でもわたしの救い主です

「こら、もうだめ」

 鎖骨の下に吸いついてきた唇を塞き止める。柔い肌を名残惜しげに一舐めし、熱を湛えたままの瞳で御手杵は私を見上げた。

「いやなのか?」
「明日は早いんですから。そろそろ寝ないと」

 正確に言うと、明日ではなく今日の朝。とうに日は変わっている。それには気づいていたのに身体の火照りは収まることを知らず、こんな時間まで熱を交わらせてしまった。

「う、あと一回だけ」
「だーめ」

 それでも御手杵は物足りないようで、顔いっぱいに不満を表している。困ることになるのは自分のほうだろうに。

「あなたは朝に弱いんですから。もう寝ないと寝坊しちゃいますよ」

 明日の朝、御手杵を含めた四振の刀剣が遠征のために本丸を発つ。予定では他の者達が朝食をとる時間には既に門をくぐっているはずだ。
 不服そうに突き出された唇を撫でる。御手杵は私から目を逸らさないまま、言葉を封じる指に舌を這わせた。

「あんたは……」
「はい?」
「……あんたは、その……えっと……」

 御手杵にしては珍しく、何かを口にするのを躊躇っている様子だ。
 湿った指先に絡む吐息がくすぐったい。どうしたの、と頭を撫でる。視線がしばし彷徨い、再び私を覗いた。

「俺がいないの、寂しいと思ったりしないのか?」
「……え」

 予想だにしなかった問いかけに、私は一瞬、ぽかんと固まってしまった。
 
「寂しがってないとでも思うんですか?」
「うん」

 微塵の躊躇もなく頷かれたことに少なからず衝撃を受ける。
 冗談? 戸惑いながら御手杵の様子を窺うが、しゅんと垂れ下がった眉から察するにどうやら本気でそう思っているらしい。

「……寂しいに決まってるじゃないですか」

 今回の遠征は少々長めで、御手杵は明日から二十日ばかり本丸を離れる。毎日顔を見ていた恋人とそんなにも長い時間会うことができないのだ。それに何も思わないほど冷淡なつもりはない。

「本当か?」
「そんなに疑いますか……」

 自分を信じてもらえていない。衝撃と一緒に湧き上がった悲しみが胸に隙間を作る。それでも御手杵が私よりずっと不安そうな顔をしていたから、口にはしないでおいた。
 御手杵の頬に手を添え、唇を重ねる。こんな時にする口づけはずるいだろうか。

「寂しい。明日からあなたに会えないなんて、考えただけで胸が苦しいです」

 まっすぐに目を見つめて言った。それでやっと、想いのいくらかは伝わってくれたみたいだった。

「……ん。俺も寂しい」

 御手杵の腕が私を抱き寄せる。
 時間を惜しむような抱擁だった。言葉もなく、貪るように互いのぬくもりを感じていた。

「……なあ、遠征って行かないとだめか?」

 ぽつりとこぼれた言葉は弱々しい。此度の遠征は元寇防塁の見回りを目的とするものだが、単純に戦でないから彼が渋っているわけではないのだということなら既に知っていた。

「やっぱり嫌だ。あんたと離れたくない……」

 離すまいとする腕に力がこもる。御手杵がくれた言葉に胸が震える。嬉しくて仕方がない。それなのに、私は少しだけ困ってしまって。

「だめですよ。今回は槍を含んだ部隊を遣わせないといけないんです。まだここにはあなたしか、」

 槍はいないし、と続くはずの台詞を、そこまで言ったところで口を噤んだ。こんな言い方をするから誤解されるのか。

「それは……分かってるけど……」

 案の定、落ち込んだ様子が声だけでも伝わってくる。罪悪感に胸を刺された。
 とはいえ、審神者としては仕事をこなしてもらわなければ困るのも事実だ。この遠征も政府からの指令によるものだし、向こうにも既に諾と返している。

「違うの……私も、離れたくない、けど」

 御手杵がいないと寂しい。朝一番に顔を見て起こしてあげるのも、大して意味もない話で笑うのも、キスをするのも、全部ひとりじゃできないことだ。永遠の別れでもないのに会えない日々を思うと胸が苦しくなる。けれども、遠征に行かなくていいなんてこともやっぱり言えない。
 そうしてぐずくず考えているうちに、愛しい体温が剥がれてしまった。

