで」
「……もう」
布団に横たわる御手杵の隣には一人分のスペースがちゃんと用意されている。それはずっと前から当たり前になっていた光景で、仮に私が先に布団に入ったとしても同じように片側に寄るだろう。けれども、そんなささやかな暗黙の約束に、今でさえ喜びを感じてしまう自分がいる。
広い胸に飛び込む。御手杵の腕が背中に回り、そのままぎゅっと抱きしめられた。
「俺の抱き枕……」
眠そうな声の寝ぼけた言葉が頭の上から降ってくる。どうやら私は元祖抱き枕に勝利したようだ。馬鹿みたいだけれど、ちょっとだけ嬉しい。
逞しい腕に抱かれ、目を閉じる。なんだか眩しいなと思ったのも当然で、部屋の明かりが点けっぱなしなのだ。だけど困ったことに、今はどうしても布団から出て明かりを消す選択肢が選べない。
「寝ちゃいそうです」
「寝たらだめなのか」
「電気……」
眠気の移った私の声に、ああ、と納得がいった様子で御手杵は頷く。頷いただけだ。布団から出ることも私を離すこともない。
「先に起きたほうが電気消そう」
「次に起きたらもう朝かもしれませんよ」
「そしたら俺のこと起こして」
朝まで寝る気満々な上、先に起きる気もないじゃないか。心では突っ込みを入れたものの、口は無気力に「分かった」と承諾していた。
「あったかい」
とろけそうな声が耳をくすぐる。つよく抱きしめられているのに苦しくはない。心地の良い体温に溶けていく。人のぬくもりに安心するのは私も一緒だった。
変わったなあ。そう、ぼんやり思う。おそらく抱き枕の話が出たからだろう。ふと、その時の自分の振る舞いを思い出してしまい、背中がむず痒くてたまらなくなる。自分を誤魔化すつもりで御手杵の胸に頭を擦りつけた。
「お、甘えてるのか?」
「んーん……違う……」
「う。違うのか……」
御手杵はわざとらしくショックを受けたような声で言い、私の頭を撫でてくる。優しい手つきが気持ちいい。訂正だ、やっぱり甘えていたみたい。
こんなふうに心を許せる人ができるなんて思ってもいなかった。二年前の私が見たらきっと驚くに違いない。いや、馬鹿なことをしていると笑うかもしれない。
確かに、あんな壁を作っておきながらここまで見事に陥落してるのは馬鹿みたいだ。でも、いい。馬鹿でいい。この手のひらを知らないままでいるほうがずっと嫌だ。
それに、変わったのは私一人じゃない。
「御手杵は」
「ん?」
「私を甘やかすの、好きですよね」
言いながら御手杵を見つめれば、きょとんとした顔と目が合った。
「当たり前だろ」
当たり前。確かに、恋人を甘やかしたいというのはそこそこ一般的な感情かもしれないけれど。でも、御手杵だって昔のままならそんなこと思わなかったに違いないのだ。
本丸に来た時の御手杵は戦うことしか考えられない槍だった。与えられた時間を持て余し「退屈だなあ」と呟くのを、何度耳にしたか分からない。けれどもいつしかその数は減っていた。
人は変わる。槍は変わる。御手杵は相変わらず畑仕事や馬の世話は嫌いみたいだけど、好きなものは増えていった。あの日買いに出かけた抱き枕。畑仕事の合間に食べるアイス。一緒に歩いた月夜の庭。御手杵のために作った特大おにぎり。夜更しをするくらいはまり込んだゲーム。寒い日にこたつに潜るのも大好きで、寝落ちて風邪をひいたこともあったっけ。
それから――。
「ほら、寝るぞ」
「ん……」
御手杵は私の手を好きだと言った。自分ではそこまでとも思えない髪を綺麗だと撫でた。冬のかさついた唇にさえ飽きもせず口づけをして、私が傍にいると安心するのだと微笑んでくれた。
奇跡みたいなことだ。本来なら線の重なることがなかったはずの存在が、同じ想いを返してくれた。
「ねえ、御手杵」
「んー……?」
眠たげな目が少しだけ開く。
「抱き枕、は嫌」
「嫌か?」
腕の力が弱まった。ほんの少し寂しげな御手杵の胸に、離さないでと縋るように顔を寄せる。
「名前がいい」
名前を呼んでほしい。私の名を、他の誰でもない御手杵の口から聞きたい。私の大好きな声で。唇で。そのために、私は名前を教えたのだから。
御手杵は少しだけ笑ったみたいだった。
「あまね」
大きな手が頬に触れる。紡がれた声が胸に染み渡っていく。自分の名前がこんなにも愛おしいものだなんて、御手杵に呼ばれるまで私は知らなかった。
「俺のあまね?」
悪戯っぽい言い方で彼は尋ねる。私はそれに乗ってあげることにした。
「御手杵のあまね」
一拍置き、二人で笑い合った。段々と恥ずかしさは増し、誰にも見られていないのに頬には熱が集まってくる。
御手杵のあまね、だって。なんて言葉だろう。頭の中で繰り返すだけで顔が変に緩んでしまう。
恋人同士の戯言。それでも、紛れもない真実だ。
ねえ、きっと、もう離れられないね。
囁きにさえならなかった言葉が空気を震わせることはない。
けれども、ほんの少し。私を抱く腕に力が込められたのを感じ、閉じた瞼の裏にはどうしようもなく愛おしさが滲んでいった。
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