徒労感があなたの声で、低く囁きかけてくる
「御手杵って、二人いるとうるさいんだね」
小松菜のおひたしを摘みながら染み染みと呟いたのは大和守だ。隣では加州が白米を口に運びながら頷いている。
「二人いると」とはなんて奇妙な副詞節だろう。打刀二人の真向かいで女は眉を寄せた。だが困ったことに、現在この本丸には御手杵が二人も存在しているのである。
「なあ」
「なんだよ」
「あんた、今なんで漬物食べたんだ」
「食べたかったからだけど?」
「俺の真似しただろ」
「真似したのはそっちだろ」
左の御手杵と右の御手杵はついに食べる順番にまでケチを付け始めてしまった。子供か。
元は同じ人間――いや、槍なのだから食事順くらい被って当然だとは思うのだが、正論を言ったところで白熱した二人には届かないだろう。
「せめて私を間に挟むのはやめてほしいです」
「意味ないと思うよ。どうせ、どっちが主の隣に座るかで喧嘩する」
その様が容易に想像され、女は大きくため息をついた。
「あ。……あんたのせいだぞ」
「なんで俺のせいにされるんだ。あんたのせいだろ」
女のげんなりした様子にようやく二人の御手杵は気付いたらしい。だが、どちらのせいかと問われれば間違いなく両方のせいだ。
起きた瞬間から耳元で続いている騒ぎのせいで、正直食欲もあまりない。まだ朝なのが信じられないくらい疲れている。だが食事当番が作ってくれた朝食をそんな理由で残すわけにもいかず、億劫な手つきではあったがどうにか食べ終えた。
「とりあえず赤いほうは予定通りに畑当番をお願いします。緑のほうは……今日は私に付いていてください」
「よし!」
「うええ……」
中身は全く同じように思われるので区別が必要かどうかは微妙なところだが、二人の手首にはそれぞれ色の違う紐が巻かれている。反応は両極端だ。
「あ、じゃあ俺は休み?」
「急で申し訳ありませんが」
「いいよ。そもそも、御手杵が二人になったのが悪いんだし」
元々近侍の予定だった加州が快く了承してくれて助かった。彼なら突然の非番も有効に楽しんでくれるだろう。
「待った。近侍のほうを俺がやる」
畑当番に任ぜられた赤い御手杵が意義を唱えてきたのは想定の範囲内だ。だが、これ以上こんな騒ぎに付き合う気はない。個人的な事情もあるにはあるのだが、急遽近侍を変更した一番の理由はこの二人を引き剥がしておきたかったからだ。女は唇をきゅっと引き締め、厳しい顔を作る。
「言う通りにしないと」
「しないと?」
「嫌いになります」
ピシッ、と赤いほうの御手杵が固まる。緑のほうもやはり他人事ではないらしく同じように目を見開いた。
嫌いになる、なんて言葉を口にしたのは初めてかもしれない。女だって言いたくはないが、今は自分の心の平穏が一番だ。盆を持ち、足早にテーブルを去る。
「あんた、ちゃんと畑仕事しろよ。絶対だぞ。本当に、ちゃんとしろよ!」
「う゛……分かったよ。はあ……」
赤いほうがかわいそうかもしれない。背後のやり取りに少しだけ胸が痛んだが、それでも振り返ることはなく女は自室へと向かった。
御手杵がいつ二人に分裂したのか、はっきりとした時間は分かっていない。目覚めた時には何故かこんなことになっていた。
なんだか、今日はやけに暑いなとは思ったのだ。妙に重いし、暑苦しいと。それで目を開けてみれば右にも左にも御手杵がいて、その両方から抱きしめられていた。そりゃあ暑いわけだ、と一旦納得したその次の瞬間の女の驚き様に関しては、まあわざわざ語る必要もないだろう。
それにしても、今日は出陣の要請がなくて良かった。本当に良かった。
「あまね」
障子の向こうの人影を見る。慣れ親しんだ声と形。執務室に入るように促し、まず一番に手首の紐の色を確認する。緑。近侍として呼び出したほうだ。
「御手杵」
名前を呼び、ちょいちょい、と手招く。言われるがまま傍に寄った男に、女は持っていた手帳を放り投げて抱きついた。
