ひともしごろ

「あんた、本当に俺のこと好きなのか?」

 それは純粋な疑問だった。
 夕暮れの執務室は静かなものだ。仕事が一通り片付いた後の部屋で、審神者が本のページを捲る音だけがゆっくりと響いている。御手杵はそんな彼女の姿をずっと眺めていた。
 それに飽きたと思うことはなかった。でも、視線が向けられてようやく、御手杵は彼女にこちらを向いてほしかったのだと自覚した。

「好きですが。…私、あなたの告白を受け入れたでしょう?」

 主は当然のことのようにそう言った。おう…、と御手杵は少し照れた。好きな相手に好きと言われるのは、当然、嬉しい。

「何故そんなことを?」

 淡々と尋ねられた御手杵は、ええと、と記憶を掘り返しながら話し始めた。
 きっかけは、万屋街で見掛けた女審神者と刀剣男士である。とても仲睦まじげな様子の二人。しかし何より衝撃的だったのは、一目見て男士に懸想しているのだろうと分かる、女審神者のその表情。ふわふわした綿菓子みたいな、甘い、甘い笑顔。
 御手杵は主からそんな笑顔を向けられたことはない。だから…。

「だから、私に好かれてないのではないかと?」
「えっ、いや……あー、そう、なのか?」

 そうなのかもしれない。が、他人と比べて、ただ笑わないというだけでその心を疑うなんて、思えば身勝手だ。なぜなら、主はちゃんと好きだと口で言ってくれるし、そもそも彼女が笑わないなんていつものことだからだ。そして、そんな彼女を一方的に好きになったのは御手杵のほうだ。

「私ほどあなたに執着している人間なんていないと思いますけど」
「本当か?」

 御手杵の疑問に、主はふっと息をついた。嘆息のようだった。

「万屋に行った時、と言うと、今日のことですね」
「ああ」
「私と一緒に買い出しに行った時」
「そうだが」

 パタン、と音を立てて本が閉じられた。

「私といる時に他の女なんて見ないでください。不快です」

 御手杵はぽかんと恋人を見つめた。いつだって冷徹だった仮面に罅が入っていた。眉間にキュッと皺が刻まれていた。
 他の女を見るなと。それはつまり。

「嫉妬か!?」
「嬉しそうに言わないでください」

 主の要求を受けた御手杵は、素直に両手を顔にやった。緩んだ頬を必死で押さえる。無理だ、緩む。

「いや、主も嫉妬なんかするんだって思うと…」
「……」

 主の表情がいつも通りの無表情に戻った。ふいと背けられた横顔。人形のよう。綺麗だ。
 ただの武器だったはずの自分が、抱くはずのなかった想いを自覚して。伝えようと決意して、そして実際に言葉にするまで、御手杵は一度たりとて彼女が己の心を受け入れてくれると思ったことはなかった。全く変わらない表情のまま言われた、喜んで、という返事。あれほど驚くことは、きっとこの先ない気がする。

「…これは忘れていただきたいのですが」
「ん?」

 審神者が躊躇いがちに切り出した。だが、迷っていると感じたのはそこまでで、それ以降はすらすらと、まるで詠ずるように言葉が続いた。

「あなたが他の誰かの話をするのが気に食わない。女なんて視界に入るだけで嫌。私のことだけ見ていればいいんです。

私の部屋の中にしまってどこにも行かせたくない。
桜も紅葉も、私の部屋から全部見えるわ。この本丸で一番景色がいい部屋なのだもの。きっとあなたも気に入る。

…でも、いっそ、人の形を取らなくったっていいわ。

何も見ないで、何も聞かないで、何も思わないで。
一本の槍に戻ったって愛している。

手入れだってきちんとします。あなたの輝きを曇らせたりなんてしない。

そういうふうに大切にされることには慣れているでしょう。大切にされてください。

私だけに大切にされなさい」

 勢い良く流れる水のようだ。怒涛の如く入り込んできて、意味を理解するより先に耳の向こうへ消えてゆく。
 それなのに、身体の奥深くには彼女の言葉全部が残った。そらでさえ言える気がした。
 もし、今自分が彼女の望む通りに物思わぬ武器に戻ったとして、そこにはそっくりそのまま彼女の思いが宿るのだろう。そしてそれは、不思議と、悪いことではないように思えた。しかし。

