家中 (後)

 石神千空は石神村の長である。
 一度認めててしまえば、それは何ら大したことではなかった。
 石神千空は石神村の長である。
 それがなんだ、どうかしたのか?という感じだ。
 そもそも、あまねと結婚してしまった時点で一度は諦めがついていたのだ。その座をよりにもよって余所者の千空が手に入れ、あまつさえ巫女とあっさり離婚などするから、余計にこじれてしまったのである。それなら自分が村長になったって構わないだろう、と。

 しかし、一旦認めてしまえば楽なものであった。
 村で誰かが千空の話をしていても気に障らない。千空が村に立ち入っていても、『お、いるな』くらいの感想で済ませられる。それだけでこんなに生きやすいものだったかと感動するほどだ。

「あまね」

 マグマは己の妻の名前を口にした。
 ぱっとあまねが振り返る。彼女は明るい笑顔を浮かべ、とてとてと近寄ってきた。

「マグマ、どうしたの?」

 昼下がりの村は穏やかだ。冬のくぐもった日差しが柔らかくあまねを照らし、黒髪を艶々と輝かせている。
 特に用などなかった。単に姿が目に映ったから、その名前が口をついて出ただけのことだ。
 用などなかった、が、マグマは彼女の手元に見慣れない物体があることに気がついた。すり鉢状の器の中に、四角い銀の薄板や、黒い石が所狭しと詰められている。

「何だそりゃ」
「あっ、これ? マンガン電池の材料よ。今みんなで作ってるの。あとね、…300個…」

 最後のほうだけやたらと重苦しい口調であまねが言った。
 電池というものは知っていた。あの危険な水銀が入った透明な瓶のことだ。
 それと今あまねが持っている材料から作られる何かが同じ電池であるとは俄には信じがたいが、千空の言うことなのでそうなのだろう。実際にマグマに説明したのはあまねだが、この村の全ての科学は千空に通ずるのである。

「マグマも一緒に作る?」
「あ? 何で俺が」

 とんでもないことをさらっと言う。こんな見るからにちまちました作業、1ミリもやりたくない。
 話だけで辟易していると、あまねが小さく微笑んだ。

「聞いてみただけ」

 マグマはムッとした。分かったような顔をされると、途端に反抗したくなる。

「どうやんだよ」

 そう尋ねると、あまねは面白いくらいに目を丸くした。

 あまねに連れられて、マンガン電池の作業場となっている家に入る。部屋の真ん中で石炭のストーブが焚かれており、じんわりと暖かい。
 ストーブの脇にはあまねの姉であるルリが座っている。彼女はこちらを見ると不思議そうな表情をした。

「マグマ…?」
「あのね、手伝ってくれるんだって」
「そうなんですね、助かります」

 ルリはニコリと微笑んで言った。受け入れるのが早すぎやしまいか、とマグマは思ったが、…まあいい。完璧なマンガン電池を作ってあまねの鼻を明かしてやるのが先である。
 亜鉛でマンガンを包み、炭を乗せる。あまねが手本として作る様子をつぶさに観察したマグマは、とりあえず1個、試しに作ってみた。なんとも簡単な手順だ。小さくて作りにくかったが、まあ良い出来だろう。
 続けて数個、黙って作ってみる。
 そして言った。

「飽きたな」
「ええ…早いよ…」

 あまねが膨れっ面をした。私が今まで何個これを作ってきたと思ってるの?とでも言いたげな顔だ。
 しかし、マグマが度々力を貸している製鉄も単純さで言えば似たようなものだ。疲れは桁違いだが、同じ単純作業ならやはり体力を使うほうがまだ自分に向いている。力尽きて倒れ込む度に、もう二度とやるものかという気持ちにはなるものの。

「ルリちゃんあまねちゃ〜〜〜ん! ボクも手伝うよぅ!」

 文句を重ねようとしたところで、作業場に思わぬ闖入者がやってきた。
 飛び込んできたのは銀狼であった。辛い作業から逃れる目的が半分、おなごの楽園を求める目的が半分。つまりは欲望に忠実に従ってこの場に訪れた彼は、マグマを見て大いにたたらを踏んだ。

