積み上げる心をこれからも

リクエストより「不動くんでほんのり甘め」





 この場所に来るのは久しぶりだったから、どう声を掛けようかと少しだけ悩んでいた。けれど、階段を登り切った先の襖が無防備に開け放たれていたので、不動行光は声を掛けるより先に彼女に見つけられてしまったのだ。

「やあやあ不動くん、一杯いかが?」

 膝を立てた体勢で寝転んだまま、気取った口調で誘惑してくるのは、成人もまだ遠い少女だ。
 畳の上にコテンと転がって、仰向けにこちらを見上げている。手首には紅色の髪紐が巻きついており、普段括られている黒髪は波のように散らばっていた。
 隣にあるのは小さな盆。その上に置かれているのは、見慣れ尽くした甘酒の瓶だ。

「飲まないよ。仕事中だからね」

 不動がここに来たのは彼女宛の荷物を届けるためである。甘酒とはいえ酒は酒。自分は特に酒に弱いので、この時間から飲むわけにはいかない。
 そう思って断ると、そっかぁ、と主が唇を尖らせた。

「主は休憩中かい?」
「うん」
「お疲れさま。荷物、ここに置いておくよ」

 そう言って早々に立ち去る気配を見せる不動を前に、この本丸の主――籠宮あまねは目を閉じ、小さく息をついた。

「最近の不動はまじめだなー」

 ちら、と探るような視線が不動に向けられる。呼び止められた気がして、彼は足を止めた。

「お酒は飲まないし」
「もう酒に逃げるのはやめるって決めたから」
「馬当番も文句言わないし」
「えーと、主命だからね」
「手合わせもやる気満々だし」
「いざという時に主を守れないのは、もう御免なんだ」

 できる限り誠実に答えたつもりだが、それが彼女には不満だったらしい。
 むー、と口を一文字に結ぶと、あまねはすたっと身体を起こした。

「そういえばねぇ、不動にあげたいものがあったんだよ」
「あげたいもの?」
「うん、ちょっとそこ座って」

 指さされた畳の上に、不動は言われた通りに正座をする。反対に立ち上がり、部屋の脇のほうへ歩いていくあまねの後ろ姿を、なんとはなしに眺めた。
 あまねが棚の戸を開けて何やらごそごそしている。不意に、その袖のあたりから何かがぽろっと落ちてきた。それはテンテンと僅かに跳ねた後、反対の壁のほうに向かって静かに畳の上を転がっていく。

「あ、ごめんね。拾ってもらってもいい?」
「もちろん」

 不動は膝をずって移動し、小さな丸い物体に手を伸ばした。きらきらと光る藍色のそれは…。

「ビー玉?」

 一体どこから出てきたんだろう。疑問に思いながら、振り向こうとしたその時だ。

「ふーどーう!」
「わっ…!?」

 背中に温かな衝撃を感じて、不動は思わず声を上げた。
 あまねが突然覆い被さってきたのだ。

「っ、ちょ……っ、ああもう、あんたなー!」
「あははっ、びっくりした?」

 あまねは笑いながら、遠慮なしに不動の背中に体重を掛けてくる。抵抗していなければ自分の上体はぺたりと畳に着いていただろう。
 もしかして、ビー玉を落としたのも不意を突くためだったんじゃないか? あまねならそうしてもおかしくないな、と呆れ混じりに彼は思う。
 じゃれつく腕は背中側から不動の肩の上を越え、彼の顔の前で指先を組んだ。そこに見慣れない鮮やかな色を見つけ、不動の唇が自然と開く。

「爪……」

 普段は自然なままの桃色をしていた爪の先が、まばゆい橙に彩られている。そう、例えば、加州清光が付けている爪紅のような物で。
 ぽろっとこぼれた言葉に、あまねの声がぱっと明るくなる。

「あっ気づいた? ちょっとだけ塗ってみたの! どう? どう?」
「うん、可愛いよ」

 そう言った瞬間、のしかかってくる勢いがぴたっと止まった。

「あ、いや、俺は焼き物のことくらいしか分からないけど…」

 自分の言葉を慌てて省みる。
 女の子のお洒落は埒外だ。もしかすると、間違った答えを返してしまったのかもしれない。
 言い訳のように口にした言葉を、ううん、とあまねが止めた。

「可愛いって思って塗ってるんだし。可愛いって言ってくれたから不動は百点満点だよ」
「そうかな?」
「うん」

 胸がふんわり温かい。戦いのことでなくても、褒められると嬉しいものだ。 
 その後ろであまねがふふ、と抑えきれなかった笑みをこぼした。そして、不動の背をぐいーっと伸ばすように、再度体重を掛けてくる。

