家中 (前)

 あまね、あまね。
 名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。夢とも現ともつかぬ暗闇の中に、音は星の瞬きのように煌めいている。綺麗だなあ、とぼんやり眺めているうちに、意識は導かれるように現実の近くまで浮かび上がっていた。
 ほんの少しの息苦しさを感じ、あまねは掛布からもぞもぞと顔を覗かせた。
 小さな家の中は仄暗く、冷たい空気が頬の熱を奪っていく。差し込む光はなく、朝はまだまだ遠いようだ。
 そんな闇の中に、再び響く声。縁のくっきりとした声は鮮やかな夏の色を持っているが、夜半であることを慮ってか、今は囁きのように優しい。

「あまね、起きているか?」
「コハク…?」

 双子の姉の声は外から聞こえてきている。あまねが発した声は寝ぼけ混じりの小さなものだったが、無事に壁の向こうに届いたらしい。

「皆で日の出を見に行こう。今日は新年だからな」

 そうだ。そうだった。
 あまねはハッと思い出して慌てた。初日の出を見ようと発案したのは、確かゲンだっただろうか。あまねは夕御飯を姉達と食べている時にその話を聞いた。家に帰ったらマグマにも伝えて誘うつもりだったのに、…なんやかんやしていたせいで、すっかり忘れてそのまま寝入ってしまっていた。
 あまねの身体には重たい腕がぐっと巻きつけられている。マグマはまだ寝ているだろうか。起こしたら悪いかな。でも、誘ったら一緒に行ってくれるかな。そんなことをつらつら思いながら、まの形に口を開いた瞬間。

「オイうるっせえぞ!!! こんな夜中に起こすんじゃねえコハクテメー!!!」

 家が揺れたかと思うほどの大声が間近で響いた。ビリビリと鼓膜が鳴り、あまねはマグマの腕の中でびくっと震え上がった。

「何跳ねてんだ」
「…び、っくりした」

 心臓がバクバク鳴っている。何もしてないのに怒られた気分にさえなっている。
 大袈裟な反応を見せたあまねが面白かったのか、マグマは吐息にほんの少しの揶揄を含めて笑った。

「君の声のほうが数倍大きいぞ…! 隠居達まで起こす気か!」

 コハクが目を剥いているのが声で分かる。
 皆と言っても、村人全員が初日の出を見に行くわけではないらしい。確かに日の出がよく見える場所まで行くのは一苦労だ。お年寄り達はきっとまだ眠っているに違いなく、あまねは申し訳ない気持ちになった。

「はぁ…まあいい。マグマ、君もあまねと来るか?」
「あぁ? 行くわきゃねえだろ。何が初日の出だ、別にいつもと変わんねえだろが」

 にべもなく、吐き捨てるように彼が言う。

「マグマ、行かないの?」

 マグマがあまねのほうに顔を向けた。表情さえ見えない暗闇だが、不機嫌そうなのは分かる。

「行かねえでいいだろ。寒みいしよ」
「でも、私、」

 行かないと、という言葉を封じるように、マグマの腕があまねを抱き寄せた。
 瞼の裏側を眠気が横切る。まどろみの優しい温かさがあまねに縄を掛ける。
 マグマも同じだけの温もりを感じてくれているのだろうか。単に焚き火の代わりを手放したくないだけかもしれないが、それでもあまねの心は惑わされてしまう。
 きっと今日の朝日は格段に綺麗だろう。そう思いながらも、暁の冷たさを思うと寒さで身体が縮まった。マグマが離さないでいてくれることが嬉しくて、このまま眠ってしまいたい気持ちにさえなる。

「さっさと行けよ、いつまでもうろついてんじゃねえ」
「私はあまねに聞いてるんだ」
「だから、行かねえってよ」

 どうでもよさそうにマグマは欠伸をした。
 今更改めて自覚するまでもないことだが──あまねは彼のそういう態度が、嫌いではない。当たり前のようにあまねを巻き込むつもりの態度が抑圧的なものだと認識してはいる。いる、ものの、そうやって縛り付けられることに、あまねは腹の奥底で喜びを覚えてしまう。
 しかし、こういう時にただただ従うのは健全とは言い難いのだろう。恋に溺れているあまねだって、そのくらいは分かってる。いくら離れるのが惜しいと言っても、約束を反故にするつもりはない。体調が悪いわけでもないのに引きこもるのは、迎えに来てくれたコハクに対してあまりに不誠実だ。それに、初日の出を見に行きたいというのも本当の気持ちである。