「ええええ何でマグマっ!?」

 ビョッと飛び跳ねて後ずさる。いちいち大袈裟なヤツだ。

「俺がいたら悪いのか」
「いやぁ、マグマには他にもっといい仕事があるでしょ…」

 心なしか銀狼は呆れたようでもあった。
 マグマは苛ついたが、至極真っ当な感想だとも思った。あまねとルリがそう思い至らないほうがおかしいのである。
 ほら見ろ、と彼はあまねに目をやった。彼女は視線の意味が分かってないようで、ぼけた顔のままだ。
 ピコーン、と銀狼が何かに気づいたような顔をした。彼はニヤニヤとゲスい笑みを浮かべながら、マグマに近づいて言った。

「もしかして、マグマってばあまねちゃんと一緒にいたいから手伝ってるんじゃないの〜?」
「…えっ、そうなの?」

 銀狼はマグマの耳元に顔を寄せていたが、声を潜めることは忘れていたようだ。普通にあまねのほうにも聞こえてしまっていたらしく、彼女はぱちっと目を丸くした。

「んなわけあるか」

 マグマは呆れ果てて言った。
 全く、噴飯物の話である。あまりに適当なホラなので怒る気にもならない──が、ニヤけ面が気に食わなかったのでマグマは一発銀狼を殴っておいた。

「ギャッ」
「きゃっ…大丈夫ですか…?」
「ま、マグマ、殴っちゃ駄目よ」

 あまねが銀狼を庇うようなことを言うので、マグマは思わず舌打ちをした。

「じゃあ何でマンガン電池なんか作ってるんだよぅ…」
「どうだっていいだろが」

 メソメソする銀狼を尻目に立ち上がる。丁度やめようと思ってたところだ。

「行っちゃうの?」
「こんなチマチマしたもんやってられっか!」
「あ……手伝ってくれてありがとうございます」

 作ったのは片手に満たない数だったが、ルリが馬鹿丁寧に礼を言った。

「ありがとう、マグマ」

 あまねもまた同じように微笑んだ。短い感謝の言葉には、どことなく甘えた響きが溶けている。
 マグマはフンと鼻を鳴らした。悪い気はしなかった。

 作業場を出て少し歩いたところで、眉を吊り上げた金狼が駆けてくるのが見えた。
 彼は真っ直ぐにマグマが先程までいた家に向かっていく。十中八九、銀狼を連れ戻しに来たのだろう。いい気味である。


***


 ルリがあまねの結婚を知ったのは、2度目の御前試合の日のことだった。
 御前試合は開始前から違和感に満ちていた。試合の組み合わせを決める時間になっても、マグマが現れないのだ。
 村で一番の膂力を誇る彼は、最も村長に近いと見做されていた男である。数ヶ月前の試合ではコハクに敗れていたが、それで挫けるような人間でもない。寧ろ次こそはと完膚なきまでに潰そうとしてくるだろう。
 だというのに、どこにもマグマの姿はない。そして、それ以上に不審なのは、村の皆が彼の不在を当然のものとして扱っていることだ。

 ルリは父のコクヨウに尋ねた。この時のルリはまだ、怪我をしたとか、具合が悪いとか、そういった事情だろうと思っていた。
 しかし、コクヨウは口篭るばかりで、何も話そうとしない。歯を噛み締め、目を伏せる。何かを堪えんばかりに眉間に深く皺が刻まれる。握り込められた拳が震えているのを、ルリは見た。
 短くない時間、黙り込んだ末に、コクヨウは吐き出すように言った。

「マグマが村長になることはない」

 …違う。知りたいのは、その理由のほうだ。
 しかし、ルリは口を噤んだ。おいそれとは尋ねられない事情なのだと察した。けれど、それ以上に、怒りと、おそらくは悲しみに震える父の姿に、衝撃を受けてしまっていた。
 だが、マグマが夫でないのは、ルリにとっては喜ばしいことだ。……少し、嘘。本当は、ただ一人以外は、誰が夫でも同じことだけれど。
 ともかく、これ以上マグマについて気にする必要はない。そう思って、ルリは無理やり広場のほうに目をやる。集まった村民達を眺める。そして気がつく。
 あまねがいない。

 おかしな話だった。姉の結婚相手が決まるこの場に、理由なくあまねが来ないわけがない。
 ルリは再度コクヨウに尋ねた。御前試合に集中しろと言われたが、折れることはできない。できるわけがない。あまねがいない理由はきっと、マグマの不在と無関係ではないと、ルリは直観していた。
 いつまでも隠し通せはしないと諦めたのだろうか。問い詰め続けてようやく、コクヨウは重い口を開いた。
 そしてルリは、最愛の妹であるあまねがマグマと結婚したことを知ったのだ。

