Iris

リクエストより「掌中シリーズの主人公が結婚前にマグマに片思いをしている時のお話や、好きになったきっかけのお話」





「…痛っ、た……」

 森の中をひとり歩きながら、あまねは眉を顰めて呻いた。右足首がじくじくと痛い。ああ、やってしまった。
 今日、あまねは昼過ぎから森に入って、一人で採集をしていた。その最中に突然の雨に降られたので、大きな木のうろに入って雨宿りをすることにしたのだ。
 そこまでは良かったのだが、問題はその後だ。
 雨が止み、意気揚々と木から出た瞬間、泥濘んだ土に足を取られた。採集した草や根を詰めた籠を咄嗟に守ろうとしたせいで、身体を支えることもできず、あまねは地面にべしゃりと転んだ。後に残ったのは右足首の痛みと、泥まみれの身体――籠の中身が無事だったことだけが救いではあるものの、もう少し気をつけていれば、こんな怪我に耐えながら帰途を辿ることもなかったのに。自分への苛立ちと情けなさで泣きたい気持ちになる。
 村はまだ遠い。今からだと、着く頃には日も暮れているだろう。心細さがあまねの柔い胸をきゅっと締め付けた。
 にわかに騒がしい物音が聞こえてきたのは、そんな時だった。

 地面を力強く蹴り上げる音。枝や木の葉に身を擦りつけ、甲高い声を上げながら、獣が走っている――いや、逃げている?
 木々の生い茂る中では、正確な方向を掴むのは難しい。しかし、激しい物音は、段々とこちらに近づいてきているように思われた。
 あまねは思わず息を潜める。この場から離れようとしたが、足首の痛みが彼女に枷を嵌めていた。

「…ッ!」

 果たしてあまねの願いは叶わず――森の冷たい空気を切り裂いて、その獣は現れた。
 しなやかな身体をした牝鹿だ。
 ひと目で酷い興奮状態にあると分かった。それと視線が合ったと感じた瞬間、あまねの全身に鳥肌が立つ。逃げなければと、強い衝動が身体を突き動かす。けれどその本能は、怪我を突然治してくれたりしない。
 崩れ落ちるように転んだあまねのほうへ、鹿が一直線に向かってくる。
 全身が強張る。もう駄目だと目を瞑る。
 しかし、その瞬間――閉じた瞼の向こうで、鈍い音が響いた。
 予想していた衝撃は来ない。代わりに訪れたのは、雨上がりの空よりももっと晴れ晴れとした笑い声であった。

「ムハハハハ! 俺から逃げられるとでも思ったかよ!」

 低く太い男の声。聞き馴染みのある音に、あまねはそろりと目を開ける。
 最初に見つけたのは、地面に横たわりぴくりとも動かない鹿の姿。次は、その横に転がっている無骨な石斧。そして最後は、森の奥から現れた、筋骨隆々とした大男。

「あ?」

 マグマはべちゃりと地面に座り込んでいるあまねを見つけると、不思議そうに首を傾げた。

「あまねか。何してんだ、んなとこに座ってよ」
「ま、まぐま…」

 あまねは呆然と彼を見上げた。何か返事をしようとしたのに言葉にならなかった。ほんの数メートル先まで迫っていた死の恐怖が、彼女の身体の力を奪っていた。
 マグマはろくに話せないあまねを訝しげに見ていたが、やがて興味をなくしたのか倒れ伏した鹿のほうに近づいてゆく。獣が死んでいることを確認すると、その細い両足を掴み、持っていた縄で括り始めた。
 あまねはその様子を眺めながら胸に手を当てた。心臓がドクッドクッとけたたましい音を立てている。収まるまではもう少し掛かりそうだ。

「…死ぬかとおもった……」

 はぁ、と深く息を吐いた。途端、マグマの視線がちらりとあまねを捉え、彼女はどきりとして唇を閉じる。
 助けられた礼を言うべきかと迷った。でも、よく考えればあの鹿の気が高ぶっていたのも、ここまで追い立てられてきたのも、マグマが狩りをしていたためだ。それを思うと感謝するのもなんだかおかしい気がしてきて、結局あまねは黙ったまま視線を俯ける。
 マグマは同じ村の住民だし、年もそこまで離れてはいないけれど、だからといって特に仲が良いわけでもなかった。寧ろ…苦手な部類に入る、かもしれない。こうして森の中で出会ってしまうと、どういう態度で接すればいいのかと迷うくらいには。
 マグマは力が強く粗暴な男で、若さもあってか酷く喧嘩っ早い。それがあまねに向けられたことはないものの、双子の姉のコハクとは反りが合わないのかよく言い合いをしていた。そこに拳が混じることも度々で、しかしその勝負に女のコハクが勝つものだから、プライドを傷つけられたマグマは殊更彼女をよく思っていない。コハクの妹の自分のことも、きっと快くは思っていないだろう。
 マグマが縄を肩に掛け、獲物を担ぐ。このまま立ち去るかと思われたが、彼は意外にもあまねのほうに近づいてきた。地べたに座り込んだままのあまねを見下ろし、マグマは呆れた様子で言う。

