小夜中
村が燃えてゆくのを、ぼんやりと見ていた。
立ち昇った真っ赤な炎が夜空を赤く染め上げる。もう居住区には誰もいない。村人はみんな島の外に避難して、炎が届かない場所から家々が灰になってゆくのを見ている。
自分が今いる場所は安全なのだと、分かってはいる。それなのに、あの遠く烈々と燃え盛る炎に、呑み込まれてしまいそうな恐怖が消えない。
***
司帝国によって居住区にあったものは全て焼き尽くされてしまったが、死者が出なかったことは幸いだったのだろう。炭ばかりとなった島の上で立ち竦みながらも、あまねはそれには同意した。家がなくなるのは、何も初めてではない。自然の力を前にしては人間では到底太刀打ちできず、猛烈な嵐に見舞われて避難先の洞窟から戻ってみれば、風に全てを攫われていたこともある。
誰一人欠けなかった。長の言う通り、その事実さえあれば、他のことなど全て乗り越えられる。間違ってない。
次の日から、村は総力を挙げて復興に向けて動き始めた。やらなければいけないことは多々あって、毎夜くたくたで床につくような――今は床もろくにないのだが――忙しい日々が始まった。朝から森に入り採集に明け暮れ、夜が近づくと村へ戻ってくる。今は服の換えもないので、明るいうちに身体を流し、火に当ててささっと乾かしてしまう。その後は居住区の島に戻って日用品をちまちまと編み上げる。女達の日常はそんな感じた。
「あまね!」
「コハク?」
地面に作りたての筵を敷き、眠ろうとしていたところだった。あまねの元にやって来たのは双子の姉のコハクだ。同じようにくるくると巻いた敷物を持った彼女は、珍しく何やらもじもじした様子でいる。
「その…一緒に寝てもいいか」
躊躇いがちな誘いに、あまねはきょとんと目を丸くした。その内容が意外だったからではない。コハクの態度が、生まれながらの半身に対するものにしては、いささか他人行儀な気がしたからだ。
「もちろんよ」
あまねが答えると、コハクはパッと顔を輝かせた。いそいそと隣に筵を敷く様子がまたおかしくて、あまねは小さく笑った。
家屋は絶賛建築中なのだが、いかんせん材料集めから行わなければならないため、まだ数は足りていない。巫女の社も開放しているものの、小さな子どもやご隠居が優先だ。しばらくはあまねも野外で眠ることになるだろう。木の枝を立て掛けて樹皮を貼った簡素な屋根ならばあるのだが、基本的には雑魚寝だ。二人の周囲にもちらほらと敷物が引かれており、既に横になっている者もいる。
野獣ではなく人が敵であるならば、森と村を繋ぐ橋を守るだけでは不十分だ。先日の司帝国の襲撃で思い知った。それなので、居住区の端々には夜を徹して見張りの炎が焚かれている。千空やゲンによれば、次に事態が変わるのは冬明けになるだろうということだったが、まだ油断ができる空気ではなかったのだ。
二つの敷物をぴたりとくっつけて、二人並んで横たわる。寝心地は、当然、良くはない。無いよりは遥かにましとはいえ、地面の感触がほとんど直に伝わってくる。
「ふふ、でこぼこしてる」
「つらくはないか。私は平気だが…」
「大丈夫よ」
あまねが大げさだと微笑んでいる。少し、心配しすぎだろうか。
コハクは最愛の妹をじっと見つめた。生まれてから何千日も見続けてきた顔。透き通るように綺麗な瞳も、滑らかな頬も、ふっくらした唇も、何もかもが可愛いあまね。悔しいことに、最近は前よりもっとずっと綺麗になった気がする。
心配というよりは…単に、自分があまねに構いたいだけなんだろう。
コハクは唇を引き結び、視線を逸らした。見上げた空には、いっぱいの星が浮かんでいる。視界の端の炎が明るく、小さな星はその光に紛れてしまっているが、それでも十分すぎるほどの光景だ。
「星を見ながら眠るなんて、久しぶり。…コハクはそんなことないかしら?」
視界いっぱいに星を広げたまま、あまねが言った。コハクは素早く力もあって、昔から一人でひょいひょい森の中へ入ってしまう娘だった。双子だが、自分とコハクはつくづく似ていない。
「ああ、最近は、科学の素材集めで野宿も多かったからな。だが、ここまでの星の下で眠ることは中々ないぞ」
「そっか、森の中でこんな開けた場所で眠ってたら危ないものね」
あまねとコハクはしばらくそんな取り留めのない話をしていたが、周囲の音が消えていくにつれ、二人の声も段々と密やかになっていった。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音が微かに聞こえる。隣でコハクが身じろいだ気配がして、あまねもころりと身体を横にした。
瑠璃色の瞳の中に、ゆらめく光が映り込んでいる。何もかもを熔かすような炎。
「少し、寒いな」