「マグマ、私行くから…」

 そんなわけで、あまねはマグマに断って彼の胸から抜け出そうとした。

「ああ?」

 が、マグマの腕は重くのしかかったまま、全く動いてくれない。
 あまねは水面から顔を出すように彼の胸の中から浮上した。鼻先にマグマの顔。家の隙間から入り込んだ雪明りが、輪郭だけをほんのり浮かび上がらせている。

「行くのかよ」
「うん。だから、えっと…離して…?」

 マグマは離さない。
 腕をどかさないというだけではない。あまねが外に出ようともがくと、明確に、押さえつけるように閉じ込めてくる。
 あまねの胸を戸惑いが過ぎった。それと同時に、誘惑めいた喜びが、頭の隅から徐々に侵食してくる。
 だったら、やめようかな。あまねはあっさりとそう思った。そんなに引き留めてくれるのなら。行かなくていい、と、ここ居てほしい、の間に大きな違いがあることは、考えるまでもない。

 けれど、あまねが唇を開く直前。間近で舌打ちが聞こえた。

「勝手にしろ」

 腕が離れると同時に、掛布が引き剥がされた。真冬の冷たい空気が待ちかねていたかのようにあまねを取り囲む。
 突き放すような言い方だった。ベッドに横たわったまま彼女はしばし呆然としていた。
 背筋がぶるっと震えて、ようやく、行かなきゃ、という思考にたどり着く。しかし、よろよろと上体を起こしたところで再び動きは止まってしまった。
 一気に身体が芯が冷えたような心地がする。それは実際の気温以上に、耐え切れないくらいの寒い思いがした。

「…コハクごめんね、私やっぱりやめておくわ」

 返事を聞くのが怖いと思った。けれどコハクがすぐに言葉を返してくれたおかげで、怯える時間は短くて済んだ。

「む、そうか…。分かった」
「ごめんね」
「謝る必要はないぞ、気に病むな」

 コハクが朗らかに笑う。また明日、という言葉を残して姉が去っていく。
 けれど、そこに潜む落胆の響きを感じ取れないほど、あまねは鈍感ではない。

「なんだよ、結局か」

 マグマが言いながら、掛布の端を軽く持ち上げた。呆れたようでいて、しかしどことなく誇らしげな声だ。
 心臓が軋む。黙ったまま、空いた隙間から再び潜り込んで、あまねはマグマの胸に顔を寄せた。
 マグマが大きな欠伸をする。外のざわめきもいつしか消えて、雪の夜の静寂が帰ってくる。

「……」

 そんなふうに張り合わなくても、私ならいつだってマグマのところにいるのに。
 彼の体温に包まれながらぼんやり思う。科学に傾倒する村人――とりわけ千空に近しい人間達にマグマが向ける敵愾心は、未だ収まる気配を見せない。
 例外と言えるのはきっとあまねだけだろう。科学の側に寄りながら、マグマに許されているのは。
 もちろんあまねだって、できることなら、仲良くしてくれたらいいなと思っている。コハクはあまねの大切な半身だし、千空はルリを救ってくれた恩人だ。科学がなければ姉はきっと生き永らえなかった。
 しかし、不和というのはそう簡単になくなるものではないようだ。かといって時間が解決してくれるとも思えず、あまねはわだかまりを抱えたまま日々を過ごしている。
 どうにもならない──。
 そう思ってしまうことは逃避だろうか。どうにもならない。本当に? 分からない…。
 今日も答えを見つけられないまま、あまねは罪人の気持ちで目を瞑った。


***
 

 都合がいい、と思った。

 朝、目覚めたマグマは何やら村が騒がしいことに気がついた。元旦なので浮き立つのも分からなくはないと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。
 この頃とんと進展のなかったケータイ作りに光明が差したのだという。急ぎ、必要な何とかという石を取りに洞窟へと向かうのだとか。
 それを聞いたマグマは自嘲気味に鼻で笑った。己には関係のない話だ。
 全くもって、どうでもいい。ケータイも何もかも。千空やクロムが探検に出向いた先でおっ死んでくれるのなら、まだ良いのだが。
 マントルが伝えてくる話を、マグマは他人事のように聞いていた。実際そうだと思っていた。――その探検隊のメンバーに、自身が選ばれるまでは。

