わるものたちのひみつ

 書庫というのはどこでもそういうものなのだろうか。決して古い本が多いわけでもないこの部屋でも息を吸う度にあの湿った独特な匂いが鼻を掠めていく。本丸というのは空間自体が曖昧な場所だから、もしかすると書庫という名に染み着いたイメージが先行しているのかもしれない。胸に抱えた本を棚に戻しつつ、女はそんなことを考えた。

「主」

 そんな声とともに頭と肩の上に何かが乗せられる。突然思考が打ち破られ、女は僅かに肩を跳ねさせた。

「御手杵?」
「んー」

 声が真上から聞こえてきたことから、旋毛に乗っているのが御手杵の顎であることはすぐに分かった。女の肩に両手を置き、後ろから軽く覆い被さるような形で体重を掛けてくる。

「どうしたんですか、いきなり」
「そこに頭があったから」
「わけが分かりませんよ」

 小さく笑い、手に持っていた最後の一冊を棚に収めた。大方、慣れない作業に疲れたのだろう。

「そっちは終わりましたか?」
「ああ」

 するりと重さが離れていく。机の上には積まれた本と、数枚の紙や筆記用具が雑多に広げられていた。男が紙が引っ張り出すのと同時に、その上にあったペンが勢いづいて机を転がる。

「これでいいのか?」

 書類を受け取り、軽く目を通す。不慣れさが窺える字だ。尤も、さして重要な書類でもないので読むことが出来ればそれで十分ではあるのだが。

「はい、ありがとうございました」
「後はこれ運んで終わりだよな」
「ええ、お願いします」

 御手杵が積み重なった本を抱えるのを横目に筆記具を軽く整頓する。戸を引き、先に廊下に出た。

「少しは持ちますよ」
「こんくらいなら大丈夫だぜ」

 すげなく断られる。それなら、と女はそれ以上差し出ることなく隣を歩いた。
 目的地である女の私室までは些か距離がある。しかし、一人であれば億劫なほどの距離も、今はたわいない会話で埋め尽くされ一瞬で詰められてしまった。幾許もなく部屋に着き、御手杵が座卓の上に本をゆっくりと下ろす。彼は解放された腕をぶらぶらと振りながら、今しがた運んできた本の、その隣の山に目を移した。

「それ、なんだ?」
「ああ、他の審神者の方から借りたんですよ」

 畳の上に膝を崩して座り、一番上の本を手に取る。人気を博している漫画らしく、女もタイトルだけは耳が覚えていた作品だ。
 本を開く。隣に腰を下ろした御手杵が女の肩に顔を寄せて頁を覗き込んだ。
 頬が触れそうなくらい狭まった距離に、少しだけ肌の下が熱くなる。けれど、別段意識するようなことではなかった。これくらいの近さならいつものことなのだ。
 隣を振り向かず、女は手元の頁を捲る。

「あんたもこんなの読むんだな」
「まあ、たまには」

 この本丸において、漫画は刀剣男士の娯楽の一つとなっている。しかしこの作品は男士向けの漫画とはいくらか趣が違っていて、それが御手杵の興味を引いたようだ。
 頁を捲る。文字を流しつつ、ぱらり、ぱらりと画面を切り替えていく。

 可愛らしい部屋で、隣り合って座っている年若い男女。そっと握られた手。くるりと回転する視界。ページの中の少女が赤面し、顔を背けた。緩んだ制服のスカーフ。シーツの上に散らされた髪。頬に添えられた手。そして、ゆっくりと、唇が合わさって。
 そこで、女は本をそっと閉じた。

「あー」

 肩の上から不満げな声が上がる。

「読まないのか?」
「後で一人で読みますよ」

 笑って流そうと試みる。こんな風に誰かと一緒に読むような場面ではないし、その誰かが彼であるのは女にとって殊更気まずいことだった。
 本を机の上に戻す。その指先を、御手杵がじっと見つめているのが分かる。

「なあ」

 なんですか、と、そう返すつもりだった。
 けれど、それより先に懐に潜り込んだ御手杵と目が合って。

「え?」

 世界がぐるりと回る。
 影の落ちた御手杵の姿と、その向こうに目透しの天井。押し倒されているのだとはすぐに分かった。だが、照れるでも心臓を高鳴らせるでもなくただただ驚いて、女と御手杵は暫しの間、黙ったまま見つめ合った。

「なに、やってるんですか?」
「……なんだろうな?」

 御手杵も目を見開いている。彼自身でさえも自分が何故女を組み敷いたのかを分かっていないようだった。男はすぐに退き、女も身体を起こす。

「もう……びっくりしたじゃないですか」

 時間差で心臓が騒がしい音を立て始める。声だけはどうにか取り繕って、女は胸に手を当て深く息を吐いた。
 しかし、どういうわけかまた御手杵は覆い被さってきて、その勢いにつられて女の身体は後方へと倒れ込んでしまった。畳で打った頭の痛みを目を瞑って堪える。