「めんどくさい」
軽く施した化粧が落ちるのも気にせず、厚い胸板にぐりぐりと頬を摺り寄せる。
「なんで自分自身と言い争うんですか。ほんっとう、めんどくさい! 朝からなんなんですか。漬物をいつ食べるかなんて本当どうでもいいです。ご飯くらい静かに食べさせてください」
ぎゅうっとしがみつきながら言葉を投げつけた。御手杵が戸惑っているのが伝わってくる。おずおずと背中側に回された腕が女を抱きしめ、頭を撫でてきた。
「あー……えっと、ごめんな?」
「……その原因に抱きついて慰めてもらってるのもわけが分からないし」
口を尖らせ、御手杵の胸に頭を押し付ける。わけは分からないが、こんなふうに慰めてもらいたい相手は一人しかいない。いや、今は二人になっているけれども。
目を瞑り、優しい手の感触に身体を任せる。少しだけ気分が落ち着いた。
「本当に、どうしてですか? あなた、そんなふうにヤキモチを焼くタイプじゃないでしょう。ほら、前だって、そんないかにも嫉妬してます、みたいな行動はしてなかったのに」
半年以上前のことだが、女が同業の男性から想いを寄せられたことがあった。こういう言い方をしてはあれなのだが正直かなりしつこく、しかし諸々の事情により邪険にすることもできず、彼が諦めるまで長々と付き合わされることになった。
その時でさえ、御手杵が今のように対抗意識を露わにして嫉妬する姿を見た覚えはない。
「だってさ……あんた、別にあいつのことは好きにはなんないだろ」
御手杵は唸りながら考え込んでいたが、やがてぽつりと話しだした。
「分かりませんよ?」
「え、なるのか?」
「……まあ、ならないと思いますけど」
好みか好みでないかで言えば確実に好みではなかったし、そもそもその時点で御手杵とこういう関係になっていたので他の男性を好きになるなど考えもしなかった。けれども、御手杵の方から当たり前のように断言されるとなぜだか認めるのが悔しくなってしまう。
「でも、あいつは俺だろ」
今度は赤いほうの御手杵を指しているのだろう。
二人の御手杵。まだしっかりと確認したわけではないが、姿も記憶も、おそらく無自覚の癖なんかも、二人は全く同じように見える。
「あなたですね」
「だから、あんたはあいつのこと好きになるだろ」
「ん……? そう、ですね」
好きになるどころか、とっくの昔から好きなのでその表現は適切ではない気がするが、とりあえず頷いておいた。返事を聞き、御手杵は重いため息を吐く。
「イヤだ」
「イヤって言われても」
どちらも同じ御手杵だ。その二人を比べてこっちの方が好きだ、こっちはそうでもない、などと評することはどう頑張ってもできない。
「でも、赤いほうの御手杵が私に嫌われるのもイヤなんでしょう?」
「……それもイヤだ」
「……わがままだねえ」
「う」
御手杵は言葉を詰まらせて、それでも尚「イヤだ」と繰り返しながら女を強く抱きしめてくる。
本当に、大きな子供みたいだ。これも一人なら可愛いのだが、残念ながら実際には二人もいて、しかも互いに争っている。困ったものだ。
「喧嘩はだめですよ。どっちも私の好きな御手杵だから、比べるのも、どちらかだけと一緒にいるのも無理です」
「……でも」
女は顔を上げ、まだ物言いたげな御手杵の頬に両手を添えた。薄い頬の肉を親指と人差し指で摘み軽く左右に引っ張ってみると、不満そうな顔が不格好に歪む。それがなんだか面白くて女の口元は緩んだ。
「さ、もう仕事をしないと。ね、御手杵」
彼は納得したいとは思っているらしかった。それ以上に不平を漏らすことはなく、しかし複雑な面持ちのまま黙って女を見つめている。女の言葉を飲み込もうとしながら唇を開いては閉じ、だが、やがて諦めたような声色で、分かったと一言、御手杵は言った。
朝食時に比べれば、昼食は遥かに穏やかだった。朝のうちに緑のほうを窘めておいたのが功を奏したのか、赤色のほうから突っかかってくることはあったが、緑のほうは一貫して受け流すことに決めたらしい。
それが崩れたのは昼食を済ませた後のことだ。
「あまね」
「なんですか」
ちょうど食事を終えたところで右側の御手杵が話しかけてくる。こちらは赤色の御手杵だ。
ぐっと顔が近づく。宝石みたいにきらきら光る瞳が女の視線を奪った。
「俺、畑仕事頑張った」
「え、ええ、お疲れさまです」
気圧されながら労う。
御手杵は気を良くしたのか、口の端を上げてにんまりと笑った。
「だから、午後は俺が近侍でいいと思う」
「……ああ、それもいいですね」
「はあ!?」
あっさりと頷いた女に対し、声を荒げたのは緑のほうの御手杵だ。
「御手杵」
「だって……畑仕事くらい俺だってするし」
「じゃあすればいいだろ、畑仕事」
「けど今は俺が近侍だから!」
「それだと不平等だろ!」
はあ、と大仰にため息をついてみせる。争っていた声が止まった。
「午後の近侍は赤いほうの御手杵にします」
「よし!」
赤色のほうは無邪気に喜んでいる。
くるりと振り向けば反対側にはふてくされた緑のほうの御手杵。仕方のない人だと口元を緩め、その頭に手を伸ばした。跳ねた髪をゆっくりと撫でる。
「ちゃんと後から構ってあげますから」
「本当か?」
「本当です」
さっきと逆だ。そしてこんなふうに撫でていると、またもう一人の御手杵が拗ねてしまう。振り向いてみると案の定、むすっとした同じ顔があった。女は困ったように笑いながらそちらの御手杵にも手を伸ばす。
――ああ、なんて状況だ。
「お待たせしました」
午後の最初の予定は万屋での買い出しだ。部屋で軽く身嗜みを整え、御手杵と玄関で落ち合う。
「全然待ってないぜ」
「そうですか?」
「ん。今来たとこ」
二、三言、そんな言葉を交わす。御手杵は柔らかく笑っている。
一人だったらいつも通りなのに、と、そんなことを考えながらじっと御手杵を見つめた。まっすぐな視線に気付いた御手杵が首を傾げる。蒸し返すのも気が引けたので女は首を横に振り、冗談めかして微笑んだ。
「なんだか、デートみたいですね」
「え?」
御手杵が目を丸くする。
だって、そうじゃないか。『待った?』『ううん、今来たところ』なんていうのはデートの待ち合わせの定番だ。
「デート……デートかあ」
「まあ、することは資源の補給だけなんですけどね」
行きましょう、と囁いて歩き出す。御手杵はすぐに隣に追いついた。
本丸の転移陣は万屋に直通しているため、用事は三十分も掛からず終わった。大量の物資をまさか手で運ぶというわけにもいかず、本丸に転送してもらうよう手配する。さあ帰ろうか、というところで、御手杵が女を引き止めた。
「ちょっと、寄り道しないか」
「……仕事中ですよ?」
何を馬鹿なことを。歩きだそうとした女の手首が握られる。
「ちょっとだけだから! ちょっとだけ……な?」
「もう一人のほうに知られちゃったらまた喧嘩になるでしょう」
「あんたが黙っててくれればバレないって!」
「もう……」
もしかして、さっきのやり取りを『デート』のようだと言ったせいだろうか。御手杵はやけに必死な表情で、視線に負けそうになりながら女は眉を寄せた。
だが、確かに御手杵と出掛けるのは久しぶりだ。『ちょっとだけ』でも二人で恋人らしい時間を過ごしてみたいという思いは女も一緒だった。
「……どこに寄りたいんですか?」
いかにも渋々といった声色。それでも御手杵は余程嬉しいのか、その顔をぱあっと輝かせる。
「どこでもいい。あんたの行きたいところでいい」
「……じゃあ、甘味処。いつものお店、新しいメニューができたって聞いたから……ちょっとだけですよ」
嬉しそうな御手杵を見ていると自然と口元が緩んだ。結局のところ女は御手杵には甘いし、自分に厳しくもなりきれないのだ。
もう一人の御手杵が話題に出てきたのは甘味処からの帰り道だった。
「なあ、あいつあんたに変なことしてないよな?」
新メニューが美味しかったためか、はたまた別の理由からか、心なしか家路を辿る足は軽い。が、御手杵のその一言に思わず呆れ顔になる。
「あなた自分をなんだと思ってるんですか。ちゃんと仕事してくれましたよ」
最初に抱きしめられはしたが、あれは女のほうから要求したので数に含めなくてもいいだろう。要らぬ争いは招かない方が良い。
はっきりと否定したにも関わらず御手杵はちっとも納得していない様子だ。
「でも、あんたといたら絶対触りたくなるに決まってる」
心底疎ましそうな表情。女はきょとんと目を丸くした。
「あなたが今そう思ってるってことですか?」
「思ってる」
随分正直なことで。女は小さく息を吐くように笑った。好きな人にそんなふうに思ってもらえるのは、悪い気分ではなかった。
「でも、駄目ですよ。こんな外じゃ」
合わされた歩幅を、少しだけ早めた歩調ですり抜ける。
空が高い。清々しい秋の空気を吸い込む。ほんの少し冷たい風が肌を攫う。
「わ」
突然、手首が掴まれた。引き寄せられ、倒れそうになった身体が支えられて、そのまま流れるように抱きしめられる。
前方に回された腕に女はおずおずと手を添えた。
「人が見てます」
「別にいい」
「よくないです」
拘束する腕からどうにか脱出しようとする。しかしその動きを察知して、御手杵はさらに腕に力を込めてくる。
「御手杵ってば」
「イヤだ」
「わがまま……っ」
そんな言い合いをしていると通りすがった人と目が合ってしまった。
慌てて顔を俯ける。恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
「わ、分かったから……せめて、人がいないところでしてください……」
その要望だけはかろうじて聞いてもらえた。固く手を握られたまま、建物に囲まれた人気のない小道へ攫われる。
人がいなくなった瞬間、顔がくいと持ち上げられて、唇が奪われた。ぎゅっと閉じたつもりの口の中に舌が入り込んでくる。縮こまった舌が暴くように引き出され、互いの唾液が絡み合う。そうして歯の裏側がなぞられ、舌の裏の柔らかな部分に触れられただけで、女の身体からはふわりと力が抜けてしまった。
「……あっちの御手杵はキスなんてしてこなかったのに」
いつの間にか掴んでいた服の裾を離し、男をじとりと睨みつける。
「やっぱり、抱きしめはしたんだな」
「でも、それだけです。緑の御手杵のほうが紳士でした」
「あいつも同じ状況になったらこんなふうにするぜ」
想像したのか、御手杵の眉間に皺が寄った。顔を歪めながら、女を真正面から抱きしめてくる。
「はー……イヤだ」
「自分に嫉妬するなんて、やめてくださいよ」
これほど非生産的な嫉妬もないだろう。嫉妬がそもそも生産的か問われれば否だろうが、ともかくそれで溜まった鬱憤がまとめて女に向かってくる。どう処理したらいいと言うのか。
「俺だって、こんな気持ちになるのは初めてだ」
御手杵も女に負けず劣らず気怠げだった。
「相手が自分だからこそイヤなんでしたっけ」
「……うん、多分、そんな感じだ」
御手杵は女を抱きしめながら酷く情けない声で「イヤだ」と繰り返している。
――なんだろう。この姿を数時間にも見た気がする。いや、間違いなく見た。
眩暈がしそうだ。いや、決して嫌なわけではない。変な対抗心を燃やしてさえいなければ二人いたって全然は問題ない。問題ないどころか、「両手に花」だなんて言って戯れながら二人一緒に連れ歩いたっていい。寧ろ連れ歩きたい。本当に、嫌なわけではないのだ。嫌なわけではない。嫌なわけではないけれど、やっぱり、少し、本当に、めんどくさい。
早く一人に戻ってくれないだろうか。男の腕に抱かれながら、女は切に願ったのだった。
「御手杵って、二人いるとうるさいんだね」
小松菜のおひたしを摘みながら染み染みと呟いたのは大和守だ。隣では加州が白米を口に運びながら頷いている。
「二人いると」とはなんて奇妙な副詞節だろう。打刀二人の真向かいで女は眉を寄せた。だが困ったことに、現在この本丸には御手杵が二人も存在しているのである。
「なあ」
「なんだよ」
「あんた、今なんで漬物食べたんだ」
「食べたかったからだけど?」
「俺の真似しただろ」
「真似したのはそっちだろ」
左の御手杵と右の御手杵はついに食べる順番にまでケチを付け始めてしまった。子供か。
元は同じ人間――いや、槍なのだから食事順くらい被って当然だとは思うのだが、正論を言ったところで白熱した二人には届かないだろう。
「せめて私を間に挟むのはやめてほしいです」
「意味ないと思うよ。どうせ、どっちが主の隣に座るかで喧嘩する」
その様が容易に想像され、女は大きくため息をついた。
「あ。……あんたのせいだぞ」
「なんで俺のせいにされるんだ。あんたのせいだろ」
女のげんなりした様子にようやく二人の御手杵は気付いたらしい。だが、どちらのせいかと問われれば間違いなく両方のせいだ。
起きた瞬間から耳元で続いている騒ぎのせいで、正直食欲もあまりない。まだ朝なのが信じられないくらい疲れている。だが食事当番が作ってくれた朝食をそんな理由で残すわけにもいかず、億劫な手つきではあったがどうにか食べ終えた。
「とりあえず赤いほうは予定通りに畑当番をお願いします。緑のほうは……今日は私に付いていてください」
「よし!」
「うええ……」
中身は全く同じように思われるので区別が必要かどうかは微妙なところだが、二人の手首にはそれぞれ色の違う紐が巻かれている。反応は両極端だ。
「あ、じゃあ俺は休み?」
「急で申し訳ありませんが」
「いいよ。そもそも、御手杵が二人になったのが悪いんだし」
元々近侍の予定だった加州が快く了承してくれて助かった。彼なら突然の非番も有効に楽しんでくれるだろう。
「待った。近侍のほうを俺がやる」
畑当番に任ぜられた赤い御手杵が意義を唱えてきたのは想定の範囲内だ。だが、これ以上こんな騒ぎに付き合う気はない。個人的な事情もあるにはあるのだが、急遽近侍を変更した一番の理由はこの二人を引き剥がしておきたかったからだ。女は唇をきゅっと引き締め、厳しい顔を作る。
「言う通りにしないと」
「しないと?」
「嫌いになります」
ピシッ、と赤いほうの御手杵が固まる。緑のほうもやはり他人事ではないらしく同じように目を見開いた。
嫌いになる、なんて言葉を口にしたのは初めてかもしれない。女だって言いたくはないが、今は自分の心の平穏が一番だ。盆を持ち、足早にテーブルを去る。
「あんた、ちゃんと畑仕事しろよ。絶対だぞ。本当に、ちゃんとしろよ!」
「う゛……分かったよ。はあ……」
赤いほうがかわいそうかもしれない。背後のやり取りに少しだけ胸が痛んだが、それでも振り返ることはなく女は自室へと向かった。
御手杵がいつ二人に分裂したのか、はっきりとした時間は分かっていない。目覚めた時には何故かこんなことになっていた。
なんだか、今日はやけに暑いなとは思ったのだ。妙に重いし、暑苦しいと。それで目を開けてみれば右にも左にも御手杵がいて、その両方から抱きしめられていた。そりゃあ暑いわけだ、と一旦納得したその次の瞬間の女の驚き様に関しては、まあわざわざ語る必要もないだろう。
それにしても、今日は出陣の要請がなくて良かった。本当に良かった。
「あまね」
障子の向こうの人影を見る。慣れ親しんだ声と形。執務室に入るように促し、まず一番に手首の紐の色を確認する。緑。近侍として呼び出したほうだ。
「御手杵」
名前を呼び、ちょいちょい、と手招く。言われるがまま傍に寄った男に、女は持っていた手帳を放り投げて抱きついた。
「めんどくさい」
軽く施した化粧が落ちるのも気にせず、厚い胸板にぐりぐりと頬を摺り寄せる。
「なんで自分自身と言い争うんですか。ほんっとう、めんどくさい! 朝からなんなんですか。漬物をいつ食べるかなんて本当どうでもいいです。ご飯くらい静かに食べさせてください」
ぎゅうっとしがみつきながら言葉を投げつけた。御手杵が戸惑っているのが伝わってくる。おずおずと背中側に回された腕が女を抱きしめ、頭を撫でてきた。
「あー……えっと、ごめんな?」
「……その原因に抱きついて慰めてもらってるのもわけが分からないし」
口を尖らせ、御手杵の胸に頭を押し付ける。わけは分からないが、こんなふうに慰めてもらいたい相手は一人しかいない。いや、今は二人になっているけれども。
目を瞑り、優しい手の感触に身体を任せる。少しだけ気分が落ち着いた。
「本当に、どうしてですか? あなた、そんなふうにヤキモチを焼くタイプじゃないでしょう。ほら、前だって、そんないかにも嫉妬してます、みたいな行動はしてなかったのに」
半年以上前のことだが、女が同業の男性から想いを寄せられたことがあった。こういう言い方をしてはあれなのだが正直かなりしつこく、しかし諸々の事情により邪険にすることもできず、彼が諦めるまで長々と付き合わされることになった。
その時でさえ、御手杵が今のように対抗意識を露わにして嫉妬する姿を見た覚えはない。
「だってさ……あんた、別にあいつのことは好きにはなんないだろ」
御手杵は唸りながら考え込んでいたが、やがてぽつりと話しだした。
「分かりませんよ?」
「え、なるのか?」
「……まあ、ならないと思いますけど」
好みか好みでないかで言えば確実に好みではなかったし、そもそもその時点で御手杵とこういう関係になっていたので他の男性を好きになるなど考えもしなかった。けれども、御手杵の方から当たり前のように断言されるとなぜだか認めるのが悔しくなってしまう。
「でも、あいつは俺だろ」
今度は赤いほうの御手杵を指しているのだろう。
二人の御手杵。まだしっかりと確認したわけではないが、姿も記憶も、おそらく無自覚の癖なんかも、二人は全く同じように見える。
「あなたですね」
「だから、あんたはあいつのこと好きになるだろ」
「ん……? そう、ですね」
好きになるどころか、とっくの昔から好きなのでその表現は適切ではない気がするが、とりあえず頷いておいた。返事を聞き、御手杵は重いため息を吐く。
「イヤだ」
「イヤって言われても」
どちらも同じ御手杵だ。その二人を比べてこっちの方が好きだ、こっちはそうでもない、などと評することはどう頑張ってもできない。
「でも、赤いほうの御手杵が私に嫌われるのもイヤなんでしょう?」
「……それもイヤだ」
「……わがままだねえ」
「う」
御手杵は言葉を詰まらせて、それでも尚「イヤだ」と繰り返しながら女を強く抱きしめてくる。
本当に、大きな子供みたいだ。これも一人なら可愛いのだが、残念ながら実際には二人もいて、しかも互いに争っている。困ったものだ。
「喧嘩はだめですよ。どっちも私の好きな御手杵だから、比べるのも、どちらかだけと一緒にいるのも無理です」
「……でも」
女は顔を上げ、まだ物言いたげな御手杵の頬に両手を添えた。薄い頬の肉を親指と人差し指で摘み軽く左右に引っ張ってみると、不満そうな顔が不格好に歪む。それがなんだか面白くて女の口元は緩んだ。
「さ、もう仕事をしないと。ね、御手杵」
彼は納得したいとは思っているらしかった。それ以上に不平を漏らすことはなく、しかし複雑な面持ちのまま黙って女を見つめている。女の言葉を飲み込もうとしながら唇を開いては閉じ、だが、やがて諦めたような声色で、分かったと一言、御手杵は言った。
朝食時に比べれば、昼食は遥かに穏やかだった。朝のうちに緑のほうを窘めておいたのが功を奏したのか、赤色のほうから突っかかってくることはあったが、緑のほうは一貫して受け流すことに決めたらしい。