 信じられなかった。倒れるかと思うほど動揺した。千空という、石神村にとって大いに意味のある名前を耳にした時よりも余程衝撃だった。
 二人は恋人なんかじゃなかった。あまねからそんな話を聞いたこともない。確かにあまねはどこに出しても恥ずかしくない自慢の妹だ。しかし、一体何があればあのマグマが、あれだけ切望していた長の座を捨て、あまねと夫婦になる道を選ぶというのだ。
 ルリの混乱が収まるのを待たず、御前試合は始まった。そして、その後自身の病状が悪化し、サルファ剤での治療が始まったため、あまねとゆっくり話す機会を得たのはずっと後のことだ。それまでルリは、望まぬ婚姻なのかと気を揉んで、揉んで、眠れないほど悩んだ。たぶんそのせいで完治が何日か遅れた。
 自然に二人のことを受け止められるようになったのは最近のことだ。あまねがマグマのことを本当に好いているのだと。そしてマグマも、彼女のことを、周囲が思っていたよりは大事にしているらしいと。それが分かってやっと、ルリは安心して肩の力を抜けたのである。

『見たかルリ、ヤベーだろ! 科学はよ…!』

 クロムのよく通る声がマイクから聞こえてくる。
 年が明け、ようやくケータイが完成した。電波を飛ばして音声を受け取るにはケータイがもう1台必要なのだが、導線を長く伸ばすことで遠く離れた場所同士でも会話ができるらしい。というわけで、科学倉庫と巫女の社に別れて通話のテストを行っているところである。
 マイクの向こうからは何故か落胆する周囲の声も聞こえたが、テストは見事に成功したようだ。巫女の社では歓声が上がった。

『全く、いつまで経ってもクロムはクロムだな……まあいい。どうだ、あまねもやるか?』
『コハク…!? やらない、やらないから!』

 茶化すようなコハクの声に続き、焦るあまねの声が科学倉庫から届いた。

「うおっ、あまねか…?」

 マグマが目を丸くしてマイクに顔を近づけた。向こう側であまねが驚いているのが、気配だけで分かる。

『マ、マグマだ…』

 それきりあまねの声は聞こえなくなった。黙ってしまったか、あるいはマイクの前から離れたか。はっきりとは分からないが、直前の声は少し照れていたように思う。なんだか微笑ましくて、ルリは顔を綻ばせた。
 それにしても、遠く離れた人の声が聞こえるなんて、本当にすごい技術だ。妖術なんかじゃない、種も仕掛けも再現性もある科学。人類が手にした叡智の結晶。それが3700年振りに蘇って、今ルリの目の前にある。

「わけわかんねえ、なんでこんな小せえのが喋んだよ…!?」

 全身から疑問符を飛ばしながらマグマが目を剥いている。胸の奥を感動に震わせながら、まるでスピーカーですね、とルリは微笑んだ。
 その一言を切っ掛けに、百物語に隠された秘密が紐解かれることになるとは思いもせず。

「あの親父の墓標! 墓地だ…!」

 ゲンとの会話の中で千空が何かに思い至ったようだ。一分一秒を惜しむように駆け足で社を出ていく。

『墓地? おう、よく分かんねーけど墓に行けばいいのか?』
「ええと、そうみたいです…」

 科学倉庫のメンバーにそう答えて、ルリは千空の後を追った。後ろからはターコイズとジャスパーも付いて来てくれている。
 巫女の社の階段を駆け下りてゆく。あのスピーカーの物語は一体何を示していたのだろう。千空は一体何に気づいたのだろう。そんなことを考えていたのが、良くなかったのかもしれない。
 突然、ルリの身体が宙に浮いた。

「ルリ様!」

 ジャスパーが叫ぶのが聞こえる。階段の縁を踏んでバランスを崩したのだと気づいた時には、身体は地表に向けて傾いていた。
 刹那に心臓が跳ねる。全身がこわばる。地面はずっと先で、咄嗟に前に伸ばした腕も意味をなさない。
 そうして今にも階段を転がり落ちんとするルリの体は。
 ──振り向いたマグマの腕に抱き留められた。

「大丈夫かよ」

 ルリは目を見開いたまま固まった。心臓がばくばく跳ねている。どうやら、助かった、らしい。
 ルリの前を駆け下りていたマグマが、ジャスパーの声を聞いて咄嗟に振り向いてくれたようだ。マグマはルリの体重も重力も物ともせず、幹のような腕で彼女の体をしっかり支えている。

「あ、ありがとうございます」
「ルリ様、お怪我は…!?」
「えっと…大丈夫、みたいです」

 ターコイズが心配そうにルリの状態を確認する。
 ルリはマグマの腕を支えに体勢を整えた。速度が掛かる前に支えてもらったおかげで、さほど痛みはない。階段を踏み外した足首も無事だ。

「マグマがルリ様を助けるとはな…助かったぞ」

 ジャスパーが胸を撫で下ろしながら、しみじみと言った。

「目の前に落ちてきたら普通支えんだろ」

 意外そうに言われたことが不満だったのか、マグマはどこかふてくされた顔だ。ジャスパーは含み笑いをした。
 しかし、マグマは年明けの洞窟探検でも咄嗟に千空を助けたと聞く。荒くれ者の印象が強い男だが、元々そういう性分も持っていたのだろう。
 居住区とを結ぶ橋まで行っていた千空とゲンもこちらのトラブルに気づいたようだ。心配した様子で駆けてくる。ルリは申し訳なく思いながら、大丈夫だと彼らに伝えた。

「本当に助かりました」

 頭を深く下げ、改めてマグマに感謝の言葉を述べた。彼がいなかったらと思うとぞっとする。
 マグマは気を良くした様子で、口を大きく開けて笑った。

「ムハハハハ! 礼をしたいと言うならば、司帝国を潰した暁にはこのマグマ様を長に推すんだな、巫女よ!」

 巫女。
 その言葉がふと引っかかった。まだ呼ばれることの多い呼び名。石神村でのルリの役割。
 とはいえ、巫女の役目は既に果たしたと言っていい。3700年前と今の言語は既に繋がった。石化から復活した千空に、彼の父である百夜からのメッセージを伝えることもできた。ルリが『元』巫女と呼ばれるようになる日もそう遠くはないのかもしれない。
 ただ、今気になったのは、そういった事情とはあまり関係はなく。目の前の相手が、自分をそう呼んだことだ。
 だって、ルリはコクヨウの娘で。コハクと、あまねの姉で。それはつまり。

「そうだ、マグマ。知っていましたか?」
「あん? 何をだよ」
「私はあなたの義姉でもあるんですよ」

 その時のマグマの顔と言ったら。ぽかんと口を開けた表情はどこかあどけなく、寝耳に水と言わんばかりの顔を見るに、そんなことは考えたこともなかったらしい。
 ルリは微笑んだ。
 彼とも仲良くなれたらいいと思う。自分達は家族だし、何より、あまねを好きな者同士なのだから。


***


 身体がぽかぽかと温かい。それは家の真ん中にあるストーブのおかげだけではないだろう。なんだか、すごく楽しい気分だ。

「ふふふふん〜ふ〜ん〜ふん〜♪」

 ご機嫌な鼻歌を歌いながらあまねはマンガン電池を作っている。
 もうすっかり慣れた手つきだ。ケータイが2台必要だと明らかにされた時は目の前が暗くなったものだが、話をしながら進められる作業だし、そうつらいものではない。

「テメエ、本当に酒に弱いな」

 と言って、マグマはぐび、と酒を呷った。空になったお猪口を差し出してきたので、あまねは一旦鼻歌と手を止めて酌をする。
 とうに日は暮れ、夕食を済まし、寝支度も整えた。1日の最後に残るのは夫婦の団欒の時間だ。
 マグマの左手があまねの頬に伸ばされる。あまねは一杯ほど酒を口にしただけだが、元々あまり強くないので既にほろ酔いだ。

「ひんやりしてる」
「お前が熱いんだろが」
「気持ちいい…」

 心地よい温度に惹かれて頬を擦り寄せたが、掌はふっと離れていってしまった。
 あまねはしょんぼりしながらマンガン電池の作業に戻る。少しだけ沈黙の時間が続いたので、また鼻歌を歌った。今度は、レコードの歌の一番盛り上がるところだけ。
 その間、マグマは話しかけてこなかった。酒の肴に聴いていたのかもしれない。

「ヘタクソ」

 が、歌い終わったところで端的に罵倒された。

「そんなに下手だった?」
「リリアンとかいう奴と全然違えじゃねえか」
「そこと比べないでよぉ…」

 たくさんの人から認められていた本業の歌手と比べられてしまうとどうしようもない。こちとら鼻歌が限界なのである。
 あまねは眉を下げて拗ねた。その様子を見たマグマが愉快そうに笑う。
 ここで、マグマが楽しそうならいいか…、なんて思ってしまうのが、あまねという女であった。

「お前はいつまでんなモン作ってんだ」
「え? んー、寝るまで…?」
「明日やりゃいいだろ」

 くいくい、とマグマの指先があまねを招く。
 あまねはぱっと目を輝かせた。マンガン電池の一式を家の隅に置き、いそいそと夫の左斜め前に腰を下ろす。
 寄越されたお猪口を受け取ると、マグマが徳利を傾けて注いでくれた。

「あっ、ちょっとだけにして」
「ああ? 俺の酒が飲めねえのか」
「アルハラだぁ…」

 こんな言葉があるくらいなので、昔の人もお酒には困っていたのかもしれない。今のあまねは楽しいので、深刻な話ではないのだけれど。
 なみなみと注がれた酒をこぼさないよう、気をつけながら唇を付け、こくりと一口。
 清らかな水で造られた酒が全身に染み渡る。喉の奥が微かに熱くなる。少し遠くのほうから眠気がまた一歩近づいてくる感覚。それから。
 …お酒を飲むと甘えたくなるのはどうしてだろう。

 あまねは少しだけ座る位置を変えた。太腿同士が触れるくらい身体を密着させて、マグマの胸元のほうに上体を預ける。体の力を抜いて寄りかかっても、体格のいいマグマはびくともしない。
 邪魔と言われるかもしれないと思ったけれど、そんなことはなく、マグマはあまねの腰を抱え込むように左腕を回した。

「さっきの、何だよ」

 マグマから降ってきたのは予想外の問い掛けだ。

「さっきの?」
「歌ってただろ。レコードの前のやつだ」

 ああ、とあまねは得心がいった。先程マンガン電池を作りながら歌っていた鼻歌のことだ。彼の言う通り、レコードの歌の前には別の曲を歌っていた。たぶん、マグマはその歌を今初めて聴いたのだろう。

「えっと…これもリリアンさんの曲なんだって。ゲンが教えてくれたの。曲名は忘れちゃったけど…」

 ちゃんとタイトルも聞いたのだが、あんまり馴染みがない響きの言葉だったので覚えられなかったのだ。
 それにしても、とあまねは考える。
 石神村にも一応、歌という文化はあった。けれど、リリアンの歌はそれとは全然違う。心の奥底まで染み込んでゆく透き通る声。聴いているだけで泣いてしまうくらい情感あふれる表現。どこか別の場所に連れて行ってくれそうなメロディー。
 歌一つ取っても人類が積み上げてきた技術や技巧というものが存在するのだ。長い年月を掛け研鑽されてきたものは、科学だけじゃない。
 歌詞は曖昧にしか覚えてないということだったので、あまねが教えてもらったのはメロディだけだ。けれど、この先人類が復活していけばもっと詳しく覚えている人もいるだろうと、ゲンは言っていた。

「こんな歌がいっぱいあったなんて、すごいね」

 目を閉じる。数多の歌が作られ、広がり、奏でられる世界を想像する。

「たくさんの人を復活させて、歌とか、お話とか、色んなものが増えたら、きっと素敵だね…」

 あまねは夢心地で囁いた。それはほとんど独り言のようなものだ。

「…そうだな」

 けれど、控えめながらもはっきりとした同意が返ってきて、あまねは胸の内で密かに驚く。マグマが素直に共感してくれるとは思っていなかった。
 しかし、レコードの歌が初めて流された時。確かに、マグマも感動したような顔をしていた。目を見開いて、回るレコードをじっと見つめて、そこから響き渡る音楽に聴き入っていた。あんまり見たことのない表情だったから、あまねはこっそりと目に焼き付けていたのだ。
 間を置いて、じわじわと喜びが湧き上がってくる。なんだか、すごく嬉しい。
 あまねは頬を甘く緩ませた。笑い声を漏らしながら、マグマの胸に頬をすり寄せる。