「…もう少し、くっつく?」
「そうしよう」
互いに少しずつ寄り添って、あたたかな身体を抱きしめあう。とくり、とくりと伝わる心臓の鼓動。ああ、そうだ、こんな音だった。
「目まぐるしいとはこのことなのだろうな」
幾千年もの過去から千空がやって来てから、石神村の住民の目には良くも悪くも新しい景色が次々に飛び込んでくる。
けれど、もしかすると…コハクに一番影響を与えてしまっているのは、自分の結婚のことなのかもしれない。あまねがそう思ったのは、コハクの唇が懐かしむような色を浮かべていたからだ。
「…そうだね」
酷いことをしたと思っている。コハクにとっては、きっと裏切りに違いなかった。けれど、今だって後悔など欠片もしていないので、あまねは謝れもしないのだ。
***
じくじくと赤く燃える炭火。それを囲むように、串を通された魚が並べられている。焼き目の下で脂がジュウと鳴り、香ばしい匂いが周囲に漂った。
先程まではあるみのおばあちゃんと一緒に焼いていたのだが、彼女は何やら呼ばれて行ってしまった。石神村の老人達は長く生きているだけあって、色々な生活の知恵を持っている。こういう時には各所で引っ張りだこだ。
魚の番をしなければならないとはいえ、あまりに炎を見つめていると、あの鮮烈な記憶が頭をよぎってしまう。腹の奥が冷たくなるような、あの赤い記憶。あまねは手元の縫い物を続けながら、好きなもののことを考えようと努めた。
一番に浮かんだのは、夫のことだった。どうしてこんなに好きなのかも分からないけれど、大好きな人。どんな手を使ってでも自分のものにしたかった人。
だが、マグマとはここ数日まともに顔を合わせていない。襲撃の後、あまねは怪我を負ったマグマの傍で看病をしていたのだが、彼に追い出されてからはそれきりだ。
マグマは持ち前の頑丈さもあって、既に復帰して力仕事を担っているが、当然あまねと作業が被るわけがない。夜は夜であまねはコハクや他の村の娘達と纏まって眠っているので、中々話す機会がなかったのだ。
…。
言い訳がましいと、あまねは自分でも思った。同じ村にいるのだから、会おうと思えばいつでも会える。それができないのは、…どうしてだろう。
たったの数日だ。話をしていないのは。村が襲われるその前の晩まで、あまねはマグマの腕に抱かれて眠っていた。それがたったの数日で、何が変わったというのだろう。
負傷中のマグマを看病をしていた時に、邪魔だと追い出されたことを気にしている? 自問するが、それほど気にしてはいない、とあまねは思う。斧を振り被られた時に比べれば、恐ろしくもないし、拒絶のうちに入らない。…と、理性は思っているが、それ以外に原因となりそうなことはなく、ならば心はしっかりとそれに傷ついたのだろうか。
「おい焦げてんぞ」
「えっ」
悶々と考えていたあまねだったが、後ろから掛けられた声で、ふと我に返った。目の前の串を見る。いくつかの魚が、こんがりと黒く変色を始めていた。
「わあぁ…」
あまねは魚を避難させようと慌てて手を伸ばし――気まぐれによじれた炎に怯え、一瞬だけ、動きが止まった。風に吹かれたのかほんの少しこちら側に寄っただけで、直接触れるような距離まで火が迫ってきたわけでもない。それなのに、あまねの身体は不自然に強ばった。
しまった、と後悔の念が湧き上がる。背後にいる人物が誰なのか、声で分かっていたからだ。
…焼け過ぎた串を抜き、少し遠ざけた場所に立てる。それからちょうど食べごろの魚を見繕って、あまねは後ろに差し出した。
「ありがとう、ちょっとぼうっとしてた。千空、お腹空いてる?」
「…ああ、ありがてえ」
串を受け取って礼を述べたのは、つい先日、石神村の長となった千空だ。彼はあまねの斜め前に腰を下ろし、ぱくりと焼き魚に食いついた。
「もうお昼時なのに、意外とみんな来ないの。作業に夢中になってるのかしら」
「いやそれはお前もな。…まあ、そのうち思い出して来るだろ」
確かに、縫い物をしつつ考え事に耽って魚を焦がした身で、人のことを言えるわけもない。あまねは肩を竦めた。
焼け焦げた魚をじっと見つめる。これはまだ食べられるだろうか。
「焦げた部分は食いすぎるんじゃねえぞ。魚や肉を加熱すっとヘテロサイクリックアミンが生成されて…」
「へてろさい…?」
「あ゙ー、つまり病気のリスクが高まる。可能性がある」
あまねには千空が口にする科学用語はほとんど分からないが、結論だけはしっかり理解した。病気と言えば、思い出すのは姉のルリのことで、その恐ろしさはよく身に沁みている。
手元の串をくるくる回す。黒く炭化した部分を削ぎ落とせば、僅かではあるが食べられる部分もありそうだ。村の周辺では魚は有り余るほど手に入るが、だからといって全て無駄にしてしまうのも気が引ける。
