9
乾いた時計の音と、遠くから響く虫の音が、静かな夜を震わせている。部屋の中でさえ感じ取れる澄んだ空気が心地良い。段々と近づいてくる足元も、その静けさを壊さないようにしているのか普段よりずっと控えめだ。
障子に影が透ける。入るよう促すと長身の槍は慣れた仕種で腰を屈め、高さの足りない入口をくぐる。
「なんか読んでる」
入るやいなや、まっすぐに私の隣に腰を下ろした御手杵が手元を覗き込んできた。
「ねえ、御手杵」
「ん?」
「これね、あと少しで読み終わるんです」
今まで読んでいた本の、残り三十ページほどを指で挟む。長かった物語も終盤。山場は超えたのだけれど、やはり最後まで読まなければ終われない。
「ちょっとだけ、待っててって言ったら怒る?」
文庫本なのでそう時間もかからないだろう。せっかくなので読み切ってしまいたいのだが、恋人が傍にいるのに一人で本の世界に潜るのも申し訳ない。
御手杵が残り少ない紙の束をじっと見つめる。
「ちょっと?」
「ちょっと」
「んー……分かった」
思いのほか、お願いはあっさりと聞き入れられた。寧ろあっさりしすぎていた。御手杵は私の傍を離れて、どういうわけか一メートル半ほどの奇妙な距離を開けて真正面に座ってしまったのだ。
てっきり、いつもみたいに後ろから抱きしめにくるものだと思っていた。私の背中にぴたりとくっついて、お腹のあたりに手を回して、首筋に顔を埋めて――。
「読まないのか?」
「あ……読みます……」
実際そんなことをされたら読書をするどころではない。それは目に見えているのだけれど、こうも離れられるとなんだか寂しい。自分でもわがままだと思ったので、さすがに口を噤む。
いや、とにかく読んでしまおう。せっかく待っていてくれるんだから。読み終えたら思う存分、抱きしめてもらえるし――。
ページをめくる。目的がすり替わっていることには気づいていたけれど、読んでさえしまえば全部同じことだ。
「……ん」
一ページも進まぬうちに、足元におかしな感触。視線を動かすと、体育座りの形に曲げた足の先を御手杵の爪先がつついている。
「御手杵?」
「あんたは読んでていいよ」
軽い口調で言いながら、御手杵は私の足の裏に自身のそれを滑り込ませた。短く切られた爪が土踏まずをなぞってきて、そのくすぐったさに思わず足を引っ込める。
「妨害禁止です」
「妨害じゃないって」
「じゃあなんですか」
「んー……暇つぶし。あんた構ってくれないし」
拗ねた口ぶりとは裏腹に、その顔に浮かぶのは無邪気な笑顔だ。
「足だけでいいからくれよ。読んでる間」
「……じゃあ、くすぐるのはだめ」
「ああ」
そろりと足を差し出す。畳に付くくらいにまで膝を伸ばしきると、私の足の裏に御手杵の足の裏が重ねられた。
「あんたの足、ちっさいなあ」
身長が三十センチ近く違うのだ。足の大きさが違うのも当然で、御手杵の位置からだとたぶん私の足はすっぽり隠れてしまっている。
くいくい、と指を曲げても御手杵は私の爪先には届かない。このくらいぴったりくっつけていればくすぐられることもないのだと気づき、離れないようにぐっと足を押しつける。
安寧は一瞬で崩壊した。
「ひゃっ」
足の裏を突然くすぐられ、ひっくり返った声を上げてしまった。ちょっとは信じていたのに。
「うりうり」
御手杵の足の指は器用に動き、普段まったく人に触られないような敏感な場所を執拗に攻めてくる。
「っ、こら! くすぐるのは禁止って……」
「俺はくすぐってないぜ? あんたが勝手にくすぐったがってるだけだろ」
御手杵は本当にいやらしい笑い方をしている。詭弁にも程があるだろうに。
私は言葉を返さなかった。「できたら本を最後まで読ませてほしいなあ」というささやかな願望は、いつしか「最後まで読まなければ」という義務感に変わっていた。
「おわっ」
攻撃は最大の防御なり。
同じように土踏まずをなぞってやると、油断をしていた御手杵がびくっと足を引っ込めた。
さて――と本に目を落とした瞬間、しっかりと畳につけていた足の裏ではなく、甲の部分をこしょこしょと弄られた。悲鳴を上げて御手杵を睨みつける。にやにや。その言葉を貼りつけたような顔。
来るなら来い。返り討ちにしてやる。
そんな気持ちで足を構える。もう本など見つめてはいなかった。
バタバタと足先が交差する。畳が軋む。その騒がしさは、まるで子供のようで。
ああ、せっかくの秋の夜なのに。
「もう!」
机の上に本を叩きつけるように置き、私は御手杵に飛びついた。
「お、諦めたのか?」
「見ての通りです。っていうか、やっぱり妨害じゃないですか」
諦める、という言葉を用いるということはそういうことなんだろう。じとりと睨みつける。
「ん、妨害しちまった」
喜ぶことを口にした覚えはまったくない。それなのに御手杵は頬を緩ませて、とろけそうな顔で私を抱きしめてくる。
敗北の二文字が頭をよぎった。悔しくなって、ふいと顔を背ける。
「私、怒ってるんですよ」
「怒ってる? なあ、機嫌直してくれよ」
御手杵の唇が私を追う。柔らかなものが触れ合う。
こんな時でさえ口づけは甘いのだから、ああ、本当に、憎らしい。
+++++
9月23日 #さにわんらい
お題:「秋の夜長」
