嫌がらせの至近距離

 こてん、と腕に柔らかな重みがかかる。
 自分の左側にいるのは審神者である女だけだ。御手杵はどきりとしながらそちらに目を向けた。

「眠ってしまわれたようだな」

 斜向かいの蜻蛉切が優しい声で言う。槍の二人に宛てがわれた部屋で唐突に始まった晩酌も、これで終いのようだった。

「ああ……じゃあ、俺、部屋まで運ぶよ」

 女の緩やかに流れる黒髪や、薄らと赤く染まった頬を見つめる。
 三人での晩酌は、大部屋で行われる酒宴とは趣向が違う。さすがに御手杵も調子づいて飲むようなことはなく、旨い酒を片手に会話を楽しむだけだ。尤も、それでもこの女には十分だったらしい。すう、と小さな寝息が耳に届く。

「いや、ここは自分が送り届けよう。御手杵は遠征から戻ったばかりだからな。先に風呂に入って、ゆっくり休むといい」
「え……」

 御手杵が言葉を発する間もなく立ち上がった蜻蛉切は女の傍に跪いて、その背と膝の裏に逞しい腕を差し入れた。長めのスカートと羽織が一緒になってふわりと揺れる。大きめの体躯と華奢な体が合わさったその絵がなんだか様になっている気がして、御手杵は暫しの間ぼんやりと見つめていた。

「……? どうかしたか?」
「あ、いや……なんでもない」

 当たり前のように自分で部屋まで連れて行くつもりでいたが、別にそうしなければならない理由はない。蜻蛉切の気遣いを拒んでまでその提案を蹴るのは憚られたし、余りに強く主張するのもおかしい気がした。御手杵は押し黙ったが、蜻蛉切と彼に横抱きにされた女の姿を見ていると、心に薄暗い靄がかかったような、そんな鬱屈とした気持ちに襲われる。

「じゃあ、よろしくな。風呂行ってくるよ」

 目を背けるようにして着替えを手に取る。蜻蛉切は器用に障子を開けて部屋を出て行った。



 一体、どういうことなのだろう。風呂場で汗を流している間も、髪を乾かしている時も、蜻蛉切と女の姿が頭にこびりついて離れなかった。蜻蛉切を自分に置き換えてはその無意味さに頭を振り、別の事柄について考えようとする。だが、その試みもほとんど意味をなさなかった。

 気がつくと、御手杵の足は自分の寝室とは別の場所へと向かっていた。進む先に何があるのかは知っている。主の部屋だ。
 何をしようとも考えてはいなかった。女の様子を確認すると言ったって、蜻蛉切は良からぬことをするような男ではない。間違いなど起こりえない。そもそも、ここにいる男は全て本質的には武器なのだから、そういったことを考えること自体がおかしい。
 言い訳を並べ連ねながら、僅かに障子の前で躊躇った。この薄い仕切りの向こうで女が眠っている。本当はこんなことをしてはいけない。夜半に女の部屋へ男が訪れるその意味を、曖昧な部分はあれど御手杵も知っていた。

 だが、やがて障子は静かに引かれる。女を起こさぬようにと、御手杵はできる限り音を抑えながら傍に膝をついた。
 ここまで来ても自分が何をしたいのかは分からなかった。外からの明かりに照らされ、女の白い肌が朧に浮かぶ。眠っているにも関わらず整った顔立ちはそのまま美しい。だが、いつもより力の抜けた眉や丸い瞼の膨らみ、影を落とす睫毛や緩く閉じられた唇が、御手杵の目を引きつけて離さない。触ってみたいとも思う。けれど、そんなことをして目覚めでもしたら、一体どんな厭忌の感情を向けられることか。既に十分、言い訳に難い状況にいるというのに。
 もう、戻ろう。手を強く握り、御手杵はそう思う。安らかな寝顔をいくら見ていても胸のしこりが取れる気はしなかった。

 立ち上がろうとして、畳が少しだけ軋む。それが原因だったのかは分からないが、女の身体がほんの少し動いた。まずい。そう直感する。けれども何一つ対策を取れぬうちに、閉ざされていた瞼がゆっくりと持ち上げられた。

「……御手杵?」
「あ……」

 生きた心地がしない。どうにかして言い逃れられないかと必死に口実を探す。
 重い瞼に抵抗しながら、女はとろんとした目で御手杵を見上げた。

「……私、いつ寝たんでしょう」

 女はくるりと顔だけで辺りを見回した。壁に掛けられた時計に目を留めるが、針は暗闇に沈んでしまっており、よく読み取れないようだった。

「えっ、と……十一時かそこらかな」

 なんとか平静さを取り繕いながら答える。女の反応は御手杵の予想とは違っていた。何故ここにいるのかという、そんな追求を想定していた。
 女はそうですか、と返事をして体を起こした。ぼんやりとした目が段々と焦点を定め、男の姿を捉える。

