腹中

 妻ってすごく良いものだ。相手から自分の姿が見えないのをいいことに、あまねはニマニマと顔を緩ませた。
 日はとうに暮れ、灯心の火だけが家の中を仄かに照らしている。あまねは低い台に乗り、目盛りの刻まれた紐を背後からマグマの肩に宛てがっているところであった。
 もうそろそろ季節が変わる。雪が山を覆い、湖を凍らせてしまう前に、必要な食料や衣服を備えなければならない。あまねが行っているのはそのための採寸だ。
 基本的には服を縫うのは女達の役目だ。それぞれが自分の家族の分の冬服を作る。中には家族のいない独り身の男もいるが、そういった村人の服を作るのは、子が独立した隠居や、娘の多い親であったりすることが多い。マグマも親を亡くしているので、これまでは縫い物に慣れたあるみやダイアが作っていた。
 しかし、今はもうマグマには家族がいる。
 そう、今年の冬からは、マグマの服を作るのは妻であるあまねの役目になったのだ。

「おいまだかよ」
「ん、あと少し待って」

 マグマが振り向いたので、あまねは慌てて唇を引き結んだ。
 彼はあまねの顔を見るや否や、深々とため息をつく。

「こんなんもう適当でいいだろが。チッマチマチマチマよぉ、いつまでやってんだ」
「適当って…マグマの服なんだから」

 初めて旦那様の服を用意するのだ。ちゃんと測って、ちゃんと作りたい。
 あまねは眉を垂らしたが、確かに少しのんびりしすぎていたかもしれない、とも思う。ただの採寸をあまねは中々に楽しんでいた。あちらこちらと無駄なくらい測ってしまっているので、突っ立っているだけのマグマが退屈に思うのも当然だろう。

「ごめんなさい、急ぐから」

 謝ると、マグマがフンと鼻を鳴らして前を向き直った。
 あまねは手早く作業を進める。元々そんな大した作業でもなし、時間が掛かっていたのは完全に寄り道をしていたせいなのだ。あまねは急ぎ足でちゃっちゃと手を動かしていく。

「最初からそうしてりゃいいんだよ」

 採寸のさなか、あまねが前に回ったタイミングでマグマが言った。
 あまねが顔を上げる。天井を向いた額に、マグマの指が触れた。なぞるような仕草。前髪を除けているらしい。
 もしかしたら、キスをされてしまったりするのかも…。都合のいい期待を抱いて目を瞑る。しかし、その瞬間、あまねの額には鋭い痛みが走った。

「いっ……ッ」

 あまねは顔を歪め、後ろのほうにつんのめる。一瞬、何をされたのか分からなかった。
 ぎゅっと瞑った目の縁に、じわりと涙が滲んでくる。

「泣くこたねえだろ」
「だって、痛いんだもの」

 あまねがぶうたれて言った。
 しかし、マグマにはあまねが泣くようなことをしたつもりは本当にない。彼女の額を指で弾いただけ。ただのデコピン。ただの戯れだ。本気でやったわけでもない。
 潤んだ目であまねが見上げてくる。マグマは呆れながら彼女の額の中心を撫でた。別に痕もないし、赤くなってもいない。

「弱っちい女だな」

 マグマからすれば、あまねは驚くほど貧弱だ。ちょっと服を剥いただけですぐに風邪を引く。
 まあ、かといって、双子の姉のコハクのようにメスゴリラになられても困るのだが……マグマがそんなことを思っていると、彼の胸にあまねがちょこちょこと顔を寄せてきた。

「…でも、マグマが守ってくれるんでしょ?」

 頼るように、甘えるように。控えめに寄り添った身体は、そのまま彼女の心を表している。
 なんともいじらしい感じだ。つくづくこいつは甘え方を知っている女だと思う。マグマは呆れながらも笑い、くしゃっとあまねの頭を撫でた。

「終わったか」
「うん」

 ゴキゴキと肩を鳴らし、身体を伸ばす。マグマが敷物に腰を下ろすと、あまねが二つの水差しを手にどちらが良いかと聞いてきたので、片方を顎で示した。そうして盃に注がれた酒を、ぐびりと勢い良く呷る。
 あまねはマグマの目の前に座ると、床に置いた毛皮に向かい合い、紐の傷を目印に線を引き始めた。
 真剣ながらもどこか楽しそうだ。あまねの姿を横目に盃を傾けた時、ふと、あるものがマグマの視界に入り込んだ。

「ありゃ…」

 マグマの声に反応したあまねが顔を上げ、彼の姿を視線の先を追う。

「あ、わたあめ?」

 ふわふわした雲のような白く丸い物体。それが木の枝にくっついて、深めのコップに刺さっている。

「もらってきたの。ケータイ用の金の糸を作るのとは別に、わたあめ器を作ったみたいで」

 …わたあめなる食べ物を初めて口にした時のことは、記憶に新しい。今まで味わったことのない甘味の衝撃は強烈で、石神村の住人は老若男女問わず虜にされた。マグマでさえ、銀狼の持っていた残りのわたあめを全部強奪してしまったほどだ。
 しかし今は、わたあめを見ると、いくらか苦々しい気分になる。

「明日食べるのよ」

 ふわふわした顔であまねが笑っている。
 姉達とわたあめを食べている時は、もっと蕩けたような笑顔だった。
 マグマは忌々しさに顔を歪めた。聞けば、皆が夢中になっているわたあめを作ったのは、あの余所者だと言うではないか。

 石神千空。村の外からの来た得体のしれない男。今代の石神村の長。村はコクヨウの手を離れ、千空の指示で回り始めている。
 一部を除いた村人は今、冬支度と並行してケータイを作ることに精を出している。遠く離れた地で声と声とを繋ぐ、怪しい技。実際は妖術のような得体の知れないものではなく、科学という人類の叡智の結晶らしいのだが、マグマにとっては同じことだ。
 そしてわたあめは、ケータイを作る過程でオマケとして作られた食べ物だった。

「…んなもんがそんなにいいかよ」

 口の中で呟く。
 村が変わっていく。いや、いつの間にか変わってしまった。今あまねが毛皮を切るのに使っている小さなナイフも、半年前までは見たこともなかったほど鋭利なものだ。
 気に食わない。…ああ、気に食わない。
 晴れやかだった心に一気に暗雲が立ち込める。既に作業に戻っているあまねを眺めながら、マグマはひとつの決意を固めていた。


***


 瞼の裏の仄かな明るさで、朝が来たことを知った。
 あまねは薄く目を開く。白くぼやけていた視界が徐々に像を結んでいく。すぐ目の前に、ベッドの端に腰掛ける大きな背中を見つけた。
 マグマだ。
 そんなところに座って、何をしているんだろう…。あまねは寝ぼけ頭に不思議に思う。
 あまねは決して起きるのが遅いわけではないが、マグマより先に目覚める割合は半分くらいだ。理由は明確で、眠るのが遅くなった次の朝は、くたくたで起きられない。つまりはそういうことだ。