 仲良し、というふざけた言葉を嗤う気持ちにはならなかった。それどころではない。内面は怒りで荒れ狂っていた。
 舐め臭っているのだ。あいつらは。
 己に殺されることはないと思っている。御前試合以降、ルリに薬を施し、金狼に眼鏡を与え、民心を掌握して村の何もかもを思うがままにしてきたのと同じように、マグマを容易く御せると思っている。
 いや、実際にはそれよりも前からか。激しい雷が鳴り響いていたあの日の夜。留めの心臓への一突きによって噴き出た血飛沫はまやかしではない。マグマは確かにゲンを殺したはずだった。だが、そんな確信を嘲笑うように、彼は五体満足でマグマの前に現れた。
 思い通りに行かない。彼らを前に、マグマは何一つ成すことができていない。
 腸が煮えくり返る思いがする。怒りのままに叫び散らしたい気持ちになる。しかし、マグマはそれを堪え、静かに息を吐いた。──これは、好機だ。
 今までとは違う。他には誰一人いない洞窟の奥深く。鉱石という餌を前に気を抜いたヒョロヒョロの男二人に、一番の膂力を誇るマグマが勝てない道理があるだろうか?
 笑みは出てこなかった。心の奥はひたすらに冷え込むばかりだ。今度こそ必ず仕留める。凍りつくような殺意を固めていく。

 …そろそろ出発のようだ。マグマは中身の詰まった荷を担いだ。何日分かの食事の他に、何やら科学の道具が入っているらしい。その重さは不快だったが、どうせ行きだけのものだと思って耐えることにする。

「マグマ…」

 ふと、声が聞こえた。自分の耳より遥か下からだ。
 マグマは唇を固く結んだまま、声が聞こえてきたほうに目をやった。
 あまねだ。

「気をつけてね」

 心配そうに眉を潜めたあまねがこちらを見上げている。
 マグマはふと、この女の心が気になった。
 彼女はマグマが探検隊に選ばれたことをどう思っているのだろう。やはり、あいつらに味方するのだろうか。
 そう思うと沸々と苛立ちが湧いてくる。村のほとんどの奴らはどうでもいい。たが、あまねだけは駄目だ。そんなことは許されない。

「マグマ…?」

 あまねの唇が再び彼の名を載せた。少しだけ距離が縮まる。か弱い指先が不安げにマグマの服の裾を掴んだ。縋るような眼差しが、真っ直ぐにマグマを見つめている。

「……」

 マグマは黙ったまま、あまねの頬に手をやった。外気の影響を受けやすい彼女の肌は、ひんやりと冷たい。
 心地よさそうにあまねが目を細めた。無意識なのだろうか、温度の高い掌のほうに微かに首を傾けている。
 そうした後で、マグマが黙ったままでいることに対する心細さを思い出したようで、戸惑いが少しずつ顔を出し始めてきた。

「あの、えっと…」
「…テメェ……」

 マグマは深く息を吐いた。
 澄んだ空気が代わりに肺を満たす。目に映る世界が、何故か先ほどよりも明るい気がする。久しぶりに瞼を開いたような感覚だ。

「…ふん、お前は大人しく待ってりゃいいんだよ」

 ポン、とマグマはあまねの頭の上に手を置いた。
 撫でたわけでもなく、雑に乗せただけだ。しかし、たったそれだけのことで、あまねは顔を甘く綻ばせた。

「うん、待ってるね」

 安心したように頬を緩めるその姿は、マグマがこの短い期間でよく知ったあまねそのものだ。素直で、従順で、淫猥で、マグマのことを愛している女。マグマの物であることを悦んで憚らない女。
 それが一人いるだけで、こんなにも気分が変わるものだとは知らなかった。マグマの口の端が僅かに上がる。