「っ……御手杵?」
「いや、もう一回やったら分かる気がして」
「何が分かるって言うんですか」

 自分を組み敷いている男は首を傾げた。そうしたいのはこちらの方だ。
 今度は御手杵は女の上から退けようとはしなかった。逆光になった顔の、ふたつの瞳がじっと女を見つめている。観察されているみたいだ。その視線に負けて顔を背けた。いつまでもこんなことをされていたら、きっと変な気分になってしまう。

「よけてください……」

 酷く情けない声だとは自分でも思う。
 返事はなかった。代わりに御手杵は女の肩の上に潜り込ませるように頭を埋めた。びくっ、と、それと分かるくらい大きく身体が震えてしまう。

「ちょっと……!」

 肌に触れる髪と吐息にくすぐられる。密着するくらいに近づいた身体の間に手をすり入れて、男の厚い胸をぐっと押し返した。だが、かなりの力を込めているつもりなのに彼はびくともしない。

「どういうつもりかは知りませんが、今なら許してあげますから」

 その言葉に御手杵はやっと頭を擡げた。爛々と輝く瞳が女を見下ろす。

「顔、赤いな」
「私のことなんて観察しなくていいから、よけてください」

 まじまじと見られているのを感じる。熱い頬をこれ以上晒したくはなくて、片腕で顔を隠した。
 すると御手杵は何を思ったのか、いきなり女の顔に自分のそれを近づけた。驚く間もなく、こつん、と額が合わさる。

「ひゃ……っ」

 視界を埋め尽くす顔に思わず目をぎゅっと瞑る。それでもほとんどゼロの距離に御手杵がいるのだと思うと、心臓が爆発してしまいそうだった。何を考えてこんなことをしているのだろう。瞼の裏でぐるぐると思考が錯綜するが、一向に纏まる気配は感じられない。
 ふと、御手杵が笑った。

「分かった、俺、あんたの反応が見たいのかもしれない」
「へ……?」

 姿を見ずとも声だけで彼がにやついてるのが伝わってくる。
 額が離れたのを感じ、おそるおそる瞼を持ち上げた。それでもまだ真近にあった顔は楽しげに緩んでいて、女は居たたまれず顔を逸らした。

「それじゃあ、もう満足したでしょう。はい、終わりです」

 肩を押す。御手杵が上体を起こした。ほっと胸を撫で下ろしたところで、何故か手首が掴まれる。

「え……っ」

 大きな手が女の手首をがっしりと捕らえている。彼は二つの手首を女の頭の上へ持ってくると片手だけでそれらを纏め、畳に押さえつけた。

「あの……御手杵? さすがにこれは、絵面が洒落にならないと思うんですが」

 手のひらの下から手首を抜こうとするが、思いのほか強く拘束されていて上手くいかない。戸惑いと、今まで息を潜めていた焦りがふつふつと湧き上がってくる。

「ああ、これじゃあんたは抵抗もできないもんな。いい感じだ」
「……最低です」

 頬に熱が昇るのを感じてはいるが、隠すことも許されなかった。
 とは言え、よく考えれば御手杵がこれ以上何か出来るとも思えない。ことあるごとに自分は槍だと主張する彼のことだから、多分、そういったことは知らないのだろう。そうに決まっている。こうやって組み敷いて拘束するのもただ面白がってるだけで、それに対し女が一方的に恥ずかしがっているだけなのだ。そう、恥ずかしいだけ。恥ずかしいだけ。きっと御手杵はすぐに飽きて離れてくれる。

「なあ……さっきの漫画でさ、唇くっつけてたよな」
「……そうですね」

 視線が唇に寄せられている。背中が妙にざわついた。

「あんたの唇って、どんな感じなんだろうな」
「どんな、って」

 先程二人で見た絵が脳裏に浮かんだ。背けた顔。畳の上に散らばる髪。御手杵の指が頬に触れて、その続きは。

「試してみようか」

 ゆっくりと顔が近づいてきて、女はやっと我に返った。身を捩って抜け出そうとする。だが、体躯の大きな男の下では無駄な抵抗だ。

「なっ、ちょ、それはだめですって、ね、ねえ御手杵、……っ、ぅ……」

 言葉は次第に消えていく。あと、数センチ。もはやどうにもならないことを悟り、女は固く目を瞑った。

 何秒か。何十秒か。きっちり数えていたわけではないにせよ、短くはない時間、女は目を閉じ続けていた。御手杵の様子は全く窺えない。
 まさか、からかわれたのだろうか。そんな不安が頭を擡げたところで額にふわりと何かが触れるのを感じた。それはすぐに離れていった。