「……」

 昨日のマグマは激しかったな。
 いや、激しかったというか、それも間違いではないのだけれど、なんというか、優しくなかった。酷くされた。凍えそうな目で見られたのは久しぶりだった。
 あんなに冷たい目で見つめられると、ぞくぞくして、…駄目になってしまう。
 布団の下であまねはぼっと頬を染めた。何の懇願も聞いてはくれなかったけれど、痛いことはされなかったから、ただただ気持ち良くておかしくなって、興奮しただけだ。
 あまねは布団にもぐりながら、もぞもぞとマグマのほうに身体を寄せた。服はきちんと着せられていたし、マグマも着ていた。
 先日、行為の後に服も着ずに寝落ちした次の日、あまねは朝から晩まで寒気と鼻水が止まらなかった。その反省か、最近は服を乱されたあまねがそのまま寝入ってしまっても、マグマがちゃんと着せてくれている。
 大切にされているようで、あまねはそれがとても嬉しい。もっとも、あまねが風邪を引いた時に皆から何かと小言や助言を貰ったのが夫のマグマだったので、それが煩わしかっただけなのだろうけれど。
 それにしても、昨晩は一体どうしたのだろう。機嫌が悪かった? 特に機嫌を損ねるようなことはしていないと思っているが、ベッドに入った時にはもうマグマの様子はいつもと違っていた気がする。
 何のせいだろう。確か昨日は、マグマの服を作っている最中にベッドに連れ込まれて………そうだ、わたあめ。

「……ぇ」

 今、あまねの頭にそれが思い浮かんだのは、単純な話、それが目の前にあったからだ。
 あまねの目の前、マグマの身体のすぐそこに――半分近く欠けた、わたあめが。

「あーーー!?」

 身体を起こしながら、あまねは思わず叫んでいた。
 予想外に大きな声が出て自分でびっくりしてしまう。あまね自身でさえそうだったのだから、背後で叫ばれたマグマも当然驚いて、ギクッと大きく肩を跳ねさせた。
 マグマがそろりとあまねのほうを見た。しまった、という顔をしている。
 あまねは昨日の夜にわたあめを置いていた場所をサッと見たが、そこには空のコップがあるだけだ。
 視線を戻す。マグマと――その手の中のわたあめに。

「わ、私の…っ、なんで食べてるの!」
「チッ……」

 マグマは面倒くさそうに目を細めた。あと少し寝入っていれば、バレないうちに食べ尽くせたものを。

「起きたら食べるつもりだったのにっ」

 マグマの背中にひっついたあまねがわちゃわちゃ騒いでいる。その様子はまるで遊び道具を取られた子供のようだ。
 昨日聞いたので、このわたあめがあまねの物だということは勿論マグマも知っている。しかし、責めるような口振りについカッとなって、マグマは腕に組み付くあまねを乱暴に振りほどいた。

「うるせえ! お前のもんは俺のもんだろが!」
「そっ、…うだけど……」

 あまねは言葉に詰まる。
 マグマのものになりたい。それが叶うなら、自分があげられるものを全部あげたい。そう思っているのに、実際の献身は中途半端だ。
 自分の物を勝手に取られたら気分が良くないのは当然で、何もおかしなことなんてない。でも、マグマ相手にそんな『当然』に引っ張られるのも、あまねはなんだか嫌な気持ちがする。

「だったら文句ねえだろ!」

 マグマが見せつけるようにむしゃりとわたあめを齧った。白い膜のように雲が伸びて、
わたあめはまた大きく欠けた。
 もし、マグマが最初から、寄越せと一言あまねに言っていたら。躊躇いなく頷いて、全部差し出した自信があまねにはある。わたあめはとても美味しいけれど、また作ってもらえばいいだけ。マグマが喜んでくれるほうが嬉しいのだから。

「…うん……」

 だから…こんなふうに意地っ張りな気持ちになるのは、なんだか自分らしくない。
 寝起きの頭にいきなりだったから、少し混乱していたのかもしれない。これ以上引っ張って、マグマに食い意地が張っていると思われるのもイヤだ。
 そうやってあまねは自分を納得させた。けれど、ちょっぴり悲しいような寂しいような、そんな気持ちが胸の端っこに残っている。

「…んだよ、そのしけた面は」

 あまねの様子を眺めながらマグマは顔を顰めた。これはこれで、なんだか気に食わない。
 泣いているのはいい。困った顔はいい。恥じらっているのもいい。笑っているのも、まあ悪くはない。
 だが、今みたいな顔は違う。見ていると、妙に胸がざわついて、ムカムカする。

「クッソ…」

 わたあめをちぎる。伸びて思ったより大きくなってしまったその欠片を、マグマはあまねの口元に押し付けた。

「…!」

 開いた口の中にわたあめを詰め込む。その目がぱちりと見開かれたのを皮切りに、こわばっていたあまねの顔は徐々にほぐれていった。
 わたあめが舌の上で溶ける。一緒になってあまね表情も緩む。蒸かした芋とは比べ物にならないような、強烈な甘さ。

「ふわぁ……」

 あまねの頬がうっとりと紅潮した。たった一欠片のわたあめで、彼女はもう蕩けるような笑顔だ。
 マグマはピクリと眉をひくつかせた。やはりやったのは失敗だったか。
 だが、悪態をつこうとしたその時、あまねがマグマの腕にぎゅっと抱きついてきた。

「ありがとうマグマ」
「…あ?」

 甘く崩れた微笑みがマグマに向けられる。
 礼を言われる筋合いなどない。本当にない。マグマはぽかんと毒気を抜かれながらあまねを見つめる。それだけでさえ理解不能だったのに、あまねはその上、もういいよ、と残りのわたあめをあっさりマグマに譲った。
 本当にわけが分からない女だ。何もかもの感覚が己とは違うような気さえする。それがマグマにとって都合のいいほうに向けられているからいいものの。
 呆れながらも、マグマは最後のわたあめを纏めて自分の口の中に入れた。苛立つほど魅力的な甘さ。

「こんなん腹の足しにもならねえじゃねえか。そうだろ、あまね」

 口の中で既に溶けてしまっているのだから、胃に届く頃には消えているに違いない。あまねは頷きはしなかったが、お腹すいたね、とささやかな同意を添えた。


 マグマの隣に座り、燻煙した魚で軽めの朝食を摂る。魚の旨味を味わいながら、あまねは今日の予定をぼんやり考えていた。顔を洗ったら洗濯をして、昼からはルビィ達と一緒に森に採集に行って…。
 しかし、そんなあまねのスケジュールなどお構いなしに、食事を終えたマグマはすくりと立ち上がって言った。