「あ……」

 きっと傷つけてしまった。思わず伏せようとした顔を、頬に添えられた手が上向ける。
 目が合う。真面目な顔にどきりとして、言葉をなくした。

「なあ、俺、遠征頑張るからさ」

 ゆっくりと、言葉を選びながら語りかけているようだ。落ち着いた話し口。けれどもどこか切羽詰まっている感じを受けるのはなぜだろう。

「小判とか札とかたくさん持ってくるから、だから、帰ってきたらあんたのほうから寂しかったって言ってくれよ。そしたら、俺……」

 御手杵は続きを言わないまま、深く息を吐いた。手のひらが離れていく。

「我侭ばっか言ってごめん」
「あ……ううん、私も、ごめんなさい」

 遠征から帰った時、御手杵はいつもただいまと言うのと同時に私を抱きしめてくれていた。思えば、私はそれに安心するばかりで、寂しかったとかそういう気持ちを自分から口にすることはあまりなかった、気がする。

「あの……言う、ね。これからは、寂しいって言う。……不安にさせてごめんね」

 指先を追う。御手杵の手に自分のそれを重ねると、私を見つめる目がふと和らいだ。

「ちゃんと抱きついてこないとだめだからな」

 言いながら、抱きしめてきたのは御手杵のほうだ。

「あなたがしてるみたいに?」
「……そうだよ」

 たぐり寄せられた胸の中でそっと顔を上げてみる。
 ああ、私のことを好きで仕方がないって顔だ。私だけを見ている、私のお気に入りの表情。少し膨れているところにも、愛おしさが増していく。

「ちゃんと、抱きついて言います。……早く帰ってきてね」

 あらかじめ期間が定められている任務だ。早く帰ろうとして帰ってこられるものではない。それは分かっていても、言わずにはいられなかった。
 御手杵が頬を緩める。優しい雨のような口づけが降る。
 そうして次の朝、予想通りの眠たげな顔で彼は発っていった。






 この二十日はたぶん、今まで生きてきた中で一番長い二十日だった。
 最初のうちは、寂しくはあれどなんだかんだ今までと同じように過ごしていけると思っていた。御手杵とはひとつ屋根の下に住んでいるが片時も傍を離れないわけではないし、毎夜一緒に眠っているわけでもない。今までにも遠征で数日顔を合わせなかったこともある。今回も大丈夫だろうと思っていた。
 率直に言って甘かった。甘すぎた。
 余裕ぶった態度は次第に崩れていく。日にちの切り替わらないカレンダーを何度も眺めた。一人きりの布団は凍えそうなくらい冷たかった。皆が作ってくれるご飯が大好きなのに、どうしてか味気なく感じられた。中間報告書の隅に添えられた「会いたい」の文字に、ちょっとだけ、涙が出た。
 でも、もう、あと少しだ。残りの日数が片手の指の数を切った。そうなると、今度は胸がそわそわして浮き足立つのを抑えられなくなった。壊れてしまいそうだ。もしかすると、とっくに壊れているのかも。
 あと、五日。四日。三、二、一……。

「ああ、そろそろじゃないかい?」

 心を見抜いたような言葉に、スプーンを持つ手がぴくりと震える。

「何がです?」

 くるくるとマグカップの中身を掻き回す。有能な近侍の言いたいことは分かっていたけれど、気づかなかった顔をして問いかけた。

「遠征に行っていた部隊が帰ってくるのが」

 正面に腰掛けた歌仙がふんわりと笑う。淹れたてのココアに息を吹きかけ、一口。疲れた頭に糖分を回す。

「彼がいない間、君はずっと浮かない顔をしていたからね」
「……そんなふうに見えました?」
「ああ」

 頬に熱が上る。どのくらいの刀剣達に筒抜けだったのだろう。人のために作られた道具だからか、過ごしてきた長い時間のためなのか、自分自身のそれに鈍感な面はあれど、彼らは尽く他人の心情には聡い。いや、この場合は私が分かりやすかっただけかもしれないけれど。

