夢中 (前)

 つい先日まで、巫女の館は村人には縁が薄い場所だった。長と巫女が住まうそこは石神村の中心地ではあったが、病に侵された今代の巫女を守るために、長が無用な立ち入りを禁じていたのだ。
 村長のコクヨウ、巫女のルリを除くと、日頃から中に入ることを許されていたのは側近のジャスパーとターコイズ、それから、家族のコハクとあまねくらいである。もっとも、コハクは勘当されたためにここしばらくは遠ざけられていたのだが――ともかく、普通の村人が館の中に足を踏み入れる機会はそう多くはなかった。

 それが変わったのは、ここ数か月のこと。
 巫女であるルリの病が治り、それと時を同じくして、居住区の家々は司帝国の手によって全て焼かれた。
 家を失くした村人は自然、炎を免れた館に身を寄せ合うようになる。百物語を語る以外の交流が巫女と村人の間に生まれ、いつしか島と島との間にあった高い壁は崩れていった。そして家が立て直された後も、その感覚は変わらないままであり、今でも巫女の館は村人にとって親しみのある場所になっている。
 ――そう、祭りでもなんでもない至って普通の秋の夜に、巫女の館で堂々と女子会なんてものが開かれるくらいには。

「それじゃあ、行ってくるわね」
「お〜、楽しんでこいよ」

 楽しそうに巫女の館へ向かうベリーを見送る。
 一人になった家の中で弓の整備をしながら待つこと暫く。玄関から威勢の良い声が聞こえ、カーボは顔を上げた。

「ムハハハ、来てやったぜカーボ!」
「よぉ〜マグマ! ま、入れよ」

 開かれた戸の先にいたのは、狩猟仲間である村の若者、マグマだ。彼とは何かと馬が合い、村の男連中の内では一番気の置けない相手である。
 マグマは中に入ると、平屋建ての簡素な家の中をざっと見回した。

「ガキ共もいねえのか」
「お袋に預ってもらってんだ。ここであいつら放ったらかして酒なんか飲んでられね〜だろ!」

 カーボの両親、なとりとあるみは二人揃って健在なので、カーボとベリーは時々子供の面倒を見てもらっている。
 別に野外で駄弁るのでも構わない相手ではあるが、この頃は少し寒さが身にこたえる。互いの妻も女子会に赴いていることだし、たまにはいいだろう。そう思って、カーボはマグマを家に呼んだのだった。

「つまみならあんぜ」
「おう、サンキュ」
「ま、大したもんじゃね〜けどよ」

 炒った木の実、魚の塩焼き、山菜の煮物。簡単な肴だが、これがあるとないとでは酒の進みが違う。
 互いの盃に酒を注ぎ、乾杯する。相変わらずマグマはいい飲みっぷりだ。

「オメーと飲むのも久しぶりだな」
「前に飲んだのは巫女様の病気が治った後だったよな?」
「おー、まあ、皆でだったけどよ」
「早いもんだぜェ」

 カーボはしみじみと言った。
 巫女の病が快復した後、新しい村長の就任を祝う名目で催された宴。司帝国の襲撃を受けたことで途中で打ち止めになったものの、ああやって皆で集まって飲むのは久しぶりだったので、記憶は色濃く残っている。

「あんときゃ確か、カセキのジイさんが滅茶苦茶飲んでたよなァ。そんな飲むイメージなかったんだけどよ」
「ッチ…ジジイが無理しやがって。あいつよか俺のが……」
「張んな張んな」

 マグマがムッとして言うので、カーボはくつくつと喉を鳴らして窘めた。マグマは不満そうな顔で盃をぐびりと呷る。
 貯蔵していた酒はその多くが焼かれてしまった。この頃は仕込み直した酒類がようやく潤い始めてきたところである。熟成期間が短いため、味は普段より幾分落ちてはいるが、飲めないことはない。