「行くぞ」

 あまねはマグマを見上げて目を丸くした。青みがかった緑の眼がころりとこぼれ落ちそうだ。

「えっ…」
「オラ、さっさと立て」

 マグマが急かすと、あまねははっとして靴に足を通し始める。だが、頭は未だ混乱している最中で、どことなく動きが覚束ない。

「トロトロしてんじゃねえ」
「っきゃ…!」

 突然視界が高くなり、あまねは目を回す。痺れを切らしたマグマが彼女を担ぎ上げたのだ。
 うつ伏せになったあまねの腹を肩の上に乗せ、マグマはなんとそのまま歩き出してしまった。

「えっ…このまま行くの…? っていうか、どこに、…ちょ、マグマ、っ」

 まるで木材か何かにでもなった気分だ。先程まで座っていたベッドが段々遠ざかっていく。マグマはあまねに言葉を返さず、入り口の近くにあった革の袋を手に、勢い良く家を出た。
 空は青く澄み渡り、眩いばかりの晴天だ。抜けるような空の下、赤や黄に色付いた木々と、すっかり元通りになった村の景色が目に飛び込んでくる。

「おい、マントル!」
「あい〜〜!」

 マグマが声を響かせると、すぐさまマントルが駆けてきた。マグマの側近である小男は、主人の家の近くに健気に控えていたのであった。

「何でしょか、マグマ様!」
「ムハハハ、狩りに行くぞ! 着いてこい!」

 マグマは大口を開けて笑い、意気揚々と歩き出す。
 あまねは居心地の悪さを感じながら口をもにゃもにゃさせた。そういえば前もこんな風に運ばれた覚えがある。御前試合の最中に、二人で村を抜け出したっけ。でも、その時と違うのは、ここは村の真ん中で、皆が見ているということだ。

「マ、マグマ、下ろして…」
「いいから、大人しくしてろ。連れてってやるからよ」

 あまねの抵抗はささやか過ぎて、マグマに対して何の意味もなさなかった。
 頭がマグマの背に来るような形で担がれているので、彼女の目には小さくなっていく居住区がずっと見えていた。自分にちらほらと視線が集まっていることが分かって、あまねは羞恥で顔を赤くした。


***


「大変なんだよ…!」

 科学王国の本拠地である倉庫前に、大きな果実がゴロゴロっと転がりながら駆けてきた。
 石神村一大プロジェクト、ケータイ作り。朝から既に作業を始めていたクロムは、焦りに満ちたスイカの声にハッと顔を上げた。

「おうどうしたスイカ!」

 クロムの目の前でスイカの被り物がストッと立ち上がる。二つの穴に嵌め込まれたガラスが、陽光にきらりと輝いた。

「あまねちゃんが誘拐されちゃったんだよ!」
「なっ…!?」

 スイカのもたらした事件の匂いにクロムは目を剥いて叫ぶ。

「ヤベー! 司帝国の奴かよ! まだこっちは何の準備もできてねえのに…!」

 同じく倉庫前にいた千空やゲンも、スイカ達のほうへ勢い良く顔を向けた。
 石神村は一度司帝国に襲撃されている。しかし、これからやって来るのは石の世界の厳しい冬だ。
 冬備えには互いに相当のマンパワーを割かれる。2000年代から目覚めた現代人には経験も何もないのだから、向こうはこちら以上に切羽詰まっているだろう。
 それだから、向こうから攻めてくるのならば冬明け。決戦は春に違いないと考えていた。
 けれど、その読みが外れたのなら。――千空はただの一人だって仲間を見捨てられない。その弱みを突き、千空を殺すことだけを考えて、少数で短期決戦を狙ってきたのなら?
 最悪の想像が二人の頭を過ぎる。だが、スイカはブンブンと首を横に振った。

「違うんだよ! でもあまねちゃん、マグマに無理やり連れて行かれちゃったんだよ…」

 それはつい先程のこと。村の入り口あたりで、スイカは件の二人とマントルを見かけたのだ。
 あまねはマグマに担がれており、身動きが取れないようだった。下ろしてほしいとあまねが何回頼んでもマグマは取り合ってくれず、そしてそのまま彼女をどこかへ連れて行ってしまったのだ。

「マジかよ! オイ千空、ゲン、ヤベーんじゃねえのか。マグマの奴、ぜってー俺らを脅す気だぜ!」

 クロムの中ではあまねはサルファ剤を作る中で共に力を尽くした仲間であり、根っからの科学王国民だ。一方、マグマはそれとは真逆に敵の立ち位置にいる。なんせ、御前試合では科学王国にとってのボスとなるはずの男だった。
 予想外のことが起こった、というか、彼がしでかしたために、結局マグマは御前試合には出場できなかった。それでも千空が優勝してしまった後には、わざわざ倉庫前まで喧嘩を売りに来ていたのだ。最近は比較的大人しいものの、今だって腹の中で何を考えていることか。
 しかし、息を荒げるクロムとは対照的に、千空とゲンはほっと肩の力を抜いていた。

「あ゙ー、んなら大丈夫だろ。放っとけ」
「そうだねえ。誘拐じゃないと思うよ」

 千空に続いて、ゲンがのほほんと言う。
 クロムはぎょっとして二人を見た。村で一番頭が切れる二人なので、そう言うからには何か理由があるのだろう。だが、本当にそんな悠長にしていていいのだろうか。
 スイカもまた混乱を舌に乗せて尋ねた。

「でもマグマはゲンを殺したんだよ。悪いやつなんだよー…」
「いや、死んではないけどね…」

 小さな身体を揺らしながら、スイカがぷるぷるぷるぷる震えている。
 あさぎりゲン殺人事件。それももう半年近く前になるのだろうか。石神村に偵察に赴いていたゲンが、マグマに闇討ちされ、殺されかけた事件だ。だから正確には殺人未遂事件である。
 あの時、犯人を見つけたのは名探偵スイカだ。妖術師を殺してやった、と誇らしげに言い張るマグマの姿は衝撃的で、その恐怖はスイカの幼い心に未だ消えない傷を残していた。

「あまねちゃんのことなら大丈夫だよ〜。マグマちゃんもあまねちゃんには酷いことしないよ」
「…本当なんだよ?」

 スイカは悩んでいた。千空達に事態を伝えた後は、すぐにでもマグマ達の後を追うつもりだったのだ。けれど、皆の反応はスイカの予想とは全く違っている。
 その戸惑いに気づいたのだろう。ゲンが笑い、スイカの頭を優しく撫でてくれる。
 …被害者のゲン本人が言うのならそうなのかもしれない。不安が全て消えたわけではないけれども、仲間の言葉を信じて、スイカは村のほうへと戻っていった。

「いいのかよ、ゲン、千空!」
「ああ」

 スイカの後ろ姿を見送りながらクロムが言う。しかし、千空は作業の手を止めもせず頷くだけだ。
 んー、とゲンは唇を結んで頭を傾けた。マグマの行動は、ゲンにとっては非常に簡単で分かりやすい。我欲が突出しすぎてはいるものの、マグマも基本的には村という共同体に属している人間だ。村の存続に欠かせない女は、虐げる対象ではなく守る対象なのだろう。それが自分の物となれば尚更だ。
 とはいえ、メンタリストにとってもマグマとあまねが結婚したこと自体は予想外だった。そもそも二人に関する情報をほとんど持ってなかったので、さすがに読めなかったのだ。

