正気狂気が詰りあう

 眠っている顔が好きだ。
 伏せられた瞼の柔らかそうな膨らみだとか、力の抜けた眉の形だとか。大きな図体とは真逆の、大人しい寝息だとか。だらしなくぽかんと開かれた唇から、たまに垂れている涎だとか。
 そういうのを全部含めて、眠る御手杵を愛おしいと思う。

 そっと、その顔に伸ばしてみた。
 人差し指が厚めの唇に触れる。やっぱり今日も口は緩く開いていて、仕方のない人だな、と女は小さく微笑んだ。つう、と、指先でなぞった唇は少しだけかさついている。後でリップクリームでも貸してあげることにしよう、そう記憶に留める。

 御手杵の顔をじっと見つめる。眠っている姿は可愛げがあるのに、それでもどういうわけか、かっこいいなあ、なんて感想が自分の中から飛び出てくる。実際にかっこいいのか、好きだからかっこよく見えているのか、女にはもう判別なんてできなかった。

 ふ、と。理由もなく指先が動いた。
 爪の先が薄く開いた唇の隙間に入り込む。指の腹が触れた舌の表面は、少しだけ乾いているような気がした。そんなふうに口を開けて寝ているからだ。指を曲げ、指先を舌の裏に滑り込ませる。湿った、生温い感触に包まれる。指で感じる口内は奇妙なまでに柔らかくて、女は不思議な感覚を覚えた。その時だ。

「っ、あ」

 御手杵が、女の指に噛み付いた。
 反射的に引っ込めようとするが、何かに引っ掛かったように動かない。挟み込まれた指に、つよく歯が立てられている。ぎり、ぎり、と激しい痛みが現実になっていく。

「……っお、御手杵……! 離して……!」

 噛みちぎられているような錯覚を覚え、女は顔を歪ませながら必死に呼び掛けた。もしかするとそれは錯覚ではなかったのかもしれなかった。
 切羽詰った声が届いたのか、御手杵の瞼が軽く震えた。口元の力が一瞬緩む。その隙に女は手を抜き去り、傷ついた指先を胸に抱きしめる。

「んー……?」

 御手杵は数度、目を瞬かせた。寝ぼけた表情のまま身体を起こし、目元を擦りながら女を見つめる。

「どうしたんだ? 泣いてるのか?」

 身体を縮こまらせ俯く女の様子がおかしいことに、彼はすぐに気づいたらしい。少しだけ焦った調子で畳み掛けるように尋ねる。

「怪我、したのか?」

 御手杵は女の指先に目をやった。白い指にはくっきりと歯型が刻まれており、鈍く色の変わった肌からは血が滲んでいる。

「あなたが噛んだの」

 目を伏せたまま女は答えた。痛みのせいで視界が歪んでいる。

「寝てる間にか?」
「そう、です……」

 女の語尾は弱まっていく。
 寝ぼけ頭の行動を責め立て、御手杵のせいだと怒ることなど出来るはずもない。どう考えたって、口の中に指を入れた自分が悪い。浅はかだった。分かってはいるのだけれど、こんなにつよく、血が出るくらい噛まれるとは思っていなかった。
 御手杵が女の手を取った。鮮やかな歯型を見つめ、それから女の顔に目をやる。瞳には涙を浮かべた情けない顔が映し込まれている。

「痛いのか?」
「痛いです」
「そっか」

 傷口からたらりと垂れた血が、じっと見つめられている。御手杵、と首を傾げながら呼び掛けるのと同時に、指先が再び男の口の中に吸い込まれていく。

「っ……」

 一瞬、また噛まれてしまうのかと思った。だが実際にはそんなことはなくて、御手杵はただぺろりと女の指を舐め上げているだけだ。清めようとしているのだろうか。時々、まるで毒でも吸い出そうとするみたいに音を立てて吸い付いている。