「あいつらも今頃飲んでんのかねェ」
「ああ…。フン、女どもが集まって何するってんだよ」
「そりゃ話すんじゃねーの。女のほうが噂とか好きだろ? お前のことも噂されてるかもしんねーぜ?」

 と言っても、マグマは前向きに捉えて喜ぶだろうなとカーボは思い、事実その通りに彼は喜色を露わにした。分かりやすい男である。

「あまねって飲める奴だっけ」
「知らね。ウチじゃ飲まねえな」
「へェ。じゃあいつも飲めねえ分、今日は日頃の鬱憤を晴らしに行ってるわけだ」
「鬱憤? あいつにンなのあるわけねえだろが」
「いやー分かんねェだろ」
「ねえよ。…お、この煮物結構うめえな」
「意外とイケるよな。この間山菜がめちゃくちゃ生えてるとこ見つけてよォ〜〜〜」

 話題は突然生まれては、取り留めもなくどこかへ流れてゆく。
 たまにはパーッと飲もうぜ。そんなありふれた誘いを、マグマは疑いもしなかっただろう。
 勿論、カーボにとってもそれは本意には違いない。しかし、今日はそれ以外にもう一つ、彼には目的があった。

 夜が更けるにつれ、互いの言葉から遠慮が消えていく。酔いに囚われた身体が火照り始めてからもう随分経った。最初よりペースは落ちたものの、酒を注ぐ手は止まらない。

「じゃあ最近全然ヤッてねえってことか」
「馬鹿、ベリーは子供産んだばっかだし、育てんのも大変なんだぜェ〜〜。無理させるわけにもいかね〜だろ」
「は、アイサイカってやつかよ」

 マグマはつまらなそうに言って盃に口を付けた。
 愛妻家。マグマが口にしたその言葉は何だか奇妙な響きを伴っていた。村一の荒くれ者には些か馴染みが薄い言葉に思われたためだろうか。
 しかし、実際のところは、今やこのマグマでさえ妻帯者である。

「お前だって同じようなもんだぜ? あまねの話をしたかと思えば自慢しかしねーしよォ」
「ムハハハ、そうだったか?」

 カラカラと笑うマグマに、そうだろ、とカーが突っ込む。

「家建て直す前だってよォ、毎晩一緒に寝てたじゃね〜か。俺でもやってねーよ!」
「あれはあいつがビィビィ泣くから一緒にいてやったんだろが。『怖くて寝れないの〜』とか言ってうるせえからよ」
「ブッハ全然似てねェ〜〜〜〜」

 相当に酔いが回ってきているらしい。他愛もないことが妙にツボに嵌まって、ゲラゲラ笑ってしまう。
 飲みの場の空気に当てられながら、カーボは日中のことを思い出していた。狩りに連れて行かれたあまねを心配する、ベリーの不安げな声。あまねとマントルと交した雑談。不慣れな手付きで肉を捌くあまねを見守る、マグマの表情。
 帰り道、話し掛けてきたゲンの言葉。
 そして今、目の前にいるマグマを見て、――大丈夫だ、とカーボは思った。

「なあ、マグマ」
「なんだよ」
「お前も暫くはあまね抱くのやめろよ」

 酒を継ぎ足していたマグマの眉がピクリと跳ねる。今までの機嫌の良さが嘘のように、彼は剣呑な雰囲気を露わにした。

「ああ? なんでお前にんなこと言われなきゃなんねえんだ」
「怒んな、聞けって」
「あいつは俺のモンだぞ」
「分かってる分かってる」

 素直に聞くとは思っていなかった。カーボとて、ゲンに言われるまでは考えもしなかったのだ。

「俺らは今、戦争中なんだってよ。そんなん、百物語でしか聞いたことなかったけどよォ」

 石神村はもうずっと長い間、平和だった。これまで敵となってきたのは、嵐や雷、不漁などの抗いがたい自然の力だ。戦争どころではない。これほどまでに縮小した村では、生きるために人と人が協力することは不可欠だった。
 勿論、時には諍いも喧嘩もあっただろう。しかし、最後に村を追放された人間が出たのも、カーボ達が生まれるずっと前のことだ。このような大規模な争いを経験したことなど村の誰にもなかった。