「つーか、あいつらに関しちゃもっと別の問題があんだろ」
「あー…、仲が良すぎることとか?」

 仲が良すぎる。特に、夜に。
 なるほどねえ、とゲンは考える。何もない原始の村では、どうしても冬の間は暇を持て余してしまうものらしい。そんな中では性交も大人達にとっては娯楽の一つのような扱いだったのだとか…そういうことを何かの本で読んだ覚えがある。小説だったかもしれないので、本当かどうかは定かではないが。
 否定するつもりはない。そもそも生殖行為は生物の本能だ。原始の村では生存率もそう高くはないだろうから、産めよ増えよ地に満ちよ、が指針となるのは当然だろう。
 しかし、だとしても、今はそれでは少々困る。

「千空ちゃん、ゴム作れたりしないの?」
「あー、無理だな。天然合成、どちらにしろまず原料がねえ。ゴムの樹の栽培にゃ年中高温多湿が条件だかんな、日本じゃまず手に入らねえぞ」
「だよねえ〜」

 衛生的にも厳しそうだと思っていたので、ゲンも期待して尋ねたわけではない。そもそも、ケータイ作りと冬備えで誰も彼もが忙しいこの時期に、そんなところに割くリソースなどあるはずもなかった。

「おうおう! 何二人で話してんだよ」

 千空とゲンの間に威勢よく割り込んできたのはクロムだ。

「ゴムって、車とかいうやつに使われてた化学製品だろ! それが今必要なのか…!?」

 千空と出会ったばかりの頃の夜に聞いた、3700年前の科学世界の話。細かい話は全然覚えられてはいないが、印象的な話は何度か尋ねたので記憶に残っている。
 やる気に満ちた瞳に見つめられながら、ゲンはなんだか心苦しいものを覚えていた。千空は合理性の鬼だし、ゲン自身は既に性的なコンテンツが大方解放された年齢だ。心配事が一致していたこともあり、当然のごとく話をしてしまっていたのだが、こうも純粋な少年を前にするとなんとも。

「そっちじゃなくて避妊具のほうな」
「マグマちゃんとあまねちゃんが仲良しだからね、子供ができるんじゃないかって心配なんだよ。いや、割とジーマーで」

 点、点、点。
 クロムはぱちりと目を見開いて、しっかり数秒固まった。

「お、おおおう…」

 言葉の意味を理解すると同時に顔が一気に熱くなる。
 クロムにとって、あまねはコハクよりルリに近い位置にいる人間だ。つまり、身近で、守らなければならないほうの女の子ということだ。
 彼女がマグマと結婚しているのは、勿論知っている。しかし、クロムは普段から倉庫で寝起きしているので、居住区に足を踏み入れず一日が終わることもざらにある。それだから、マグマとあまねが同じ家に住んでいるという認識は薄かった。ましてや、子供ができるようなことを夜ごとしているなんて、そんなの、想像したことさえなかった。
 しかし、思えば確かに二人はそんな始まり方をしたのだ。この頃会うあまねは本当に普通で、ほんの半年前の未婚の頃と比べても全く変わっていないような気がする。
 それなのに、千空とゲンが言うくらい当たり前に、あまねはもうすっかりマグマのものになっていたのだろうか。
 生まれた時から知っている女の子が、いつの間にかどこか遠い所へ行ってしまったような感覚。寂しいというよりもただただ衝撃的で、クロムはぽかーんと口を開けて呆けていた。
 想像以上にピュアな反応をするクロムを眺めて笑いつつ、千空が言う。

「クク、労働力が増えるのは大歓迎だがな。今はタイミングが悪りぃ」
「労働力て、千空ちゃんてば何年先見据えてんの…」

 さすがって言うべきなのかもだけどさ…。ゲンが呆れ混じりに言った。

「ともかく、モタモタしてっと大軍で攻めて来られっからな。こっちから全員で先制攻撃を仕掛けるしかねえ」
「ああ、そうそう、その話ね。…で、そうなると石神村から向こうまで移動しないとなんだけど……身重の身体じゃね、さすがに辛いだろうからさ」

 妊娠出産自体が生命に関わる事柄だ。石神村の老人と化学薬品の運搬のために千空はある製品を作るつもりではいるが、だとしても妊婦には厳しいだろう。
 クロムはブンブンと頭を振った。どうやら照れている場合ではないらしいと気づき、考えるために脳を回し始める。

「事情は分かったぜ! けどよ、俺らが言ったところでマグマが聞くかよ」
「あ゙あ、100億パーセント聞かねえだろうな」

 千空は石神村の長となったが、だからこそマグマが聞き入れるとは思えない。マグマは村の復興には惜しみなく力を発揮してくれてはいるが、千空の指示にいい顔をしたことはなかった。

「じゃあ……そういう時はメンタリストの出番か…!?」
「んーそうね…ちょっと厳しいかもねえ」

 なんとも微妙な顔でゲンは言った。
 御前試合の最中に石神村に戻ってきたゲンは、対戦相手の注目を引いてクロムの勝利に一役買った。しかし、御前試合への参加資格を失ったマグマは不貞腐れて試合を観ること自体を放棄していたので、彼の視点から見れば、確実に殺したと思っていた男がいつの間にかひょっこり村に居座っていたという感じなのだ。
 殺した事実さえまやかしだったかのよう。マグマはゲンをガチの妖術師と思っているきらいがあるので、彼の前に出ただけで警戒されるだろう。
 しかし、千空では無理。ゲンでも無理。クロムでも無理。となれば、こういう時は人に頼るしかない。理に適った忠言だとしても、その内容より、それを口にする人間が誰であるのかということのほうが余程重要な時もある。

「ここは、マグマちゃんのお友達にお願いかな」

 ゲンも知っている定理。人は力、だ。


***


「マグマ、私歩ける…」
「連れてってやるって言ってんだろーが」

 途中で顔を洗いに川に寄ったのに、未だにあまねはマグマに抱えられていた。うつ伏せだとお腹が苦しいと言ったら、今度はマグマの腕に腰掛けるような形で抱き上げられてしまったのだ。
 今日のマグマはどこか変だ。あまねは道中ずっと頭を捻っていたが、もう村からも随分離れてしまった。自分達に向けられる目も、もはやマントルのものだけ。初めは早く村に帰らなきゃ、と思っていたはずなのに、段々とその意志が弱くなってきている。今日の仕事も、ここまできたら明日に回すしかないような気がしてきた。
 こんな甘えたこと言ってていいのかしら? でも、せっかくマグマが一緒なのだから、たまにくらいは、いいのかな…。

「着いたぜ」

 あまねが悶々と考えているうちに、目的地に着いたらしい。
 そこは森の中でも少し開けた場所で、耳を澄ますと水音が聞こえた。どうやら傍を川が流れているようだ。
 あまねを抱えたままマグマが身体を屈める。彼の肩を支えにして、あまねは久しぶりに地面に降り立った。

「ありがとう…」

 あまねが礼を言うと、マグマが満足そうに口元を緩めた。それが、普段はあんまり見ないような微笑に近い笑顔だったので、あまねは思わず胸をときめかせてしまった。

「おいマントル、火を起こせ!」
「あい〜〜!」

 マントルが元気よく返事をし、焚き木を集めに走り回る。
 マグマは地面に革袋を置き、そこから狩りに使う得物や紐などを出し始めた。あまねは胸を押さえながらその隣にしゃがみ、彼の手元を眺める。
 大きく無骨な刃が陽の光にきらめいている。あまねは川や湖に潜って貝や魚を採ることはあるが、獣とはあまり縁はない。捌かれてお肉になった塊がせいぜいだ。

「マグマ、私は何すればいい?」
「あ?」

 非日常的な出来事に、あまねは少しわくわくしていた。だが、それはマグマにとっては予想外の質問だったらしい。

「大人しく座ってろ」

 マグマが木の下のあたりを指して言った。指先を追うと、太い木の根が地面に横たわるように流れているのが目に入る。そしてあまねがちょっとそれを眺めているうちに、マグマはずかずかと森の奥へ入っていってしまった。
 あまねはぽつんと立ち尽くした。
 大人しくしていろとは言われたけれど、それじゃあ退屈だ。それに、マントルがせっせと働いている横で何もしないでいるのも気が引ける。

「マントル、私も手伝うわ」
「いえ! あまねちゃんは座ってていいんですよ〜〜ぅ」
「でも…」

 ここまで運ばれてくる間も少しだけ思ったけれど、なんだかお嬢様みたいな扱いだ。巫女のルリなら慣れもあって享受できたのかもしれないが、普通の娘であるあまねはただむずむずと居心地の悪さを覚えるだけである。最初の場所から離れない範囲で木の皮や小枝を集めておくと、マントルはへこへこしながら礼を言った。
 重ねた枝を囲み、小さな火を絶やさないように徐々に大きくしていく。安定してくると、あたりは随分暖かく感じられるようになった。

「狩りに来たのなんて初めて。なんでマグマは私を一緒に連れてきてくれたのかな…」

 手のひらを温めるように炎の前にかざしながら、あまねは言う。
 あまねは狩りのことなんてほとんど何も知らないので、役立つと思って連れてきたわけではないだろう。事実、マグマはあまねに何もしないことを求めてきた。

「えー、なんででしょ…」

 マントルもまた戸惑いを感じていた。そもそも、マントルは突然マグマの嫁になったあまねとの距離感を、未だ測りかねているところである。マグマに従って意気揚々とここまで着いてきたはいいが、二人にされてしまうとどうしたらいいか分からない。

「あっ! きっとあまねちゃんと離れたくなかったんですよ〜〜!」
「ええ…? そうかしら…?」

 たぶんそんなことはないだろうなとは思いつつも、気恥ずかしいような嬉しいような。こそばゆい感じを覚えて、あまねは誤魔化すように微笑んだ。
 しかし、実は当たらずとも遠からずなのではないか。マントルはふと思う。彼にとっても意外なことだったが、主人のマグマは思いのほか彼女を可愛がっているようなのだ。
 そう、マグマから一番あまねの話を聞いているのは、彼の従者であるマントルだ。望まぬ結婚をした当初はマグマが話すことといえば愚痴ばかりだったが、この頃は模様が違っている。曰く、あまねは中々に気が利くだとか、裁縫が上手いだとか、尽くす女だとか――果ては夜のことに至るまで、自信満々に語って聞かせるのである。
 あまねが知れば思わず穴に入ってしまうに違いない話が満載なのだが、なればこそ尚のこと、マントルはここで下手を打つわけにはいかない。あまねの機嫌を損ねることは、ひいてはマグマの機嫌を損ねることに繋がる。マントルはマグマの忠実な側近なので、そんなことはしないのだ。
 しかし、それはそれとして話の種に詰まったマントルは、あまねを大いに困らせる質問を投げかけることになる。

「あまねちゃんはマグマ様のどういうところが好きなんで?」
「えっ」

 あまねがきょとんと目を丸くし、それからさっと頬を赤らめた。

「好きなところ?」
「あい〜」

 マントルは思う。マグマ本人には言えないような話をあまねから聞き出し、それを伝えれば、マグマは喜ぶのではないか?
 これは名案とばかりにマントルはあまねに詰め寄った。しかし、彼女は思いのほか強情で、中々口を開こうとはしない。

「んー、……秘密」
「教えてくださいよ〜!」
「だって、マグマに言うんでしょう?」
 
 マントルはぎくりと全身を強張らせた。何故ばれたのだろう。

「言いませんよ〜〜」
「嘘ぉ」

 あまねはころころと笑った。
 マントルとの会話は、やはりどう考えても村の娘達と交わす恋話とは趣が違う。マントルに言ったら絶対マグマに直接伝わるに決まっているので、あまねは変なこと言うわけにはいかない。
 あと、これも理由の半分くらいは占めているのだけれど……普通に恥ずかしいので、あんまり他の人には話したくない。

「よぉ、マントル、あまね」

 どう口を割らせるか、どう追求を回避するか。思惑を巡らせる最中、突然第三者の声が聞こえてきて、二人は揃って顔をそちらに向けた。

「カーボ?」

 そこにいたのは慣れ親しんだ村の若者の一人だ。ハチマキを巻いて逆立たせた色素の薄い髪と、吊り目がちな細い目元が特徴的な男。カーボは、マグマやマントルとよくつるんでいる狩猟仲間である。

「お前らが狩りに行ったって聞いたからよォ〜〜手伝いに来てやったんだよ」

 解体用のナイフを手のひらで弄びながらカーボが言う。それからあたりを見回し、意外そうな顔を見せた。

「マグマはもういねえのかよ。二人で楽しそうじゃねえか。何話してたんだよ」
「あい〜〜〜あまねちゃんにマグマ様の好きなところを聞いてたんですよ〜〜」
「ちょっとマントル…っ」

 あまねが焦るがもう遅い。
 マントルの言葉を聞いたカーボが口の端を上げる。ついでにマントルもニヤリと笑った。カーボを巻き込んで、計画通りといった顔だ。

「へぇ…! 俺も聞きてえなァ。なあ、どういうとこが好きなんだよ?」

 マントルの企み通り、カーボが話に乗ってきてしまった。炎の前に腰を下ろし、ニヤニヤ笑いながら食い入るようにあまねを見つめてくる。

「顔か? 強えとこか? 性格はねえよなあ、だってマグマだぜ?」
「マグマ様は性格も素晴らしいですよ〜〜!」
「んなこと言うのテメーくらいだよ!」

 マントルの言葉にカーボがげらげら笑う。あまねは戸惑いつつ、話がいつの間にか流れてくれることを願ったが、追求が止むことはなかった。

「なあ教えろよ。そんくらいいいじゃねえか。マグマには言わねえからよォ〜〜」
「あい〜〜信じてくださいよぉ〜〜」

 口調のせいなのか雰囲気のせいなのか。彼ら二人とも、あまねよりマグマとの付き合いのほうが深いからか。マグマに言わないというその言葉を、あまねはいまいち信用できないでいる。