「唇のキスは恋人同士ってのがやるんだろ? この間漫画で読んだぜ」

 こわごわ目を開けば、したり顔の御手杵があっけらかんと笑っている。
 女はぽかんと男を見つめた。彼の言葉が働かない頭に染み込んでくるにつれて、安堵や驚きや、ほんの少し残念に思う気持ちが一緒くたに心の中を巡っていく。
 心臓の音が煩い。泣きたい気持ちになる。

「主?」

 顔を逸らし、目を瞑って黙り込む。唇を軽く噛んだ。さすがにまずいと思ったのか御手杵が身体を後ろに引く。その隙に彼の股の間から足を引き抜き、上体を起こした。

「えっ、わ」

 そして女は油断しきった身体を押し返して、畳の上に倒れた御手杵に覆い被さった。
 御手杵がひっくり返った声を上げて女を見上げる。ぱちぱちと、目が瞬く。

「怒ってんのか?」
「さっきからずっと怒っています」

 おそらく自分の目は据わってることだろう。感情が絡み合った末に、残ったのは怒り以外のなにものでもなかった。涙も引っ込んでいる。
 すくっと立ち上がり、裸足の爪先を御手杵の肩に乗せる。

「何回も止めたのにやめなかったってことは、私もやり返していいってことですね。分かりました。そういうことですね」
「いや、俺は足で踏んだりはしてな……っ」
「何か?」

 腕を組み男を見下ろす。女が平素穏やかな性分をしているために、その怒りが相当のものであることが分かったのだろう。御手杵は苦笑いを浮かべながら身体をくるりと回転させ、うつ伏せになって女の下から這い出ようとする。

「あ、こら……っ」

 位置を変え、背中に足を乗せる。とはいえ踏んで痛めつけたいわけではないので、軽く押す程度の力を込めるだけだ。結局のところいいように弄ばれたのが悔しいだけなのだから。
 だから実際に動きを止めるだけの力はないに違いないのだが、御手杵は抵抗をやめた。

「うえー……あ、待った」
「え?」

 そして腑抜けた様子で呻いていたかと思えば、急に何かを思い立ったようにからりと乾いた声で制止する。

「あ、やめなくていいぜ」
「……は?」

 言葉の調子が余りに突然変わったものだから思わず足を退けたのだが、何故か踏み続けるよう求められた。
 どういうことだろう。混乱する。まさか彼にはそういう趣味でもあったのだろうか。とりあえず、女は位置を変えて何回か踏んでみることにした。
 御手杵は「あー」だとか「んー」だとか気の抜けた声を漏らしながら女の足に踏まれている。わけがわからない。

「うん、なんかこれ気持ちいいなー」
「……」

 無言で足を引っ込める。女は口を尖らせ、小憎たらしい背中の上に腰を下ろした。横座りになって、立てた膝で頬杖をつく。

「わ、乗られた」
「何気持ちよくなってるんですか。マッサージじゃないんですよ」
「だって、あんた重くないしなあ。両足で乗ってるわけでもないし」

 御手杵はへらりと笑っている。
 だが、両足で乗ったりなんかすれば体重が全部伝わってしまうし、きっと重いと思われてしまうに違いない。怒っているはずなのに女は変に冷静だった。女々しい自分が嫌になる。

「……はあ」

 これ見よがしな大きなため息を一つ。両手で上気した頬を覆い、目を閉じた。けれども頬が冷めるどころか、寧ろ手のひらにまで熱が伝わってしまった気さえする。額に落とされた唇の感触がふいに蘇ってきて、女は頭を振って追い払った。
 今日はなんだか調子を狂わされっぱなしだ。らしくない。悔しくなる。――御手杵のくせに。

「もう、あんなことしたら許しませんからね」
「んえ?」

 ようやっと心臓がいくらか落ち着いたので話しかけたのだが、御手杵から返ってきたのはすっとぼけた声だ。頭の側に目を移す。首を捻って振り返った男と目が合った。その手にはいつの間にか先程の漫画が握られている。
 読んでいたらしい。よりにもよって、この状態で。

「……」

 体勢を変える。馬に乗るような形で御手杵の背に跨った。

「私、あなたのそういうところ、嫌いです」
「俺は主のこと好きだけどなあ」
「そういうところも、大嫌いです」

 本当に女の気持ちを分かっていない。言わない自分も自分だし、理解しろ、なんて言うのも横暴なことだと知ってはいるが、それでも思わずにいられない。
 真下の旋毛を指先でぐりぐり押してみる。御手杵は変な声を上げて身体を揺らした。女が出来る仕返しなんて、所詮これくらいのものだ。
 目を閉じ、もう一度深く息を吸う。この男を前にいつまでも気にしていても仕方がない。気持ちを切り替えることにしよう。

