月の光に落ちてもいいよ

『時間あったら外出てきて』

『今』

 …そんなメッセージが届いたのは、寮での夕食を終えた頃だった。
 無視して風呂に入ってしまおうか。そんな誘惑が胸を揺らしたが、常闇踏陰はすぐさま頭を振った。下手すると、このメッセージの送信者は寮のインターホンを鳴らしかねない。クラスメイトが大勢いる中、そんな目立つ真似は御免である。
 それに、この書きぶりから推測すると、相手は既に寮の前まで来ているらしい。もっと早く連絡しろと思わなくはないが、無駄足を踏ませるのも悪いような気がする。決してこちらに非はないのだが。
 ピコン、と踏陰のスマホが鳴った。

『あまり時間は取らないから』

 駄目押しのようなメッセージを見て、ため息をつく。
 別に、会うのが嫌なわけではない。わけではないのだけれど、十分な言い訳を揃えてからでないと、踏陰は席を立てなかった。



 玄関の扉を開け、外に出る。十月にもなれば日も短く、とうに夜の帳が下りていた。
 踏陰は階段を下り、きょろきょろとあたりを見回す――が、予想していた姿は見当たらない。
 ころころと虫の鳴く音が夜闇に響いている。寮の中からは微かに話し声が聞こえてくるが、それを差し引いても静かな夜だ。ほとんどの生徒は既に自寮に戻っているのだろう。
 まさか、呼び出すだけ呼び出して帰ったのだろうか? 確かに返事はしていないが、連絡を受けてからすぐに外に出たので、数分も経っていないはずだ。
 ポケットからスマホを取り出す。新たなメッセージは来ていない。仕方なく文字を打ち込もうとした瞬間、踏陰は背中に衝撃を感じた。

「踏陰くん久しぶり!」

 その声は上から降ってきた。耳のすぐ傍からだ。
 肩の上に重みを感じる。二つの腕が首の両側から巻き付いて、踏陰の胸の前で重なっていた。
 背中に柔らかな感触があった。
 男子とは違う甘い匂いが、鼻をくすぐった。
 後ろから抱きしめられていることを踏陰が理解した瞬間、彼女はさらにぎゅうと力を込めてきた。

「は、なれろ!」
「わっ」

 無理やり腕を振りほどいて距離を取る。ぐるりと体の向きを変え、踏陰は正面からその人物に向き合った。
 あからさまな警戒を見せる後輩の姿に、彼女は目を丸くしたものの、次の瞬間には愛おしいものを見るように目を細めた。

「ごめんね、びっくりした? 驚かせるつもりでやったんだけど」
「妙齢の女子が無闇に男に抱きつくな」
「だって、踏陰くんが可愛いから」

 全くもって理由になってない。人畜無害な顔をしながら嘯く彼女は、踏陰が何度言っても聞いてはくれないのだった。
 女子にしては少し背の高いその少女の名は、籠宮あまね。踏陰より一つ年上の、雄英ヒーロー科2年A組に所属する先輩だ。体育祭以降何かと目を掛けられているのだが、彼女のスキンシップがこうであるので、踏陰からも敬語と遠慮が徐々に剥がれてしまったのだ。

「それで、何の用だ」
「用がなかったら来ちゃダメ?」

 あまねは首を傾げたが、踏陰が顔をしかめてみせると、あっさり肩をすくめた。それから肩に掛けたバッグを漁り、取り出した物を踏陰に差し出してくる。それは半透明の袋でラッピングされた瓶であった。

「インターンのお土産。気に入ってくれるといいんだけど」

 踏陰の担任である相澤が去年一クラス丸ごと除籍した影響で著しくライバルが少なかったとはいえ、あまねは体育祭で上位に入賞する実力者である。この頃彼女は東北のヒーロー事務所へインターンに行っており、その活躍はネットニュースにも取り上げられていた。
 淡い蜂蜜色をした液体は林檎ジュースのようだ。踏陰の好みに寄せてくるあたりが、いやらしくも彼女らしい。

「…感謝する」
「いいよ。……で、九州に行ってた踏陰くんは先輩にお土産はないのかなー?」

 にこりと微笑むあまねとは対照的に、踏陰は眉間にしわを寄せた。
 今回もまたホークスに必死に着いていくばかりだったので、記事になるほどの活動はできていない。インターンについて彼女に話したことはなかったはずだが、職場体験先から推測したのか、誰かから聞いたのか。

「待っていろ」

 言い残して、踏陰は一旦寮の自室に戻った。今しがた貰った瓶を置き、大判の紙袋から箱を一つ取って、部屋を出る。途中、砂藤にどこに行くのかと尋ねられたので、散歩だ、とだけ答えておいた。手に持った土産のせいで、誤魔化せたかどうかは怪しいところだが。
 外に出ると、今度はすぐにあまねの姿が見つかった。彼女はスマホを眺めながらぽつねんと佇んでいたが、扉が開いた音に反応してぱっと顔を上げた。

「おかえり」

 嬉しそうに迎えた彼女に、踏陰は手に持った箱をややぶっきらぼうに差し出した。
 渡したのは、九州地方の土産といえばこれ、というレベルのメジャーなお菓子だ。ひとつだけ変に凝るのもどうかと思ったので、クラスメイト用の土産と同じものを買っておいたのだ。

「お饅頭だー! ありがとう! 嬉しい!」

 些か芸がない気もしたが、受け取ったあまねは素直に喜んでくれていた。踏陰は内心ほっと息をつく。

「開けていい?」
「構わんが…こんな時間から食べるつもりか」
「一個だけ。ね?」

 言いながらあまねは、ぺりぺりと包装をめくり、箱から小分けの袋を一つ出す。それをぴりっと破いてかぶりつくのを、踏陰はなんとはなしに見つめる。

「んー、おいしい! ありがとね踏陰くん」

 踏陰より背が高いくせに、随分小さな一口だった。まるで滅多に手に入らない貴重なものでも食べているかのようだ。

「空腹だったのか」
「そういうわけじゃないけど。私が食べてる間なら、踏陰くん付き合ってくれるかなって思って」

 付き合うとは? きょとんとする踏陰に向かって、あまねが付け加えた。

「ちょっと散歩しようよ」
「それを食べ終えるまでか」
「そうそう」

 返事も聞かないうちにあまねが歩き出した。土産の小さな饅頭くらいすぐ食べてしまうに決まっているのに、なんて下手な誘い方なのだと呆れながら、踏陰はあまねに続いて足を動かした。
 意外にも、菓子はしばらくの間持っていた。あまねがちまちま口に運び、その度にきちんと飲み込んでから話し始めていたからだ。
 饅頭が最後の一口になった頃、あまねが唐突に言った。

「はい、あーん」

 嘴の近くに差し出された饅頭にぎょっとして、思わず後ずさる。
 あまねがふふ、と笑みをこぼした。それを見て理解する。また遊ばれた。

「冗談だよ。さすがに食べかけの物なんて人にあげないよ」
「…お前のやることは分かりにくい」
「そう? ごめんね」

 最後の一欠片がぱくりとあまねの口の中に吸い込まれた。
 自分がそのまま食べていたらどうなったのだろう、と踏陰は思ったが、どうひっくり返ってもそのようなことはできそうになかったので、考えるだけ無駄というものなのだろう。
 饅頭を食べ終えた後も、あまねの足は止まらなかった。取り留めのない話題がいくつか続いて、その質問が投げかけられた。

「インターンどうだった?」

 踏陰は一瞬、言葉に詰まる。

「どう、とは…。別に、何も」

 適切な回答には程遠いと自分でも思った。思ったが、今回もホークスの後処理に回るばかりで、大した働きができなかったのも事実だ。ヒーロー仮免許を取得したにも関わらず、他のクラスメイトが目覚ましい活躍を見せているにも関わらず。必死に食らい付こうとして、それでもまだ、まだまだ、速さが足りない。
 だが、あまねは納得がいっていないような顔で、こてんと首を傾げた。

「本当に?」
「何故疑う」
「だって、職場体験の後とは顔が違うから」

 伸ばされた腕を避け逃した。あたたかな手のひらが顔に触れて、また茶化すつもりかと振りほどこうとしたのに、あまねの瞳が予想外に真面目な色を乗せていたから、踏陰はそれをし損ねた。
 唇に浮かんだ微笑みが次の言葉を促している。どうすればいいかが分からなくなって、踏陰は素直に口を開いた。

「…ホークスから、助言を貰った。俺にはまだ出来ることがあると教えられた」
「そっか」

 優しく撫でられる感触がした。踏陰はようやく我に返り、慌てて彼女の腕を払った。

「それで、どんなこと言われたの? 気になる」

 あまねは大人しく腕を引っ込め、何事もなかったかのように会話を続ける。踏陰はそれに歯がゆいものを感じつつ、インターンの夜のことを思い返しながら言った。

「『得意』を伸ばすことも忘れるなと」
「ふんふん」
「それから…飛べる奴は飛ぶべきだと」
「え?」

 疑問の声が鼓膜を震わせた。何かおかしなことを言ったかと自問したが、彼女が何に引っ掛かったのかは分からなかった。

「踏陰くん、飛べるの?」

 あまねの瞳の中にぱちぱちと星が瞬いていた。その輝きと語調から、彼女が高揚していることが見て取れた。

「いや、まだ、技の開発中で」
「どうやって飛ぶの? あっ黒影? そっか黒影浮いてるもんね、あー確かに! そうかそうか個性にそんな使い方が…! 全然思いつかなかったなあ、んん悔しい!」

 踏陰に余裕があれば、何故お前が悔しがるのだと突っ込んでいたところだったが、生憎そんな余裕はなかった。
 あまねの顔が近い。前のめりになった彼女の唇が、いつの間にかすぐそこまで迫っていて、今にも触れそうなほどだ。
 形の良い唇が開く。踏陰は思わずごくりと唾を飲んだ。

「踏陰くん、私も飛びたい!」
「断る!」

 流されず即座に拒否ができた自分を、踏陰は少しだけ褒めた。

「ええ、なんで〜」

 あまねがしゅんと眉を下げた。
 とても悲しそうな表情だ。半分くらいは作られたものだろうと思いながらも、つい騙されそうになる自分を律すため、踏陰はふいとそっぽを向く。すると、あまねがくるっと身を翻して、踏陰の正面に回り込んできた。踏陰はまた別の方向へ顔を背ける。再びあまねが回り込む。そんなくだりを数度繰り返した。

「ね、ね、ちょっとだけ、いいでしょ?」
「駄目だ」
「ああそんな殺生な…。よし、分かった、踏陰くんに林檎ケーキあげるから! 自分用に買ってきたんだけど、踏陰くんになら特別にあげちゃいます! だから…ね?」

 何が彼女を突き動かすのか、いつになくあまねは押しが強い。
 踏陰は苦々しく顔をしかめる。
 何も、あまねを連れて飛ぶのが嫌だからこんなに頑なに拒否しているわけではない。

「……今は、夜だろう」

 思い出すのは林間合宿の日。ヴィランの襲撃を受けた、あの夜のことだ。
 踏陰は己の感情を制御しきれず、黒影を暴走させてしまった。止められなかった。助けてくれようとした友を、何度も危険に晒した。
 あんなことはもう御免だった。
 その時のことはあまねも知っている。だから分かってくれると思った。
 それなのに。

「夜はツクヨミの時間でしょ。大丈夫だよ」

 あまねは何でもないことのように、そう言った。
 踏陰は呆然と彼女を見つめる。あまねは強い。万一、黒影が暴れたとしても、彼女なら抑え込むことができるかもしれない。
 だが、だとしても、もし彼女を傷つけてしまうようなことがあれば。踏陰は、考えただけで息が止まりそうな心地がするのだ。
 けれども、踏陰の様子に気がついたあまねは、それでもなお柔らかな笑顔を浮かべる。

「大丈夫よ、踏陰くんなら」
「…本当にそう思っているのか」
「もちろん」

 俺なら大丈夫、などと、そんな言葉には何の根拠もない。
 けれども、当たり前のようにあまねは自分を信じている。信頼している。期待してくれている。その事実に心が揺さぶられる。

「ね、お願い、踏陰くん」

 あまねの言葉が、あと少し足りなかった勇気を埋めて、背中を押した。
 このまま夜を恐れているばかりでは駄目なのだ。それではヒーローの名が廃る。

「黒影」
「アイヨォ」

 現れた黒影がにまにまと面白がっている気配がした。不快だったが、感動した様子で目を輝かせるあまねを見ると、別にそのくらい構わないような、どうにも自分らしくない気持ちになるのだった。