「もう…! 嫌よ」

 思ったよりツンとした言い方になってしまった。ふんと顔を背けた直後にあまねは少しだけ後悔して、気を悪くしてはいないかと、ちらりと二人の様子を伺った。
 カーボは、戸惑った顔をしていた。

「なんだよ、マグマのこと好きなんじゃねえのかよ?」

 心配しているような声色だ。単に話のネタがなくなり、つまらなそうにしている様子ではない。

「っ…それは…」

 カーボがそんな顔をする原因には心当たりがあった。
 だから、そうなるとあまねも意地を張り続けるわけにはいかなくなる。彼女はひとつ息を呑み、おずおずとその唇を開いた。

「す、すき……だけど…」

 あまねがそう言った瞬間。先程の表情はどこへやら、カーボとマントルがニヤニヤと表情を崩した。そしてなんだか、ほっくりと温かい視線をあまねに向け始めた。

「そりゃあ良かったぜ! マグマにも伝えてやらねぇとなァ〜〜〜!」
「あい〜〜〜!」
「〜〜っちょっと…!」

 本人を前にしているわけでもないのに、どうしてこんなに恥ずかしくて、居た堪れない気持ちになるのだろう。あまねは頬を赤らめながら、むぅと唇を尖らせた。
 すっかり拗ねた彼女は、向こうがそのつもりなら、と意趣返しのつもりで言う。

「じゃあカーボはベリーのどういうとこが好きなの」

 思わぬ反撃にカーボがぎょっとした。
 ベリーというのはカーボの妻の名だ。肩より高い位置で切られた艷やかな黒髪と、意志の強そうな瞳が魅力的で、あまねにとっては素敵なお姉さんという感じの女性だ。

「なんだよ急によォ」
「私にばっかり聞くなんてずるいわ」

 カーボは目に見えて狼狽していたが、やがて頭を掻きつつため息をついた。

「別にもう特別好きとかはねぇなあ。フツーだよフツー」
「フツー、って」
「結婚してしばらくしたらそうなるもんなんだよ。お前にゃまだ分からねぇだろうけどよォ〜〜〜」

 つまり、ベリーの存在が、もうそれなしでは成り立たないような生活の一部になっているということなのだろうか。
 それはそれで十分すぎる惚気だろうけれど、答えとしてはいささかつまらない。何よりカーボが話をさっさと切り上げようとしているのが丸分かりだ。

「ベリーは、カーボは甘えただ、って言ってたわよ」
「ハァ!?」
「あい〜!?」

 あまねの追撃にカーボは目を剥いた。
 マグマほど粗暴ではないが、カーボも中々に気が強くガラの悪い男である。それが実は常日頃、家では妻に甘えているとなれば、これは大きなギャップだ。つまり、滅茶苦茶おもしろい。
 マントルも楽しそうにはしゃいでいる。どうやらうまく矛先が変わったらしい。あまねは目元をにまりと緩め、さらにカーボに詰め寄った。

「ねえねえ、そうなの?」
「んなワケね〜〜〜だろ! クッソ、あいつ周りに何話してんだ…」

 カーボがふてくされた顔でぼやく。その頬が薄っすら赤みを帯びていたのをあまねは見逃さなかった。
 ある男の、妻と、従者と、友人と。改めて考えてみれば不思議なメンツの割に、会話は何故か盛り上がって、森の中でわいわいガヤガヤこのあたりだけが騒がしい。
 こんな会話を繰り広げることになろうとは、カーボは露ほども思っていなかった。彼は目を細め、会話の隙間にぽつりと言う。

「…ま、良かったぜ。お前らが上手くやっててよォ。あん時は俺も肝が冷えたぜ」

 この数ヶ月にあった出来事は濃厚だ。想定外の決着を見せた御前試合、司帝国の襲撃、焼かれた村の復興。色々なことがあって記憶は遠いが、マグマとあまねの一件が村を騒がせたのは、そう昔のことではない。

「…ん」

 あまねは唇を緩く結んだまま、小さく頷いた。
 マグマが合意なく彼女を襲った事件。しかし、その後の様子を見た感じ、あまねは元々マグマのことをいくらか慕ってはいたのだろう。そうカーボは思う。
 だとしても、あの一件が彼女の心を傷つけたことに変わりはない。仔細を改めることなどとてもできなかったので、カーボも詳しくは知らないが、マグマは己の欲を押し曲げてまで人に優しくできるような男ではないのだ。

「……」

 しかし、こんなことを言っては悪いのだろうが、マグマが手を出したのが他の娘達でなくて良かったとも思う。相手があまねでなければマグマは許されなかったし、本当に村から追放されていただろう。娘のほうだって今頃こんなふうに笑っていられたかどうか。
 もっとも、こんな内心など口に出せるはずもない。カーボだって、万が一にも自分の妻が…と思うと気が狂いそうなのだから、あまねの身内にとっては堪ったものではないだろう。あまねが幸せそうにしているとはいえ、前村長のコクヨウの心中も未だ穏やかではないに違いない。娘が嫁に行くにせよ、せめて正式な手順を踏みたかったはずだ。

「…あ? カーボじゃねえか」

 草木をガサリと鳴らしながら、渦中の人物が戻ってきた。思わぬ人物がいることに驚いた彼の顔は、それはもう暢気なものだ。

「よぉマグマ。狩り行くんなら誘えよなァ〜〜」
「おかえりなさい、マグマ」

 あまねは話を切り上げ、マグマのほうに近寄った。彼はおう、と軽い返事をし、背負っていた塊を地面に下ろす。それは引き締まった身体をしたイノシシだった。
 イノシシは既に息絶え、首のあたりから血を流しながらだらりとしていた。あまねはまじまじとそれを眺める。よく見ると、頭のあたりがひしゃげていた。マグマがどうやって狩りをしているのかはよく知らないけれど、いつもの石斧で殴りつけたような感じに見える。

「さ〜働くぜェ」
「あい〜〜」

 カーボとマントルが立ち上がった。狩りは獲物を仕留めた後、これからが本番でもある。
 カーボ達はイノシシの身体を洗い、泥などの汚れを落とす。それから近くにあった太く頑丈そうな木の枝に縄を回し、イノシシを吊るす準備を始めた。

「マグマ、私も何か手伝いたい」

 手際よく作業を進める男達を見ながら、あまねは再び言ってみる。

「あー…じゃあ水汲んでこい」
「! うん!」

 マグマが顎で桶を指しながら命じると、あまねがぱっと顔を輝かせた。
 胸元に桶を抱えて川のほうに向かうあまねの後ろ姿を、マグマはなんとはなしに眺める。健康そうな足を晒しながらとてとてと小走りで進む彼女は、リスかうさぎか、何かそういった小動物のようだ。