「どこ読んでるんですか?」

 御手杵の肩の向こうに手をついて、頭越しに漫画を覗き込む。どうやら先ほどの巻を最初から読んでいるらしい。
 無骨な指が頁をめくる。初めての女の部屋に浮き足立つ青年。女の瞳はうっとりと熱に浮かされている。そして例の口づけの場面まで来たところで、女は残りの頁を裏表紙から全部纏め、親指と人差し指でぎゅっと綴じた。

「読めない」
「ここから先は御手杵にはまだ早いです」

 御手杵は頁を挟み込む指をどうにか外そうと試みている。

「ちょっと、借り物なんですから乱暴にしないでください」
「あんたが手をどかしてくれれば済むんだが」
「だめです」

 ここから先の場面を御手杵と読むのはやはり気まずいのだ。例え彼がそんなことを、塵一つほども意識していないとしても。

「大体、いつまで私の部屋にいるつもりですか」
「いいだろ、この後することもないし。腹は減ったけど夕飯もまだだし」
「……そうですけど」

 正直、反論する余地はなかった。図書整理が思っていたよりもすんなり終わったために時間にはかなり余裕がある。女の部屋で二人きり、という状況についてあれこれ言及するのも今更で、そんなことをすれば寧ろ自分が彼を意識していることがばれてしまう。主だとか愛だとか、そういうことを関係なしに普通の友達のように御手杵と過ごす時間が女は好きだった。時々、物足りなく思うことはあっても、踏み出すのはどうしようもなく怖かった。
 頁を綴じた指を離す。と、同時に御手杵の手から本ごと奪い取った。

「あ」
「これ、七巻なので最初から読んだ方がいいと思います」

 反論を先に封じ込め、背中から降りて本の山から一巻目を引き出して渡す。御手杵は特に文句も言わず受け取り、うつ伏せに寝ころんだ格好のまま頁を開いた。その体勢で読むのはつらいんじゃないかと思いはしたが、特に触れることはなくその隣に座る。八巻目に手を伸ばす。暫く黙ったまま、二人して漫画に読み耽った。
 この作品は女性を読者対象にしたラブコメディだ。主人公は少し特殊な高校に通い始めたばかりの少女なのだが、その天真爛漫で無垢な性格ゆえに周囲の人々を引きつけてやまない。少女は時に彼らを振り回しながら友情を深め、恋を育んでいく。王道なストーリーだろう。巻数がそれほど多くないこともあり、程良く纏まっていて読みやすい。主人公に恋心を抱く年上の男子生徒の反応が一押しなのだと、この漫画を貸してくれた友人は言っていた。

 突然、御手杵がごそごそ動き出した。身体起こし、膝でにじりながら女のほうを向く。

「なんですか?」
「膝貸してくれ」

 言うやいなや、御手杵は女の膝に頭を乗せ寝転がる。当然のことのようにそうするものだから、女は拒むことも出来ず固まってしまった。

「お、おてぎね?」

 声が裏返る。女が身に着けているのは薄手のワンピース一枚で、重さと一緒に御手杵の癖のある髪の感触が太ももに伝わってくる。だから、きっと御手杵にも女の太ももの柔らかさなんかが伝わっているのだ。そのことに思い至った途端、動悸が激しさを増す。

「これ」

 御手杵が指し示した頁には木陰で休む主人公の少女と先輩の男子生徒の姿が描かれている。確か、寝不足の男子生徒を癒すためにヒロインが膝枕をしてあげる場面だ。そんな展開が繰り広げられるのは漫画の中だけだろうが、御手杵はそれに興味を抱いたらしい。

「うー……」

 だからって、それをここでするのか。
 御手杵は胸の上に漫画を乗せて続きを追っている。膝から下りる気配は感じられない。女は戸惑いはしたものの、膝から突き落とすのも躊躇われた。それに、このくらいなら大丈夫だろう。先程のあれに比べれば、膝に乗られるくらいどうってことはないはずだ。そう、あれに比べれば。
 太ももを枕にしている男はこちらの思いなど気にも留めていない様子だ。視線は紙上の文字を辿り、長い指が頁をめくる。

 女は御手杵の頭の上を避けて、漫画を読むのを続けることにした。出来る限り太ももから意識を外す。内容に集中できるかどうか不安なところだったが、さすがお勧めされただけあって面白い。段々と膝の上の重さにも慣れてきた。夕食までこうして時間を過ごすのも、悪くないかもしれない。

 そう思った時、太ももの上の頭が動いた。

「主」

 久方ぶりに本から視線を外す。御手杵がこちらを見上げていた。
 彼は右腕を女の顔へと伸ばし、額のあたりに手を添えた。指先が前髪をくすぐっている。なにやら引き寄せようとしているみたいだったので、頭を下げてみた。すると手のひらが頭の上に登ってきて、ゆっくりと一方向に動く。撫でられているらしい。