「ベッチャベチャじゃねえか。なんだ、立てねえのかよ」
「…! …だ、大丈夫、………ッ、あ…」

 立ち上がろうとして、あまねは土に手を付けたまま固まった。ビリビリと足首を中心として走った痛みに、ぎゅうと目を瞑る。本当に学ばない。鹿を避けようとした時にまた痛めてしまったらしい。
 痛みに呻くあまねの前にマグマがしゃがみ込む。

「腫れてんな」

 マグマがため息を付いた。責められているような心地がして、あまねはびくりと縮こまる。
 でも、もう例え杖を突いたとしても歩いて帰るのは難しそうだ。せめて、マグマがコハクか父のコクヨウを呼んできてくれたら。あまねはどうにか頼み込もうとおそるおそる彼を見つめる。
 そして、マグマの予想外の行動に目を剥いた。

「えっ…!?」

 マグマがあまねの手を取り、ぐいと自分の肩の上に乗せる。彼の胸元に飛び込むことになったあまねが目を白黒させているうちに、マグマは彼女の太腿の裏に腕を回すと、そのまま物のように抱え上げた。
 視界がいつになく高い。マグマの肩の上で上体が揺れ、あまねは小さく悲鳴を上げてしがみつく。
 マグマは鹿を括った縄を反対の肩の上に担ぐと、村の方向へ向けてさっさと歩き始めた。あまねは混乱で硬直していたが、ふと自分が今までいた場所を見下ろし、慌てて身体をばたつかせる。

「マグマ、下ろしてっ」
「暴れんな、どうせ動けねえだろうが!」
「ちが、っま、待って、籠、持ってかなきゃ」

 見下ろした先には籠が転がり、その周りにはあまねが採集した草や根が散らばっていた。体勢を崩した時に手元を離れてしまったのだ。
 振り向いたマグマが顔をしかめる。

「草ばっかじゃねえか」
「ルリ姉の薬になるかもしれないの!」

 力強い眉が不機嫌そうにぴくりと動いた。
 マグマは大きく数歩戻り、ゆっくりと屈んであまねを下ろす。今度はこのまま置いていかれるかもしれないと思いながら、あまねは地面に膝をつき、籠を手繰り寄せようと手を伸ばした。

「あ、」

 しかし、あまねの手が届くより先に、籠はマグマに奪われた。彼は土の上に落ちた草を大きな手で掻き集めると、籠の中にポイポイと投げ込んでいく。

「これでいいだろ」

 あっという間にいっぱいになった籠をあまねに押し付けて、ぶっきらぼうにマグマが言った。
 あまねの胸がとくんと鳴る。今度は、恐ろしさのせいではない。

「ありがとう…」

 手渡された籠をぎゅっと抱く。
 あまねは、マグマが苦手だ。血の気が多くて、暴力的で。これみよがしに力を誇示するところも、…村長の座を狙っているところも、あんまり好きじゃない。
 けれど…それとは別に、強い男に対して若い女が皆抱くような仄かな憧れが、あまねの中にもあった。恵まれた体格や逞しい腕を目にすると、自分では届きもしない胸の奥をくすぐられるような、なんとももどかしい気持ちに襲われた。例えそれが打算と気まぐれからのものであっても、優しさを見せられると喜びに心はきゅっと鳴いた。
 自分もいつかは誰かと結婚するのだろうと思いながらも、村の男達をそのような目で見ることは、少女のあまねにはまだ少し難しい。気恥ずかしくて、恋にも至らない感情の蕾すら認められない。だから――だから、あまねはマグマを前にすると、余計にどうしたらいいか分からなくなるのだ。

「さっさと帰んぞ」

 マグマの腕があまねの太腿に巻き付く。転んだせいで、土のざらついた感触が肌の上に張り付いていた。マグマまで泥で汚れてしまうことを申し訳なく思う一方で、今のあまねはそれよりも互いの肌と肌が触れることを妙に意識してしまう。裾の長い服にしておけば良かったと後悔さえ覚えるほどだ。でも、そんな恥じらいめいた感情を向こうには知られたくはない。