「可愛い奴だよなァ〜〜」
「あ?」

 同じくあまねの背中を見ながら、カーボが言った。

「あまねあまね。村の若い奴ん中じゃ一番可愛いと思うぜぇ〜〜」

 あまねが聞いたら、でもカーボはベリーが一番なんでしょ、と言うような台詞である。つまりは、半ばおべっかのような言葉だ。
 だが、マグマはその賛美を素直に受け取り、自慢げに笑った。

「俺の女なんだから当たりめーだろうが!」

 カーボはくつくつと笑みをこぼす。謙遜するでもなく妬くでもなく、自分の事のように誇るあたりがマグマだよなあ、という感じだ。

「汲んできたわ」
「おう、そこ置け」

 たっぷりと水を汲んであまねが戻ってきた。彼女は言われた通り、足を括られたイノシシの下に桶を置く。これで準備は整った。
 マグマは細身のナイフを手にイノシシに向き合い、解体を始める。肛門のあたりからナイフを入れ、表面の皮膚と肉を浅く切り、腹を縦に一文字に裂いていく。
 あまねは邪魔にならないよう、マグマの斜め後ろのあたりで見守った。

「あんまり血は出ないのね」
「抜いてきてんだよ」

 マグマが倒したナイフでトントンとイノシシの首の傷を示した。
 解体には色んな道具を使うようだった。敢えてぎざぎざにしたような無骨な刃で、胸のあたりの骨を削るように割る。それが終わると、次は内臓の摘出だ。

「わあ」

 開かれた腹から白っぽい臓器がぼろりとまろび出て、あまねはびっくりした声を漏らした。
 なんとも間の抜けた声である。呆れ混じりに振り返るマグマの横で、カーボが苦笑した。

「あんま見ることもねえよなァ」
「う、うん…」

 大物が獲れた時には村の大人達が総出で解体や調理を行うが、やはり狩りは男達の仕事だ。
 内臓は全部血の色をしているのだと思っていたけれど、どうやらそうではないようだ。イノシシの体内から薄っすらと湯気が立ち上っている。この生き物がつい先程まで呼吸をし、野山を駆け巡っていたのだと思うと、今更ながら、殺し、肉を得るという行為の凄まじさを感じる。
 筋を切り、身体から内臓を剥がしていく。石神村の主食は魚ではあるが、マグマにとっては動物の解体も日常的な行いだ。その手付きは慣れたもので、安心感さえある。

「内臓傷つけねえように切んだよ」
「傷つけたらどうなるの?」
「肉に付くだろが。臭えし不味い」

 マグマはナイフを進めながらあまねのために説明を加えた。あまねはなるほど、と素直に頷きながらじっと目を凝らす。
 カーボは、あまねが時折、マグマの手元ではなく彼の顔を見つめていることに気がついた。翠の瞳が輝いている。きらきらした尊敬のまなざしだ。
 あまねが自分を見ていることに、マグマもまた気がついたらしい。凄い凄いと感動に満ちた目を向けられれば当然、彼も満更でもない気分になったようだ。

「お前もやってみっか」
「いいの?」

 内臓の処理も終え、皮を剥がす段階に来ていた。手分けして作業を進め、イノシシはもう半分くらいは見慣れたお肉という感じだ。あまねは手渡されたナイフを持ち、おそるおそるイノシシに触れた。
 イノシシには脂がたくさん乗っていて、皮と肉がぴたりとくっついている。そこから皮を剥いでいくのは、あまねが思っていた以上に大変な作業だった。

「下手くそ」
「だって難しいのよ」
「脂固まってんだろ。湯に付けろ」

 初めてのあまねが上手くできる道理はなく、出来栄えは散々なものだ。マグマは笑いながら馬鹿にしたが、しかし、彼女に手取り足取り教えるのもまたマグマだった。
 狩りのことを何も知らないあまねに、マグマは色々なことを話してくれた。あまねのためというよりは、継がれた知識と自ら得た経験をひけらかすことが目的であったようだけれど、あまねはそれを楽しんで聞いていた。




「――じゃ、俺は先帰ってるぜェ〜」

 カーボがそう言ったのは、枝肉の解体が終わり、一段落がついた頃だ。
 肉はしばらく冷やしておくと旨味が増すのだが、空腹はそれを待ってはくれない。これから焼いて、昼飯にしようというところだった。

「食ってかねえのか」
「あい〜〜?」
「ちょっと用があってよォ〜〜わりーな、ほとんど何もしてねえのに貰っちまって」
「それは別にいいけどよ」

 分けられた肉を抱えながら、カーボがちらりとあまねを見る。
 普段しない作業を終えたあまねは、達成感と疲労感で少しくたりとしていた。彼女はカーボと目が合うと、不思議そうに首を傾げる。
 ――実はカーボは、今日は村を離れるつもりはなかった。狩りに行くと言ったマグマの声は当然聞こえていたのだが、気分があまり乗らず、村で道具の手入れをしながら過ごすつもりでいた。
 そんな彼がここまで来た理由は、あまねにある。
 マグマに連れて行かれたあまねのことを、ベリーがとても心配していたのだ。カーボは妻に頼まれ、それなら、と重い腰を上げて様子を見に来たわけである。
 けれども、この調子ならそんな気遣いなど不要だったのだろう。カーボはからりと晴れ晴れしく笑った。

「じゃ〜な、あまね!」
「えっ、うん…」

 軽く手を振り、カーボが一足早く村に帰っていく。その後ろ姿を眺めながら、なんだアイツ、とマグマがぽつりと呟いた。


***


 焚いた小枝を跨ぐように木を組み、塊になった肉を翳す。軽く塩を振り、中に火が通るまでようく焼けば、香ばしい匂いと肉汁がじゅわりとあふれ出してきた。

「おいしい!」

 焼いた肉をひとくち口にしたあまねが、ぱちりと目を見開いた。
 新鮮だからか、自らで捌いたものだからか。たまに村で食べている肉よりもずっと美味しい気がする。

「そうだろそうだろ」

 あまねの反応を見たマグマが満足そうに頷く。

「お肉って本当においしいのね。今日連れて来てもらえて良かった」
「ムハハハ、偶になら連れてきてやらんこともないぞ」
「本当? 嬉しい」

 あまねは胸をほくほくさせながら笑った。彼女の素直な賞賛に気分を満たされ、マグマもまた上機嫌に笑っている。
 マグマはよく笑う男であった。普段も、戦っている時も、あまねといる時も、自信満々で強気な笑顔を見せる。
 マグマのどこが好きなのか。その問いかけの答えの一つがこれなのだろう。
 もっとも、彼の笑顔のうちの半分は、嘲ったり見下したり悪巧みをしていたりする時のもので、端的に言えばとても悪い笑顔なのだが――盲目的な娘は残念なことに、そういうところも好きだなあ、と思ってしまうだけなのであった。
 あまねは頬を緩めながら大好きな夫を見つめる。しかし、笑っていたはずのマグマが突然、ふっと眉を潜めた。