「あの……運んでくれたんですよね。ありがとうございます」
「あ、いや、俺じゃないんだ。蜻蛉切が……」

 言ってから、御手杵はこの状況を切り抜ける唯一の名分を失ったことに気づいた。ならば、問われる前に逃げるまでだ。三十センチほど、じりじりと後退する。

「……そうなんだ」

 その動きが止まったのは、女の声に含まれているのが疑念ではなく、落胆や不満の類であるように感じられたからだ。
 何を不満に思うことがあるのだろう。蜻蛉切に連れてきてもらったことだろうか。だったら、それが自分ならば不満には思わなかったのだろうか。

「なんだ、俺が良かったのか? ……なんつって」

 冗談めかして言う。これで話を逸らせるのなら上々だし、もし肯定されたなら――。

「馬鹿言わないでください」

 だが、返ってきたのはそんな辛辣な言葉だ。女が普段から誰に対しても穏やかな対応をしているだけに、その厳しさに少なからず衝撃を受ける。同時に面白くない気分にもなった。何も、そんな言い方をしなくてもいいじゃないか。

「なんでだよ」

 むっとなって言い返す。一瞬の躊躇いの後、

「……あなたに重いって思われるのなんて、絶対に嫌です」

 女がそっぽを向いた。だがその事情は、男にとってはまったくもってどうでもいい内容だ。

「そのくらいで」
「そのくらいじゃないですよ、最重要事項です」
「重そうには見えねえけどなあ」
「重いですって」
「重くないって」
「いえ、だから…………何の言い合いですか、これ」

 不毛な口論の最中、急に冷静になる女とは反対に御手杵は意地になってしまう。

「分かった、俺が確かめてやるよ」

 何を確かめるのだと、女が尋ねる前に布団をべりっと引き剥がした。これで衣服が乱れていようものなら大惨事だったのだろうが、女は寝相が良い上に、そもそも和服ではない。ほとんど要らぬ心配であろう。だが、それとこれとは話が別だ。

「え、ちょ、何してるんですか……ひゃあっ」

 突然覆いを剥ぎ取られて動揺する女を気にも留めず、御手杵は蜻蛉切のやっていたように女を抱える。それから滞ることなく、すくっと立ち上がった。

「ちゃんと捕まってろよ」

 女の手がおずおずと御手杵の首の後ろに回る。できるものなら抵抗したかったのだろうが、いつもより高い目線に怯えているのか思っていたよりも大人しい。そわそわと、落ち着かない様子で丸い目が動く。

「重く、ありませんか……?」
「え? 全然。俺、これでも槍を片手で持てるくらいには力あるんだぜ」
「ああ……そうですね、あれすごく重いですもんね……あなたが力のある人で良かったですよ……」

 自慢げに語る御手杵とは対照的に、女はげんなりとした力ない声で応えた。それから、下ろしてください、と小さな声で懇願する。御手杵はそれを聞かなかったことにした。

 さて、これからどうしたものか。
 抱き上げたのは良いが、移動を目的としてそうしたわけではないのだ。別に行く場所などない。明かりもない部屋で御手杵は女を抱きかかえたまま立ち尽くした。

「……」

 そうなると、意識は否応なしに女に集中する。筋肉の少ない身体は男ものとは違って、驚くほど柔らかい。いつもの羽織もなく、真白いワンピースだけで身を包んでいるせいもあるのだろう。薄い布に覆われた太腿の線は明確に浮かび上がり、緩んだ襟からはたわわな乳房が覗く。蜻蛉切もこの絵を見たのだろうか。そう思うと少しだけ複雑な気持ちになる。

「……なんですか」

 御手杵の視線に気づいたのか、それとも沈黙が気になったのか、女は訝しげな声を上げる。

「いや……柔らかいなって」
「……っなに触ってるんですか、馬鹿!」

 はぐらかそうともしない御手杵に女はまた語彙の乏しい謗りを投げつけるが、先ほどとは異なり怒りは湧いてこなかった。不思議なことに、きっ、と睨んでくる顔さえ愛らしい。

「下ろしてください」
「えー」
「今すぐ下ろして」

 はっきりとした拒絶が示される。それでも、まだ離したくないと思ってしまう。

「嫌だって言ったら?」
「主命です」
「……そんなに嫌か?」

 粘るものの、主命という語を出されては退かないわけにはいかなかった。戦に関わる事柄以外で女がその立場を誇示することはなかったが、それでも主は主だったし、刀剣は彼女の所有物だ。
 項垂れる御手杵を見て女は言葉に詰まった様子だった。唇をもごもごと動かしながら言葉を探し、それから顔を御手杵に押し付けて隠そうとする。

