ああそうかと気づいたら、ぜんぶぜんぶが
※突然の学パロ(幼馴染で同級生)
部屋に駆け込み、いの一番に暖房の電源を入れる。いや、違うか。気分的には一番だったが、よく考えたら最初に押したのはドア横の電気のスイッチだ。
「はー、寒……っ」
「今日、絶対おかしかったよね。いきなり冬になった、って感じ」
口元に押し当てた手に太い息を吐く。小型の暖房器具の前に構える俺の隣で、あまねも同じように手のひらをあっためていた。
「あーほんと、カーディガン着てって正解だったな」
「私は大失敗だった」
あまねが口を尖らせ、熱を発し始めた暖房に手をかざす。
突然気温が下がった今日はちょうど衣替え日で、これから二週間ほどで完全に制服が冬服に入れ替わる。とはいえ初日から気合を入れて変えてくる奴はそう多くはなく、俺もいつもなら当然の如くシャツ一枚で学校へ向かったに違いないのだが、天気予報を見ていた母親が家を出る直前に下ろし立てのカーディガンを渡してくれた。結果、これはもう感謝を唱えるしかない。
一方のあまねは薄いセーラー服と短いスカート。防寒のぼの字もなく、帰り道は自分を抱きしめるようにしてずっとぷるぷる震えていた。
「うう、生き返る……」
「明日はなんか着てこいよ」
「明日も寒いの?」
「や、知らねえけど」
たわいのない話をしながら暖房の前に張りつく。
やがてあまねの血色も良くなり、俺達は『いつも通り』に戻ってくる。
「ほい」
「ん、ありがと」
半ば投げるように渡したのは俺が中学の時に着ていたジャージだ。あまねがスカートの下からだるだるのズボンに足を入れる横で、俺も制服を脱ぎ捨てて部屋着に着替える。
制服が皺になるのを避けるために、あまねはいつも俺の服を借りていた。楽な格好になって、テーブルの上にお菓子を広げ、それからベッドに隣り合って座り、ごろごろとゲームをする。週に二、三度は見られる光景だ。
「あーもう、たぬきのやつ……もったいぶってさー……」
「でも、そうぺらぺら話しそうにない人だもんね。最初から」
カチャカチャとコントローラーを操作しながら、話題に上るのは友人の同田貫正国のことだ。今だけじゃなくて、学校を出た瞬間から話の八割はこいつのことだった。ちなみに残りの二割は、今日は死ぬほど寒いというめっぽう膨らみのない話だ。
「だけど、気になるだろ…………あ゛っ」
「ん! 勝ったー」
画面にでかでかと映し出されるWINの文字と、その下で奇妙に踊るあまねの操作キャラクター。
俺はコントローラーを放り、ベッドの上にばたんと背中から倒れ込んだ。
「クソぅ……これもたぬきのせいだ……」
「何言ってるの」
あまねがくすくす笑い、ペットボトルのキャップを回す。中身が残り僅かだったので、ゲームを再開する前に一階から何か持ってこようと心に留めつつ。
「だってさあ……彼女って……しかももう付き合って三ヶ月とか……聞いてねえぞ……」
たぬきに彼女ができた、とか。
ほんとにほんとに聞いてない。水臭いやつだ。獅子王と一緒になって問い詰めたけど、三ヶ月前に彼女ができたということ以外は結局喋ってくれなかった。
「一緒に遊ぶ時間もなくなっちゃうもんねー……御手杵は寂しがり屋さんだねー」
「違うって! 俺も彼女が欲しいんだよー……」
からかうような口ぶりはあまねにしては珍しいものだ。いいかげん、しつこいなとでも思われているのかもしれない。許してくれ。
身体を起こし、テーブルの上の携帯を掴み、また元の体勢に。流れるような動作でたぬき宛に『ずるいぞ!』と送信する。すぐに既読になった。返事はない。このやろう。
はああ。大きくため息をつく。彼女。彼女かあ。
告白されたことがないわけじゃない。けれど、どれも微妙な感じだった。俺じゃなくて、向こうが。
好きだと言われて戸惑っている間に、「伝えたかっただけだから」と残して逃げていったり。付き合うと答えれば、「そんな優しさはいらない」と突き放されたり。「好きでした」と過去形で始まったり。いや、終わったのか。
どういうことだ。告白ってこういうもんなのか? 女って分からねえ。
「……あ」
「どうしたの?」
漏れ出た声に反応し、くるりとあまねが振り向いた。つやつやした黒い髪。ふわりとした白い頬。俺がもう着られない中学のジャージはあまねにはまだまだ大きくて、指先を完全に隠してしまっていた。
「あんたも、女なんだよなあ」
当たり前のことだ。あまねがついさっきまで身に纏っていたのはセーラー服だし、男よりもずっと華奢で、背も低い。声は高いし、胸もある。紛れもない女の子だ。そんなことは知っていたはずなのに。
返事はなかった。ただ、黒い瞳が少しだけ揺れた。黙ったままあまねは画面のほうに向き直る。
「あまね?」
細いため息のようなものが聞こえた。小さな背中がぐら、と傾く。
「残念」
同じようにぱたんとベッドの上に横たわったあまねが、俺を見て笑う。伏せるように細められた目で、口元だけが弧の形を作っている。なぜだか、心臓がどくりと音を立てた。
「残念、て」
何が残念なのだろう。今まで女扱いされていなかったのが残念、という意味だろうか。ああ、たぶんそうだ。でも、そんなにショックを受けられるとは――。
「もう、こうして二人で遊べなくなっちゃうね」
「……え」
口の中が急速に乾いていく。話の展開が読めない。頭が働かない。
あまねは笑っている。笑っているのに寂しそうに見える。
「な、なんでだよ」
「だって、女が男の人の部屋で二人きりで遊んだりなんてしないでしょ」
当たり前のようにあまねは言った。
そのくらい知っている。いくら昔からの付き合いでも、ここまで近くに居続ける男と女はそう多くはないのだということくらい、俺も知っていた。
「そんなの……今更だろ。ほら、あれだし……幼馴染だし」
「でも、男と女だよ」
「そ、だけど……」
反論の言葉が押し込められる。 焦燥が全身を掻き毟っている。
今になって、それを壊すのか。
「御手杵に彼女ができないのも、そのせいだよ」
あまねはぼんやりと天井を仰いでいる。何もない、真っ白な天井。けれどそこには、俺には見えない何かが映し出されているのかもしれない。
幼馴染。男と女。あまねとの関係を表す時、どちらのカードを先に出すのが正しいのだろう。
今までの自分ならきっと、どちらでもいいと答えたに違いなかった。大して意味のある問題じゃなかったからだ。それで俺とあまねの間の何が変わるというわけでもない。俺は俺で、あまねはあまねで、一緒にいるのに特別な理由なんていらないと思っていた。
それが、あまねが女なのだと気づいただけで。当たり前のことを当たり前に認識しただけで。こんな唐突に、別れを突きつけられなければならないのか。
「彼女、とか……」
まだ見もしない女の姿を思い浮かべた。それは霞み、薄っぺらい色でかろうじて人の形を保っている。
「いいよ、そんなの」
彼女なんて、そんなものだった。たぶん、本気で欲しいとは思っていなかった。作ったとしても、今の自分の生活のどこにもその彼女と過ごす時間などなかっただろう。だから、告白をしてきた女達を追うこともなかった。
酷くゆっくりとした仕種で俺を見た後で、あまねは身体ごと顔を背けてしまう。
「欲しいって、言ってたじゃない」
「でも、いらない」
「……いいの?」
「いい」
言い切る唇に、不思議なくらい迷いはない。
「……それよりも、俺、あんたが……あんたと……」
ベッドの上に、見慣れた黒髪が散らばっている。それを指先で撫ぜながら、俺は隣の空白を想像した。あるべき場所にあるべき人がいない。それがなにより、痛かった。
「あんたと一緒にいたい……」
心臓が騒ぎ立てていた。息が詰まりそうな苦しさがあった。
分かった。分かってしまった。
知らない『彼女』が入る隙間なんて最初からなかったのだ。その場所も時間も、ずっと前から埋められていた。
心は思いのほか柔軟で、突然名前を与えられた感情に戸惑いはしなかった。ただ、膨らみ、あふれたそれが心臓を内側から殴って、弾けそうなくらい叫んでいた。
「あまね」
何度も読んだ名前にいつもと違う響きが灯る。
「あまね、こっち、向いてくれ」
どうしても聞いてほしいことがあった。
あまねは耳を塞いでいるみたいに、背を向けて黙りこくっていた。伸ばした手で振り向かせようとする。
「待って」
ちらつた拒絶の影に指先から凍えた。
「待って、……どうしよう、っ、お願い、待って」
けれども、ほつれた呼吸が頭を狂わせて。しゃくりあげるような声に胸が突かれて。考える前に、小さな肩を引いて、暴いていた。
「あ……」
俺の下で仰向けになるあまねの目が丸くなって、じわりと滲んだ。潤んだ顔がくしゃりと歪む。あふれた涙が頬を流れていく。
泣いている姿を最後に見たのはいつだっただろう。忘れてしまうくらい昔の話だった。
「泣いてる」
「だから待ってって、言ったのに……」
呆然とした視線から逃れようとして、あまねの細い手がその顔を覆い隠す。泣き止ませる方法を探したけれど、取っ掛りも見つけられなかった。
「御手杵のせいだよ」
「ごめん、……俺……」
「御手杵が……」
責めるような言い方をした白い喉が、色づいて、ひくりと震えた。
「どうしよう……やだ、嬉しくて、泣いちゃう」
広がった指の隙間から覗いた目が俺を見つめ、またすぐに閉じられた。涙は止まらない。ぽろぽろぽろぽろ、柔らかな頬を伝い落ちて、その顔を汚していく。
涙は止まってくれない。けれど。けれども。
「っ……」
嬉しいと、そう言ったのか。
ぎゅうっと胸が締めつけられる。熱いものがこみ上げてきて、らしくもなく、吐き出した息が潤んでいた。
「俺、彼女はいらないけど、あまねが欲しい」
「っ、ん……」
「彼女も、あまねなら欲しい」
あまねはまた泣いた。伏せた瞼の下から、澄んだ雫が次々こぼれてくる。泣いてほしくはなかったけれど、泣いてくれるのが嬉しかった。
涙が止まってもゲームの続きはできそうにないし、これからどんなふうに二人の形が変わるのかも分からない。それでも大切な女の子が変わらずそばにいてくれる。幸せだと思った。
とりあえず、落ち着いたら。一歩先を歩いていた友人に送った言葉には、忘れず訂正を入れることにしよう。
※突然の学パロ(幼馴染で同級生)
部屋に駆け込み、いの一番に暖房の電源を入れる。いや、違うか。気分的には一番だったが、よく考えたら最初に押したのはドア横の電気のスイッチだ。
「はー、寒……っ」
「今日、絶対おかしかったよね。いきなり冬になった、って感じ」
口元に押し当てた手に太い息を吐く。小型の暖房器具の前に構える俺の隣で、あまねも同じように手のひらをあっためていた。
「あーほんと、カーディガン着てって正解だったな」
「私は大失敗だった」
あまねが口を尖らせ、熱を発し始めた暖房に手をかざす。
突然気温が下がった今日はちょうど衣替え日で、これから二週間ほどで完全に制服が冬服に入れ替わる。とはいえ初日から気合を入れて変えてくる奴はそう多くはなく、俺もいつもなら当然の如くシャツ一枚で学校へ向かったに違いないのだが、天気予報を見ていた母親が家を出る直前に下ろし立てのカーディガンを渡してくれた。結果、これはもう感謝を唱えるしかない。
一方のあまねは薄いセーラー服と短いスカート。防寒のぼの字もなく、帰り道は自分を抱きしめるようにしてずっとぷるぷる震えていた。
「うう、生き返る……」
「明日はなんか着てこいよ」
「明日も寒いの?」
「や、知らねえけど」
たわいのない話をしながら暖房の前に張りつく。
やがてあまねの血色も良くなり、俺達は『いつも通り』に戻ってくる。
「ほい」
「ん、ありがと」
半ば投げるように渡したのは俺が中学の時に着ていたジャージだ。あまねがスカートの下からだるだるのズボンに足を入れる横で、俺も制服を脱ぎ捨てて部屋着に着替える。
制服が皺になるのを避けるために、あまねはいつも俺の服を借りていた。楽な格好になって、テーブルの上にお菓子を広げ、それからベッドに隣り合って座り、ごろごろとゲームをする。週に二、三度は見られる光景だ。
「あーもう、たぬきのやつ……もったいぶってさー……」
「でも、そうぺらぺら話しそうにない人だもんね。最初から」
カチャカチャとコントローラーを操作しながら、話題に上るのは友人の同田貫正国のことだ。今だけじゃなくて、学校を出た瞬間から話の八割はこいつのことだった。ちなみに残りの二割は、今日は死ぬほど寒いというめっぽう膨らみのない話だ。
「だけど、気になるだろ…………あ゛っ」
「ん! 勝ったー」
画面にでかでかと映し出されるWINの文字と、その下で奇妙に踊るあまねの操作キャラクター。
俺はコントローラーを放り、ベッドの上にばたんと背中から倒れ込んだ。
「クソぅ……これもたぬきのせいだ……」
「何言ってるの」
あまねがくすくす笑い、ペットボトルのキャップを回す。中身が残り僅かだったので、ゲームを再開する前に一階から何か持ってこようと心に留めつつ。
「だってさあ……彼女って……しかももう付き合って三ヶ月とか……聞いてねえぞ……」
たぬきに彼女ができた、とか。
ほんとにほんとに聞いてない。水臭いやつだ。獅子王と一緒になって問い詰めたけど、三ヶ月前に彼女ができたということ以外は結局喋ってくれなかった。
「一緒に遊ぶ時間もなくなっちゃうもんねー……御手杵は寂しがり屋さんだねー」
「違うって! 俺も彼女が欲しいんだよー……」
からかうような口ぶりはあまねにしては珍しいものだ。いいかげん、しつこいなとでも思われているのかもしれない。許してくれ。
身体を起こし、テーブルの上の携帯を掴み、また元の体勢に。流れるような動作でたぬき宛に『ずるいぞ!』と送信する。すぐに既読になった。返事はない。このやろう。
はああ。大きくため息をつく。彼女。彼女かあ。
告白されたことがないわけじゃない。けれど、どれも微妙な感じだった。俺じゃなくて、向こうが。
好きだと言われて戸惑っている間に、「伝えたかっただけだから」と残して逃げていったり。付き合うと答えれば、「そんな優しさはいらない」と突き放されたり。「好きでした」と過去形で始まったり。いや、終わったのか。
どういうことだ。告白ってこういうもんなのか? 女って分からねえ。
「……あ」
「どうしたの?」
漏れ出た声に反応し、くるりとあまねが振り向いた。つやつやした黒い髪。ふわりとした白い頬。俺がもう着られない中学のジャージはあまねにはまだまだ大きくて、指先を完全に隠してしまっていた。
「あんたも、女なんだよなあ」
当たり前のことだ。あまねがついさっきまで身に纏っていたのはセーラー服だし、男よりもずっと華奢で、背も低い。声は高いし、胸もある。紛れもない女の子だ。そんなことは知っていたはずなのに。
返事はなかった。ただ、黒い瞳が少しだけ揺れた。黙ったままあまねは画面のほうに向き直る。
「あまね?」
細いため息のようなものが聞こえた。小さな背中がぐら、と傾く。
「残念」
同じようにぱたんとベッドの上に横たわったあまねが、俺を見て笑う。伏せるように細められた目で、口元だけが弧の形を作っている。なぜだか、心臓がどくりと音を立てた。
「残念、て」
何が残念なのだろう。今まで女扱いされていなかったのが残念、という意味だろうか。ああ、たぶんそうだ。でも、そんなにショックを受けられるとは――。
「もう、こうして二人で遊べなくなっちゃうね」
「……え」
口の中が急速に乾いていく。話の展開が読めない。頭が働かない。
あまねは笑っている。笑っているのに寂しそうに見える。
「な、なんでだよ」
「だって、女が男の人の部屋で二人きりで遊んだりなんてしないでしょ」
当たり前のようにあまねは言った。
そのくらい知っている。いくら昔からの付き合いでも、ここまで近くに居続ける男と女はそう多くはないのだということくらい、俺も知っていた。
「そんなの……今更だろ。ほら、あれだし……幼馴染だし」
「でも、男と女だよ」
「そ、だけど……」
反論の言葉が押し込められる。 焦燥が全身を掻き毟っている。
今になって、それを壊すのか。
「御手杵に彼女ができないのも、そのせいだよ」
あまねはぼんやりと天井を仰いでいる。何もない、真っ白な天井。けれどそこには、俺には見えない何かが映し出されているのかもしれない。
幼馴染。男と女。あまねとの関係を表す時、どちらのカードを先に出すのが正しいのだろう。
今までの自分ならきっと、どちらでもいいと答えたに違いなかった。大して意味のある問題じゃなかったからだ。それで俺とあまねの間の何が変わるというわけでもない。俺は俺で、あまねはあまねで、一緒にいるのに特別な理由なんていらないと思っていた。
それが、あまねが女なのだと気づいただけで。当たり前のことを当たり前に認識しただけで。こんな唐突に、別れを突きつけられなければならないのか。
「彼女、とか……」
まだ見もしない女の姿を思い浮かべた。それは霞み、薄っぺらい色でかろうじて人の形を保っている。
「いいよ、そんなの」
彼女なんて、そんなものだった。たぶん、本気で欲しいとは思っていなかった。作ったとしても、今の自分の生活のどこにもその彼女と過ごす時間などなかっただろう。だから、告白をしてきた女達を追うこともなかった。
酷くゆっくりとした仕種で俺を見た後で、あまねは身体ごと顔を背けてしまう。
「欲しいって、言ってたじゃない」
「でも、いらない」
「……いいの?」
「いい」
言い切る唇に、不思議なくらい迷いはない。
「……それよりも、俺、あんたが……あんたと……」
ベッドの上に、見慣れた黒髪が散らばっている。それを指先で撫ぜながら、俺は隣の空白を想像した。あるべき場所にあるべき人がいない。それがなにより、痛かった。
「あんたと一緒にいたい……」
心臓が騒ぎ立てていた。息が詰まりそうな苦しさがあった。
分かった。分かってしまった。
知らない『彼女』が入る隙間なんて最初からなかったのだ。その場所も時間も、ずっと前から埋められていた。
心は思いのほか柔軟で、突然名前を与えられた感情に戸惑いはしなかった。ただ、膨らみ、あふれたそれが心臓を内側から殴って、弾けそうなくらい叫んでいた。
「あまね」
何度も読んだ名前にいつもと違う響きが灯る。
「あまね、こっち、向いてくれ」
どうしても聞いてほしいことがあった。
あまねは耳を塞いでいるみたいに、背を向けて黙りこくっていた。伸ばした手で振り向かせようとする。
「待って」
ちらつた拒絶の影に指先から凍えた。
「待って、……どうしよう、っ、お願い、待って」
けれども、ほつれた呼吸が頭を狂わせて。しゃくりあげるような声に胸が突かれて。考える前に、小さな肩を引いて、暴いていた。
「あ……」
俺の下で仰向けになるあまねの目が丸くなって、じわりと滲んだ。潤んだ顔がくしゃりと歪む。あふれた涙が頬を流れていく。
泣いている姿を最後に見たのはいつだっただろう。忘れてしまうくらい昔の話だった。
「泣いてる」
「だから待ってって、言ったのに……」
呆然とした視線から逃れようとして、あまねの細い手がその顔を覆い隠す。泣き止ませる方法を探したけれど、取っ掛りも見つけられなかった。
「御手杵のせいだよ」
「ごめん、……俺……」
「御手杵が……」
責めるような言い方をした白い喉が、色づいて、ひくりと震えた。
「どうしよう……やだ、嬉しくて、泣いちゃう」
広がった指の隙間から覗いた目が俺を見つめ、またすぐに閉じられた。涙は止まらない。ぽろぽろぽろぽろ、柔らかな頬を伝い落ちて、その顔を汚していく。
涙は止まってくれない。けれど。けれども。
「っ……」
嬉しいと、そう言ったのか。
ぎゅうっと胸が締めつけられる。熱いものがこみ上げてきて、らしくもなく、吐き出した息が潤んでいた。
「俺、彼女はいらないけど、あまねが欲しい」
「っ、ん……」
「彼女も、あまねなら欲しい」
あまねはまた泣いた。伏せた瞼の下から、澄んだ雫が次々こぼれてくる。泣いてほしくはなかったけれど、泣いてくれるのが嬉しかった。
涙が止まってもゲームの続きはできそうにないし、これからどんなふうに二人の形が変わるのかも分からない。それでも大切な女の子が変わらずそばにいてくれる。幸せだと思った。
とりあえず、落ち着いたら。一歩先を歩いていた友人に送った言葉には、忘れず訂正を入れることにしよう。
back