「ケータイだわたあめだ、皆怪しいモンに飛びつきやがってよぉ。あんな余所者が作るモンよかこっちのが美味えだろが。腹も膨れるしよ」
「あい〜〜〜」
「余所者って……村長でしょ」

 村の外からやってきた男、石神千空。
 御前試合で千空が優勝してしまった時にはそりゃあもう非難轟々だったが、ルリの命を救ったことが、彼が皆に受け入れられる大きな切っ掛けとなった。百物語に伝わる石神村の創始者の子孫という箔が付いたことや、襲撃者を科学の武器で見事撃退したこともあり、今では多くの村人が千空のことを長と認めている。
 あまねは、いつかマグマも認めてくれたらいいと思っているのだけれど――。

「俺は認めてねえよ」

 イノシシの腿肉にがぶりと齧り付きながら、マグマは言った。
 弱い。力もない。狩りもできない。千空は、マグマの価値観では何の役にも立たない男だ。そんな男が、マグマの手が届かなかった長の座に居座っている。

「お前も村一番の男の女になりたいだろが」

 男は村の一番になりたいと思い、女は一番の男のものになりたいと思う。疑問を呈したこともない。生き物の自然な有り方だ。

「…そんなんじゃ…」
「あ?」
「千空のお嫁さんになりたいなんて思わないもの」

 あまねの言葉を聞いたマグマは僅かに目を見開き、そしてニッと笑った。

「あんなヒョロガリは嫌か。そうかそうか」

 あまねは口を挟めず、なんとも言えない顔でマグマを見つめる。
 本当は、千空が嫌とかそういう話ではなくて、マグマがいいのだ。長じゃなくても、一番強い男でなくても。好きなのはマグマだけ。

「お前はいい女だぜ。…それに比べて、全くルリもコハクも見る目がねえ。あんなヒョロガリ共の何がいいんだか…クソ、俺が御前試合に出てさえいりゃ纏めて捻り潰してやったのによ!」
「あい〜〜〜マグマ様が一番お強いですから、千空なんて赤子の手をひねるようなもの!」
「ムハハハ、当然だな!」

 …もし自分が巫女だったら、うまくいったんだろうか。慰めにもならない仮定の話を、あまねは考えずにはいられない。
 例えば、あまねが長女として生まれて、巫女として何の憂いもなく成人する。謀略のない、ただ純粋な力だけが振るわれる御前試合で、順当にマグマが勝ち上がって、優勝する。
 マグマが望んで夫になってくれるのは素敵なことだなと、あまねはぼんやり思う。奸計を巡らせずとも、あまねを娶るためにマグマが他の男達を下して。皆に祝われながら婚礼の日を迎えて…。

 後ろめたい思いにちくりと胸を刺されながら、あまねは頭を振った。
 それでは駄目だったのだ。
 マグマが長になっていたのなら、村は千空の味方にはならなかった。マグマはコクヨウよりも遥かに好戦的だ。千空の味方に付くコハク達科学王国民と、他の住人との間で村は割れる。そしてその最中に司軍が攻めてきてしまえば、死者を出すことなく撃退することなど到底できなかった。
 …そもそも、父が姉のルリに代わって巫女の務めを果たすよう言ってきた時、嫌だと断ったのはあまねだ。聞けば、コハクも同じように固辞したのだという。やはり自分達は双子なのだろう。
 あまねは巫女にはなれなかったし、ならなかった。ルリは元気に生きている。誰も死んでいない。
 きっとより良い未来を掴めてきたのだと、あまねは思っている。
 でも、マグマは…。

 あまねは結局のところ、好きな人の一番の望みを応援できないでいる。価値観を、信念を、捻じ曲げてほしいと、思っている。
 こんなことは言えないなと、あまねは小さく笑った。

「ほら、もっと食え」

 ジクジクと焦げつつある肉を裂き、マグマがあまねの前に差し出してくる。
 物思いに沈んでいたあまねは顔を上げ、曖昧に微笑みを形作った。

「もうおなかいっぱいだから大丈夫よ」
「あ? もういいのかよ」

 マグマとあまねは夫婦ではあるが、食事を共にすることはあまりなかった。
 たった四十人とちょっとの村だ。世帯の数はもっと少なく、家族を亡くして独り身となった者も多い。
 そんな村では共同で食事の用意をすることもざらにあるし、それに加え、マグマは森で狩り仲間と腹を満たすことも多い。そんなわけで、夫婦で火を囲まずとも、二人の食生活は何ら問題なく成り立ってはいるのだ。
 しかし、女とはこんなに少食なものだったろうか。マグマは舐めるようにあまねの身体を見た。

「んなに食わねえで、よくこんだけでかくなったな」

 感心して言いながら、マグマはあまねのほうに手を伸ばす。そして、ぎゅむっとあまねの胸を掴んだ。

「わああぁ…!?」

 あまねの顔は真っ赤になり、それとは逆に頭の中は真っ白に染まった。

「マ、まま、まぐまっ」

 物思いも一瞬で弾け飛ぶ。まさか、こんな、人のいるところで。
 マグマは彼女の豊満な乳房をむぎゅむぎゅと何度か揉んで満足し、手を引っ込める。そしてふと、あまねの様子がいつもと違うことに気がついた。

「他の奴に見られんのは嫌か」

 燃え上がった頬はちょうど色づいた紅葉よう。あまねは今しがたの出来事を消化できない様子で固まっている。
 マグマは自身の側近に視線をやった。マントルがはっと悟った顔をする。

「何も見てないですよ〜〜ぅ」

 手のひらで目をしっかり覆ってマントルが言うが、あまねにしてみればそういう問題ではない。
 マグマはクツクツと笑いながら立ち上がり、続いてあまねの隣にどかりと腰を下ろした。ひっ、と震える彼女の背中に腕を回し、その細い肩を軽く抱く。
 家でのあまねなら、こうしてやれば素直に身体を寄せてくるところなのだが、今はびくりと身体を強張らせるだけた。

「ま、マグマ…」

 乗っていいのか、だめなのか、マントルのほうをちらっと見たり、マグマをぽうっと見たりしながら、あまねがあからさまに狼狽えている。
 しかし、抱き寄せる腕にマグマがちょっと力を込めると、彼女は躊躇いつつもマグマの胸元に頭を寄せた。
 可愛い女である。普段のあまねはどちらかと言えば大人びた娘だったが、マグマに対しては甘えたがりなところがあった。
 自分に対してだけ。そんな特別な響きは、マグマを悪くない気分にさせる。
 長になるチャンスを逃してしまったことは今でも悔やまれる。けれど、あまねを手放すつもりだって、マグマにはとうにないのだ。

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