「千空の野郎が来やがったからだろ。あんな奴、さっさと追い出せば良かったのによ」

 心底忌々しげにマグマが言った。ギリリと奥歯を噛み、握った徳利を軋ませている。
 千空を村の一員に加えてしまったことの是非は、未だカーボには判別が付かない。ただ、彼が自分達が思いつきもしないような知恵と知識を持っていることだけは確かである。それはきっと石神村を豊かにしていくのだろう。…その前に滅びさえしなければ、の話だが。

「確かにそうかもしんねーけど、もう仕方ねえだろ。俺らは司帝国の奴らに目ェ付けられてんだぜ」
「…それがあまねとなんの関係があんだよ」

 顔を顰めながらマグマが言った。
 腹に苛立ちを抱えながらも、一応話を聞く気はあるようだ。あまねに関わる話だからだろうか。だとすれば、この男も随分変わった。

「次にあいつらが来るのは春なんだってよ。冬の間にあまねに子供ができたら困るだろ。考えてもみろよ、デケェ腹であいつらから逃げられると思うか?」
「どうして俺らが逃げなきゃなんねえんだよ。全員ぶっ潰してやりゃあいいだろが!」
「それができりゃーな。分かんね〜〜だろ、いざその時にどんな状況になるかなんてよォ」

 マグマが舌打ちをして視線を逸らす。反論できないのは、彼にも苦い敗北の覚えがあるからだろう。

「今お前とあまねの子供ができたら、苦しむのはあまねだぜ」

 胎の中で子を育てるのも、産むのも、平時でさえ大変な出来事だ。未知の変化に、身体どころか心さえ弱る。
 カーボにとって、ベリーは子供の頃からよく見知った相手だった。勿論、それはこの村では誰にでも当てはまることだろうが――ともかく、彼女は小さな頃から気が強い女の子だった。甘い笑顔を向けてくれるようになったのは、生きてきた年月から考えるとまだほんの最近のことである。
 そして、ベリーが不安で泣いているのを目にしたのは、その身体に新しい命が宿った後が初めてだった。
 …そうだ、その時に。彼女を守りたいと、カーボはより強く思ったのだ。

「お前だって、あまねが大事なんだろ」


***

 
 マグマが家に着くと、彼の妻は既にベッドに座ってうつらうつらとしていた。
 久しぶりのカーボとの飲みは、ベリーが戻ってきたことで終いになった。ということは女子会もつい先程終わったところなのだろうが、あまねはもう限界のようだ。
 それにしても、何故ベッドに横たわらず座ったところで力尽きてしまったのか。あと少しだろうにと呆れながら、マグマは彼女に近づいてゆく。
 珍しく飲んでいたためか、あまねの全身はぽくぽくと赤い。こくりこくりと俯いた頭の下で、ほんのり色づいた唇が小さく開いている。

「……そういや、お前は孕まねえな」

 そういえば何日か前に、あまねがどうのこうのと千空に話しかけられた気がする。ハナから話を聞く気はなかったし、あの男の口からあまねの名前が出るだけで面白くなかったのですぐに忘れることにしたのだが、おそらくはこのことを言っていたのだろう。
 思えば、あれだけ抱いていたのだから、この時点で子ができていたっておかしくはなかったのだ。もしかすると、あまねは孕みにくい体質なのかもしれない。
 子は欲しいなと、あまねのつむじを眺めながらマグマはぼんやり思う。長になれば、娘を作り巫女を継がせる必要があるからだ。もっとも、千空の奴は村長の座を手に入れるや否や即離婚したらしいので、そんなルールは今や抜け殻になりつつあるようなのだが。
 しかし、どうせ子を設けるなら息子も欲しい。狩りに連れ回し、自分の次に屈強な男に育て上げてみるのも悪くないだろう。そういったことを考えると、あまねが子を産めないとしたら、それは酷く惜しいことだ。
 ――いや、カーボの話を聞いた後では、都合が良かったと思うべきか。