「…と、私は思ってますが、本当にそうしてほしいと貴方に懇願しているわけではありません。勘違いしないように」

 しかし、主の台詞はそんな言葉で締めくくられた。

「えっ」

 御手杵はぽかんと口を開けた。主が望むなら、と彼はすっかりその気で、今まさに決意を固めようとしていたところだった。
 御手杵の呆然とした表情を見て、審神者はまた小さく息を吐いた。

「忘れるようにと言ったでしょう。刀剣男士をしまいこむなど馬鹿なことをするつもりはありません。あなたに望むのは、戦に出て、私に勝利をもたらすこと。今望むのはそれだけです。できますね?」
「! ああ…!」

 異論などあるはずもない。御手杵は力強く頷いた。
 主に勝利を。それは武器の、刀剣男士の本分に違いない。望むところだ。
 だが、それはそれとして、初めて聞いた主の心のうちをきれいサッパリ忘れるなど、そう簡単にはできそうにない。

「しかし……主も意外と人間らしいところがあるんだな」

 御手杵は武器なので、戦場において己の役目を果たしたいと思っているが、その一方でひとつの物として大切にされたいとも思っている。重い感情だってなんのその。だって物だから。心で壊れたりなんかしないのだ。
 けれど主は、そんなふうに物に執着するような人間には見えなかった。だから、彼女があんなことを言ったのは衝撃的で、御手杵は、嬉しかった。余韻がガンガンと頭を鳴らしている。心臓がどくんどくんと全身に喜びを巡らせている。
 主の首から上が、ギッと御手杵のほうを向いた。ヤベ、と御手杵は大きな手で自分の口を塞いだ。また忘れろと言われてしまう。
 だが、彼女が御手杵に要求したのは全く違う事柄だった。

「人間らしさをこんな醜い感情に見出さないでください。もっと綺麗な心はたくさんあります」
「綺麗な…?」
「ええ」

 御手杵は首を傾げて主を見た。
 細い指先が、優しく本の表紙を撫でている。

「これを読んでもいいけれど……そうね、広く人を見なさい。演練場でも過去でもどこでもいい、連れて行ってあげますから、色々な人を見て、色々なことを思って」
「ええ〜…主が言うかよ」

 他の人間を見るなと言った張本人である。主の言うことは難しいな…と御手杵は頭を捻った。
 でも、彼女は、本当にそうしてほしいわけではないとも言っていた。ならば、先ほどの言葉はすべて嘘? 小指の先ほども気にしなくていいこと? …いや、本心には違いないのだろう。きっと彼女はこんな嘘はつかない。
 だけど、そもそも。御手杵は、ちっとも思わなかったのだ。醜いなんて、ちっとも。
 御手杵は口を開きかけた。何かを言おうとしていた。けれど、それより先に主の声が響いて、御手杵は言おうとしていたことを全部忘れた。

「綺麗なものをたくさん見て……、それでも私のところに帰ってきて」

 驚きすぎると息が止まるのだということを、御手杵は初めて知った。ああ、ああ、こんなにもたやすく、記録更新だ。
 主は相変わらずの無表情で、眉も瞼も唇もピクリとも動いてないのに、色鮮やかだった。これが感情の色なのだと思った。
 夏の暮れの色。寂しくて愛しい色。
 その時の自分の衝動を御手杵はどう説明していいかよく分からない。
 けれど、一言で言うなら、こう、ぐっと来た。
 ぐっと来てしまった御手杵は、自分の心が求めるがまま手を伸ばす。ほんの僅かに見開かれた目。

「これは聞いていいお願いだろ?」
「…ええ。どうか、これだけは守ってね」

 腕の中で主が小さく笑った。とても不器用で、ぎこちなくて、恋する少女のような甘い笑顔ではない。
 それでも、御手杵ははっきりと理解する。
 主は、俺のことが大好きだ。

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