「マグマも汚れちゃうわ」
「今更だろが、クソッ……お前を放ったらかしたらコハクの奴にどやされんだよ」

 マグマは先程と同じく、あまねの腹を肩に乗せるようにして抱き上げた。

「ごめんなさい…」

 元はといえばあまねの不注意が原因なのだ。マグマがこうして村まで連れて行ってくれるなんて想像もしていなかっただけに、余計に気が咎める。

「さっき雨降ってたでしょう? 木の下で雨宿りしてたんだけど、外に出たときに転んじゃって、」
「あ?」

 申し訳なさと気まずさから言い訳のように口にした言葉に、マグマが反応した。

「そんなら俺のせいじゃねえじゃねえか!」

 あまねはびくりと身体を硬くする。と、同時に理解した。
 おそらくマグマは、あまねが鹿に襲われた時に怪我をしたものと思っていたのだろう。それに責任を感じて、こうして手を貸してくれていたということか。
 確かに怪我は多少悪化したのだが、それが直接の原因だったわけではない。もしかすると、マグマにしてみれば騙されたようなものだったのかもしれない。

「だ、だから、あの、…ありがとう。助けてくれて…」

 あまねは命を握られているような感覚になりながら、しどろもどろに礼を言った。
 マグマが黙っている。沈黙が痛い。やっぱり、怒ったのだろうか。

「…まあ、いいけどよ」

 しかし、あまねの想像を裏切ってマグマはあっさり前を向き直した。
 風景が再び動き始め、あまねは小さく安堵の息をつく。詰られなかったことを意外に思ったが、よく考えてみれば、あまね自身はマグマにそこまでぞんざいに扱われたことはない。もしかして、そこまで怯える必要はなかったのかも…。
 マグマは慣れ親しんだ森の中をズンズン進んでいく。鹿一匹と人間一人を運んでいるとは思えないスピードだ。あまねは視線を彷徨わせながら、振り落とされないように籠をしっかり抱えた。

「マグマ…」
「なんだよ」
「えっと…重くない?」
「はっ、石神村のナンバーワンパワー舐めんじゃねえ」

 心配さえ侮辱だと言わんばかりにマグマが答えた。自信に満ちた姿になぜだかあまねの安心感も増して、その表情が僅かに緩む。

「マグマはすごいのね」

 あまねの顔に笑みが浮かんだのは、今日マグマに会ってから初めてのことだった。
 おだてられたマグマもまた機嫌を良くした様子で笑っている。しかしふと、何かに気がついた様子でニヤリと口の端を上げた。

「ムハハハ、ルリに伝えておけ! このマグマ様がいかに力強く長にふさわしい男なのかをな!」

 ――あまねの喉の奥が、ふいに凍った。
 マグマに見えないところで彼女は静かに唇を結ぶ。
 ルリ。あまねの最愛の姉。村の巫女であり、永くは生きられない病に侵された少女。

「マグマは…長になるの?」
「あ? あたりめーだろが! 俺より強い男なんざいねえんだからよ」

 ついさっきまでそこにあった穏やかな気持ちが消えていくのを感じた。
 あまねが住む石神村の長は御前試合によって決められる。その勝者が先代の長の娘である巫女を娶り、次代の長となるのだ。
 マグマが長になりたがっていることは知っていた。事実、村で一番強いのは彼なので、順当に行けばその夢は叶えられるのだろう。
 あまねがそれを望めない理由はただ一つだ。

「…ルリ姉はクロムが好きなのよ」

 機嫌を損ねるかもしれないと思いながらあまねは言った。
 しかし、マグマは何を思ったふうでもなく答える。

「それが何か関係あるのかよ」

 …確かに、巫女に愛する者がいることは、長になろうとする者にとって何の憚りにもなりはしない。御前試合で勝利を収めた者が巫女を妻とする。ずっと昔から、何世代にも渡って続けられてきた決まりごとだ。
 マグマは何もルールに反していない。ルリはその身を巫女の役目に捧ぐことを覚悟している。クロムでさえ、御前試合に勝つことを目指してはいない。
 だから、これは…きっと、あまねの我儘なのだろう。
 でも、だって、あんまりじゃないか。
 ルリ姉は病で苦しみながらも母から百物語を継ぎ、村のためにずっと巫女の役目に従事してきた。クロムが戦闘力を鍛えるのではなく採集に力を注いできたのは、彼女の病を治す手立てを求めてのことだ。ルリ姉と結婚して長になることより、彼女の命を守ることを何より大事にしたからだ。
 そんな二人なのに、二人を繋ぐ未来は遠ざかるばかりなんて。

「しかし、クロムか。あんな熊も倒せねえ奴に長になられてたまるかよ。毎日毎日変なモンばっか集めてる奴だぜ」
「それは、ルリ姉を治す方法を探してるからで、」
「はっ、よくやるぜ」

 馬鹿にするような言い草にむっとする。
 ルリは永くは生きられないと言われている。それでも、父も、ターコイズも、ジャスパーも。コハクも、クロムも、あまねも、彼女の命を繋ごうと皆必死に足掻いているのに。