「不動もこのままちょっと休憩! いいでしょ? 最近不動すごく頑張ってるしさー」
「それ、労ってるっていうより、だらけるのに俺を付き合わせたいだけだよな…」
「そんなことないもん。はい、足伸ばしてー」

 あきらめて、というよりは彼女に絆されて、不動は小さく息をついた。
 ゆっくりと身体の力を抜いてゆく。背中の重みに従うまま上体を前のほうに倒し、薫る藺草の上にうつ伏せに寝転ぶ。
 主のほうはと言えば、倒れ込む身体にそのまま引っ付いてきたので、ちょうど布団のように不動の上に乗っかっている。
 少し肌寒さが増してきたこの頃、彼女の体温は程良くぬくい。昼下がり、疲れがじんわりと染み渡る時間。いけないと分かっているのに、このまま眠ってしまいたいような気持ち。なんでこう、この主は欲望を唆してくるんだろうか。

「罪悪感がすごい……」
「懐かしくない?」
「いや、まあ、それはね…」

 皆が働いている時間に、主と二人。何をするでもなく、畳の上にごろりと転がっている。
 しかしこれは、不動行光が修行に赴く前にはよく見られた光景だった。
 あまねと不動は謂わばサボり仲間のような関係で。こっそりと仕事を抜け出し、あまり人の訪れないこの部屋にやって来ては、寝転んで惰眠を貪ったり、甘酒を飲んだり、お菓子を摘んだりと好き勝手したものだ。
 霊力を見初められて本丸に寄越された小さなあまねには、その頃はまだ歴史を守らなければならない理由がなく。不動もまた、かつての主を守ることができなかった悔いに支配されるばかりだった。きっと、使命を果たさなくとも許してくれる相手というのが、その時の自分達には互いに必要だったのだろう。

「重い?」
「いや、重くはないかな」
「うそー。前は重いって言ってたよ」

 確かに言われてれば、へべれけな時にこういうふうに乗られて、重めーぞ、と雑に扱った覚えがある。

「あの時だって本気で重いと思ってたわけじゃないよ」
「そうなの? ひどい、私傷ついたのに」
「それは……ごめん」

 謝ると、冗談だよ、と軽く笑って返される。
 ――そうだ、こんな感じだった。自分と彼女は。
 酔った不動がくだを巻いて前の主の話ばかりをしていても、あまねが嫌な顔を見せたことはひとつもなかった。「もう、また同じ話ー! 不動はノブナガさんが大好きね」…甘酒を片手にそう言って、飛びついてきて、ケラケラ笑って。
 思えば自分達は最初から、主と刀剣男士という枠組みには当てはまっていなかったのだろう。あまねが本丸の主という役目を自覚し、不動が己を見つめ直すための修行から戻った後でも、その時の関係性がまるきり消えたわけではない。

 よいしょ、と不動の上から降りたあまねが隣に横たわる。彼もぐるりと寝返りを打ち、横を向いた。

「はい、返すよ」

 手に持っていたままだったビー玉を差し出す。ありがとう、と言いながら、しかしあまねは受け取ったビー玉をすぐに畳の上に置いた。
 そして、代わりのように不動の手に触れる。
 指の先を掴んだかと思うと、距離を詰めて、両手で不動の手を掴む。それから彼の指を開かせると、手のひらをさわさわとまさぐるように触り始めた。

「手、固くなったね」
「最近はずっと刀を握ってるからね」
「すごいなあ……不動はえらい」

 あまねがぎゅっと手を握ってくる。言葉と指先のこそばゆさに顔が変に緩みそうで、不動はぴっと口元を引き締め直した。

「俺が頑張れるのはあまねのおかげだよ」
「ええー、そうかな?」
「うん。頑張ってる主を見てると、俺も頑張ろうって気持ちになるんだ」

 気を入れ直さなければならないのは、今度はあまねのほうだったらしい。胸がむずむずするのを感じながら、彼女は一度きゅっと唇を結ぶ。

「…そんなこと言ったら、私が頑張ろうって思うのだって、不動が頑張ってくれてるからだもん」
「本当?」
「本当…………って、何これ、超恥ずかしくない? 不動よく面と向かって言えるね」