「御手杵?」
「ほら」

 御手杵は先ほどと同じように漫画を指し示した。そこには件の先輩に頭を撫でられている少女の姿がある。が、何が「ほら」、なのだろう。

「……撫でてます、けど」
「俺も撫でてみた」

 それは分かっている。優しく撫でてくる手のひらは気持ちいい。
 御手杵は今日は意味の分からないことばかりする。何を考えて漫画に描かれていることを真似ているのだろう。いや、何も考えてはいないのかもしれない。新しいものを目にした子供がとかくそれを試したがるような、そんな純粋な好奇心なのかもしれない。

「撫でて、楽しいですか?」
「んー……まあ」
「漫画の方は」
「面白いよ」

 御手杵の返事は女にとって少し意外なものだった。学園という舞台にも馴染みはないだろうし、女性向けの恋愛漫画だ。彼にはなんとなく、そういったものを苦手としそうなイメージがある。

「佐々木がさ」

 御手杵は漫画に視線を移し、ぽつりと話し出した。

「変なことばっかりする」

 佐々木というのは主人公と同学年の少女の名だ。彼女は男子生徒が主人公に惹かれていることを知りながらも、一途に彼にアプローチを繰り返す。けれども強気な性格が災いしてなかなか素直になることが出来ず、行動が裏目に出てしまうことが多い。その様を御手杵は変だと言っているのだろうか。

「センパイは、この……なんだっけ、名前」
「文香、ですね」
「そうそう。センパイはさ、文香が好きで、恋人になりたいんだろ」
「はい」
「で、文香も悪い気はしてないんだろ」

 頷く。

「佐々木、なんで諦めないんだ?」
「なんで、って」

 皮肉でもなんでもなく、純粋な疑問として尋ねていることが分かり、女は言葉を詰まらせた。少し、考えてみる。

「好きだからじゃないですか」

 だが、口からはそんな月並みな答えしか出て来てくれない。

「簡単に諦めることが出来るなら苦労しませんよ」
「そういうもんなのか」
「そういうものですよ」

 我ながら酷い回答だ。けれど、それ以外にどう理由を付ければいいのだろう。
 御手杵は頷いた。納得はしていないようだった。

「他にもさ、気になってることがあって」
「なんですか?」

 続きを促したものの、恋愛事に関しては上手く答えられる自信はなかった。
 御手杵は女の膝の上で身体をくるりと横にした。顔が女の腹部に向かう形になる。
 なんだか、落ち着かない。そんなことを思っていると突然、足に手が置かれた。無骨な指先がつうっと布越しに太ももを撫でてくる。皮膚の下が変にざわついて女は眉を寄せた。

「御手杵」
「ああ、悪い」

 名を呼んで窘めると彼は謝ってはきたが、欠片も悪いとは思っていない語調だ。それどころか拒絶されたことを驚いているようにさえ感じられる。
 ため息をひとつ吐き、御手杵の額に手を伸ばした。髪を撫で、その隙間に指を通して梳いてみる。男はくすぐったそうに目を細めた。
 いつの間にこんなに距離が縮まっていたのだろう。手を伸ばせば簡単に届いてしまう。それなのに時々考えていることが分からなくなるのは、余りに近すぎるせいなのか。

「本当は、軽々しくこんなことをしたら駄目なんですよ」
「そうなのか? 文香とセンパイはしてたけど」
「そうですけど」
「あんたも触ってるし」
「してるけど、そうじゃなくて」

 恋人でもない男には指一本でさえ触れられてはならないのだと言うほど、女は堅い時代を生きてはいない。彼に膝を貸している姿を仮に見られたとしても咎める者なんてどこにもいないだろう。
 だから、いっそ彼を遠ざけてしまえたらと思うのは彼女自身の問題なのだ。触れられれば揺らいでしまう。隠していた心が溶けだしてしまう。
 それをこの男に教えるようなことはどうしても出来なくて、女は口を閉ざすしかない。

「それで、なんですか? 気になっていることって」
「ああ……えっと」

 話を戻す。やや不自然だったが御手杵が追求してくることはなかった。癖のある髪を押さえるように撫でながら女は彼の言葉に耳を傾ける。男は少し、口ごもっている様子だった。

「センパイは文香にこうされて意識するようになったんだろ」
「……ええ」
「俺もそんなふうになるのかと思って」

 手が止まる。その影の下で御手杵は目を伏せ、こちらを見ないまま続けた。

「それまで何も感じてなかったのに、膝枕されただけで意識して、どきどきして、赤くなって……それ、よく分かんなくてさ。だから、やってみれば分かるか気がして。……でも、意外となんともなかった。あんたになら、そうなってもおかしくないと思ったんだけど」