「……ん、う………」

 あまねの頭がカクンと揺れる。その振動で夢の縁から引き戻されたのか、彼女はおもむろに顔を上げた。

「マグマ…」

 二つの眼はとろりとして、今にも眠りに落ちていきそうだ。目を瞑ってる時間が長い瞬きをしながら、おかえりなさい、とあまねが小さく言う。

「何座ってんだ。寝んぞ」
「うん…」

 あまねの身体を奥に押しやり、広い寝台の上に横たわる。瞼を下ろしたままのあまねはころりとマグマのほうを向くと、一瞬で寝息を立て始めた。
 酒の匂いが鼻をくすぐる。どうせ自分も同じようなものなのだろうが、人から漂ってくると妙に意識に割り込んでくるものだ。
 めったに飲まない酒なんか飲んで、コイツは何を話してきたのだろう。どうせ大した話なんざしていないと思いながらも、そんなどうでもいいことが今夜は変に気になる。
 もう随分見慣れた顔を、マグマは黙って眺めていた。


***


 天窓から差し込む光で目が覚める。身体を起こして一番始めに吸った空気の冷たさに、冬が近いことをまざまざと思い知らされた。
 あまねはぼんやりと自分の隣に目をやった。寝台の半分以上のスペースは既にからっぽで、自分のものではない温もりがほんの微かに残っているだけだ。
 狭い家なので、屋内は一瞬で見渡せる。マグマの姿を見つけられないことを確認して、あまねは小さくため息をついた。
 この頃、互いの生活リズムがなんとなくずれてきている。というか、きっと、ずらされている。あまねが目覚めた時にはマグマは既にいないし、反対に彼女が家に帰ってきた時には、こちらに大きな背を向けて床に就いてしまっているということもざらだ。
 もっとも、日が昇ると共に目覚め、日が落ちると共に家に戻り、眠りにつくのは、石神村の住民の基本的な生活だ。それを考えると、今のマグマも別におかしいわけではない。むしろこれまでは夜更かしが過ぎたのだとも言える、けれど。

「……はあ」

 最初は疲れているのかなと思っていたけれど、さすがに一週間も経てばそうでないことくらい分かる。かといって、完全に避けられているわけでもないらしいことが、一層あまねの胸をモヤモヤさせていた。
 捌いた肉を調理しろと持ってこられて、そのまま一緒に食事を取ったこともある。夜中にふと目を覚ましたら、いつの間にかぎゅっと抱きしめられていたことだってあった。
 だから、関係が悪くなったわけじゃない。ただ、肌を重ねることがなくなっただけで…。

 瓶の水で顔を洗い、あまねは自分を窘めるように頭を振る。ああ、駄目だ、切り替えないと。深く息を吸って、頭の中の靄を晴らすように、ゆっくりと吐き出した。
 冬は駆け足で近づいて来ていて、今はそれに備えるのに忙しい時期だ。ケータイ作りのほうもやることは山積みで、子供も老人もずっと金の糸を縒っている。
 意識して切り替えて、働かなければ。そうしないと、一日中マグマのことを考えていてしまいそうで。
 濡れた髪の先から雫が落ちる。
 本当なら、直接聞ければそれが一番いいのだろう。でも、どうして、という一言を口に出すことが、あまねにはどうしてたって恐ろしいのだ。



 外は澄み渡るような晴天だった。まだ朝が早いせいで空の色は薄いけれど、透き通っているようで殊更美しくもある。
 冷たい空気にぶるっと身を震わせながら、あまねは湖のほとりに近づいていく。向かう先に長い金の髪を見つけて、彼女はパッと顔を明るくした。