 耐えかねたらしいあまねが不動の手を離し、ごろんとそっぽを向く。

「本当の事だからね。全身全霊を掛けて守りたいと思える主に出会えたことは、幸福だと思ってるよ」

 真摯に伝えたつもりだが、はてさて。
 くるくるした瞳が戻ってきて、かえって不満げに不動を見つめた。

「あーあー、おつまみあげるからもう黙って」
「ん」

 口元に何やら押し付けられ、反射的に口を開ける。隙間から押し込まれた小さな塊を、そっと舌の上で転がした。

「チョコだ」

 とろける甘さと仄かな苦味。ぱっと目が覚めるような魅惑のお菓子。可愛らしい外箱を見せながら、あまねが自慢気に言う。

「おいしいチョコレート屋さんのおいしい生チョコです」
「それはおいしいな」
「おいしい?」
「うん」

 あまねが嬉しそうに笑った。彼女もまた自分の口に丸いチョコを放ると、その甘さに頬を溶かす。
 雪のように消えてしまいそうなチョコレートをじっくりと味わいながら、ふと不動は思い出した。

「もしかして、さっきあげたいものがあるって言ってたのはこれかい?」
「そうだよ」

 転がるビー玉に気を取られて忘れかけていたが、そういえば先程彼女は棚から何かを取り出す仕草を見せていた。

「嘘だと思った?」
「えーと、うん」
「本当だよ。まあ、ビー玉はわざと落としたけど」
「やっぱりか」

 横になったままのあまねが、畳の上のビー玉を軽く弾く。それは窓から差し込む光できらきらと輝きながら、不動の前までやってきた。

「これ、どこで見つけてきたんだ?」

 指先でそっと弾き返す。向かい合って寝転ぶ二人の間を、小さな玉が音もなく行き来する。畳の目を越え、藍色の光を揺らめかせながら転がっていく様は、まるで波のようだ。

「部屋の片付けしてたら見つけたの」
「片付けしたんだ。偉いね」
「でしょー? すごく綺麗になったんだから! 見たらびっくりするよ……あ、変なとこ行っちゃった」

 あまねが誤魔化すようにくすくす笑い、不動の頭の上のほうに手を伸ばす。けれども、コントロールを失ったビー玉は既に手の届かない場所にまで行ってしまったらしい。早々に諦めたあまねを見て、仕方ないなと苦笑した。
 畳に手を付き、ぐるっとうつ伏せになって腕を伸ばす。指先に引っかけたビー玉をどうにかこうにか手繰り寄せながら、自分も彼女に何も言えないほど十分に怠惰だなと、不動は自分に呆れてしまう。
 けれど、今だけはそれも許そう。

「不動こっち向いて」

 横を向くと、すぐそこに橙の指先。

「はい、あーん」
「ん」
 
 押し込まれたのは2個目のチョコレート。

「お酒入ってるのもあってね、それもすごくおいしいんだよ。だから今度また食べようね」

 あまねの笑った顔が胸にじんと染みる。
 この時間が好きだ。何をするでもなく、ただあまねといるだけの時間が。ずっと前から自分を支えてくれているものが何なのか、不動はちゃんと知っている。
 燃える本能寺の前で、一瞬、彼女の顔が浮かんだ。そのおかげで、今、自分はここにいるのだ。

「…………」

 知らず知らずのうちに、不動の顔にも穏やかな笑みが浮かんでいた。それを見たあまねが、はっと何かに気がついたような顔をする。
 まじまじと見つめられていることに気づいて、不動は小さく首を傾げた。

「あまね?」
「私、昔から不動と仲良しでよかったぁ」

 脈絡のない言葉につい、きょとんとしてしまう。

「どうしたんだい? 急に」
「あのね、不動ってお酒抜けるとなんだか普通にかっこいいじゃない?」
「…うん?」
「最初からこんなふうだったら、私きっとドキドキしてうまく話せなかっただろうなあって」

 話を聞いた後でさえ、唐突だな、と不動は思った。
 とはいえ、ドキドキするしないは置いておいても、確かにこんな形で親しくはならなかったのかもしれない――もし出会った時、既に不動が極めていたのなら。畳の上に転がって、行儀悪く菓子をつまみながら駄弁るふうには。

「それは困るかな」
「あは、不動も困る?」
「困るよ」

 積み重ねてきた物を何一つ失くしたくないと思う。
 不動行光に宿るのは、かつての主達との思い出。そして、今まさに増え続けているこの本丸での思い出。
 あまねとの思い出。