「恥ずかしいです。……嫌じゃ、ないですけど」

 首元に女の息が掛かる。
 心臓が止まるかと思った。何か良い返しをしようと思うが、上手い言葉が見つからない。代わりに女を抱く腕に力を込め、ぎゅっと自分の胸へ寄せる。

「あっ、やっぱり嫌です、嫌」
「嫌じゃないって言った」

 女は足をばたばたと動かすが、それも自分が落とされない程度の抵抗だ。大した効果はない。

「っ……嫌じゃないにしても、近すぎです……」

 ほんのりと赤い顔で御手杵を見上げながら、女が口を尖らせた。近いと言われてみれば、なるほど、近いのかもしれない。女の目に映る自分を見ながら納得する。記憶を探るが、今までこれほど近くで主である女を見たことなどない。長い睫毛の生え際まで仔細に見えたり、吐息が肌に触れたりする、こんな距離など知らない。
 近い。近い。信じられないくらい、近い。

「御手杵?」

 急に心臓がばくばくと大きな音を立て始める。わけが分からない。自分が何故こんな真似をしているのか、前後関係は分かるのに理解が及ばない。どうして今更、こんなに緊張するのかも。

「……わ、悪い」

 今までの問答が嘘のように、御手杵は迷いなく女を床に下ろした。

「あ、ありがとうございます」

 感謝する必要など微塵もないというのに、女は何故か礼を述べる。元通りに布団の上に座る女と、腕一本分の距離を挟んで向かい合う。急に様子の変わった男を不安げな瞳が見つめた。

「どうしたんですか」
「いや……俺、何してるんだろう、って」

 女の身体の、柔らかな感触がまざまざと思い出される。広げた手で顔を隠した。頬がやけに熱い。

「御手杵が照れている……」

 女は目をぱちくりとさせ、新しい玩具を与えられた子供のように微笑んだ。

「照れてない」
「嘘。真っ赤ですよ」
「暗くて分かんねえだろ」
「そのくらいは見えます」

 黙り込む。何を言ってもどつぼにはまるだけのような気がした。
 女はおかしそうに笑っていたが、次第にその表情がへにゃりと崩れていく。

「もう、なんなんですか、自分からしたくせに……照れたいのは私の方なのに」

 女の顔が、自分に負けず劣らず赤いことに気づく。生唾を飲み込む。それを見ていると堪らない気持ちになった。

「なあ……もう一回、してもいいか?」

 舌の根の乾かぬうちにそんな言葉が口から飛び出す。

「な、さっきと言ってること違うじゃないですか。だめです!」

 ぴしゃりと跳ね除けられた。その反応も当然だろう。駄目で元々の頼みだ。
 女は拗ねるようにして抱えた膝に顔を寄せる。

「……だいたい、私なんて持ち上げたって楽しくないでしょう」
「楽しいっていうか」
「なんです?」

 ちらりと、横目に女が見つめてくる。女は何かを期待しているようにも見える。

「あんたに触りたいだけ」

 だが、何を求めているのかは御手杵には分からなかった。風情もへったくれもない、そんな直接的な言葉が口から出てくる。

「……っ」
「あ、いや、違っ…………あー……」

 女が顔を伏せたのを見て、自分がとんでもない発言をしたことに気づくが、それも後の祭りだ。弁解の言葉もない。居心地の悪い沈黙に支配される。この場から逃げ出したい。いっそ、本当に逃げてしまおうか。
 そんなことを考えた時、女が徐に面を上げた。

「あのですね」

 熱っぽい瞳に釘づけになる。女は前方に腕をつき、迫るような体勢で御手杵の傍に寄った。

「私は女ですから、誰彼構わず身体を触らせるようなことはできませんよ」

 そう言いながら、女は御手杵に自分の身体を預けた。すとん、と胸の間に小さな身体が収まり、一瞬、頭が真っ白になる。今しがた、誰彼構わず触らせはしないと言ったのではなかったか。

「言ってることとやってることが……」
「……察してください」
「察しろったって」

 心臓の鼓動が煩い。間違いなく、その音は女にも伝わっているだろう。
 御手杵は所在なく漂っていた腕を女の背に回した。ぎゅ、と力を込めてみる。女は抵抗しなかった。恐らくは、これが正解なのだと思う。