「でも、あの人は私が全然寂しがってないと思ってるんですよ」

 掲げたカップで口元を隠す。
 今の姿を見たなら、彼も私の心を疑ったりはしないだろうに。けれどもそれは到底無理な話だった。胸を食い破るような寂しさも、御手杵の姿を目にした瞬間たやすく霧散するに違いないのだから。

「贅沢者だね。なんなら、この三週間の君の様子について僕のほうから伝えておこうか」
「やだ、やめてください」
「冗談だよ」

 いやらしいからかい方だ。それでも嫌味なふうでないのは、歌仙の微笑みが花が開くみたいに柔らかいせいか。
 程よい温度になったココアを一口。底に粉が溜まっているのが見えたので、もう一度マグカップの中をくるくるかき混ぜた。

「……あ」

 ばたばたと騒がしい足音が遠くの方から響いてくる。
 思わず歌仙と顔を見合わせた。音の発生源は徐々に私達のいる台所に近づいているようだった。

「せわしないなぁ」

 そう言いながら、彼は慈しむように目を細めた。廊下を走るな、なんてことは言わない。優しい人だ。

「あんなに急いで帰ってこなくていいのに」

 いつもの彼の代わりに言う。その照れ隠しは、「嘘は良くないよ」という穏やか声に窘められた。

「帰ったぜー」

 ほんの少し予想は外れ、一番に台所に入ってきたのは和泉守だった。 長旅から帰還したばかりなのにも関わらず、それを感じさせない元気の良さだ。

「おかえりなさい。お疲れさまです」
「おう」

 彼を労いながらも意識はまだ入口に引きつけられている。自分が恥ずかしい。

「おかえり。他の皆は?」
「ん? あれ、あいつら遅えな。ほら、早く来いよ」

 助け舟がありがたかった。和泉守が廊下を覗き込み呼びかけると、少し間を置いて背丈の大きな男がのそりと姿を現す。跳ねた髪が入口の上枠を掠める。ぐいっと身を屈めて台所に入ってきたのは、ずっと待ち焦がれていた相手だった。

「おかえりなさい」

 やっぱりだ。御手杵の顔を見ただけで寂しさなんか消え去ってしまう。顔は知らないうちに緩んでいて、胸に空いていた穴をきらきらしたあたたかなものが満たしていく。二人きりだったら、きっともう抱きついていた。

「……御手杵?」

 けれど、その喜びに水を差すように御手杵の様子は普段と違っている。目はまっすぐに私を見つめているのだから聞こえていないはずもないのに、ただいまの一言さえくれない。

「どうしたんですか? 疲れてるの……?」

 尋ねてみても、唇は一の字にきゅっと結ばれたまま。もしや怪我をしているのではと身体を確認するが、血の汚れなどは見当たらない。
 どうしたの。どうしよう。困り果てておろおろと和泉守に縋ったところで、しかしあっさりと合点がいってしまった。

「お腹でも空いてるのかい? それなら昼の残りが……」
「いやいや。そういうのじゃねえから大丈夫だって」

 首を傾げる歌仙を引き止める和泉守は、にやにやにやにや、明らかに何かを企んでいるようないやらしい表情。大倶利伽羅と山姥切もいつの間にか追いついていたらしく、二人揃って興味のなさそうな顔をしながらも入口からしっかりこちらを覗き込んでいる。
 ああ、そういうこと。

「御手杵」

 キイ、と椅子が鳴る。立ち上がって傍に寄ると、御手杵の瞳が期待にきらめいたのが分かった。

「寂しかったです」

 嘘偽りない、心からの言葉だ。
 頑なだった唇が僅かに緩む。が、まだ駄目だと耐えられてしまった。

「なんか忘れてないか?」

 勿体ぶった言い方だ。やっと口を聞いてくれたと思ったら。
 何を指しているのかはすぐに分かった。私だって忘れていたつもりはない、けれど、さすがに人前でするのは恥ずかしい。今は許してくれないかと睨むが、御手杵も負けじと私を見つめてくる。
 根負けしたのは私のほうだった。実際のところ最初から勝敗はついていたのかもしれない。だって私も、許されるならそうしたかった。