「俺だって、あまねのことを特別に思っていたいからね」

 記憶が想いを作るのなら、それこそがこの不動行光を不動行光たらしめるものなのだろう。目に見えず、儚く、手が届かなくとも、いつだってその先に心はある。

「特別って、どんなふうに?」

 茶化すようにあまねが言った。見上げる瞳に悪戯っ子のような笑みが浮かんでいる。
 不動は静かに彼女を見つめた。ちょっと考えて、その頬に手を伸ばす。
 身体を屈めて、いつもより少しだけ、距離を近づける。
 何故今そうしようと思ったのだろう。二人の間柄でなら同じように茶化して返したって良かったし、そうでなくとも、言葉を以て伝えることは困難ではなかったはずだ。
 けれども、そうしたいと思ってしまった。衝動からは程遠く、肉体に引きずられたわけでもなく、ただそう思ったから。

「ふど、…」

 僅かに丸められた目。小さく開かれた唇からこぼれた名前が消えても、不動は黙っていた。
 遠くの虫の音だけが微かに鳴る。あと少し耳を澄ませば、相手の鼓動さえ聞こえる気がした。
 十分過ぎるほど長い時間そうしていたように思う。声を上げるのも、拒むのも、なんだってできるくらい。
 それでも、あまねが静かに目を瞑ってくれたから、不動はそっと顔を近づけることができたのだ。


「……………………んー……………」

 真っ赤な顔をした少女が、唇をむずむずと結んでいる。視線を逸らしたいけど逸らせないような表情で、弱々しく不動を見上げている。

「…そ、……そういうのはずるくない?」

 あまり見たことのない姿に胸の柔らかいところをくすぐられる。素直に可愛いと思ったし、顔は浮かれて緩みそうだ。
 けれど、やはり一抹の不安を抱かずにはおれず、不動はおそるおそる尋ねる。

「何も言い訳をするつもりはないんだけど、…ええと、嫌だったかい?」
「そんなことないけど…えーでも、ずるい」

 指先で自分の口元に触れ、あまねがもう一度言う。

「不動ずるいね」

 指の隙間から覗く唇が弧を描いた。ふふっ、と頬が上がり、黒猫のような瞳が柔らかくたわむ。照れながらも、にやけるのを止められないでいるような、嬉しそうな顔。
 それを見た瞬間、不動の身体の熱が一気に上がった。酒を飲み干した後のように顔が茹だる。今更なんだけれど、妙に照れくさい。
 知らなかった。口づけをしたその瞬間より、後のほうが余程恥ずかしいなんて。
 耐えかねた不動がさっと顔を背ける。けれども相手がそれを見逃してくれるはずもなく、身体を起こしたあまねがへにゃりと緩んだ顔で言う。

「不動も照れてる」
「あの、見ないでもらえるかな?」
「そっちも私のこと見てたでしょ。なのにそれは不公平ってものですよ不動さん」

 そうなのだろうか。そうなのかもしれない。
 視線をこんなにむず痒く感じたのは始めてだ。込み上げ続ける想いで胸がいっぱいなのに、同時に居たたまれなさが湧き出て来るせいで、頭の中がハチャメチャだ。
 そんな時、階下から彼女を呼ぶ声が聞こえた。この本丸の近侍の声だ。タイミングが良いと言うべきか、悪いと言うべきか。いや、休憩を終えなければならない時間なのだし、良いと言うべきなんだろう。

「えっと…呼ばれてるよ、主」
「うん。……ふふ、えー、だめだね、こんなの絶対ばれちゃう」

 あまねがよいしょと立ち上がった。髪を一つに括りながら、彼女が小さく首を傾げる。

「不動ももう行く?」
「え、や……もうちょっといようかな、うん」

 何故って、まだ頬の熱が引きそうにないからで。その原因の子と一緒に他の刀達の前に出るのが恥ずかしかったからで。
 くるりと身を翻して廊下のほうへ向かう後ろ姿を、ううんと唸りながら不動は眺める。さっきまであんな…あんな恥ずかしそうな顔をしてたくせに。あまねはよく平気だな、と感心さえしてしまう。
 と、あまねが襖の陰からぬっと顔を出した。心の中を覗かれてしまったような気がして、不動はぎくりと肩を揺らす。けれど、彼の予想とは真逆に、あまねは晴れやかに笑った。

「私、やっぱり不動と仲良しでよかった!」

 桜の花が舞う。
 あまねと出会ってからの短くも長い時間の中で、見惚れたのは初めてだった。両手で顔を覆い、いつまで経っても鳴り止まない鼓動に困り果てながら、彼は満ち足りた溜息をついた。

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