 人の肉体を得てからもう随分と経つ。それなのに、今になって初めて人の温度を知ったような気がした。触れ合った熱が肌に染み込んでいく。女とは、こんなにあたたかいものなのか。

「あったかい……」

 女が蕩けたような声で言った。心を読まれたような感覚を覚え、御手杵の胸はどきりと鳴る。腕の中の女は安心しきった様子で御手杵にしなだれていた。そんなに気を抜いていいのかと、戒めたい気持ちにもなる。
 どれくらいそうしていただろう。未だに心臓は鳴り止まない。寿命が一気に縮みそうだった。こんなことで死んだら武器の名折れだ。

「あんた、眠いんじゃないのか?」
「……目、覚めちゃって、眠れません」
「そ、そっか……」

 どうやって離れたらいいのかが分からない。理由を探すも否定されてしまえば意味がなかった。嫌なわけではないのだ。決して、そういうわけではない。けれども、これ以上触れ合っていたら、どうにかなってしまいそうだった。
 微かな酒の匂いに混じって、甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。頭がくらりと揺れる。

「ちょ、そろそろ……」

 腕の中で女がもぞもぞと動き、御手杵を見上げた。その近さに驚いて、突き放すように女の両肩をぐい、と押す。女のきょとんとした、無垢な表情。もしかすると、自分ほどには触れ合うことを意識していないのではないか。

「心臓、もたねえから……」

 少しだけ悔しい気持ちになりながら顔を逸らす。女がころころと笑った。

「なんだよ」
「いえ……あなたのそういうところ、かわいいなって思って」

 女が火照った頬を持ち上げて無邪気に微笑む。可愛いのお前の方だと言いたい。だが、そんな言葉を口に出来るはずもなく、唇を軽く噛んで黙り込む。
 だが――正直に伝えてみたら、どうなるのだろう。それはちょっとした好奇心だ。女の反応を予想する。驚くだろうか。馬鹿ね、と言って流すだろうか。それとも、嬉しそうに笑うだろうか。いずれにせよ、決して悪いものではない気がして、御手杵は軽く息を吸った。

「あんたの方が……可愛い、よ」

 その口説き文句は格好のつかないものだった。どこぞの誰かのように滑るようには出てこない。声は掠れてるし、言葉は淀むし、不慣れなのが丸分かりだ。

「え……?」

 それでも、女には効果覿面だったらしい。零れそうなくらい見開かれた目の中で、深い色の瞳が驚きに揺れた。唇が変なふうに歪むが、結局何も言えないまま閉ざされる。頬は見て分かるくらいにかあっと赤くなって、それを隠そうとしてか両手が顔の前に掲げられた。目が伏せられる。
 驚きや困惑や、喜びのような感情が複雑に入り混じっている。想像以上の反応に、御手杵の身体まで余計に熱くなってしまう。戯言だと、軽く流してくれた方がましだった。女の肩を支えた状態で、たった数十センチの距離を詰めることも離すこともできないでいる。

「……私も、心臓、もちません」

 やがて、女は目を逸らしたまま唇を開いた。眉が困ったように垂れ下がっている。

「なので、今日はここまでにしましょう。それがいいです」
「ああ、そうだな、今日はここまでで……」

 提案に乗る。丸みを帯びた肩から御手杵の手が離れ、それぞれ少しだけ後ずさる。
 それにしても、今日は、とは一体どういう意味なのだろう。その表現がおかしいことは知っていたが、互いに気づかなかった振りをした。
 帰り際、女は消え入りそうな声でおやすみなさい、と囁いた。御手杵がおやすみ、と返し、また明日、と付け加える。はい、と女は小さく頷いた。襖を閉める。結局、二人は最後まで目を合わせることができなかった。


 自分の部屋に戻る。蜻蛉切はまだ起きていた。どこに行っていたのかと問われ、曖昧に誤魔化す。もう寝るよ、と夢現に言い、彼が敷いておいてくれた布団に潜り込んだ。部屋の明かりが落とされる。
 瞼の裏に女の姿が浮かんだ。彼女ははっきりと己の心を口にはしなかったし、御手杵も同じだ。だが、近いうちに何かが変わるような、そんな予感めいたものを感じる。それが待ち遠しい一方で、同時に少しだけ怖くもあった。
 けれども、早く朝になればいいとも思う。自分に微笑みかける顔が見たい。自分の名を呼ぶ柔らかな声を聴きたい。別れたばかりなのに、もう会いたくて堪らない。明日に焦がれながら、御手杵は女を想った。

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