 そうして千空とクロムの元へ向かうマグマの背に──ひっそりと、紫の影が近づいた。


***


「みんな〜! ちょ〜っと聞いてよ、素敵な話があるんだよ〜〜♪」

 探検隊の三人が旅立った直後。ゲンが村人を集め始めた時、あまねはちょっとだけ訝しんだ。いかにも怪しい誘い方に聞こえたので、一体どんな悪いことを企んでいるのかと思ったのだ。
 実際には、ゲンが発案してくれたのはとても素敵な計画だった。数日後に誕生日を迎える千空のために、天文台をプレゼントしようというのである。ちなみに天文台とは、望遠鏡という大型の眼鏡のような道具で星を観察するための施設らしい。
 間近で星を見られるなんて、あまねは考えたこともなかった。千空が現れるまでは、あのきらめく星々は地上から見えるままの小さな光、夜空を彩る飾りとしか認識できていなかった。
 科学はやっぱり不思議で、すごい。きっと千空も喜んでくれるだろう。天文台は素敵なアイデアだ。
 そう、素敵な…。

「……」
「あまねちゃ〜ん♪」

 どこからともなく現れた男を、あまねは力なく見上げた。

「ゲン…」
「考え事?」
「………ええ」

 迷った末に、肯定する。
 本当は、不安で仕方ない。天文台のプレゼントを素敵だと無邪気に喜べるのは、千空が無事に帰ってきたらの話だ。

「ゲンは、…ちゃんと三人で帰ってくると思う?」

 ――マグマが、二人を傷つけないと思う?
 同じ意味と捉えられると分かってはいるのに、そんな聞き方はできなくて、あまねは言葉を濁して言った。中途半端な保身だ。
 千空もクロムも既にマグマと出立した。村人は皆、不安ながらも彼らを見送った。ならば、妻である自分も、誰よりマグマを信じているべきではないか。…そう思っているのに。

「大丈夫だよ、あまねちゃん」

 ゲンは間を置かずに答えた。しかし、その言葉を口にしたのは、彼に染み付いたメンタリスト的な側面だ。
 そもそも、探検隊のメンバーを決めたのはゲンではない。千空だ。はっきり言ってしまうと、ゲンならば、マグマという不穏分子をメンバーに加えはしなかった。
 荷運び役が欲しいにしても、力自慢の男なら他にもいる。確かにマグマは村一番の膂力を誇っているし、若さもあるが、同じように体格の良いハガネや玄武でもその役を担えないことはない。
 ──単に合理性を突き詰め過ぎたから、というだけではないだろう。千空がマグマを連れて行ったのは。

 そもそもマグマとの軋轢は、ゲンが簡単なトリックを妖術と誤認させたことから始まる。そしてそれを更に遡れば、科学チームが村の備品である橋を勝手に壊して利用したことが原因だったりするのだが、いずれにせよ、ロクな初対面ではなかった。
 敬虔な村人には有効な村長の地位も、ルリを治したという実績も、マグマに対しては神経を逆撫でする要素でしかない。彼の信用を得るに足る何かを、自分達は未だ差し出せてはいない。
 なればこそ、千空はこちらから信頼の証を示すことで、マグマを懐柔することを期待したのではないか。
 …全く、体を張り過ぎだ。ハイリスクにも程がある。
 だが、千空がそうすると決めてしまったのならば。仕方がない、ゲンも同じ方法で賭けることにした。3日後までに千空を村に帰らせろ、という言葉をクロムではなくマグマにだけ伝えたのは、そのためだ。

「でも、マグマは千空を良く思ってないわ。……ゲン、…ゲンは、分かってるかもしれないけど、…マグマは、千空を傷つけることができる人よ」
「そうだろうねぇ」

 ゲンは科学王国の一味の中で、唯一マグマに殺されかけたことのある人間だ。よく分かっている。人生で一番の痛み。死を目前にした根源的な恐怖。忘れられるはずがない。
 だが、ゲンは笑った。
 コハクなら軽薄な笑みと言うかもしれない。しかし、彼にとっては、目の前の少女を安心させるつもりの表情だ。

「マグマちゃんってさ、ほら、新しい物とか面白い物は好きでしょ」

 あまねは虚をつかれた顔をした。

「わたあめはすっごい気に入ってたし、刀だってずっと腰に差してる。ああ、ラーメンも美味しそうに食べるよね。
本当に、心から厭ってたなら、いくら便利でも美味しくても、そんな物は絶対使わないよ」

 そうであってほしい。マグマのような直情型な人間であれば、実利よりも不快の感情が優先してもおかしくはないが、実際にはそこまでは至っていない。科学の材料や製品を荒らすなんてこともしていない。