「……今から見るものは忘れてください」
「おう!」

 一応、四人の見物客に言い含めておく。和泉守は威勢のいい声を上げたが、間違いない。絶対に忘れてくれない顔だった。
 御手杵に向き直る。一つ息を吐き、両手を伸ばした。

「あなたがいなくて、寂しかった」

 背中に回した腕で距離を縮める。御手杵の匂いが胸いっぱいに広がって、とろけそうな心地良さが私を包む。
 御手杵は黙ったまま私に抱きしめられていた。もしかして、正解はこうじやなかった? 不安が胸をよぎるが、やっと戻ってきたぬくもりが愛おしくて控えめに触れるだけだった指先に力がこもる。
 寂しかった。寂しくて、息ができなかった。
 大袈裟と思われるだろうか。でも、本当に、私はもう――。
 目を瞑る。顔を擦りつけた広い胸が震えるのが分かった。

「俺も!」
「わ、っ!?」

 突然の大声に身体が跳ねる。その驚きすら閉じ込めるように、御手杵が私に覆い被さってきた。

「寂しかったああああ」
「え、待っ、んぶ」

 ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、自然と背中が反る。力が強すぎてほとんど押し潰されているみたいだ。

「ちょっと……っあ、くるし、ひ、折れ、折れちゃう、……うう゛、も、こらっ!」

 このままでは壊れてしまう。背中を叩き、足を踏み、割と本気の抵抗をしてやっと離してもらえた。

「あ、悪い……」

 御手杵が背中を丸めてしゅんと縮こまる。それでも全然小さくはないし、落ち込んだ表情にも喜びが隠しきれてない。
 そんなに私に会うのが待ち遠しかったのか。寂しい、という言葉が嬉しかったのか。――どうしよう。それなら仕方ないかな、なんて思ってしまった。
 私も私だなとは思うが、とにもかくにも、これで一件落着だ。終わり。おしまい。全然そういう気分ではないけれど、切り替えて仕事に戻らなければ。

「それじゃあ、遠征の報告を……え?」

 視界が埋め尽くされる。赤い、御手杵のTシャツの色だ。どういうわけかまた抱きしめられている。

「ちょ、もうだめです。満足したでしょう?」
「まだ。全然足りない」
「そんなことより報告を」
「このままでもできるし問題ないだろ?」
「問題しかないです」
「今度は優しくするから、な?」

 そういう問題じゃない。
 腰のあたり押して抵抗を試みる。先ほどのように苦しくはないが、優しいと言う割に力は強くてびくともしない。
 ふと視線を感じた気がして、顔をそっと横に向けた。目が合った大倶利伽羅にフッと鼻で笑われた。
 おそるおそる、さらに視線を右に。山姥切は興味がないのか気を使ってくれているのか、顔を背けてはいる。が、ほんの少しだけ口元が緩んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
 和泉守は良い仕事をしたとでも言いたげなやたら満足そうな表情だし、歌仙はおやおやと微笑みこちらを見守っている。
 遠征中に恋愛相談で盛り上がりでもしたのだろうか。そしていつの間に私と御手杵の関係はそんなに開けっぴろげになったのだろう。昔はもっと、秘密の恋をしていたような記憶があるのだけれど。
 おかしい。本当に、絶対に、おかしいのに。

「あ、そうだ」

 二人きりになった台所で御手杵が声を上げる。
 遠征に出ていた三人は身体を休めるために自室に向かい、歌仙は先に執務室に戻っている。ゆっくり来ていいよ、という気遣いの言葉が非常に申し訳ないし、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

「忘れてた」
「……何がですか?」

 ほんの少し構えつつ、続きを促す。

「ただいま」

 警戒は無意味だった。心底嬉しそうな笑顔が私の心臓を奪っていく。呆気にとられ、目を丸くして御手杵を見つめた。
 身体中が火照っていた。けれども確かに、心もあたたかくなっていて。

「おかえりなさい」

 やっぱり、この人がいてくれないと駄目みたいだ。

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