 指の先から力が抜けていく。石にでもなったみたいに感覚が消える。
 御手杵の目が、不意にこちらを向いた。一瞬だけ視線が交わり、すぐに遠ざかる。今、自分はどんな顔をしていただろうか。

「……まあ、俺は結局は槍だからな。そんなの、分かるわけないか」

 御手杵は笑ってそう結論づけた。女の手を頭の上から避けて身体を起こす。曲げていた腕をぐっと伸ばし、手首を振って、漫画の続きを読もうと本の山に向かう。
 女は呆然と御手杵の背中を見つめた。彼の言葉を呑み込むのが怖くて、頭が働かない。
 なんだか、とても重要なことを言われた気がする。女が踏み込めなかった場所にさらりと入って足跡をつけて、それで何事もなかったみたいに踵を返して。
 なんで。どうして、そんなこと。

「あれ、二巻どこだ?」

 いつも通りの、明るくて、少しとぼけたような声が耳をすり抜ける。
 後ろ姿に手を伸ばした。だが、背に触れようとした手は数センチ手前で畳の上に落ちる。下ろした指先で、何度も躊躇いながら、Tシャツの裾を、く、と引いた。

「本当に……、本当に、分からないのかどうか、確かめてみませんか」

 御手杵がゆっくりと振り向いた。女の姿を捉え、目を瞠る。その瞬間、女は衝動的に口にしてしまった言葉を知った。

「あ……」

 消えてしまいたいくらいの酷い羞恥に襲われる。これじゃあ、告白したも同然だ。
 顔を俯ける。頬に熱が上ってくる。熱くて仕方がないのに、どこからか這い上がってくる寒気が気持ち悪い。

「主」
「ま、待って、その……ごめんなさい、忘れてください」

 裾を掴んでいた指を離す。行き場もなく、畳に落ちた手を見つめた。きっと、取り返しのつかないことをした。

「あんた、もしかして、俺のこと」
「……っ」

 言い切られなかった言葉を否定することも出来ない。誤魔化して、言い逃れる選択肢さえ浮かばなかった。遠回しな言い方をしたことさえ恥ずかしくてたまらない。
 心臓の鼓動ばかりが聞こえる。言葉も、呼吸の音も、何も届かない。視界がぐらぐらと揺れている気がして、まっすぐに座っているのかどうかもはっきりしない。許して、と、そんな言葉で喉が塞がる。

 突然、視線の先に御手杵の手が重ねられた。跳ねた指先が大きな手のひらに包み込まれる。そして、女の手が取られた。
 伏せたままだった目がその行方を追ってしまう。導かれた手が辿り着いたのは御手杵の胸だった。思わず引っ込めそうになった手を強く掴み、彼はさらに己の身体に押し当てようとする。
 炎の色をした衣服の、その布越しの汗ばんだ熱。それと一緒に感じたのは。

「急にこんなんなったんだけど、どうしよう」

 どくどくと、肌の下で脈打っている。耳にまで届いてきそうな、普段よりもずっと速くて、騒がしい心臓の鼓動。

「な、んで」

 声が上擦る。御手杵が熱い息を吐いた。

「あんたがそんな顔するからだ」
「自分の顔なんて、分かんない……」

 想像も出来なかった。きっと、真っ赤なんだってことしか分からなかった。
 御手杵は胸に押し当てていた女の手を丁寧な手つきに下ろした。指の間に自分の指を差し入れて、ぎゅ、と握ってくる。けれども同じように握り返すのが何故だか怖くて、女の指先は不自然に宙に浮いたままでいた。

「確かめるって、何をするつもりなんだ?」

 答えることが出来ない。視線は頑なに腕の先に張り付いている。

「……キスでも、してみればいいのか?」

 手を握るのと反対の指が頬に触れた。ひどく優しい触れ方のように思う。
 身体が近づいてきてやっと、女は俯けていた顔を上げた。

「あ……」

 震えた、声になりきらない息が唇の隙間からこぼれる。先程、彼が冗談混じりに詰めた距離と同じくらいの近さで、女は固まったまま動けない。

「止めないんだな」

 御手杵の顔は真っ赤に火照っていた。自分とどちらの方が、などと比べてみても、きっと決着なんて着かないに違いない。臙脂色の瞳は熱を帯びて、じっと女を見つめている。

「止めないんなら、するぜ」

 相も変わらず声は失われたままだ。だから、彼の言葉に対して、女は小さく頷くことしか出来なかった。
 男がごくりと唾を飲む。
 唇が触れ合う直前、女はそっと目を閉じた。