「ルリ姉」

 あまねが声を掛けると、水際に座っていた金髪の女性がこちらを振り向いた。

「おはよう、あまね」
「おはよう」

 そこにいたのはあまねの姉、ルリだ。微笑む彼女に朝の挨拶を返すと、あまねも隣に膝を付き、衣類の入った籠を脇に置いた。
 ルリの手には濡れた服がある。病で外に出ることも叶わなかった彼女が洗濯をしているところを見ると、あまねは未だに新鮮で、それでもって嬉しい気持ちになるのだった。

「今日も冷えるわね」
「ね。ルリ姉、体調は平気?」
「ええ、元気よ」
「よかった」

 微笑み返しながら、あまねは籠からごそっと服を取り出した。
 あまねが着たのなら物理的に手も足も出ないであろう、大きな上着とズボン。それに付いている、ちょっとびっくりするくらいの茶色い土汚れ。

「随分汚れてますね…」

 ルリが目を丸くしている。そうよねえ、とあまねは苦笑した。

「昨日ね、森で大きな鹿を仕留めたんだけど、その鹿がね、地面がぬかるんでたあたりまで逃げちゃったらしくて」
「あら」
「それでマグマも泥塗れになっちゃって…」

 帰ってきて身体を浄めたはいいものの、汚れた服はぽいと放って忘れてしまったらしい。いや、最初からあまねに任せるつもりだったのか。仕方のない人だなと呆れながら、しかしあまねの口元に浮かぶのは嬉しそうな微笑みだ。
 まずは自分の服をさっさと洗ってしまおう。桶を手に取り、水を汲もうとして。

「冷たっ…!」

 予想以上に冷えきった水に、あまねは堪らず悲鳴を上げた。
 びゃっと大げさに手を引っ込める妹を見て、ルリは困ったように眉を垂らす。

「そのうち凍ってしまいそうだし、水で洗うのも限界ね」
「うん…」

 うー、と歯を噛み締めて桶に水を汲み、勢いのまま石鹸でささっと自分の服を洗う。それが終わったらマグマの服だ。
 この汚れだと、盥よりも直接湖に浸けてしまったほうが早いかもしれない。冷えた水にひいひい言いながら、ただでさえ重い服をそっと沈める。服を揉む度にじわじわと泥が染み出てきて、まるで終わりが見えない。これは中々に大変な仕事だ。

「やっぱり私、夏のほうが好きだなぁ…」
「あまねは泳ぐのも好きだから」
「そうそう」

 手を浸すのさえ躊躇われる冷たさでは、泳ぐなんて到底できない。そもそも、もう少し暖かい季節だったのなら、マグマだって服ごと川に飛び込んで泥を落としたに違いないのだ。

「良かったら手伝いましょうか?」
「ううん、大丈夫よ」

 ルリは既に自分の洗濯を終えたようで、籠には綺麗になった服が積まれている。けれど、手伝いの申し出を断った後も隣に座ったままでいてくれたので、あまねの胸はぽかぽかと温かい気持ちで包まれた。

「そうだ、あったかくなったらルリ姉も一緒に泳ごうね」
「ええ、ぜひ。でも、私に泳げるかしら…」

 ルリが不安そうに顔を曇らせる。
 病に伏せっていた頃、湖で泳ぐあまねや他の娘達を、ルリは家の中から一人見つめていた。大切な妹が、自分が行けない場所で楽しそうに遊んでいる姿。尊く思いながらも、羨ましくなかったわけではない。
 しかし、最後に水に入ったのも、もうずっと幼い頃のこと。それもパシャパシャと水を掛け合う程度の水遊びで、泳いだことはほとんどないと言っていい。

「大丈夫よ、ルリ姉はコハクと一緒で運動神経いいんだもの」

 あまねは姉を安心させるように笑った。
 病が治るや否や、これまで伏せっていたとは思えない速さで駆け出したルリの姿は記憶に新しい。あまねの双子の姉のコハクも常人離れした身体能力を持っているし、それに比べるとあまねは並だ。髪の色にしても目の色にしても、ルリとコハクのほうが余程双子のように見えるなとあまね自身でさえ思う。