「そんなことをしても、治ったりはしませんよ」

 じくじくと、頭にまで響いてくるような鈍い痛みだ。唇をぎゅっと引き締めながら堪える女を、御手杵は意図の読めない瞳で一瞥する。

「当たり前だろ」
「じゃあ、なんで」
「美味しいのかと思って。寝ながら食べるくらいだからさ」

 一瞬、痛みさえも忘れた。

「……美味しい?」
「うーん」

 目を丸くしながら問いかけた言葉に対し、御手杵は首を傾けて唸っている。まあ、そうだろう。血が美味しいなんて、女にはとてもじゃないが思えない。

「でも、あんたのだと思えば美味しい気がする」
「……変なこと、言うんですね」
「変か?」
「変ですよ」

 御手杵は飽きもせず、ぺろぺろと指を舐めている。この人と会話をしていると、なんだか痛がっているのが馬鹿らしく思えてきた。不思議と痛みが引いた気がしたが、それはおそらく気のせいだろう。

 ちゅ、と吸われ、指先が解放される。透明な唾液に塗れていた人差し指は、しかしすぐに血で滲み、また御手杵に奪われてしまった。

「血じゃなくて、指の方が美味しそうだ」

 口づけをするように舐めながら、御手杵はそんなことを嘯いた。
 女は少しだけ返答に困った。実際に噛まれてしまったせいで、どこまでが本音で、どこからが冗談なのかが捉えきれない。

「人差し指は、少し困ります」
「じゃあどこならいいんだ?」
「ん……使わないのは、小指、かな」

 小指かあ、と視線が動く。一番細くて小さな指を視線が嬲る。足の先が、少しだけ冷たい。

「食べたいんですか?」
「……いや、やめとく」

 御手杵は視線を外し、首を横に振った。

「十本しかないから、もったいない」
「……もっと違う意味で、大切にしてほしいです」

 女は小さくため息を吐いた。呆れなのか、安堵なのかは、女自身にさえ分からなかった。
 御手杵の口から指を抜く。血は止まっていた。

「治った?」
「治りませんよ。あなたもさっき言ったじゃないですか」
「そっかあ」

 消えない歯型を見つめる御手杵は何故だか複雑そうな面持ちをしている。
 「傷口には唾を付けろ」というのは昔から言われていることだから、少しは効果があるのかもしれないが、それでもこんな短時間で傷が塞がるわけがない。そんなことは御手杵も知っているだろうに。

「ごめんな」
「……今更謝るんですか?」
「うん」
「別に、いいのに」

 さっきまで指を食べる話をしていたのに、今になって傷跡を付けたことを詫びているなんて。やっぱり変だ。
 既に血の止まった指を御手杵はまた口元へと運んだ。

「舐めたいんですか?」
「うん」
「指がふやけちゃう」
「駄目か?」
「いいですけど」
「じゃあ、舐める」
「……変な人」

 指を舐り続ける様ををぼんやり見つめる。
 なんだか、赤ちゃんみたいだ。眠っている時と同じ。いつもよりも少しだけいとけない。ふと、貸そうと思っていたリップクリームのことが頭に浮かんだ。けれどもこのタイミングで話題に上げるのもおかしい気がして、結局、女は黙ったまま指を貸し出している。


 ――もし、本当に指が噛みちぎられていたら、自分はどうしただろう。
 突然そんなところに思考が飛んだ。

 たぶん、すごく痛い。今よりもずっと痛いに決まっている。溢れる血に怯えて、痛みに耐え切れず泣いて、らしくもなく喚くのかもしれない。利き手の人差し指がなくなれば、日常生活もどのくらいかは分からないが不便になってしまう。
 けれど――それでもきっと、自分は御手杵を責めなんてしないのだ。怒ることも、咎めることもせず、許して、痛みを慰めてもらって、それで終わるのだろう。
 もしかすると自分も御手杵と同じくらい変なのかもしれない。男の口から覗く傷跡を見つめ、女は少しだけ笑った。

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