 緊張して固く結ばれた唇の上に御手杵のそれがふわりと降りる。
 呼吸が止められる。手足はこわばって、唇以外の感覚も全部曖昧だ。それなのにふわりと浮き上がるような妙な感覚が身体の奥から沸き上がってくる。どこかに飛ばされてしまいそうだと、そんなことがあるはずもないのに不安に駆られて、女は離れないままでいた男の手を初めて握り返す。

 途端に唇の感触が離れていく。名残惜しさを感じながら目を開く。御手杵は目を逸らさない。絡み合った指も解けようとはしなかった。ひとつ、深く呼吸をしてから、また唇を合わせてくる。
 ゆっくりと重なり、震えた吐息が肌に染み込んでいく。焦れったいくらいの長い時間、ずっと、ただ、触れていた。
 御手杵の手が頬を滑る。指が首筋を撫で下ろし、それから鎖骨の薄い皮膚をなぞる。女の喉がひくりと震えた。知らず知らず、指先に力がこもる。

 重ねた時と同じように、そっと唇が離れていく。触れるだけの口づけだったのに息は微かに乱れていた。荒く息を吐きながら真近でぼんやりと見つめあって、おずおずと距離を取る。繋いでいた手が離れた。

「キス、しちゃった」

 独り言のように呟く。口に出すと急に恥ずかしさが込み上げてきて、逃げ出したい気持ちになる。

「……あちぃ」

 御手杵も同じなのか、茹だったみたいに真っ赤になって手のひらで口元を隠している。視線はそっぽを向いていた。
 そんな顔を見たのは初めてだった。嬉しさや気まずさや、焦りや、いろんなものが混ざり合って、わけが分からない。人差し指で唇に触れてみる。いっぱいいっぱいだ。涙が出そうになって、女は顔を俯けた。
 と、そこにまた御手杵の手が伸びた。女の顔がくい、と持ち上げられて、唇が視線に襲われる。

「待っ、や、だめ……もうだめ、……っ」

 御手杵との間に手を挟み込み、近づいてきた唇を阻む。男の目が細められた。
 手のひらに、ちゅ、と軽い音を立てて唇が吸い付く。

「ひ、」

 湿った舌先が手のひらをつついてくるのが変にくすぐったい。その様子を見ていられなくてぎゅっと目を瞑った。
 背中がむずむずして、手を引っ込めたくてたまらなくなる。だが、そうなれば次はまた唇にされてしまうのだと思うともう前にも後ろにも行けなかった。

 痺れを切らしたのか、唇が手のひらから離れていく。解放されたのだと思った瞬間に、唇は額に落とされて、それから眉の根や瞼の上へと降りていった。

「っ、や」

 目を閉じていても、男の唇が瞼の膨らみをなぞっているのが分かる。心臓がはちきれそうだ。
 段々と腕から力が抜けていく。手首が掴まれ、薄い盾が女の前から退かされてしまう。

「なんか、悪いことをしてる気分だ」

 女はおそるおそる目を開いた。御手杵は眉尻を下げ、赤らんだ顔で困ったように笑っている。顔の色を除けば、いつもの御手杵だ。女はほんの少し安心した。

「けど、最初に誘ったのはあんたの方だぜ」

 次の瞬間、色の変わった目にぞくりとする。
 答える間も与えられず唇が奪われた。上の唇を食むように挟み込んで、柔らかさを確かめるみたいに吸い付いてくる。手首が解放され、代わりに女の頭の後ろに手が添えられた。
 女は自由になった手を、それで押し返すことも出来ずに膝の上で握った。拒みきれないのをきっと彼も知っていたのだろう。

 ――悪いこと。悪いこと。
 御手杵の言葉が虚ろな頭の中で踊る。

 その通りだろう。こんな時間から、二人きりの部屋で、恋人でもない男と口づけを交わすだなんて。
 それでこんなにどきどきして、喜んでしまっているんだから、本当、悪い女だ。

「ん、……っ」

 突然、御手杵の舌が唇を割った。差し込まれた舌が歯列に届く。混乱して、口を閉じたままぐっと堪えていると、瞼の向こうで男が笑った気配がする。去り際、ぺろりと唇を舐められた。

 なんで、なんでそんなことをしてくるんだろう。女は眉を寄せて小さく呻いた。空気に晒されて冷えるせいで、唇がしとりと濡れているのを一層感じてしまう。
 御手杵はその長い指を自身の唇に当てた。口づけを思い出しているのか、あるいは何か別のことを考えているのか。また、されたらどうしよう、なんて。そんなことを思い、これでは期待しているみたいだと恥ずかしくなる。

「主」
「は、い」

 どぎまぎしつつ、なんとか答える。言葉はまだまだ戻ろうとしない。
 そんな女の身体を男は躊躇いもせず引き寄せた。背中に回された腕が女をかき抱いて、茶色い癖のある髪が肩にうずめられる。

