ここにしか墜ちたくない
開け放たれたぬるい空気の中で、眩しい肌色に目が留まる。
「あまね」
女が気づいたのとほぼ同時に縁側のすぐ傍で御手杵が振り向いた。ぐしゃぐしゃに丸めた色の濃いTシャツを手に、引き締まった上半身をひさしの狭い影の中に晒している。内番の休憩中のようだ。
「お疲れさまです」
「ん」
額から止めどなく流れる汗を拭いながら男は頷いた。額だけではなく、頬や首筋、胸や脇腹まで、身体中を透明な粒が伝っている。今日の気温は何度だったろう。きっと今が一番苦しい頃だ。
前髪が持ち上げられ剥き出しになった額に手を伸ばす。縁側の高さの分だけ触れやすい。汗が浮かんだ肌は熱く、女の指先はべたりと濡れた。
「汚れちまうぞ」
「いいですよ」
庭に広がる景色は痛いくらいに鮮やかだ。青々とした葉は沈黙を守り、雲は一つたりとも傲慢な日差しから男を庇いはしない。
眉の下の汗を掬う。閉じられた瞼さえ熱を宿していた。
「ちゃんとお水は飲みましたか?」
「飲んだよ」
「倒れるまで働いちゃだめですよ。適度に休憩して、無理はしないで」
「今ちゃんと休んでるって」
窘めるように言われる。確かにその通りだ。日に焼かれていた肌が余りにも熱いから、無性に心配になってしまう。
確かめるように額に手の甲を添えてみる。だが、その手はすぐに御手杵に取られてしまった。
「あんたの手、気持ちいいな」
手のひらに火照った頬が押し当てられる。つい先刻まで女が過ごしていたのは冷房を効かせた自室だ。御手杵の肌よりもずっと冷えているのは当然だろう。
「部屋にいましたから。ごめんなさい」
「いいよ。あんたが外の仕事やって、焼けたりしたら嫌だし」
「……あなたにそんなこと言われると不安になります」
「なんでだよ」
眉を曲げて苦笑される。女を労わるなんて発想を持つようになったのが意外だったから、などと言ったらさすがに怒られるだろうか。
「ま、こうやって手をくれるならそれでいいさ」
手のひらに頬を擦り寄せ、御手杵は気持ちよさそうに目を細めた。
「私の手なんかでいいんですか」
男の体温より低いとはいえど、所詮人肌だ。
ちょうど台所へ向かうところだった。少し待っていてくれたら氷水を袋にでも入れて持ってきてやれる。そのほうがずっと冷えていて心地いいだろう。
「ん、じゃあ」
頷くでも否定するでもなく御手杵は両腕を横に大きく広げた。肉がぎゅっと詰まった鍛えられた胸が女に向かって開かれる。くっきりとした鎖骨や腹部の線がその肉体を一層引き締めている、ように思う。
そう観察しながら数秒、女は目を瞬かせながら彼の上体を見つめた。
「さすがに嫌か」
落胆した様子で腕が引っ込められる。苦笑いと一緒に零された言葉でようやく意図を知った。
「誰も、見てない?」
ぐるりと一周、御手杵は身体ごと視線を巡らせた。時が止まったように静まり返る広間。遠く蝉のさんざめく庭。目眩を覚える青い空の下で山の稜線は滲んでいる。
「誰もいないぜ」
「じゃあ、」
床板の縁で手を伸ばす。汗の垂れる首裏に素肌の腕を絡め、厚い胸に身体を寄せる。重いTシャツが湿った音を立てて石段の上に落とされた。
「あー……生き返る」
広い胸にすっぽりと女を収めながらしみじみと呟かれた言葉に、思わず笑ってしまった。
「気持ちいい?」
「超、気持ちいい。けど、あんたこれ絶対熱いだろ」
「熱いです」
日に晒されていた皮膚は血が沸騰しているのかと思わせる程の熱を放っている。絶えず流れる汗は女の身体を湿らせた。ワンピースの色が変わっているかもしれないが、それも洗濯してしまえば一緒だ。
「汗の匂いがする」
「……うわ、なんか可哀想になってきた」
「誰が?」
「あんたが。離れたほうがいいか?」
首を横に振る。きゅ、と抱き付く腕に力を込めた。
「離れなくていいです」
「汗臭いんだろ」
「男の人の匂いだな、って、思ってただけ」
御手杵が肩をすくめたような気がする。逞しい腕は変わらず女を抱きしめていたから、気がした、だけなのだけれども。
「あんた、たまに変なこと言うよな」
「そんなことないですよ」
「そんなことあるよ」
おかしな口調に頬を緩ませる。御手杵も少しだけ笑う。
そのあと、意味もなく沈黙が降りた。
姦しい蝉が蘇る。空の色を急に思い出して、男の肩越しにそっと覗いてみた。
一片の曇りもない青から目を逸らした先、木陰のさらに向こうに丈の高い花が並んでいる。陽を追い続けるあの花は、もう彼の背を越したのだろうか。女はぼんやりとそんなことを考えた。
触れた肌に熱が染み込んでいく。体温が混ざり合うのを感じている。黄色も、緑も青も、全てが遠い。
「溶けちゃいそう」
囁いた吐息が男の胸に滲む。戯れた言葉を笑いもせず、御手杵は女の頬に張り付いた髪を耳に掛けた。
「離れるか?」
「離れたいですか?」
「……まだ。もうちょっとだけ」
「じゃあ、もうちょっとだけ」
風鈴が思い出したかのように身体を揺らす。風が頬を撫でたのに気づかない振りをして、あと少しだけ、目を閉じた。
開け放たれたぬるい空気の中で、眩しい肌色に目が留まる。