「でも、あまねも泳ぐのは上手でしょう? もしかすると、村で一番得意なんじゃないかしら?」
「そう?」

 速さでは結局コハクには劣るけれども、確かに息は結構続くほうだ。少し前まではまだ水温も高かったので、食料や科学の材料の収集のためによく水中に潜っていた。

「春が来たらぜひ泳ぎを教えてくださいね」
「うん、もちろんよ」

 どちらかといえば、泳ぐよりも潜るほうが得意なのかもしれないが、頼ってもらえるのは嬉しい。あまねは誇らしい気持ちで頷いた。
 ルリと話していると、心が落ち着く。その綺麗な声のおかげでもあるんだろう。物心ついた時からずっと聴いていた声。百物語を語る声。
 彼女の話す百物語ならずっと聞いていられるという気持ちになる。…もっとも、百物語を全部語ろうとすると一夜ではとても足りないので、実際のところはそのうち睡魔に負けてしまうのだけれど。
 朝一番に会えて良かったなと、あまねは朗らかに思った。

「どう? どう? 綺麗になったかな」
「ええ。お疲れさま」

 冷たーい!なんて言ってはしゃぎながら、揉んで踏んで、できる限りの汚れを落としきる。完璧に綺麗になったとは言えないかもしれないが、濃い色の服だったので見た目は元のものと遜色ない。
 ぎゅうと絞り、水気を切った服を籠に積んで、ふぅと一息。あまねが達成感に満ちていると、立ち上がったルリがこちらに手を伸ばしてきた。

「あまね、手が」

 ルリは小さく微笑みながらあまねの手を取り、両の手のひらで包み込んでくれる。
 白く、まだ傷も少ない綺麗な指先。確かに、比べるとあまねの手は冷えて赤くなっていた。

「あったかいー…」

 優しいぬくもりに頬が緩む。碧い瞳と間近で目が合って、くすくすと思わず笑みがこぼれた。

「でもこれ、ルリ姉が冷えちゃうわ」
「大丈夫よ。でも、干したら火に当たりに行きましょうか」

 そうだね、とあまねが頷いたその時だ。上のほうから、何やら賑やかな声が聞こえてきた。
 ルリとあまねがいるのは湖の岸辺なので、上というと居住区と岸とを繋ぐ坂のあたりである。視線を向けると、そこにいたのは。

「クロム…?」

 ルリが小さく名前を呼ぶ。
 クロム。あまねと同い年の少年だ。村の科学使いの一人であり、本人にその自覚はないが、どうやらルリに想いを寄せているらしい。そしてルリもまたクロムのことを好いている。
 そのクロムが、ガーネット、サファイア、ルビィの三姉妹に囲まれていた。なんだか珍しい組み合わせだ。モテモテだなあ、とあまねは冗談交じりに思うが、ルリの手前しっかりと口を噤む。そもそもクロムはあの三人の誰の好みでもないし、心配することは何もないのだろうけれど。
 実際、華々しい女子達に詰め寄られたクロムは、浮かれるどころか逆に戸惑っている様子だ。

「何を話しているんでしょう…?」
「何だろうね。…クロムー!」

 呼んでみると、クロムが勢い良く振り返った。助かった、という顔をして一目散にこちらに駆けてくる。その向こうでルビィ達が残念そうな顔をしているのを見つけ、ごめんねとあまねは心の中で謝っておいた。

「おはよう、クロム」
「おはよう。ルビィ達に囲まれてたね」
「おー、なんかよく分かんなかったんだけどよ。ルリのこと聞いてきてたぜ」
「私の…?」

 ルリは目を丸くし、不思議そうに首を傾げた。そうなんだよな、とクロムは解せない表情で腕を組む。

「ルリのことをどう思ってるんだとか、最近二人でどこか行ったのかとか」
「ああ…」

 ルビィ達がクロムに詰め寄った理由に見当がついて、あまねは曖昧に微笑んだ。たぶん、この間の女子会が影響しているのだろう。
 クロムがルリを好いていることには彼女達も気づいていたようなのだが、ルリのほうからも矢印が出ていたことは、先日の女子会で初めて知ったらしい。つまり、ようやく障害を乗り越えた二人のこれからの恋路に、村の娘達は興味津々ということだ。