「これまでは切っ掛けがなかったんだよ、純粋にさ。意外と、ホントに仲良し探検隊トリオになって帰ってくるかもよ」
「そう…かしら。そうだったらいいんだけど…」

 あまねはまだ浮かない顔だ。さもありなん、そんなのは彼女とて考えていたことだろう。だから、ゲンはまた別の手を使う。

「あとね、…マグマちゃん、あまねちゃんに対してはすっごく心開いてるじゃない?」
「えっ?」

 話の風向きが代わり、あまねは大きな困惑を見せた。

「えっと……そう思う?」
「思うよ〜♪ だって他の子相手にする時とはもうホント全然! 雰囲気からして違うからさ」

 ゲンは顔の横に掌を広げ、無邪気を装って笑う。

「単純だけど、ああいうとこ見てるとね。ああマグマちゃんも悪い奴じゃないんだな、自分も仲良くやっていけるのかもな、…って思っちゃうのよ」
「そ、…そう、だったら、嬉しいな」

 あまねは恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
 彼女は既婚者だが、少々うぶなところがある。この方面で攻め過ぎるのも得策ではないだろう。
 そう、策だ。こういった場面でゲンが口にする言葉は全て。──しかし、掛け値なしの本音でもある。

「マグマちゃんは、あまねちゃんのことを大切に思ってるよ。だから、ちゃんと皆で帰ってきてくれるよ」

 あまねは目を伏せたまま、小さく息を吐いて、顔を上げた。ゲンが初めに声を掛けた時よりはずっと、すっきりとした顔をしていた。

「ありがとう、ゲン」
「いやいや、俺はな〜んも」
「ふふ、行きましょうか。3日後までに完成させなきゃいけないものね」

 あまねは笑って、倉庫への道を歩き出した。心から信じ込めたわけではないだろう。だが、こうなっては祈るしかないのは、ゲンも同じだった。


***


 探検隊が洞窟に潜り込んでから、早くも幾日かが経過して。道中ハプニングはあったものの、千空、クロム、マグマの三人は、幸運にも全員無事に目的の鉱床の前に辿り着いていた。
 地面に置いたツルハシの柄から手を離す。額の汗を拭い、マグマは深く息を吐いた。

「これが何になるってんだ。ただの石だろが…」

 既に散々重ねた愚痴である。そして未だ納得はいっていない。マグマは眉を顰めながら、自身に鉱石を掘り出すように命じたヒョロガリ達を眺めた。
 ヒョロガリ──科学使いである千空とクロムは、鉱床をあっちへ行ったりこっちへ来たりしながら興奮した様子でツルハシを振るっている。
 マグマは呆れ半分、嘲り半分で鼻を鳴らした。あんな弱々しい力で掘れるものか。己がいなければ果たしてどうなっていたことか。
 どうやら、科学には自分の力が必要らしい──そう思ったところで、辛くも千空の言葉をなぞっていることに気づき、マグマは苦々しい気分になった。
 マグマと彼らの間にあった諍いはひとまずの落とし所を見つけたが、丸きり思うことがなくなったわけではない。そう、あくまでも協力するのは司帝国を潰すまでだ。その後は――。

「ヤベー! 何だこのキラキラシマシマの石! 見たことねー! っお!? うおおおおぉぉぉ」

 舐めるように岩石を観察していたクロムが、つるっと足を滑らせた。彼は勢い良くバランスを崩し、見事な全回転を披露しながらマグマの目の前に転がり込んできた。

「何してんだ」

 尻餅をついたクロムを呆れ果てて見下ろす。ツルハシが刺さらなかったのは幸運だっただろう。クロムは誤魔化すように笑いながら頭をさすっている。
 座り込む男に手を差し出す。尤も、マグマにしてみれば、これも彼らを油断させるためのものだが。