それが崩れたのは昼食を済ませた後のことだ。
「あまね」
「なんですか」
ちょうど食事を終えたところで右側の御手杵が話しかけてくる。こちらは赤色の御手杵だ。
ぐっと顔が近づく。宝石みたいにきらきら光る瞳が女の視線を奪った。
「俺、畑仕事頑張った」
「え、ええ、お疲れさまです」
気圧されながら労う。
御手杵は気を良くしたのか、口の端を上げてにんまりと笑った。
「だから、午後は俺が近侍でいいと思う」
「……ああ、それもいいですね」
「はあ!?」
あっさりと頷いた女に対し、声を荒げたのは緑のほうの御手杵だ。
「御手杵」
「だって……畑仕事くらい俺だってするし」
「じゃあすればいいだろ、畑仕事」
「けど今は俺が近侍だから!」
「それだと不平等だろ!」
はあ、と大仰にため息をついてみせる。争っていた声が止まった。
「午後の近侍は赤いほうの御手杵にします」
「よし!」
赤色のほうは無邪気に喜んでいる。
くるりと振り向けば反対側にはふてくされた緑のほうの御手杵。仕方のない人だと口元を緩め、その頭に手を伸ばした。跳ねた髪をゆっくりと撫でる。
「ちゃんと後から構ってあげますから」
「本当か?」
「本当です」
さっきと逆だ。そしてこんなふうに撫でていると、またもう一人の御手杵が拗ねてしまう。振り向いてみると案の定、むすっとした同じ顔があった。女は困ったように笑いながらそちらの御手杵にも手を伸ばす。
――ああ、なんて状況だ。
「お待たせしました」
午後の最初の予定は万屋での買い出しだ。部屋で軽く身嗜みを整え、御手杵と玄関で落ち合う。
「全然待ってないぜ」
「そうですか?」
「ん。今来たとこ」
二、三言、そんな言葉を交わす。御手杵は柔らかく笑っている。
一人だったらいつも通りなのに、と、そんなことを考えながらじっと御手杵を見つめた。まっすぐな視線に気付いた御手杵が首を傾げる。蒸し返すのも気が引けたので女は首を横に振り、冗談めかして微笑んだ。
「なんだか、デートみたいですね」
「え?」
御手杵が目を丸くする。
だって、そうじゃないか。『待った?』『ううん、今来たところ』なんていうのはデートの待ち合わせの定番だ。
「デート……デートかあ」
「まあ、することは資源の補給だけなんですけどね」
行きましょう、と囁いて歩き出す。御手杵はすぐに隣に追いついた。
本丸の転移陣は万屋に直通しているため、用事は三十分も掛からず終わった。大量の物資をまさか手で運ぶというわけにもいかず、本丸に転送してもらうよう手配する。さあ帰ろうか、というところで、御手杵が女を引き止めた。
「ちょっと、寄り道しないか」
「……仕事中ですよ?」
何を馬鹿なことを。歩きだそうとした女の手首が握られる。
「ちょっとだけだから! ちょっとだけ……な?」
「もう一人のほうに知られちゃったらまた喧嘩になるでしょう」
「あんたが黙っててくれればバレないって!」
「もう……」
もしかして、さっきのやり取りを『デート』のようだと言ったせいだろうか。御手杵はやけに必死な表情で、視線に負けそうになりながら女は眉を寄せた。
だが、確かに御手杵と出掛けるのは久しぶりだ。『ちょっとだけ』でも二人で恋人らしい時間を過ごしてみたいという思いは女も一緒だった。
「……どこに寄りたいんですか?」
いかにも渋々といった声色。それでも御手杵は余程嬉しいのか、その顔をぱあっと輝かせる。
「どこでもいい。あんたの行きたいところでいい」
「……じゃあ、甘味処。いつものお店、新しいメニューができたって聞いたから……ちょっとだけですよ」
嬉しそうな御手杵を見ていると自然と口元が緩んだ。結局のところ女は御手杵には甘いし、自分に厳しくもなりきれないのだ。
もう一人の御手杵が話題に出てきたのは甘味処からの帰り道だった。
「なあ、あいつあんたに変なことしてないよな?」
新メニューが美味しかったためか、はたまた別の理由からか、心なしか家路を辿る足は軽い。が、御手杵のその一言に思わず呆れ顔になる。
「あなた自分をなんだと思ってるんですか。ちゃんと仕事してくれましたよ」
最初に抱きしめられはしたが、あれは女のほうから要求したので数に含めなくてもいいだろう。要らぬ争いは招かない方が良い。
はっきりと否定したにも関わらず御手杵はちっとも納得していない様子だ。
「でも、あんたといたら絶対触りたくなるに決まってる」
心底疎ましそうな表情。女はきょとんと目を丸くした。
「あなたが今そう思ってるってことですか?」
「思ってる」
随分正直なことで。女は小さく息を吐くように笑った。好きな人にそんなふうに思ってもらえるのは、悪い気分ではなかった。
「でも、駄目ですよ。こんな外じゃ」
合わされた歩幅を、少しだけ早めた歩調ですり抜ける。
空が高い。清々しい秋の空気を吸い込む。ほんの少し冷たい風が肌を攫う。
「わ」
突然、手首が掴まれた。引き寄せられ、倒れそうになった身体が支えられて、そのまま流れるように抱きしめられる。
前方に回された腕に女はおずおずと手を添えた。
「人が見てます」
「別にいい」
「よくないです」
拘束する腕からどうにか脱出しようとする。しかしその動きを察知して、御手杵はさらに腕に力を込めてくる。
「御手杵ってば」
「イヤだ」
「わがまま……っ」
そんな言い合いをしていると通りすがった人と目が合ってしまった。
慌てて顔を俯ける。恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
「わ、分かったから……せめて、人がいないところでしてください……」
その要望だけはかろうじて聞いてもらえた。固く手を握られたまま、建物に囲まれた人気のない小道へ攫われる。
人がいなくなった瞬間、顔がくいと持ち上げられて、唇が奪われた。ぎゅっと閉じたつもりの口の中に舌が入り込んでくる。縮こまった舌が暴くように引き出され、互いの唾液が絡み合う。そうして歯の裏側がなぞられ、舌の裏の柔らかな部分に触れられただけで、女の身体からはふわりと力が抜けてしまった。
「……あっちの御手杵はキスなんてしてこなかったのに」
いつの間にか掴んでいた服の裾を離し、男をじとりと睨みつける。
「やっぱり、抱きしめはしたんだな」
「でも、それだけです。緑の御手杵のほうが紳士でした」
「あいつも同じ状況になったらこんなふうにするぜ」
想像したのか、御手杵の眉間に皺が寄った。顔を歪めながら、女を真正面から抱きしめてくる。
「はー……イヤだ」
「自分に嫉妬するなんて、やめてくださいよ」
これほど非生産的な嫉妬もないだろう。嫉妬がそもそも生産的か問われれば否だろうが、ともかくそれで溜まった鬱憤がまとめて女に向かってくる。どう処理したらいいと言うのか。
「俺だって、こんな気持ちになるのは初めてだ」
御手杵も女に負けず劣らず気怠げだった。
「相手が自分だからこそイヤなんでしたっけ」
「……うん、多分、そんな感じだ」
御手杵は女を抱きしめながら酷く情けない声で「イヤだ」と繰り返している。
――なんだろう。この姿を数時間にも見た気がする。いや、間違いなく見た。
眩暈がしそうだ。いや、決して嫌なわけではない。変な対抗心を燃やしてさえいなければ二人いたって全然は問題ない。問題ないどころか、「両手に花」だなんて言って戯れながら二人一緒に連れ歩いたっていい。寧ろ連れ歩きたい。本当に、嫌なわけではないのだ。嫌なわけではない。嫌なわけではないけれど、やっぱり、少し、本当に、めんどくさい。
早く一人に戻ってくれないだろうか。男の腕に抱かれながら、女は切に願ったのだった。
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