「クロムにはこの間コスモス畑に連れて行ってもらったけれど…」
「おう、綺麗だったろ? けど、なんであいつらがそんなこと気にすんだよ?」
「ええと、それは…」

 クロムはごく純粋に不思議がっている様子だ。彼と違い鈍感でないルリにはその理由も勿論分かったが、それだけに返事に困ってしまう。
 そんな姉の様子を見て、あまねはそっと助け舟を出した。

「心配してくれてるのよ。この間女子会してたでしょう? その時に皆もルリ姉と仲良くなったから、一層体調が気になるみたいで。一応、まだ病み上がりなんだもの」
「ああ…そうなのか」

 それならあまり訝しく思うのも良くなかったかもしれない、とクロムは素直に反省した。
 そして一つ気に掛かっていたことが解消されたところで、はたと彼は気づく。

「そういや……何で手なんか繋いでんだ?」

 問われて初めて、あまねは自分達の状況を思い出した。冷たい自分の手と、それをを包んでくれるルリの温かい手のひら。先程からずっとこの体勢のままだったのだ。
 手を離そうとしたその時、ピーンとあまねは閃いた。ちょっと余計なお節介かもしれないけれど。

「洗濯してたらね、ルリ姉の手が冷えちゃって」
「えっ、あまね…!?」

 パッとあまねが手を引っ込める。後に残るのは、おろおろと宙に浮いたルリの両手。それをクロムはなんとはなしに握り、ぎょっと目を丸くした。

「おわっ、マジじゃねえか!」
「いえ、あの、これはその……」

 つい先程まで洗濯をしていたのはあまねのほうだ。多少熱が奪われたとはいえ、ルリの手は妹に比べれば全然温かい。けれど、そんなことをクロムが知るわけもなく、彼は先のルリと同じように真摯に目の前の手を温めようとしている。
 騙しているようで気が引けたのか、ルリは初めのうちは戸惑っていたが、やがておとなしく温もりを受け取るようになった。クロムと違い、ルリはしっかりと自覚しているのである。二人の隣で、あまねはこっそり笑った。

 邪魔にならないように、そっと数歩、足を引いた。
 視界に映る景色が広がる。いつの間にか太陽の位置は高くなり、澄み渡る青い空が石神村を包んでいた。
 どこまでだって行けそうな空だ。海にも山にも、空の向こうにさえも。実際に辿り着くのは簡単ではないけれど、繋がっているだけで、そこには自由が広がっているような気がする。
 一つ息を吸う。少し乾いた、静謐な空気が肺に満ちる。これまでと変わらない秋が今年もまた訪れていた。
 でも、今はこの空の下にルリがいる。長く病で伏せっていた、大切な姉が。少し恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに微笑む彼女の姿に、あまねは胸がいっぱいになるのを感じる。
 そして――たとえ何度見ても、見飽きても。
 何度だって、思うのだ。

「夢みたい」

 …あまねは、はっと唇を閉じた。
 たぶん小さな声だったんだろう。二人がこちらを気にした様子はなく、聞かれてはいなかったようだ。
 クロムなんかは、「ルリってこんなに手小さかったか?」と大真面目な顔で首を傾げている。一気に緊張がほどけ、へにゃりとあまねは頬を緩めた。この熟していない感じがなんとも甘酸っぱく、かえって堪らない。
 コハクがいたらこの気持ちを一緒に分かち合ってくれるのになあ。あまねは周囲を見回した。湖には漁に出ている舟もあるが、特にこちらに注目している視線はなさそうだ。まあ、父に見られていたりなんかすればきっと激高されてしまうので、誰も見ていなくて良かったと思うべきだろうか。