「大体よ、そんな草で本当に治んのか?」
「…分からない。けど、治るかもしれないから」
「それよか肉でも食ったほうがよっぽどいいだろ。ムハハハ、頼めばやらんこともないぞ」

 背負った獲物を指してマグマが言った。
 悲しさと悔しさがお腹の底から湧いてきて、あまねは唇を噛み締める。

「…マグマはルリ姉のこと好きでもなんでもないくせに」

 こんな言葉に意味がないことは分かっていた。
 誠実さの欠如を責めようとしたって、どうせ事実なのだから別にマグマは気にしない。マグマは長の座がほしいだけ。そんなことは分かりきっているのに、駄々みたいにあまねは言う。
 案の定、マグマは鼻で笑った、けれど。

「お前が巫女なら良かったんだがな」

 何気なく言われた言葉に、あまねの思考はぴたりと停止した。
 頭の中で言葉をなぞる。文脈の中で繰り返し意味を探る度に、心臓がどくんどくんと騒がしさを取り戻す。
 もし、私が巫女なら――私とマグマは。
 息ができなくなりそうな想像だった。胸元から広がった熱が全身に伝播して、顔まで燃えるように熱い。

「そ、それって……」
「なんだよ」
「わたしと…………結婚したいの?」

 口にした途端、とてつもない恥ずかしさに襲われた。
 ずっと抱き上げられているせいで、体温が上がったことまでマグマに伝わってしまいそうだ。やっぱり何でもない、そう言って誤魔化してしまいたいのに、その一方で、彼の本意を追求したい気持ちもあった。

「テメーが巫女ならな。考えてもみろよ。ルリは身体が弱えし、コハクはああだろが。長んとこの子供だと、お前が一番まともだろ」

 しかし、マグマはあまねの葛藤などまるで知らない様子で、あっさりとそう言ってのけた。
 その言葉を噛みしめるうちに、あまねの中にも段々と冷静さが戻ってくる。
 あふれた熱と脱力感をため息とともに吐き出す。ああ……ああ、そうだ、マグマというのはこういう男なのだ。

「ひどい…」
「なんだ、褒めてやってんのに」

 不服そうにマグマが言った。
 本当に、…本当に本当に、酷い男だ。自分はもっと怒っていい。頭は確かにそう思っているのに、身体だけが未だドクドクと熱を持っていることが、あまねは心底憎らしい。

 ――お前が巫女なら良かったんだがな。

 繰り返される言葉が胸を刻む。自分が巫女となる未来を考えたことがないわけではなかった。でも、その多くは、嫌な想像の果てにある未来だ。

「村の巫女はルリ姉だけだもの」

 あまねもコハクも巫女にはならない。だから、ルリは生きていなければ駄目なのだ。彼女がいなくなれば、百物語は途絶えてしまうから。――そうやって縛っていないと、病の苦しみが彼女の生きる気力を奪い続けてしまう気がして。
 自分の願いの矛盾には気がついていた。クロムと結ばれてほしいと思いながらも、あまねはそれと相反する役目をルリに与え、それを代償に生かそうとしている。もしこのまま百物語が途絶えてしまえば、ルリは役目を果たすことさえできなくなってしまうのに。酷いエゴで彼女を追い詰めていると、分かっているのに。――けれど、あまねにはもう、何が正しいのが分からない。

「そうかよ」

 マグマはそれだけ言って、あとはあまねから興味をなくしたようだった。
 ズキリと傷んだ胸から、あまねは目を逸らせないままでいた。


 村が段々と近づいてくる。
 あまねはぼんやりと空を見上げた。雨雲はとうに消え去って、鮮やかな湖の色を空一面に広げている。
 マグマにルリの夫にはなってほしくはないと思いながらも、これまであまねは彼以外が長になる未来を思い浮かべることができなかった。マグマが自分の夫になるかもしれないなんて、考えたこともなかった。
 あまねは巫女には、ならないけれど。
 …もしも、ちがう未来があるのなら。
 マグマの隣にいる自分を、閉じた瞼の裏で想像してみる。長に、ルリの夫にならず、自分の隣にいてくれる彼を思ってみる。
 おかしいな。苦手だと思っていたはずなのに。酷い人だと思っているのに。そんな未来を惜しんでしまう自分がいる。
 勿論、そうなったからって、ルリの症状が良くなるわけでもない。結婚相手にしたって、戦闘力に長けた他の誰かが御前試合で優勝するだけだ。
 でも、そんな未来があったなら。あまねは願わずにはいられない。もしかしたら何かが変わってくれるかもしれない、なんて、そんなか弱く曖昧な予感に、縋らずにはいられない。
 瞼を開く。
 凪いだ空の下、静かに弧を描く虹を、あまねは祈るように見つめていた。

back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -