泣いて明かした夜のまぼろし
雪の降った朝、頭まで潜っていた布団を剥がされた時のような眩しさが、視界いっぱいに広がった。
「お帰りなさい、あなた」
目の前には、慎ましやかな格好をした一人の女が立っている。長い黒髪はうなじのあたりで括られ、くすんだ緑のエプロンがその細い身体を包んでいた。
「……御手杵?」
女が不思議そうな声色で呼びかけてくる。それでようやく、彼は自身の名を思い出した。
「お、おう……ただいま」
御手杵。それが自分の名前であり、そしてこの女はあまねという名の、自分の妻だ。
そこまで理解すると頭は幾分か冴え渡ったように思われた。しかし返事が覚束なかったためか、あまねはしゅんと眉を垂らして御手杵を見上げている。
「疲れてるの……? ご飯、食べたら元気になる? 先にお風呂がいい?」
彼女の言う通り、少し疲れているのかもしれない。ご飯、と聞いた瞬間、彼の身体は急に空腹を訴え始めた。
「あ……ご飯、食べるよ。腹、減った……」
「分かりました」
気遣うように微笑み、あまねが自分の手から鞄を預かっていく。ぱたぱたとスリッパを鳴らし、彼女は奥のドアに手を掛けた。
「よそうから、ちょっと待っててくださいね」
頷き、革靴を脱いで真っ直ぐに彼女の後を追った。廊下の突き当たりには明るい部屋があり、四人掛けのテーブルの上には四角い盆が二つ、向かい合わせに置かれている。入った瞬間に、キッチンのほうから漂ってくる香ばしい匂いが御手杵の胸を満たした。
盆には既にいくつか小皿が置かれている。御手杵はふらふらと、引き寄せられるように片方の椅子に腰を下ろした。この席からだとキッチンの様子がよく見える。あまねは手際よく動き、自分の前には見る間に夕飯の盛られた食器が並べられていった。
わかめと豆腐の味噌汁からは湯気が立ち上り、絶妙に焦げ目のついた焼き魚はまだジュウっと音を立てている。ほくほくとあたたかみのある肉じゃがは人参やいんげんの彩りが綺麗だ。御手杵に差し出された深皿にはあまねのものと比べて圧倒的に肉が多く入っており、子供のように彼の心は浮き立つ。
だが、それよりも、もっとずっと大きな事実が頭の大半を埋め尽くしていた。
「これ、あんたが作ったのか?」
「当たり前じゃないですか」
「ぜ、全部?」
「全部ですけど」
片手に茶碗、片手にしゃもじを掴んだあまねが不思議そうに首を傾げる。こと、と小気味良い音を立て、いっぱいに盛られた白ご飯が盆の上に置かれた。
「え、お、俺っ、これ全部食べていいのか?」
尋ねると、彼女は大きな目をぱちぱち瞬かせた。
「あなた、変なこと言うんですね。食べていいに決まってるじゃないですか」
確かにそうだ。あまねは自分の妻で、夫に夕食を作るのは日常の一つで、それほど驚くことではないはずだ。それなのに、どうしてこんなに感動して、胸が熱くなるのだろう。
頭を捻る御手杵を前に、ふと思いついた様子で彼女の唇が柔らかな弧を描いた。
「あ、嘘。私の分は食べちゃだめです。一緒に食べましょう?」
小さめの茶碗にご飯をよそうと、あまねは慣れたしぐさでエプロンを外し、御手杵の向かいに腰を下ろした。
「いただきます」
「いただきます!」
合掌をしたきり、彼を悩ませていた疑問はあっさり吹き飛んだ。箸を持つ手は止まらず、御手杵は勢い良く飯を掻き込む。白米も、味噌汁も、肉じゃがも、和え物も、焼き魚も全部が全部、今までに食べた何よりもおいしく感じられる。
「あんた作ってくれた飯、すげえうまい……!」
「嬉しいです、けど、そんなにお腹すいてたんですか? 心配しなくても誰も取ったりなんてしませんよ。おかわりもありますから、ね?」
駆け足の夫を、妻は心配と呆れが混ざったなんとも言えない顔で窘めている。だが、「うまい」「すげえ」「おいしい」……と馬鹿みたいに繰り返しているうちに、彼女は照れくさそうに頬を緩め、最終的に空っぽのご飯茶碗で赤い顔を隠してしまった。
「私お皿洗いますから、先にお風呂入っちゃってください」
最初に感じていた気怠さはすっかり消え失せていた。身体を流し、お腹いっぱいの満たされた気持ちで広い湯船に飛び込む。全身の力が抜け、溜まっていた疲れが流れていく。天国のようだ。
「湯加減はどうですか?」
浴槽の左右の淵に腕を乗せて寛いでいると、三十センチほど開いた戸の隙間からあまねが顔を覗かせた。
「ん……気持ちいい……」
「良かった。着替え、置いときますね」
「おう、ありがとな」
優しく微笑み、あまねは戸を閉めようとする。御手杵はふと『いいこと』を思いつき、彼女を引き留めた。
「あんたも入るか?」
「え……」
「入ろうぜ」
断る理由などないだろう。彼女はひと呼吸だけ戸惑いを見せたものの、二度目の誘いには薄らと頬を染めて頷いた。
半透明の戸の向こうで、妻の纏う布が徐々に少なくなっていく。おずおずと姿を見せた裸の女を、御手杵はすぐに湯船へと引きずり込んだ。眩しい肌の色が視界に散る。収まりきらなかった湯が勢い良くあふれる。あまねには眉を寄せられてしまったが、二人で入るのならそれでも十分だった。
それから何をどうしたのか。気がつくと、御手杵はベッドの上に何をするでもなくぼんやり座っていた。
ぱたぱた。聞きなれたスリッパの音が、心音よりも速いリズムを刻みながらこちらに向かっている。現れた女は手早くドアを閉めると、一片の躊躇いもなく御手杵の胸に飛び込んできた。
「わっ」
勢いに逆らわず後ろに倒れこむ。頭が枕元の仕切板を掠め、御手杵の背中をひやりと冷たいものが流れた。
「あ、危ないだろ……!」
「あ……ごめんなさい」
大人気ない行動を恥じらうふうに笑みを浮かべ、あまねが彼の上から身体を退けた。それと一緒に御手杵も上体を起こし、膝の間に彼女の肢体がすっぽりと収まった形になる。
「早くね、くっつきたかったの」
とろけた声で言い、視線を合わせてから改めて、彼女はゆっくりと御手杵にもたれかかってきた。
さらさらの髪から、抱きとめた柔らかな肉体から。ふわりと漂ってきた心地の良い香りが御手杵の身体を熱くする。心臓が自分の手元を離れ、騒ぎ始めたのが分かる。
「いい匂いだな……」
「お風呂上がりだから。あなたも、同じ匂いしてますよ」
彼女もまた高揚した表情で囁いた。睫毛はしっとりと濡れたように綺麗で、唇は艶やかな血の色を乗せている。御手杵は導かれるようにそっと、その赤を奪った。
「ん……」
甘い吐息が二人の首元に落ちていく。風呂上がりのぬくもった身体が気持ち良い。何度触れても飽きることはない。いつだって、彼女の存在は御手杵の心を揺り動かす。
「あのさ、飯、すげえうまかった……」
口づけの後にはふさわしくない言葉だ。あまねは目を丸くしたものの、しかし、すぐにふわりと表情を崩した。
「そんなにおいしかった? 嬉しい……」
「ん……で、あの、風呂も気持ち良かった」
ベッドの上でこんな話を始めるのは自分でもおかしいと思うのに、彼女にそのことについて口を挟む様子は見られない。あまねは安心しきった表情で御手杵の胸に身体を預けている。
「あまね、あの……なんか、俺な、……あー……、その、……なんだろ……」
「なあに、どうしたの?」
御手杵を見つめる瞳はただひたすらに穏やかで、なんだって受け入れてくれそうな優しさにあふれていた。胸がぎゅっと締め付けられる。湧き上がった何かに突き動かされるまま、御手杵は彼女をつよく抱きしめていた。
柔らかな肌の下で、命が燃える音がする。自分の胸で鳴るそれと、同じ音がする。当たり前のその事実に、何故だか御手杵は、目頭が熱くなるのを感じていた。
「あのな、……」
「うん」
「……あー、駄目だ……なんて言ったらいいか分かんねえ……」
あふれそうなそれは喉元まで来ているのに、何故か伝えたい言葉が出てこない。彼には声の震えを押し込めるので精一杯だ。
項垂れる御手杵に、あまねはくすくすと笑い声をこぼした。
「なんで笑うんだよー……」
「んーん」
呆れるのでも面白がるのでもない。愛おしげにあまねは目を細める。
御手杵が見つけられなかった言葉はどうやら、彼女には既に伝わっていたようだ。
それもまた突然のことだった。なんの前触れもなく世界が明るみ、覚えのある感覚が彼の視界を浚っていく。