「あまり食べないようにするわ」
「おー、そうしろ」
千空とあまねの付き合いは、結構長い。彼をこの村に連れてきたのが他でもない双子の姉のコハクだったので、彼女に連れられたあまねはかなり初期のうちに千空と対面を果たしていた。
しかし、最初のうちは、あまねも他の村人と同じように千空や科学というものに懐疑的だった。千空に関わるようになったきっかけは…そうだ、あの光だ。真っ暗闇に突如生まれた、まばゆい一瞬の光。それを綺麗だと思った時に、あまねの世界は開けた。
そしてルリを助けるための薬を作るのだと聞いてからは、あまねもできるだけ彼らを手伝うようになったのだ。
「……」
一つ目の魚を早くも食べ終わりそうな千空の前に、追加の串を差し出す。
先程、恐れから動きを止めてしまった自分の手をあまねが悔いたのは、相手が他でもない千空だったからだ。
石化から解放され、3700年前の遥か過去からやって来た石神千空。石神村の創始者の息子。
彼は、あまね達の知らないものをたくさん見せてくれた。鉄に、ガラスに、ラーメンに、光。世界が澄み渡り広がってゆくようで、胸が沸き立った。
だが、事実だけを述べるなら。村が燃やされた最たる理由もまた、彼なのだ。
司帝国は科学を疎んでいた。千空は科学を再興しようとしていた。その千空がここにいたから、司帝国は村を襲った。
責めたいだとか、何かのせいにしたいだとか、そういうわけではない。けれどそこには、否定しきれない因果関係が、純然たる事実として存在している。
だから、…千空が自分自身を追い詰めてしまうのではないかということを、あまねは気にしているのだ。
別に、ただ少し身体が固くなっただけ。それでも、何もかもを理路整然と見透かす彼の瞳なら、あまねが炎を恐れたことなど一瞬で理解したに違いない。
「ねえ、千空」
「あ?」
黙々と魚にかぶりついていた千空が顔を上げる。あまねは悩みつつも、唇を開いた。
「火事のことなんて、家が建て直されたらきっと忘れるわ」
小さな沈黙が二人の間に訪れた。突然だとは、千空も思わなかった。
彼が口を挟むより先に、あまねは言葉を続けた。
「ルリ姉を助けてくれたこと、本当に感謝してるの。一生忘れない。始めて見た電気が綺麗だったことも、科学のご飯がおいしかったことも、ずっと覚えてる」
あまねは、千空とは何の負い目もなく友人でいたいのだ。だから、あんな理由で生まれた弱さを見せたくはなかった。
本当はこんなタイミングで改めて感謝を伝えること自体がわざとらしいとも思う。下手な波紋を残してしまうかもしれない。けれど、千空の心が曇り掛かっているのだとしたら、それを晴らしたい。天秤にかけたら、そちらに傾いただけのこと。
考え過ぎなら考え過ぎでいい。どうせ本音だ。
千空は頭をガシガシと掻いた。言葉に詰まったわけではないが、これからのことを少しだけ悩んだ。
「あー……何だ、急に。またメシ作れって? 製鉄炉に空気送ってくれんなら大歓迎――」
「ま、つまり石神村のみんなは千空が大好きってことよ」
みんな。あまねも含めて。
千空が村に足を踏み入れたのはごく最近、御前試合の日からだが、ルリのためにしてきてくれたことは誰だって知っている。千空は村ごと科学王国に取り込むためだと言っていたけれど、行動は言葉以上に千空の心を詳らかにした。そしてそれは、頑なだった住民の心を揺り動かすには十分だった。
「あまね…」
名前を呼ばれ、あまねはじっと彼を見た。
千空は感極まった様子――かと思いきや、全然違った。
「いやお前の旦那に関しちゃ100億パーセントありえねえだろ」
千空は呆れを滲ませつつ言った。言った後で、あの凶暴な男が自分に好意を見せてくるイフの想像をしてしまい、うへぇと顔を歪ませた。
あまねは一瞬きょとんとして、それからへにゃりと破顔する。
「それは確かに」
自分も存外適当なことを言うものだ。そんなおかしさと、旦那という呼称を人に使ってもらったことへの気恥ずかしい喜びが、あまねの顔を緩ませた。
千空もまた口元に笑みを浮かべる。大好き、などとよく恥じらいもなく言えるものだ。あまねのそんなある種の豪胆さは、半年近く会っていない大切な友人のことを彼に思い出させた。
二人の元にわらわらと村人達がやって来たのは、そんな頃だ。
「む、あまねに千空か」
「魚貰ってもいいかしら? お腹減っちゃった」
言いながら、村人達は二人とともに焚き火を囲んだ。あれだけあった魚が次々とはけてゆく。
千空はすぐに皆からの質問攻めに遭っていた。村の中にいる者は、皆生まれたときから知っているか、知られているかのどちらかなので、未知で魅力的な千空に興味津々なのだ。
あまねも千空の話を興味深く聞いていた。聞きながら――胸に引っ掛かりのようなものを覚えていた。
自分が口にした言葉を思い返す。
いずれ、きっと、この恐れは消えるのだと思う。そのこと自体はあまり疑ってはいない。
でも、住居を整えたって、時間が巻き戻るように何もかもが元通りになるわけじゃない。人の心なんて尚更だ。
コハクやルビィ達と夜を過ごすようになって何日か経った。夫とは、それまでの日々が嘘だったようにほとんど話してもいない。
本当なら、村が襲撃されたことと、あまねとマグマの関係は、全く別の事柄だ。そこに因果なんて見出さなくていい。あまねは当たり前のように、妻としてマグマの元に押し掛けていたっていいはずなのだ。当然のことのように、堂々と。
でも――そもそも、マグマにとっては、望まない婚姻だったから。
元から歪だった関係は、同じように歪に戻ってくれるのだろうか。
***
「最近はお肉もいっぱい食べれるから嬉しいねぇ」
「革が足りてないから、そのついでだけどね。これから冬が来るんだから、急いで集めないと」
立て直された家の一つに、村の女達が集まっていた。ガーネットにサファイア、ルビィ。珊瑚に、あずらに孔雀。好き好きに座って、編み物をしながら、他愛のない会話を続けている。
「でも焼いて食べるだけじゃ飽きてくるわよ」
「分かる〜! ね、ラーメン食べたくない? 千空クン、作ってくれないかなあ」
村に来て千空が最初に作った科学の飯、それがラーメンだ。石神村の食事は基本的には魚、果実、それか狩った獣の肉で、調理法のレパートリーも少ない。そのため、かつて味わったことのないもちもちとした食感の麺は、村人達に多大な衝撃を与えていた。
「ラーメンだったら私、作れるわ。作ろうか?」
あまねは千空の手伝いをしていたため、必要な材料やレシピも知っている。科学王国の要である千空にしかできないことは山程あったので、労働力集めの食事を作る作業は段々とあまねに任されるようになっていたのだ。
あまねの提案にルビィはきらきらと目を輝かせた。
「え! ほんと? も〜あまね大好き〜!」
「手伝ってはもらうけどね」
「もちろん! 手伝うよ」
「私もいいかしら。どうやって作るのか気になっていたの」
「あっじゃあ私も!」
今までにないメンバーでのラーメン作りが近いうちに実現するだろう。楽しみだな、とあまねは素直に表情を緩めた。
いつも通りの和気あいあいとした雰囲気の会話が続く。色んな具入れようよ。お肉と魚と…。あっ、栗とかいいんじゃない? 意外と合うかもしれないわね。
けれど、そんな楽しげな空気の中に、ふいに沈黙が訪れた。
誰が意識して作ったわけでもない無音の時間。会話の短い途切れ目に、それぞれ何を思ったのだろう。
明日の天気のことでも考えたのか。食事の話をしたせいで、空腹でも覚えたのか。縫っても縫っても終わらない仕事に疲れを感じたのか。
それとも――あの夜のことに思いを馳せてしまったのか。
小さな罅から感傷が広がってゆく。
きっと、あの恐怖が。全てを焼き尽くす炎に抱いた畏れが。
全部を巻き込んで、広がった。日常に染み込んだ毒のように、侵食していた。
「あ…」
ルビィの目からぽろりと涙がこぼれた。それは突然であって、突然ではなく、いつか訪れると決まっていた、必然のようなものだった。
彼女は自分が涙を流していることに気がつくと、慌てて目元を拭った。いきなり泣くなんて変だ。だって、皆と話しているだけなのに。泣くことなんて何もないのに。そう思うのに、一向に涙は止まってくれない。
「ご、ごめんねっ…大丈夫だから!」
「ルビィ…」
あまねはルビィにそっと手を伸ばした。彼女を抱きしめて、優しく頭を撫でる。あふれた涙が、ルビィの大きな瞳を滲ませながら落ちていく。いつの間にか、ルビィの姉達の目にも涙が浮かんでいた。何も口に出さずとも分かったからだ。彼女の恐れが。
みんな同じ気持ちだった。若者も、年寄り達も。
平穏だった村が、今まさに変わっていこうとしている。
これからどこへ行くのだろう。くっきりとは見えない未来を前に生まれた、漠然とした不安。鈍い曇り空のようなそれが、炎を根源として感染していた。
形の見えない恐怖が、柔らかな心をゆっくりと蝕もうとしている。呑み込まれてしまう前に、どうか。あまねは震えそうな唇で言葉を紡いだ。
「みんな生きてるから」
ルビィを抱きしめる腕に自然と力がこもる。
誰ひとり欠けていない。何も失ってなんかいない。だから。
「一緒にいよう。そしたら、きっと、大丈夫よ…」
ルビィを元気づけることができたらいいと思った。泣くよりも笑ってほしいと思った。口にした言葉は嘘なんかじゃない。
それでもあまねは、自分の中に埋まらないこころがあることを自覚している。
***
あまねは、そっと家の扉を開けた。
見張りを除いて、誰もがもう眠っていた。遠くで薪が弾ける微かな音が聞こえる。あまねは皆を起こさないよう息を潜め、慎重に扉を閉めた。
昼のうちから、決めていた。
星明りの暗がりを歩いていると、足元からぞわぞわと這い上がる不安と、仄かな光に導かれる高揚が、一緒くたになってあまねの身体を取り囲んでくる。目的地はすぐそこで、辿り着くのに三十秒も掛からないはずなのに、何故だか妙に時間が掛かった気がした。
居住区には既に数軒の家が建てられていた。そしてその家の壁に斜めにもたれるように、木の枝で組まれた簡易的な屋根がいくつも作られている。彼女の目的地はそのうちの一つだ。
簾のようなもので片側が塞がれていたので、あまねはくるりと入口のほうへ向かう。近づいてみると、小さな男が地面に転がって眠っているのが分かった。マントルだ。と、なれば、きっとここで合っているに違いない。
心臓がとくとくと鳴る音が聞こえる。あまねは胸を押さえながら、マントルをそっと跨いで屋根の下に足を踏み入れた。
「誰だ」
暗闇の中から低い声が聞こえた。
あまねはびくりと身体を固めながらも、じっと奥に目を凝らした。夜闇のおかげで少しは目が慣れている。中の男は、既に上体を起こしていた。そしてどうやら、枕元にある刀を手に取っているようだった。
「わ、私……あまね…」
まさか、夜にやって来ただけで斬られることはないだろう。なんせ、自分は彼の妻なのだ。
そうは思いつつも、あまねはそこから動けなくなった。暗闇に浮かぶ大きな身体は獣のようで、今にも噛み付いてきそうな警戒を見せていた。
「何か用かよ」
「あのね…」
あまねはごくりと唾を飲み込む。緊張していた。もし断られたら、どうしよう。
「一緒に寝ても、いい…?」
返事が帰ってくるまでに時間があった。あまねは自分の声が小さ過ぎて聞こえなかったのかとも思ったが、寝息さえ耳に入るほどの静けさの中では聞き逃すこともないはずだ。
マグマは、にたりと笑ったようだった。
「いいぜ。来いよ」
「…!」
その言葉だけで、頽れそうな不安が一気に霧散した。思わず顔が緩んでしまうくらい嬉しい。あまねはおずおずと夫の元に近づき、その隣に膝をついた。
だが、あまねが身体を横たえる前に、マグマの腕がこちらに伸びてきた。大きな手のひらが背中のほうに回されたかと思うと、躊躇いなく尻をむんずと掴まれた。
あまねはひっと息を詰め、背筋を震わせた。
「あ? なんだ違うのかよ」
「ちがうもん…」
あまねは唇を尖らせて、筵の上にころりと横になった。もう梃子でも動くつもりはなかった。
マグマはその様子をじっと見下ろした。勿論、こんな吹き抜けの場所では声などだだ漏れだろうし、目が慣れれば何をしているのかくらい一目でばれてしまうだろう。それでも、この女ならあり得るな、と──あまねが断固として抗議しそうなことを──考えていたのだが、まさか違うとは。
だが、それなら何のために自分の元になどやって来たのだろう。今日から女達は皆家の中で寝られるようになったはずだ。その屋内の快適さを捨ててまで、何故?
マグマは考えたが、別に自分に損があるわけでもない。そのうちにどうでもよくなって、大人しく身体を横にした。すると、その胸の中にあまねが擦り寄ってきた。
「お」
あまねの予想外の行動にマグマは一瞬固まった。だが、そういえば、村が焼ける前は度々こうして眠っていたのだった。彼女の身体は中々にぬくく、暖を取るには上等だ。それを思い出したマグマは、妻の細っこい身体に腕を回した。
マグマに抱きしめられたあまねは、暗闇の中で密かに顔を赤くした。腕の重さと肌のぬくもりに胸が切なく疼く。
あたたかい。
体の内側がぬくぬくと温まっていく。服越しに触れている部分より、もっと奥。胸や、頭のあたりがほわほわして、そこから全身に広がってゆくような感じ。際限なく体温が上がって、このままだと熱いくらいにまでなってしまいそうだったけれど、あまねは構わずマグマの胸に額を擦り付けた。
あたたかくて溶けてしまいそう。でも、悪い気分じゃなかった。これだったのだ、という感じがした。あまねがずっと求めていたのは。
何故だか目の奥がじんじんする。どうしてだろう、としばらく考えて、あまねははっとマグマから顔を離した。
「寝ろ」
「待、っ…」
胸の中でもがかれるのが煩わしかったのだろう。後頭部に置かれた手がぐっとあまねの頭を抱き寄せた。駄目、駄目だ、ばれてしまう。
マグマはふと胸元に違和感を覚えた。あまねの頭の後ろに回していた手を前に持ってきて、彼女の顔を探る。これは眉で、これは瞼で、これは睫毛で。そこまで来たあたりで、親指に濡れた感触がした。
「泣いてんのか?」
あまねは、咄嗟に違うと否定しようとして、でも結局、その前に踏みとどまった。尋ねてきたマグマの声が、存外、突き放したような言い方ではなかったからだ。責めるような口ぶりでもなく、面倒がるでもなく。純粋な驚きの奥に、動揺が透けて見えたから。
「…怖かったの……」
気づいた時には、あまねの唇からはそんな言葉がぽろりとこぼれ落ちていた。
「村が襲われてから、こわくて、寝れなくて…」
口に出したのは初めてだった。
あの日から、深く眠れた日はなかった。どれだけ疲れていても、真夜中にふと目が覚めてしまう。もう一度眠ろうと目を閉じて、黙って数を刻んでも、一向に夢の世界には落ちていけない。星の明かりを見つめるのにも慣れてしまった。
不安だった。怖かった。皆で一緒に眠っても、心細かった。
寂しさを埋めてほしかった。本当はもっと早く会いたいとずっと思っていた。
でも、全部が怖くて。
あの夜から、世界の何かもかが変わってしまったような気がしていた。マグマに会っても、もう触れてはくれないかもしれない。どうしてお前なんかが妻なのかと罵られるかもしれない。同じ屋根の下になどいたくないと、家を建てることすら拒否するかもしれない。そんなことを考えると限りがなくて、ずっと勇気が出なかった。
どうしてこの人がいいと思うのだろう。自分でも理由なんて分からない。ゲンはマグマに殺されかけた。歯車がひとつずれた世界では、コハクやルリも、もしかするとあまね自身だって、殺されていたかもしれない。マグマがどんなに酷い人か、あまねはよく知っているのに。
けれど、本当は理由なんかなんだっていい気もしていた。思い込みだろうとまやかしだろうと、どうしようもないほどにあまねはマグマが欲しいのだ。
皆に掛けた言葉を、あまねは本当はマグマからもらいたかった。
「…あまね、…」
胸の中で縮こまるあまねは、しゃくりあげそうになるのを堪えているようだった。
彼女の告白を聞いて、マグマは一層解らなくなる。怖いというのなら、尚更、何故こんなところに来てしまったのか。マグマは女の慰め方など知らない。
半ば吹きさらしの屋根の下なんかより、家の中のほうが安全に決まっている。見張りがしっかり働いていれば、今度は容易く火なぞ放たれないだろう。
それに、安心が欲しいのなら家族の元に行けばいいのだ。ルリやコハクなら、妹が怖がっていると知れば揃って寄り添い続けるだろう。あまねが眠れないと言ったならば、姉達も夜通し起きているに違いない。他人のマグマでさえそう思うほどの絆があの姉妹達の間にはある。
それなのに、何故来た。
自分が彼女の夫だからか。
…それが、負けた男でもか。
村が襲撃された時、マグマは氷月とかいうおかしな槍を持った男に負けた。金狼とコハクと三人掛かりでも手も足も出なかった。
圧倒的な力を持った襲撃者達が引き下がっていったのは、科学の毒に恐れをなしたからなのだという。敵を撃退したのは――誰も死ななかったのは、千空と、謀略を巡らせて氷月の槍を砕いた、ゲンの功績だ。
マグマでは、村を守れなかった。
そのことがふとした瞬間に頭の中に蘇る。あの襲撃の夜からずっとだ。その記憶は胸を不快に掻き乱し、苛立ちに似た感情で全身を支配する。
例えば、こんな眠れぬ夜更けにも。
例えば、傷を癒やしている最中にも。
襲撃の直後、怪我を負ったマグマの元にあまねはよく看病に来ていた。氷月に付けられた傷は、浅くはなかったが、立ち上がれないほどの重体でもない。飯も一人で食える。だというのに、あまねはせっせと通ってきては、何かとマグマの世話を焼こうとした。
正直に言って煩わしかった。あまねが何をしても癪に障った。マグマは苛立ちから出た言葉の礫を彼女にぶつけ、もう来るなと追い出した。事実、こんなところで油を売っている暇があるのなら、村の復興を手伝ったほうがよほどマシだ。
あまねは大人しく従って、その後は会いには来なかった。怪我がある程度癒え、マグマが働くようになってからも、彼女が近づいてくることはなかった。
時折、マグマの視線はあまねに吸い寄せられた。だが、話をしたいとは思わなかった。特に用事があるわけでもない。普通に生活していれば、彼女と顔を合わせる必要などなかったというだけのことだ。
しかし、もしかすると――本当は、あまねと話すのが怖かったのかもしれない。
己は強くはなかった。村を守れなかった。それを、あまねにも知られてしまった。
思い知らされた現実は、氷月に付けられた傷よりもずっと鋭く、マグマの心を打ちのめした。
もう同じ家で眠ることはないのかもしれない、ふとそう思った。居住区が更地になった今がいい機会だ。どさくさに紛れて、彼女が姉と同じ家に帰り続ければ、きっと皆、あまねがマグマの物だったことなど忘れる。石神村に訪れた大きな波に飲まれて、最初からなかったことのように忘れてしまう。そんな予感がしていた。
――それなのに今。あまねは、あっさりとマグマの元に戻ってきた。父や姉の元ではなく、もはや一番の強さを持つわけでもない、この腕の中に。
腹の底から笑い出したいような気持ちがした。
そうだ、この女はこういう奴だった。こちらの機嫌も事情もお構いなしに、いつものこのこと自分の元にやってくる。わけが分からないのは結婚する前からずっとだ。何も変わってやしないのだ、この女は。
目の奥が僅かに熱を持ったのは、きっとあまねに釣られたせいなのだろう。
剥がれないように強く、腕に力を込める。心細そうに泣くあまねを、マグマはぐっと抱きしめた。
「自分の女くらいは守ってやるよ」
見開かれたあまねの目の縁で、濡れた睫毛が震えた。掻き抱く腕の力強さと一緒に、マグマの言葉が全身に染み渡ってゆく。不安が一気に消えて、空いた隙間をあたたかなものが埋めてゆくような感覚。
歓びが体中を駆け巡り、目元まで涙を迫り上げる。あまねは、嬉しくって泣いていた。こんなことは生まれて初めてだった。
だって、こんなにも胸を満たす言葉があるだろうか。
「うれしい」
あまねの唇から熱い吐息がこぼれた。それは掠れた涙声だったが、笑っているようでもあった。
しばらくの間、暗闇の中には時折小さく鼻を啜る音が響いた。それが夜闇に消え、深い寝息に変わるまで、マグマは黙って鼓動を聞いていた。
***
「うえええええ!?」
早すぎる目覚ましは、男にしては高く、女にしては低い、そんな裏返った悲鳴だった。しかし、切羽詰まった様子ではなさそうだ。直感的にそれを悟ったマグマは、重い瞼を持ち上げ、ゆっくりと数秒を状況把握に費やした。
肩周りを中心として、身体が若干痛い。体勢がほとんど変わっていないせいだろう。腕の中には眠る前と変わらずあまねがいて、大人しく寝息を立てていた。今の悲鳴で起きないくらい、よく眠っている。
「ええっ、なん…誰ぇ!?」
そして、朝っぱらから叫んでいるのは村の若者の銀狼のようだ。すぐ近くから聞こえる悲鳴には、驚きと混乱が満ちているものの、追い詰められた様子はない。皆に注意を呼びかける言葉もなく、敵襲ではないようだ。
つまり、銀狼のこれは単に傍迷惑な騒音でしかない。
寝起きの頭に瞬間的に血が昇った。苛つきながら上体を起こすと、少し先にいる銀狼がこちらを見ていることに気がついた。マグマは頭が回るほうではなかったが、この件に関してはすぐに原因を理解した。あまねだ。
全く、面倒くさい奴が来たらどうしてくれる。
「うるせえぞ銀狼!」
怒鳴りつけられた銀狼は縮み上がった。銀狼とて、朝っぱらから皆を起こすのは忍びないとは思っていた。それだから、叫んでいる途中で口を押さえるという涙ぐましい努力をしていたのだが、そんなことで怒りを鎮めるマグマではない。
「いやマグマの声のほうが大きいし…」
せめてもの反抗に言ってみるが、マグマは眉を吊り上げギロリと睨みつけてくる。凶暴な男なので、いつ殴りかかってきてもおかしくはない。まともに戦えば当然銀狼は負ける。
用を足しにふらりと寝床を出たところだった。銀狼は眠い目を擦りながら居住区を見渡した。まだ日が出始めたところなので、起床までは少しばかり早い。時折鳥の声が聴こえる以外、辺りは静かなものだった。
今の居住区には、建てられたばかりの家の他に、小さく簡易的な寝床がいくつか作られている。そのうちの一つの入り口に、マントルが転がっていた。ということは、この奥にはマグマが寝ているのだろう。銀狼は、そのままなんとはなしに屋根の下に視線をやった。
体格のいい男と滑らかな肌の女が、絡み合って眠っていた。
それだけでも驚きなのに、男の身体に隠れて一瞬女が服を着ていないように見えたので、銀狼はびっくりして思わず叫んでしまった。彼の事情としてはこんなところである。
確かに起こしてしまったのは悪かったけれど、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。銀狼は不満に思いつつも、さっさとこの場を離れてしまうのが正解と見た。しかし、彼が立ち去る前に、こちらに向かって猛烈な勢いで走ってくる少女がいる。
「あまねがいないと思ったら…! マグマ、またお前か!」
「チッ、来やがった」
マグマは顔を顰めた。さっさと銀狼を追い返してもう一眠りしたいところだったというのに。
目の前では、あまねの双子の姉であるコハクが眦を上げてこちらを睨んでいる。
「あまねに何もしてないだろうな!」
「別にしてねえよ」
「本当だろうな! こんな外の硬い床で寝かせるなど…かわいそうに」