「あまね」
女が気づいたのとほぼ同時に縁側のすぐ傍で御手杵が振り向いた。ぐしゃぐしゃに丸めた色の濃いTシャツを手に、引き締まった上半身をひさしの狭い影の中に晒している。内番の休憩中のようだ。
「お疲れさまです」
「ん」
額から止めどなく流れる汗を拭いながら男は頷いた。額だけではなく、頬や首筋、胸や脇腹まで、身体中を透明な粒が伝っている。今日の気温は何度だったろう。きっと今が一番苦しい頃だ。
前髪が持ち上げられ剥き出しになった額に手を伸ばす。縁側の高さの分だけ触れやすい。汗が浮かんだ肌は熱く、女の指先はべたりと濡れた。
「汚れちまうぞ」
「いいですよ」
庭に広がる景色は痛いくらいに鮮やかだ。青々とした葉は沈黙を守り、雲は一つたりとも傲慢な日差しから男を庇いはしない。
眉の下の汗を掬う。閉じられた瞼さえ熱を宿していた。
「ちゃんとお水は飲みましたか?」
「飲んだよ」
「倒れるまで働いちゃだめですよ。適度に休憩して、無理はしないで」
「今ちゃんと休んでるって」
窘めるように言われる。確かにその通りだ。日に焼かれていた肌が余りにも熱いから、無性に心配になってしまう。
確かめるように額に手の甲を添えてみる。だが、その手はすぐに御手杵に取られてしまった。
「あんたの手、気持ちいいな」
手のひらに火照った頬が押し当てられる。つい先刻まで女が過ごしていたのは冷房を効かせた自室だ。御手杵の肌よりもずっと冷えているのは当然だろう。
「部屋にいましたから。ごめんなさい」
「いいよ。あんたが外の仕事やって、焼けたりしたら嫌だし」
「……あなたにそんなこと言われると不安になります」
「なんでだよ」
眉を曲げて苦笑される。女を労わるなんて発想を持つようになったのが意外だったから、などと言ったらさすがに怒られるだろうか。
「ま、こうやって手をくれるならそれでいいさ」
手のひらに頬を擦り寄せ、御手杵は気持ちよさそうに目を細めた。
「私の手なんかでいいんですか」
男の体温より低いとはいえど、所詮人肌だ。
ちょうど台所へ向かうところだった。少し待っていてくれたら氷水を袋にでも入れて持ってきてやれる。そのほうがずっと冷えていて心地いいだろう。
「ん、じゃあ」
頷くでも否定するでもなく御手杵は両腕を横に大きく広げた。肉がぎゅっと詰まった鍛えられた胸が女に向かって開かれる。くっきりとした鎖骨や腹部の線がその肉体を一層引き締めている、ように思う。
そう観察しながら数秒、女は目を瞬かせながら彼の上体を見つめた。
「さすがに嫌か」
落胆した様子で腕が引っ込められる。苦笑いと一緒に零された言葉でようやく意図を知った。
「誰も、見てない?」
ぐるりと一周、御手杵は身体ごと視線を巡らせた。時が止まったように静まり返る広間。遠く蝉のさんざめく庭。目眩を覚える青い空の下で山の稜線は滲んでいる。
「誰もいないぜ」
「じゃあ、」
床板の縁で手を伸ばす。汗の垂れる首裏に素肌の腕を絡め、厚い胸に身体を寄せる。重いTシャツが湿った音を立てて石段の上に落とされた。
「あー……生き返る」
広い胸にすっぽりと女を収めながらしみじみと呟かれた言葉に、思わず笑ってしまった。
「気持ちいい?」
「超、気持ちいい。けど、あんたこれ絶対熱いだろ」
「熱いです」
日に晒されていた皮膚は血が沸騰しているのかと思わせる程の熱を放っている。絶えず流れる汗は女の身体を湿らせた。ワンピースの色が変わっているかもしれないが、それも洗濯してしまえば一緒だ。
「汗の匂いがする」
「……うわ、なんか可哀想になってきた」
「誰が?」
「あんたが。離れたほうがいいか?」
首を横に振る。きゅ、と抱き付く腕に力を込めた。
「離れなくていいです」
「汗臭いんだろ」
「男の人の匂いだな、って、思ってただけ」
御手杵が肩をすくめたような気がする。逞しい腕は変わらず女を抱きしめていたから、気がした、だけなのだけれども。
「あんた、たまに変なこと言うよな」
「そんなことないですよ」
「そんなことあるよ」
おかしな口調に頬を緩ませる。御手杵も少しだけ笑う。
そのあと、意味もなく沈黙が降りた。
姦しい蝉が蘇る。空の色を急に思い出して、男の肩越しにそっと覗いてみた。
一片の曇りもない青から目を逸らした先、木陰のさらに向こうに丈の高い花が並んでいる。陽を追い続けるあの花は、もう彼の背を越したのだろうか。女はぼんやりとそんなことを考えた。
触れた肌に熱が染み込んでいく。体温が混ざり合うのを感じている。黄色も、緑も青も、全てが遠い。
「溶けちゃいそう」
囁いた吐息が男の胸に滲む。戯れた言葉を笑いもせず、御手杵は女の頬に張り付いた髪を耳に掛けた。
「離れるか?」
「離れたいですか?」
「……まだ。もうちょっとだけ」
「じゃあ、もうちょっとだけ」
風鈴が思い出したかのように身体を揺らす。風が頬を撫でたのに気づかない振りをして、あと少しだけ、目を閉じた。
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