「あ……」

 不意に、視線が一つの場所に惹き付けられた。
 湖の向こう岸にマグマがいた。いつも通り側近のマントルを引き連れて、村から遠ざかる方向へと歩いている。木を採りに行くのだろう。ほとんど背を向けた角度なので、当然こちらには気づいていない。
 声を張れば届くかも、といった距離だが…残念ながら、今は特に用事もなかった。だから、あまねはただ彼を見ているだけだ。仕方ないじゃないか。だって、目が離れてくれないのだ。
 そういえば、この距離はなんだか懐かしい。少し前までのあまねはよく、手の届かない場所からマグマを見つめていた。
 いつからだろう、マグマを目で追ってしまうようになったのは。仄かな想いが芽生え、そして欲へと変わっていったのは。
 …結局、彼が視線に気づいたことは、ただの一度もなかったけれど。

「(夢……夢か…)」

 もしかすると、自分は長い夢を見ていたのかもしれない。あまねは思う。初めて一夜を過ごした時からずっと、ふわふわと足が浮いているみたいで…現実感がない、というのは言い過ぎかもしれないけれど。指の感触も、間近で響く声も、蕩けそうな熱も、全部はっきりと思い出せるのに、それら全てがふとした瞬間に散り消えて、そのまま忘れ去られてしまいそうな、漠然とした恐ろしさがある。
 こんなことを考えていたくはなかった。なのに、あまねの思考はどんどん悲しいほうに流れ落ちてゆく。
 幸せな光景を前に、夢みたい、だなんて、そんなことは思いたくない。夢などにはしたくない。だって、確かに目の前にあるはずのものを信じきれていないみたいじゃないか。いつか目が覚めると思ってしまうのは、幸福への冒涜に違いな――。

 マグマが突然振り返った。

「…っ」

 あまねは息を呑んだ。目が合って、心臓がどきりと跳ねた。何かしなきゃ、と思って、曖昧に手を振った。
 マグマは特に何もしなかった。強いて言えば、鼻で笑った、ように見えた。そんな態度でさえあまねは嬉しいと思ったけれど、マグマは元通り背を向けて、さっさと歩き始めてしまった。
 駄目だなぁ、とあまねは笑った。本当に駄目だ、どうしようもない。考えないようにしてたはずなのに、その姿を見ただけで、視線が交わっただけで、マグマは簡単にあまねの心を埋め尽くしてしまうのだから。

「なんだよマグマの奴。態度わりーな」

 突然声が飛んできて、あまねは肩を揺らした。いつの間にかクロムが隣にいて、同じようにマグマのほうを見ていた。あれ、と思って反対側を見れば、そちらにはルリがいる。

「おう、気にすんなよあまね」
「気にしてないわ」

 あまねは小さく笑った。本心だ。
 確かに、クロムだったら大きく手を振ってくれるだろうなと思った。屈託のない、満面の笑みを浮かべて。でも、マグマはそんなことはしないだろうし、あまねだってそれを求めているわけじゃない。
 でも…。
 我儘なのかなぁ。あまねはもう一度、森のほうを見た。遠ざかっていく背中を見つめた。
 マグマはあまねが妻であることを否定しない。隣で眠ることを拒まない。彼が一緒に食事を取る女はあまねだけだし、自分だけは守ってくれるのだと、あの夜に言ってくれた。
 昔に比べたらすごい進歩だ。泣けてしまうくらい幸せなことだ。
 それなのに、それだけじゃ満足できないと思ってしまう。触れてくれないと、体の奥まで暴いてくれないと、不安になる。怖くなる。…傍にいてくれるのに?
 考えは一向に纏まる気配を見せない。ぐるぐる同じところを回るように悩み続けてしまうのは悪い癖だ。そう思いながらも、あまねは考えるのをやめられないのだった。

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