 両手に踏陰とあまねをそれぞれ抱え、黒影はぐんぐんと上昇していく。木々の背丈を超え、寮の屋根を超え、視界には遠くの町並みの光が見え始めた。

「すごい、すごいね、踏陰くん」

 眼下に広がる銀河を指差し、はしゃぐあまねは、子供のようだった。

「あまり騒ぐな」

 はーい、と間延びした返事が帰ってきて、踏陰は嘆息した。
 黒影は嘘のように大人しく、従順だった。いつもなら文句の一つや二つ垂れていてもおかしくない時分だが、踏陰の指示に対してもアイヨと一つ返事をし、素直に従っている。
 あまねが一緒だからだ、と思った。まだ彼女は何も個性を使っておらず、黒影が何を思ってそうしているのかまでは、分からなかったが。

「ねえ、踏陰くんのおうちってどのあたり? この近くの出身なんだよね」

 あまねに問われ、踏陰は地上の景色にじっと目を凝らした。暗がりの中に無数の光が瞬いている。つい先日、寮に入るまで住み続けた故郷だが、夜の空から見るとまるで全く知らない街のようだ。

「恐らく、あのあたりだろう」
「へえ、思っていたより近いな」

 踏陰が指差した先も、この距離ではただの光の粒達にしか見えない。だが、あまねは変わらず浮かれた様子で、楽しそうに頬を緩ませていた。

「何故あれほど飛ぶことに固執していた」
「え? 空を飛ぶのって、飛べないみんなの夢じゃない? 私、子供の頃は空が飛べる個性なら良かったのにーってよく思ってたよ」

 懐かしむようなまなざしであまねは光の海を見つめている。

「そっかあ、踏陰くんは飛べるようになったのかぁ」

 長い睫毛の影が、透き通るような頬に落ちる。月明かりに照らされる横顔を、ふと、綺麗だと思った。
 もしかすると、これから空を飛ぶ度に、自分は彼女のことを思い出すのかもしれない。
 ふいに、あまねがこちらを向いた。踏陰はぎくりと身体をこわばらせたが、目を逸らそうにも逸らせず、されるがままじっと見つめられる。

「踏陰くんは体育祭の時からずっと強くなってるんだね」

 脈絡なくあまねはそんなことを言ったが、唐突な話の振りは彼女にはよくあることだったので、踏陰は迷いなく答えた。

「当然。停滞していられる時間などない。俺は更に上へ行く」
「うん」

 踏陰の言葉を聞いたあまねが、まばゆいものを見るように目を細めた。それから、彼女は花が綻ぶように笑う。

「やっぱり男の子は頑張ってる姿が一番かっこいいね」

 思考が停止する。嘴を開いたまま、踏陰はぽかんとあまねを見つめた。
 彼女からそのような評価をもらったのは初めてのことだった。
 胸のあたりがほくほくと熱い。もう十月にもなって、夏の暑さはすっかり鳴りを潜めたというのに、自分の周りだけ季節が戻ってしまったかのようだ。

「何を……」
「あ、照れてる」
「照れてなど」
「分かるよ。踏陰くん分かりやすいもん。ふふ、可愛い」

 もはや耳慣れた言葉にさえ追い詰められる思いがした。さっと顔を背けるが、空中では他に逃げ場もない。ならば、と踏陰は口先で彼女の話題を逸らそうと試みる。

「別に、俺だけに限った話ではないだろう。雄英に学ぶ者で、努力を怠る者などいない」
「そうね、そこなのよね」

 悩ましげな様子であまねが言った。

「体育祭だってみんな上を目指して、悔しい思いをして頑張っていたに違いないのに、なんで私は踏陰くんを見つけちゃったんだろう。不思議だね?」

 踏陰は堪らず天を仰いだ。これ以上何を聞いても、墓穴を掘ることにしかならない予感がした。何故って、あまねはとうに答えを見つけてしまっているようだったから。

「か…」
「か?」
「帰る……」

 酷く情けない声が出た。だが、顔から火が出そうで、心臓が今にも燃え尽きそうで、これ以上あまねと顔を合わせることができそうになかったのだ。

「うん、夜も遅くなっちゃったからね、帰ろっか」

 あまねもまた微かに頬を染め、くすくすと微笑んでいた。

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