「お、おう! サンキュ、マグマ」
「ふん」

 クロムが立ち上がったのを確認し、すぐに手を離す。男の手を握り続ける趣味は断じて無い。

「俺、マグマのこと誤解してたぜ」

 クロムが感動した様子で目を輝かせる。
 簡単な男だ。理想通りの反応ではある、が、…マグマは思い切り顔を歪めた。

「くどいなテメーも」

 先程から絆だのなんだの、むず痒いことばかり言うクロムに、マグマは若干引いている。マグマは見せつけるように鳥肌が立つ腕を擦った。

「おう、よく考えたらよ。マグマはあまねの旦那なわけだろ。そう悪い奴じゃねえよな!」
「は、何当たり前のこと言ってやがる」

 マグマは堂々たる口振りで言う。コハクやクロムは自分を敵視していたようだが、実際マグマは己を悪い人間だと思ったことなど一度もない。
 昔から荒々しい性格をしており、村長になった暁にはルリを事故に見せかけて殺そうなどと発言し、ゲンに至っては実際に死に至らしめかけた前科持ち。あまねでさえ困り眉をしながら「悪いよ」と言うだろうが、マグマはずっと自身にとって正しい行いしかしていないつもりだ。

 ふと、クロムが何やら思いついた様子で、腕を組み考え込む仕草をした。

「あまねなら、マグマが千空を助けようとするって分かってたのか? 帰ったら聞いてみるか」
「おい馬鹿止めろ」

 マグマは慌てて口を挟む。

「えっ、何でだよ」

 クロムはキョトン、と何も分かっていない顔だ。マグマは思わず舌打ちをした。
 千空を助けようとしたこと自体は、まあいい。逆に彼に助けられ、科学のおかげで窮地を脱したことも、別に知られても構わない。
 あまねに知られたくないのは、その前の、雲母の大穴に落ちる直前の心情の吐露である。思い返すと情けない。自分を殴って埋めたくなるようなあの叫びは、例え何があろうとあまねにだけは絶対に知られたくない。そしてマグマにとってクロムというのは、ちょっとした拍子に口を滑らせかねない、信用のできない男である。
 勿論、こんなことを馬鹿正直に告白するわけがなく、マグマはツルハシを振り上げがなり立てた。

「うるせえ! 余計なこと言ったらブチ殺すぞ!」
「うおっ、何で急に切れてんだよ…!?」


***


 あまねは泣きそうになっていた。二人きりでいたら本当に泣いていたかもしれない。そしたらマグマはどうして泣くのかとあまねを問い詰め、理由を聞き出した後には、きっと呆れ顔で彼女を馬鹿にしただろう。
 それも素敵だなと思ったけれど、ここはこの世界で初めての天文台の中。皆がいる手前、泣き出すのは恥ずかしくて、あまねは唇をぎゅっと閉じて我慢する。歯を噛み締め、熱くなりそうな目元を堪えきって、おかえりなさい、と一言告げる。マグマは、軽い調子で、おう、とだけ返してくれた。あまねは微笑んだ。
 三人とも無事で戻って来てくれたのが、あまねは本当に嬉しかったのだ。

「はー、食った食った」

 マグマが満足そうに腹をさする。遅めの夕食のメインは、カーボとマントルが今日狩ってきたばかりの新鮮な肉だった。雪に囲われた季節には、殊更貴重な食材だ。
 柔らかな眼差しでマグマを見つめながら、あまねはタイミングを見計らっていた。愛しい人に抱きつくタイミングをである。チャンスはいつでもあったのだが、久しぶりに家でゆっくり取れる食事を邪魔するのも悪いなぁ、なんてことを考え始めると、適切な頃合いというのは中々見つからないものだった。
 湖の畔で汚れた食器を洗う。マグマに言いつけられた通りに、共用の竈から桶に温かい湯を拝借してから、あまねは家路を辿った。
 湯は、身体の汚れを拭うためのものだろう。夏ならば川に飛び込んで水浴すれば済むのだが、冬はどうしてもその寒さ故に制限される。

「ただいま」
「おう、体拭いてくれ」
「うん」

 マグマの傍に桶を起き、その隣に腰を下ろす。
 うん、とあまねは当たり前のように頷いたが、別にいつもやっているわけではない。今日はそれさえ面倒なくらいマグマも疲れているのだろう。あまねにしても、マグマに何でもしてあげたいような気持ちだったので、ちょうど良かったのだ。
 マグマが服を脱ぎ、上裸になる。どこから拭こう。やりやすそうなところからにしようか。そう思って、なんとはなしにマグマの背中側に回り、あまねは目を剥いた。

「ま、マグマっ、怪我してたの!?」
「あ?」

 マグマは首だけを捻り、あまねを見た。

「背中っ」

 あまねはほとんど叫ぶように言った。
 露わになっているマグマの背中に、大きく痣ができている。結構な広範囲に痛ましい色が滲んでいて、まるでどこか高いところから落ちて打ち付けたかのような怪我だ。
 マグマは思い当たる節があったのか、あまねの言葉を聞いて顔を歪めた。

「どうしよう、っ薬、…」
「いらねえよ、別に痛くもねえんだからよ。ほっときゃ治んだろ」
「で、でも…! うう、何があったの…っ」
「何もねえ」

 あまねがこれだけ動揺するくらいには酷い有様である。
 やはり今から千空のところに行って薬を貰ってくるべきだろうか。しかし、マグマ本人が薬なんて要らないと軽く言っているだけに、踏ん切りが付かない。見ているだけで痛々しいが、実際は軽傷なのだろうか。でも、何もなくてこんな怪我をするはずもないのに。
 あまねがおろおろと焦っていると、マグマが深いため息をついた。聞き分けのない子供を相手にする時のような、呆れと苛立ち交じりのそれだった。
 あまねはびくっと肩を跳ねさせた。少し黙って、おそるおそる尋ねた。

「…本当に痛くない?」
「さっきから言ってんだろが」
「…うん……ごめんなさい」

 しょんぼりと縮こまる。マグマにとっては迷惑以外の何物でもなかったようだ。
 あまねは桶に清拭用の布巾を浸した。白い湯気がほんのりと視界を埋める。波打つ湯の表面を黙って見つめる。

「おい」

 マグマが体ごとあまねのほうを向き直した。

「しょげた顔してんじゃねえ」
「…だって、本当に心配したんだから……マグマがいない間も、ずっと、…不安だったし、…それに、寂しかったし、…」

 こんなふうにうじうじされるのは、マグマは嫌いだろう。そう思いながらもあまねの口からは弱音がはみ出てしまう。
 三人がいない数日間は、天文台を作る作業をしていると瞬く間に過ぎていったけれど、眠る間際は信じられないほど長かった。何もかもが不安で、それと同じくらい寂しさも感じていた。いつも傍にいる人がいないことがもたらす喪失感は、ある実感をあまねに与えた。
 自分にとってマグマは、もはや誰にも替えられないのだ。例え、何があったとしても。

「たった3日でか」
「そうだよ」
「もう帰ってきただろが」
「うん、……帰ってきてくれてありがとう」

 誰ひとり欠けずに。約束の日までに。
 戻ってきた三人を見て、あまねはその場に崩れ落ちてしまいそうなくらい安心した。その時の気持ちを思い出していた。
 愛しさが抑えきれなくなって、あまねはマグマの胸に体を寄せた。素肌に直に触れる。痛まないようにそっと、彼の背中に手を回す。結局、変なタイミングだったかもしれない。

「……やっぱ体温分け合うなら女だな」
「…?」
「何でもねえよ」

 暫くの間、マグマは黙っていて。黙ったまま、腕を回して、あまねの肩を抱いてくれた。


***


 コクヨウは変わりゆく村を見つめていた。
 数か月。千空が村長になってからまだたった数か月だというのに、変化は目まぐるしい。
 石神村はこれまで度々苦難に見舞われながらも、穏やかに、緩やかに存続してきた。そんな村の住民からすれば、千空の知識と彼が作る品々は目新しいものばかりで、いつになっても衝撃は尽きない。
 そして今日また一つ、村に変化が訪れた。

「終わったぞ。次はどうする」

 洞窟探検で何か考えが変わったのだろうか。マグマが自ら千空を手伝うなど、これまでは決して無かったことだ。
 コクヨウは感心して見つめた。マグマと言えば、村一番の荒くれ者である。幼い頃から暴力を振るいがちで、人に従うことを良しとしない。体格と膂力にも恵まれた彼は村長のコクヨウが手を焼くほどの問題児だったが、一方でその強さは誰もが認めるところでもあった。
 順当に行けば、御前試合ではマグマが勝利し、次の村長になるだろう。コクヨウも例に漏れずそう思っていた。マグマは妻となるルリを大切にしてくれるような人間ではない。最初から分かっていたが、それも仕方がないことだと割り切っていた。
 しきたりには準じなければならない。村を思ってのことだ。コクヨウは長であるのだから、尚の事。なればこそ御前試合を邪魔したコハクを勘当したのだし、──マグマの手から村長の座が離れるあの一件でも、娘の心身を守るより、村の安寧を優先する沙汰を下したのだ。