乾いた時計の音と、遠くから響く虫の音が、静かな夜を震わせている。部屋の中でさえ感じ取れる澄んだ空気が心地良い。段々と近づいてくる足元も、その静けさを壊さないようにしているのか普段よりずっと控えめだ。
障子に影が透ける。入るよう促すと長身の槍は慣れた仕種で腰を屈め、高さの足りない入口をくぐる。
「なんか読んでる」
入るやいなや、まっすぐに私の隣に腰を下ろした御手杵が手元を覗き込んできた。
「ねえ、御手杵」
「ん?」
「これね、あと少しで読み終わるんです」
今まで読んでいた本の、残り三十ページほどを指で挟む。長かった物語も終盤。山場は超えたのだけれど、やはり最後まで読まなければ終われない。
「ちょっとだけ、待っててって言ったら怒る?」
文庫本なのでそう時間もかからないだろう。せっかくなので読み切ってしまいたいのだが、恋人が傍にいるのに一人で本の世界に潜るのも申し訳ない。
御手杵が残り少ない紙の束をじっと見つめる。
「ちょっと?」
「ちょっと」
「んー……分かった」
思いのほか、お願いはあっさりと聞き入れられた。寧ろあっさりしすぎていた。御手杵は私の傍を離れて、どういうわけか一メートル半ほどの奇妙な距離を開けて真正面に座ってしまったのだ。
てっきり、いつもみたいに後ろから抱きしめにくるものだと思っていた。私の背中にぴたりとくっついて、お腹のあたりに手を回して、首筋に顔を埋めて――。
「読まないのか?」
「あ……読みます……」
実際そんなことをされたら読書をするどころではない。それは目に見えているのだけれど、こうも離れられるとなんだか寂しい。自分でもわがままだと思ったので、さすがに口を噤む。
いや、とにかく読んでしまおう。せっかく待っていてくれるんだから。読み終えたら思う存分、抱きしめてもらえるし――。
ページをめくる。目的がすり替わっていることには気づいていたけれど、読んでさえしまえば全部同じことだ。
「……ん」
一ページも進まぬうちに、足元におかしな感触。視線を動かすと、体育座りの形に曲げた足の先を御手杵の爪先がつついている。
「御手杵?」
「あんたは読んでていいよ」
軽い口調で言いながら、御手杵は私の足の裏に自身のそれを滑り込ませた。短く切られた爪が土踏まずをなぞってきて、そのくすぐったさに思わず足を引っ込める。
「妨害禁止です」
「妨害じゃないって」
「じゃあなんですか」
「んー……暇つぶし。あんた構ってくれないし」
拗ねた口ぶりとは裏腹に、その顔に浮かぶのは無邪気な笑顔だ。
「足だけでいいからくれよ。読んでる間」
「……じゃあ、くすぐるのはだめ」
「ああ」
そろりと足を差し出す。畳に付くくらいにまで膝を伸ばしきると、私の足の裏に御手杵の足の裏が重ねられた。
「あんたの足、ちっさいなあ」
身長が三十センチ近く違うのだ。足の大きさが違うのも当然で、御手杵の位置からだとたぶん私の足はすっぽり隠れてしまっている。
くいくい、と指を曲げても御手杵は私の爪先には届かない。このくらいぴったりくっつけていればくすぐられることもないのだと気づき、離れないようにぐっと足を押しつける。
安寧は一瞬で崩壊した。
「ひゃっ」
足の裏を突然くすぐられ、ひっくり返った声を上げてしまった。ちょっとは信じていたのに。
「うりうり」
御手杵の足の指は器用に動き、普段まったく人に触られないような敏感な場所を執拗に攻めてくる。
「っ、こら! くすぐるのは禁止って……」
「俺はくすぐってないぜ? あんたが勝手にくすぐったがってるだけだろ」
御手杵は本当にいやらしい笑い方をしている。詭弁にも程があるだろうに。
私は言葉を返さなかった。「できたら本を最後まで読ませてほしいなあ」というささやかな願望は、いつしか「最後まで読まなければ」という義務感に変わっていた。
「おわっ」
攻撃は最大の防御なり。
同じように土踏まずをなぞってやると、油断をしていた御手杵がびくっと足を引っ込めた。
さて――と本に目を落とした瞬間、しっかりと畳につけていた足の裏ではなく、甲の部分をこしょこしょと弄られた。悲鳴を上げて御手杵を睨みつける。にやにや。その言葉を貼りつけたような顔。
来るなら来い。返り討ちにしてやる。
そんな気持ちで足を構える。もう本など見つめてはいなかった。
バタバタと足先が交差する。畳が軋む。その騒がしさは、まるで子供のようで。
ああ、せっかくの秋の夜なのに。
「もう!」
机の上に本を叩きつけるように置き、私は御手杵に飛びついた。
「お、諦めたのか?」
「見ての通りです。っていうか、やっぱり妨害じゃないですか」
諦める、という言葉を用いるということはそういうことなんだろう。じとりと睨みつける。
「ん、妨害しちまった」
喜ぶことを口にした覚えはまったくない。それなのに御手杵は頬を緩ませて、とろけそうな顔で私を抱きしめてくる。
敗北の二文字が頭をよぎった。悔しくなって、ふいと顔を背ける。
「私、怒ってるんですよ」
「怒ってる? なあ、機嫌直してくれよ」
御手杵の唇が私を追う。柔らかなものが触れ合う。
こんな時でさえ口づけは甘いのだから、ああ、本当に、憎らしい。
+++++
9月23日 #さにわんらい
お題:「秋の夜長」
back