「なんだよ」
「えー、んふふ…」
「…は、酔ってんのか」

 マグマの指があまねの顎先に触れた。そのまま、くいと持ち上げられて、間近で見つめ合う。藍色の瞳にあまねだけが映っている。
 気持ちがとろりと溶けてゆく。心の鍵が全て解かれて、錠が音を立てて転がってゆく。この腕の中にいられるなら、雪みたいに消えてしまっても構わない。穏やかで、心地よくて、開放感さえ感じていた。

「ムハハハ、そんなに俺が好きか」
「ん、好き……大好き…」

 それ以外の言葉を持たないかのように。愛を囁く度、あまねのちっぽけな胸はいっぱいになる。
 促されるがまま、あまねはぐっと首を伸ばした。その唇で、彼に触れた。


***


 堅実に積み重ねていけば、必ず辿り着くことができる。それが科学のクラフトだ。あんなに長く見えたロードマップもあと僅か。2台目のケータイも、直に完成する。

 日々は瞬く間に過ぎてゆく。まだ雪は積もっているが、少しずつ春が近づいてきているのをコハクは肌で感じていた。
 遠くの森に、じっと目を凝らす。
 司帝国のある方向に、不自然に枝から雪が落ちている場所がある。あのあたりが石神村を監視している女の寝床なのだろう。

「コハク? 何かいた?」
「いや、肉付きの良い鳥がな。もう少し近ければ、夕飯に捕らえるところなのだが」
「そう…残念ね」

 双子の妹の問いに嘘を返す。まだほむらのことを告げる必要はあるまい。いずれ来たるその日までは、彼女には穏やかに過ごしていてほしい。
 石神村へと戻る道中、あ、とあまねが声を上げた。

「解れてるわ」
「む」
「ほら、こっちのほう」

 あまねがコハクの服の一部を指差す。身体を捻って確認すると、どこかで引っ掛けたのか、革を繋いでいる糸が切れていた。

「私縫おうか?」

 と言ってから、あまねは小さく頭を振った。

「なんてね、コハクのほうが器用だものね」

 くすくすと誤魔化すように笑っているが、善意でつい口に出てしまった、という響きだった。
 確かにコハクは手先が器用なほうで、これくらいの解れであれば自分ですぐに繕えてしまえる。けれど、その気持ちが嬉しかったから、コハクは彼女に甘えることにした。

「では頼めるか?」

 あまねは少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに顔を綻ばせた。

「任せて」

 微笑む少女の姿に、心が安らいでゆくのを感じる。
 今の石神村には自分達以外に双子はいない。だから、誰にも分かるまい。他の誰とも違う、まさしく半身といえる存在が、どれだけ特別で、大切で、愛おしいか。
 …そう、だから。ちょっとした独占欲のようなものを抱いていたことを、コハクは否定できない。

 一旦村に戻って着替え、解れた服をあまねに渡す。あまねが自宅に戻ろうとしたタイミングで、ちょうど入れ替わる形で中から男が出てきた。

「マグマ」
「おう」

 すれ違いざまに、マグマがあまねの頭に手を置く。綺麗な黒髪をぐしゃりと掻き乱しながら、彼は自然な態度でその横を通り過ぎた。
 コハクは思わず顔をしかめそうになるのを堪えた。
 苦い気持ちになってしまうのは、これはもう、反射のようなものだった。別にマグマだってあまねの髪を乱すことが目的だったわけではないだろう。そこに含まれる親愛の情は、コハクにとっても疑うべくもない。
 それはもはや当たり前となりつつある光景で。しかし、こうして目の前で仲睦まじい様子を見せつけられると、どうしても胸の柔らかな部分が、ぐさりと痛む。