 物思いに耽っていたコクヨウはふと、居住区の方面から近づいてくる人影に気がついた。あちらもまたコクヨウに気がついたらしい。その人物──あまねと目が合う。

「お父様」

 可愛らしい声がしんと響く。ルリより少し低く、コハクより控えめな印象。
 コクヨウはなるべく優しい声になるよう、意識して話しかけた。

「あまね、どうかしたのか?」
「えっと…お昼ご飯を食べようと思って」

 そう言って、科学倉庫の方向に視線を彷徨わせる……いや、彷徨ったわけではないか。
 あまねの視線の先には彼女の夫がいる。彼を昼食に誘うためにここに来たのだろう。

「…うむ。先程からずっと働いていたからな、腹も減っているだろう」
「そうなんだ…」

 あまねはちょっと驚いて、それから嬉しそうに顔を綻ばせた。
 コクヨウはそれを微笑ましく、そして寂しく思った。

「行きなさい」

 小さく頷いて、あまねはマグマに近づいてゆく。
 あの時のコクヨウの選択は結果的には間違いではなかったらしい。あまねとマグマはなんだかんだ仲睦まじくやっている。そのことにコクヨウは酷く安堵していた。
 それと同時に、身勝手ながらも寂しさを禁じえない。反抗期などもなく慕ってくれていた娘だった。勿論今でもコクヨウの子であることに代わりはないが、もはやあまねはマグマの伴侶なのだ。
 本来なら婚姻の結びの時に心の整理を付けるべきなのだろうが、状況が状況だったためにそれも叶わなかった。そもそも、祝って送り出せなかったこと自体、ずっと心に引っ掛かっている。

 コクヨウはため息をつき、天を仰いだ。淡く澄んだ冬の空を見つめながら、ふと思う。こんな時に彼女がいてくれたら。
 亡き妻が無性に恋しく思えてならない。コクヨウが御前試合で優勝して手に入れた女。愛で始まった関係ではなかったが、喜びも苦しみも分かち合ってくれる人だった。

「あの、お父様…」

 あまねとマグマが連れ立って村へと向かう。その道すがら、コクヨウの脇を通り過ぎる際に、あまねが何やら話しかけてきた。

「お父様も、一緒に食べますか?」

 コクヨウは勿論驚いた。が、それ以上にぎょっとしたのはマグマである。
 あまねの斜め後ろにいる彼とコクヨウは目が合った。マグマはいかにも面倒くさそうな顔で顎をしゃくった。断れと言わんばかりの態度だ。
 これにはコクヨウもカチンと来る。全く、この男は相手が妻の父親と分かっているのだろうか。
 その言葉は反語のつもりだった。つまり、当然分かっているはずだ、という意図のものである。
 しかし。コクヨウはふと気づく。
 多分、この若者は分かっていない。あまねの父であること自体は知っていても、それがどういうことを意味するのかなど、きっと考えたこともないのだ。

「早く行こうぜ」

 マグマがあまねの肩に腕を回して引き寄せる。横柄ではあるものの、あまねを守ろうとする仕草に思えなくもない。…いや、嫁の父相手に敵対するのはおかしい気もするが。
 不遜な態度を叱ってやろうか。そう思いつつも、コクヨウはため息を吐くにとどめた。マグマなりに娘を大切にしてくれていることは、この数ヶ月でなんとなく分かってもいる。

「…いや、今日は遠慮しようか。またそのうち誘ってくれ」
「そっか…」

 残念そうなあまねの後ろで、マグマは勝ち誇った顔だ。そして欠片の未練もない様子で、さっさと村へ戻ってゆく。

「行くぞ、あまね」
「あ、待って、」

 あまねが駆け足で数歩進んで、マグマの隣に並ぶ。
 二人を見送りながら、コクヨウの口元が微かに和らいだ。

「全く…仕方のない奴め」

 いつか、ちゃんと彼らを祝えたらいいと思う。改めて式をやり直すのもいいかもしれない。
 きっとその頃にはマグマも落ち着いていることだろう。今はまだ、盃を交わすには彼は若い。

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