「あ、わ、御手杵、っ」

 頭が追いつかないまま懐に閉じこめられている。ひとかけらの余裕もない。ひどいものだ。
 すう、と息を吸う音が聞こえた。汗の匂いがしないかなんてことが急に気になって、御手杵を押し退けたい衝動に駆られる。

「どう思う?」

 何の、話だろう。捉えきれない言葉から見えない表情を想像する。

「御手杵に殺されそう……」

 自分でもびっくりするくらい気弱でか細い声が出た。御手杵が噴き出す。くつくつと笑っている。肌に息が当たって、こそばゆい。

「今さ」
「……うん」

 耳のすぐそばで聞こえる音に意識が持っていかれる。低い声は心臓とは真逆に落ち着いていて、女の頭に染み渡っていった。

「今っていうか、さっきから急になんだけど、あんたに触りたくて仕方ないんだ」

 腕の力が一瞬だけ強まって、すぐに緩んだ。息が詰まりそうになりながら御手杵を見る。頭に乗せられた手がくしゃりと髪を撫で、頬へと降りてくる。少し乱れた髪を直すことも出来ないまま、女は御手杵を見つめ続けた。

「身体も熱いし、これってあんたを好きってことなのか?」

 御手杵は柔らかく目を細めて女を見つめている。その視線の中で女は口を開いては閉じ、単語を見つけては捨てながら、何度も言葉を探した。

「急です……」

 ようやく出てきた色気のない返事に、御手杵は顔を緩めて笑った。だよなあ、と、そう同意する指が頬を撫でる。
 何が楽しいんだろう。理由が読めず戸惑う女に、また御手杵の唇が重ねられる。

「っ、ん」

 刹那に目を閉じる。
 もう、三回目か、四回目か。それなのに全然慣れそうにない。唇を固く結ぶ。指が男の服の裾を掴んでいる。

「他の奴にされても、そんなふうにおとなしくしてるのか?」

 息の掛かる距離で問われる。ふるふると、女は小さく首を横に振った。

「しない」
「そっか」

 ひどく優しげな声色が胸を打った。
 きっと、全部、知られているのだ。言葉にするまでもなく、指先から、肌から、視線から、吐息から、秘めていたかったはずのものがあふれてしまっている。

「なあ、こうするのは、恋人だけなんだろ」

 額を合わせ、唇が触れるか触れないかの近さで低い声が囁く。随分昔のことのように思われる会話が頭の片隅をよぎった。

「じゃあ、こうしたら、恋人になったりするのか?」

 女は静かに瞼を持ち上げた。瞳いっぱいに映るその人の姿に、目眩さえ覚える。

「なって、くれるんですか」

 肉の薄い頬に手を伸ばしてみると、指先が酔いに溺れたような熱を捉える。その火照りに女は怯えた。

「さっき、分かんないって、言ったばかりなのに。槍だから、って」

 否定をしたいわけではない。それでも問わずにはいられなかった。
 だが、御手杵は事も無げに言うのだ。

「俺もびっくりしてる。でも、あんたが言ったんだろ。確かめてやるから、あんたのことを好きなんだって気づけ、って」

 女は目を白黒させる。男は至って真面目な口調で、それが一層女をまごつかせた。

「わ、私そんな言い方してない……っ」
「けど、そういうことだろ?」

 断言するような言い方をされ、二の句が継げなくなる。
 そういうこと、だったのだろうか。そういうことだったのかもしれない。今となれば、だが。だとすれば、自分はなんて虚勢に満ちた物言いをしたのだろう。穴があったら入りたい気分だ。 
 頬が別の理由で熱くなる。俯けようとした顔を御手杵の手が拒んだ。

「なあ、俺、気づいちまったみたいだ。だからあんたが頷いてくれないと困る」

 少しだけ眉間を寄せて、首を傾げ、つい先ほどまでの勢いが嘘みたいに不安げに、御手杵は微笑んだ。

「駄目か?」

 聞き方がずるい、だとか。そんな目で見られたら、どうしようもできない、だとか。言いたいことはたくさんあるのに、やっぱりいつもみたいに話すことが出来ない。とっくの昔に決まっている答えも、どうにかもっと綺麗に伝えられたらと思うのに、意気込めば意気込むほど心臓は邪魔した。
 視線を合わせているのも限界になって、女はぎゅっと目を瞑る。

 大丈夫。大丈夫。
 呪文のように唱え、それからようやく、女は唇を開いた。

「好き、です……っ、よ、よろしくお願いします……」

 吐き出した言葉は徐々に萎んで、情けないくらいに不格好だ。

 けれども、肌に触れた吐息は優しく笑って。
 そしてもう一度、唇が重なった。




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#RTされた数だけ審神者に近侍を乗せる
RT14 ふぁぼ15 → 29回

・「乗せる」?????????
・8回くらい審神者が乗ってる

内訳


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