「あん? いたのか」

 マグマがふと、立ち尽くすコハクを目に留めた。

「何か用かよ」

 別に、コハクだって、別れさせたいわけじゃない。
 ちょっとずつ、受け入れてはいるつもりなのだ。初めて電話が繋がった時にも、愛の告白でもしてみるか?なんて、二人の仲を茶化して言ってみたりもした。
 認めていない、わけではないのだが。本音を言えば、未だに『奪われた』という感覚が消えない。
 そうだ、元旦の初日の出を見に行く時だって、マグマはあまねを行かせまいと頑なだった。いくら夫婦だからって、行動を勝手に縛っていいわけがないのに。…いや、確かに最終的にはあまねが決めたのだろうけど。翌日改めて詫びてきた彼女がそう言っていたし。
 しかし、コハクはどうしても納得がいかず、一連の話をそのあたりにいた玄武に愚痴った。すると彼は大笑いだ。そりゃあ明け方に新婚の二人を引き裂いちゃあなあ、とニヤニヤされてしまった。
 話す相手を明らかに間違えたのはこちらのミスだが、含みを持たせた言い方をしてきたのがまたコハクを苛立たせた。コクヨウ相手には茶化せないからって、あの男は。

「……」

 …ただ、そう、一理はあると感じている。
 いつかは起こり得た話なのだ。誰かの元に嫁ぐなど。

「…? なんだ、用がねえなら行くぜ」

 マグマだって四六時中あまねを連れ回しているわけではない。
 先程のような触れ合いが当たり前になっただけ。ただ、あまねに最も親しい人間が、マグマになっただけ。
 そのことに目くじらを立てそうになるコハクのほうが、こうなっては狭量なのかもしれない。

「…いや、私も大人にならねばな」

 コハクは小さく息をついた。
 マグマは訳が分からないといった顔をしたが、すぐに小馬鹿にした表情で笑い出した。

「ムハハハハ、成人もしてねえガキが何言ってやがる」
「成人もしていない女を嫁にしている男には言われたくないな」
「それは別に関係ねえだろ」

 確かに悪いことではない。婚姻年齢が具体的に定められているわけではないものの、御前試合の参加者が14歳以上と規定されている以上、成人前の婚姻は暗黙に認められている。場合によっては周囲が止めるかもしれないが、取り分け変でもない。
 こうして食いつきたくなってしまうのが良くないのだ。分かっている。しかし、やはり、このままではいつまで経っても気持ちに区切りが付けられそうにない。
 コハクは決意を固め、目の前の男を見据えた。

「マグマ、私と戦ってくれないか」

 彼は見るからに面倒臭そうに顔をしかめた。

「まーた戦闘訓練かよ。さんざっぱら殴りやがって、まだ足りねえのか」
「そうではない。…何と言えばいいか……そうだな、御前試合のようなものと思えばいい。結局、再戦とは行かなかったからな」

 二度目の御前試合にマグマは参加できなかった。その前にあまねと結婚することになったからだ。
 当時の鬱憤を思い出したのか、マグマはやにわに気色ばむ。

「ああ? お前に勝てば長になれるってのか」
「それは無理だ。当然、ルリ姉も渡さない」

 言われるまでもなく分かっていたことだったのだろう。マグマは不服そうに鼻で笑う。
 コハクは口元に微かな笑みを浮かべた。
 どうしたって湧き出てくる寂しさが、未練がましく後ろ髪を引こうとしてくる。けれど、振り払わなければ。

「だが、あまねなら…マグマ、君に預けてもいい」

 マグマの顔に驚きが満ちる。
 この男にしては珍しく、言葉に詰まっているのが見て取れた。きっと彼にとってもそれだけ衝撃のある言葉だったのだろう。そうであればいいと思う。

「…お前の許可なんざいるかよ。アイツは俺のもんだ」
「ああ、そうなのだろうな。他でもない、あまねがそうありたいと思っているのだから」
「フン、貴様もようやく諦めたか」

「認めてやってもいいと言っているんだ。
…私に勝って、示せ。君があまねを守るに値する男だということをな」

 マグマが唇を引き結ぶ。真面目な眼差しをしていた。真剣な顔つきだった。コハクが安堵するのに、十分過ぎるほど。

「ハ、勝利の褒美が足りないと言うなら私も付けてやってもいいが…あまねがいれば、それで十分だろう?」

 これで不十分なんて戯言を言い出したら、前言を撤回して叩きのめすところだが、勿論そうはならず。マグマは不敵に笑って言った。

「ムハハハ! いらねぇよ、お前なんか」

 コハクも笑った。爽やかな気分ですらあった。
 きっと自分は負けるだろう。それは戦闘力で遅れを取るという意味ではない。
 本来の御前試合でだって、立ちはだかる男が大切な姉を任せられる相手だったのなら、最初からコハクは邪魔をするつもりなどなかった。
 ようやく、負けてもいいと思えた。それだけの話だ。

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