いつの間に眠ってしまったのだろう。気がつくと御手杵は抱き込んだ布団に顔を埋めて、シーツの上で身体を丸め横になっていた。
「起きた?」
首を捻り、声の降ってきた方向を窺う。そこにはつい先ほどまでこの腕に抱きしめていた女がいて、呆れ混じりの微笑を浮かべながら彼を見下ろしていた。
「もう……そろそろ起きないと、朝ご飯食べれなくなっちゃいますよ」
随分前に目覚めていたらしい。あまねは既に着替えを済ませており、その顔には薄く化粧が施されていた。
それはすぐに理解したのだが、頭が追いついていないのは昨晩の出来事に関してだ。彼女と一緒にベッドに入ってからの記憶が曖昧で、どうにもすっきりしない。
寝返りを打ち、仰向けになってぼんやりと彼女を見上げる。するとささくれひとつない白い指が伸ばされて、御手杵の頬をくすぐった。
「今日はあなたに出陣してもらうつもりなんですから。隊長が寝坊しちゃ駄目でしょう?」
「あ……」
出陣。隊長。
それはおよそ、普通の夫婦の間で交わされるはずのない会話だ。
仕えるべき主の言葉に、御手杵はようやく、振り返ろうとしていた『昨夜』がどこにもないのだと思い至った。
「御手杵?」
あまねの手に自身の手のひらを重ねる。目を瞑ると、本丸ではないどこかの光景は、容易に瞼の裏に映し出される。
「……変な夢見た……」
「変な夢?」
だが、口にして、自分が『現実』にいることをどうしようもなく実感した。
喉の奥がからからに乾いている。彼女は一瞬だけ、どこか痛ましげに眉をひそめた。
「大丈夫ですよ。あなたが見たのは、夢、だから……」
「ああ、うん……夢、なんだよな」
「ええ、夢です」
あまねは、御手杵が今しがた見た夢を、彼が時折うなされている悪夢だと勘違いしているようだった。
だが、悪夢でもそうでなくとも、その言葉の残酷なまでの正しさは変わらない。
あれは夢だったのだ。
何か大切なものが指の隙間からこぼれ落ちていったような気分だった。代わりに酷い喪失感が胸を埋め尽くしている。眠る前と今とで、現実には何一つ変わったものなどないというのに。
「大丈夫よ」
御手杵を慰めようと、あまねは優しく囁いている。
ふと、あの時出てこなかった言葉が今、すんなりと脳裏に浮かんだ。
そうか、自分はあれを。
戦うこともなく、ただ、この女の作った夕飯を食べて、一緒に風呂に入り、眠るだけの時間を。
自分が確かに感じたその感情に、何を思えばいいのか御手杵には分からなかった。
あれは夢だ。どう足掻こうとも現実になることのない、夢の話。現実の御手杵はどこまでも槍であって、戦うことなく存在することは望まないし、人のように生きてゆくことなどできるはずもない。
――だから、実際には選択を迫られることさえないのだ。
その事実に、渇いた悲しみと、一抹の安堵を覚える。ありとあらゆるものを裏切ったような気分だった。
「いい夢だったよ」
だが、曇り、わだかまる胸の中で、それだけははっきりと口にできた。
いい夢だった。彼女が傍で微笑んでいる、それが悪い夢であるはずがない。
「……そうなの?」
「おう」
気を遣って嘘をついているのではないのかと、あまねは探るような表情でこちらを見つめている。御手杵は笑い、華奢な肩から流れる髪を掬った。障子を透いた朝日が黒髪をまばゆく照らし、夢で感じたのと同じ、心地の良い香りがした。
「なあ、今日一緒に風呂入ろうぜ」
「へ?」
「夢って、大事なとこばっかり曖昧なんだよなあ。残念残念」
膝を崩した女の腰にしがみつき、長いスカートの裾から手を差し込む。柔らかな太腿に、御手杵はたまらず熱い息を漏らした。こうして直に触れていると、彼女の存在は夢よりもずっと鮮明に感じられる。
「んッ!? ちょ、っ……」
あまねが慌ててスカートを押さえつける。御手杵が見ていた夢がどうやら悪夢ではないらしい、とようやく気づいた顔だ。
「な、なんの夢見てたんですか……!」
女の頬は仄かに赤い。その反応に御手杵は口元を緩め、彼女の膝を枕に目を閉じる。愛おしいまぼろしを、そっと胸の奥にしまった。
「幸せな夢」
雪の降った朝、頭まで潜っていた布団を剥がされた時のような眩しさが、視界いっぱいに広がった。
「お帰りなさい、あなた」
目の前には、慎ましやかな格好をした一人の女が立っている。長い黒髪はうなじのあたりで括られ、くすんだ緑のエプロンがその細い身体を包んでいた。
「……御手杵?」
女が不思議そうな声色で呼びかけてくる。それでようやく、彼は自身の名を思い出した。
「お、おう……ただいま」
御手杵。それが自分の名前であり、そしてこの女はあまねという名の、自分の妻だ。
そこまで理解すると頭は幾分か冴え渡ったように思われた。しかし返事が覚束なかったためか、あまねはしゅんと眉を垂らして御手杵を見上げている。
「疲れてるの……? ご飯、食べたら元気になる? 先にお風呂がいい?」
彼女の言う通り、少し疲れているのかもしれない。ご飯、と聞いた瞬間、彼の身体は急に空腹を訴え始めた。
「あ……ご飯、食べるよ。腹、減った……」
「分かりました」
気遣うように微笑み、あまねが自分の手から鞄を預かっていく。ぱたぱたとスリッパを鳴らし、彼女は奥のドアに手を掛けた。
「よそうから、ちょっと待っててくださいね」
頷き、革靴を脱いで真っ直ぐに彼女の後を追った。廊下の突き当たりには明るい部屋があり、四人掛けのテーブルの上には四角い盆が二つ、向かい合わせに置かれている。入った瞬間に、キッチンのほうから漂ってくる香ばしい匂いが御手杵の胸を満たした。
盆には既にいくつか小皿が置かれている。御手杵はふらふらと、引き寄せられるように片方の椅子に腰を下ろした。この席からだとキッチンの様子がよく見える。あまねは手際よく動き、自分の前には見る間に夕飯の盛られた食器が並べられていった。
わかめと豆腐の味噌汁からは湯気が立ち上り、絶妙に焦げ目のついた焼き魚はまだジュウっと音を立てている。ほくほくとあたたかみのある肉じゃがは人参やいんげんの彩りが綺麗だ。御手杵に差し出された深皿にはあまねのものと比べて圧倒的に肉が多く入っており、子供のように彼の心は浮き立つ。
だが、それよりも、もっとずっと大きな事実が頭の大半を埋め尽くしていた。
「これ、あんたが作ったのか?」
「当たり前じゃないですか」
「ぜ、全部?」
「全部ですけど」
片手に茶碗、片手にしゃもじを掴んだあまねが不思議そうに首を傾げる。こと、と小気味良い音を立て、いっぱいに盛られた白ご飯が盆の上に置かれた。
「え、お、俺っ、これ全部食べていいのか?」
尋ねると、彼女は大きな目をぱちぱち瞬かせた。
「あなた、変なこと言うんですね。食べていいに決まってるじゃないですか」
確かにそうだ。あまねは自分の妻で、夫に夕食を作るのは日常の一つで、それほど驚くことではないはずだ。それなのに、どうしてこんなに感動して、胸が熱くなるのだろう。
頭を捻る御手杵を前に、ふと思いついた様子で彼女の唇が柔らかな弧を描いた。
「あ、嘘。私の分は食べちゃだめです。一緒に食べましょう?」
小さめの茶碗にご飯をよそうと、あまねは慣れたしぐさでエプロンを外し、御手杵の向かいに腰を下ろした。
「いただきます」
「いただきます!」
合掌をしたきり、彼を悩ませていた疑問はあっさり吹き飛んだ。箸を持つ手は止まらず、御手杵は勢い良く飯を掻き込む。白米も、味噌汁も、肉じゃがも、和え物も、焼き魚も全部が全部、今までに食べた何よりもおいしく感じられる。
「あんた作ってくれた飯、すげえうまい……!」
「嬉しいです、けど、そんなにお腹すいてたんですか? 心配しなくても誰も取ったりなんてしませんよ。おかわりもありますから、ね?」
駆け足の夫を、妻は心配と呆れが混ざったなんとも言えない顔で窘めている。だが、「うまい」「すげえ」「おいしい」……と馬鹿みたいに繰り返しているうちに、彼女は照れくさそうに頬を緩め、最終的に空っぽのご飯茶碗で赤い顔を隠してしまった。
「私お皿洗いますから、先にお風呂入っちゃってください」
最初に感じていた気怠さはすっかり消え失せていた。身体を流し、お腹いっぱいの満たされた気持ちで広い湯船に飛び込む。全身の力が抜け、溜まっていた疲れが流れていく。天国のようだ。
「湯加減はどうですか?」
浴槽の左右の淵に腕を乗せて寛いでいると、三十センチほど開いた戸の隙間からあまねが顔を覗かせた。
「ん……気持ちいい……」
「良かった。着替え、置いときますね」
「おう、ありがとな」
優しく微笑み、あまねは戸を閉めようとする。御手杵はふと『いいこと』を思いつき、彼女を引き留めた。
「あんたも入るか?」
「え……」
「入ろうぜ」
断る理由などないだろう。彼女はひと呼吸だけ戸惑いを見せたものの、二度目の誘いには薄らと頬を染めて頷いた。
半透明の戸の向こうで、妻の纏う布が徐々に少なくなっていく。おずおずと姿を見せた裸の女を、御手杵はすぐに湯船へと引きずり込んだ。眩しい肌の色が視界に散る。収まりきらなかった湯が勢い良くあふれる。あまねには眉を寄せられてしまったが、二人で入るのならそれでも十分だった。
それから何をどうしたのか。気がつくと、御手杵はベッドの上に何をするでもなくぼんやり座っていた。
ぱたぱた。聞きなれたスリッパの音が、心音よりも速いリズムを刻みながらこちらに向かっている。現れた女は手早くドアを閉めると、一片の躊躇いもなく御手杵の胸に飛び込んできた。
「わっ」
勢いに逆らわず後ろに倒れこむ。頭が枕元の仕切板を掠め、御手杵の背中をひやりと冷たいものが流れた。
「あ、危ないだろ……!」
「あ……ごめんなさい」
大人気ない行動を恥じらうふうに笑みを浮かべ、あまねが彼の上から身体を退けた。それと一緒に御手杵も上体を起こし、膝の間に彼女の肢体がすっぽりと収まった形になる。
「早くね、くっつきたかったの」
とろけた声で言い、視線を合わせてから改めて、彼女はゆっくりと御手杵にもたれかかってきた。
さらさらの髪から、抱きとめた柔らかな肉体から。ふわりと漂ってきた心地の良い香りが御手杵の身体を熱くする。心臓が自分の手元を離れ、騒ぎ始めたのが分かる。
「いい匂いだな……」
「お風呂上がりだから。あなたも、同じ匂いしてますよ」
彼女もまた高揚した表情で囁いた。睫毛はしっとりと濡れたように綺麗で、唇は艶やかな血の色を乗せている。御手杵は導かれるようにそっと、その赤を奪った。
「ん……」
甘い吐息が二人の首元に落ちていく。風呂上がりのぬくもった身体が気持ち良い。何度触れても飽きることはない。いつだって、彼女の存在は御手杵の心を揺り動かす。
「あのさ、飯、すげえうまかった……」
口づけの後にはふさわしくない言葉だ。あまねは目を丸くしたものの、しかし、すぐにふわりと表情を崩した。
「そんなにおいしかった? 嬉しい……」
「ん……で、あの、風呂も気持ち良かった」
ベッドの上でこんな話を始めるのは自分でもおかしいと思うのに、彼女にそのことについて口を挟む様子は見られない。あまねは安心しきった表情で御手杵の胸に身体を預けている。
「あまね、あの……なんか、俺な、……あー……、その、……なんだろ……」
「なあに、どうしたの?」
御手杵を見つめる瞳はただひたすらに穏やかで、なんだって受け入れてくれそうな優しさにあふれていた。胸がぎゅっと締め付けられる。湧き上がった何かに突き動かされるまま、御手杵は彼女をつよく抱きしめていた。
柔らかな肌の下で、命が燃える音がする。自分の胸で鳴るそれと、同じ音がする。当たり前のその事実に、何故だか御手杵は、目頭が熱くなるのを感じていた。
「あのな、……」
「うん」
「……あー、駄目だ……なんて言ったらいいか分かんねえ……」
あふれそうなそれは喉元まで来ているのに、何故か伝えたい言葉が出てこない。彼には声の震えを押し込めるので精一杯だ。
項垂れる御手杵に、あまねはくすくすと笑い声をこぼした。
「なんで笑うんだよー……」
「んーん」
呆れるのでも面白がるのでもない。愛おしげにあまねは目を細める。
御手杵が見つけられなかった言葉はどうやら、彼女には既に伝わっていたようだ。
それもまた突然のことだった。なんの前触れもなく世界が明るみ、覚えのある感覚が彼の視界を浚っていく。
いつの間に眠ってしまったのだろう。気がつくと御手杵は抱き込んだ布団に顔を埋めて、シーツの上で身体を丸め横になっていた。
「起きた?」
首を捻り、声の降ってきた方向を窺う。そこにはつい先ほどまでこの腕に抱きしめていた女がいて、呆れ混じりの微笑を浮かべながら彼を見下ろしていた。
「もう……そろそろ起きないと、朝ご飯食べれなくなっちゃいますよ」
随分前に目覚めていたらしい。あまねは既に着替えを済ませており、その顔には薄く化粧が施されていた。
それはすぐに理解したのだが、頭が追いついていないのは昨晩の出来事に関してだ。彼女と一緒にベッドに入ってからの記憶が曖昧で、どうにもすっきりしない。
寝返りを打ち、仰向けになってぼんやりと彼女を見上げる。するとささくれひとつない白い指が伸ばされて、御手杵の頬をくすぐった。
「今日はあなたに出陣してもらうつもりなんですから。隊長が寝坊しちゃ駄目でしょう?」
「あ……」
出陣。隊長。
それはおよそ、普通の夫婦の間で交わされるはずのない会話だ。
仕えるべき主の言葉に、御手杵はようやく、振り返ろうとしていた『昨夜』がどこにもないのだと思い至った。
「御手杵?」
あまねの手に自身の手のひらを重ねる。目を瞑ると、本丸ではないどこかの光景は、容易に瞼の裏に映し出される。
「……変な夢見た……」
「変な夢?」
だが、口にして、自分が『現実』にいることをどうしようもなく実感した。
喉の奥がからからに乾いている。彼女は一瞬だけ、どこか痛ましげに眉をひそめた。
「大丈夫ですよ。あなたが見たのは、夢、だから……」
「ああ、うん……夢、なんだよな」
「ええ、夢です」
あまねは、御手杵が今しがた見た夢を、彼が時折うなされている悪夢だと勘違いしているようだった。
だが、悪夢でもそうでなくとも、その言葉の残酷なまでの正しさは変わらない。
あれは夢だったのだ。
何か大切なものが指の隙間からこぼれ落ちていったような気分だった。代わりに酷い喪失感が胸を埋め尽くしている。眠る前と今とで、現実には何一つ変わったものなどないというのに。
「大丈夫よ」
御手杵を慰めようと、あまねは優しく囁いている。
ふと、あの時出てこなかった言葉が今、すんなりと脳裏に浮かんだ。
そうか、自分はあれを。
戦うこともなく、ただ、この女の作った夕飯を食べて、一緒に風呂に入り、眠るだけの時間を。
自分が確かに感じたその感情に、何を思えばいいのか御手杵には分からなかった。
あれは夢だ。どう足掻こうとも現実になることのない、夢の話。現実の御手杵はどこまでも槍であって、戦うことなく存在することは望まないし、人のように生きてゆくことなどできるはずもない。
――だから、実際には選択を迫られることさえないのだ。
その事実に、渇いた悲しみと、一抹の安堵を覚える。ありとあらゆるものを裏切ったような気分だった。
「いい夢だったよ」
だが、曇り、わだかまる胸の中で、それだけははっきりと口にできた。
いい夢だった。彼女が傍で微笑んでいる、それが悪い夢であるはずがない。
「……そうなの?」
「おう」
気を遣って嘘をついているのではないのかと、あまねは探るような表情でこちらを見つめている。御手杵は笑い、華奢な肩から流れる髪を掬った。障子を透いた朝日が黒髪をまばゆく照らし、夢で感じたのと同じ、心地の良い香りがした。
「なあ、今日一緒に風呂入ろうぜ」
「へ?」
「夢って、大事なとこばっかり曖昧なんだよなあ。残念残念」
膝を崩した女の腰にしがみつき、長いスカートの裾から手を差し込む。柔らかな太腿に、御手杵はたまらず熱い息を漏らした。こうして直に触れていると、彼女の存在は夢よりもずっと鮮明に感じられる。
「んッ!? ちょ、っ……」
あまねが慌ててスカートを押さえつける。御手杵が見ていた夢がどうやら悪夢ではないらしい、とようやく気づいた顔だ。
「な、なんの夢見てたんですか……!」
女の頬は仄かに赤い。その反応に御手杵は口元を緩め、彼女の膝を枕に目を閉じる。愛おしいまぼろしを、そっと胸の奥にしまった。
「幸せな夢」
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