「あ? あまねのほうから来たんだよ、それなら文句ねえだろ」
コハクはぐっと言葉に詰まった。銀狼の悲鳴で目覚めた彼女は、あまねの姿が見当たらないことに気づくと、勢いのままここまで駆けてきてしまった。しかし、あまねが望んだことだというのなら、いくら姉とはいえ口出しする権利はない。
明け方からコハクに構うのは面倒くさいので、マグマはぺっぺと手の甲を振り、彼女を追い返そうとする。しかし、悔しさに歯噛みするコハクを眺めているうちに、マグマの中にふとある考えが浮かんだ。
あまねとコハクは双子だ。外見はあまり似てはいないが、しかし中はどうだろう。もしかすると、あまねと同じようにコハクも快楽には弱いのかもしれない。改めて観察してみれば、あまねよりは小ぶりだが胸もあるし、野山を駆け巡る身体は引き締まっており、中々に具合が良さそうだ。マグマは口端を引き上げて、下衆な考えを名案とばかりに口にした。
「なんならお前も来ても良かったんだぜ」
「は…?」
コハクは眉をひそめてマグマを見た。彼の台詞はコハクが受け入れられる正常な思考の範疇になかったので、ちょっと、いやかなり意味が分からなかった。
「喜べコハク、お前も俺の女にしてやらんこともない」
自身の唇に指を押し当てたマグマが、チュッと投げキッスをした。
11.0の視力で捉えたあまりにおぞましい仕草に、コハクの全身に鳥肌が立った。シンプルに無理だ。
「オェ」
コハクはあからさまに、むしろ見せつけるようにえずく振りをしてみせた。振りどころか、下手すると本当に何かが出てきそうだった。
そんな様子を見てマグマは青筋を立てる。なんだその舐め腐った態度は。
「てめ…メスゴリラが調子乗ってんじゃねえ!」
「誰がメスゴリラだ! ハ、そちらこそ脳筋のただのゴリラではないか!」
そこからはもう、売り言葉に買い言葉という状態だ。取り残された銀狼はハラハラと気を揉みながら二人を交互に見やった。残念ながら彼にできることは何もなかった。
馬が合うとか合わない以前に、コハクは自分の姉妹やゲンのことがあってマグマが嫌いだ。あまねがマグマのことを受け入れているという事実を知ってはいても、これまでの狼藉はやすやすと許せるものではない。というか、今でも理解できない。妻の姉に手を出そうとする奴だぞ。この男のどこがいいのだ?
マグマはマグマで、やはりコハクはないなと結論付けた。強い男は好きだが、強い女など生意気で邪魔なだけだ。女は女らしく、男に守られていればいいものを。その点あまねは上出来で、可愛ささえある。
「くっ、できることならあまねには指一本ですら触れさせたくないというのに…!」
「ムハハハ、なんだそりゃ! もうとっくに手遅れだぜ」
「貴様…!」
マグマは見せつけるように手のひら全体でわしゃわしゃとあまねの髪を掻き乱す。
その感触で、あまねはぱちりと目を覚ました。頭上で何やらとても起きにくい会話が繰り広げられている。二人はまだあまねが起きたことには気づいていないようだ。
彼女はすぐに状況を察し、ひとまず目を閉じた。朝起きたら皆からつつかれるのは必至だし、何をどう話そうかな、と夜から考えてはいた。自分が恐がっていたことまでは伝えたくないなと思っていたが、単に夫と一緒に眠りたかったから、と説明するのも気恥ずかしさがある。しかし、口喧嘩も中々白熱していることだし、起きて何らかの仲裁を入れるべきだろうか。
あまねが悩むその傍らで、マグマが優越感たっぷりに叫んだ。
「大体よ、あまねに何しようが俺のモンなんだからいいだろが!」
きゅん。
すぐ隣で放たれた言葉に、あまねの胸が激しく高鳴った。
嬉しい。マグマが自分を手放さないことが嬉しい。好きな人に心も身体も支配される感覚が堪らない。
ああ、もう、どうしようもない。本当にどうしようもない妹でごめんなさい。眠っているふりをして、あまねはマグマのほうに身体を寄せる。
爽やかな風が頬を撫でた。まだもう少し眠っていたいが、深い睡眠を取ったおかげか心は晴れやかだ。騒がしいけれど、悪くない朝だった。
「そういえば夫婦なんだっけ…」
銀狼が呆然と呟くのが聞こえた。
そうなのよ、とあまねは笑った。
村が燃えてゆくのを、ぼんやりと見ていた。
立ち昇った真っ赤な炎が夜空を赤く染め上げる。もう居住区には誰もいない。村人はみんな島の外に避難して、炎が届かない場所から家々が灰になってゆくのを見ている。
自分が今いる場所は安全なのだと、分かってはいる。それなのに、あの遠く烈々と燃え盛る炎に、呑み込まれてしまいそうな恐怖が消えない。
***
司帝国によって居住区にあったものは全て焼き尽くされてしまったが、死者が出なかったことは幸いだったのだろう。炭ばかりとなった島の上で立ち竦みながらも、あまねはそれには同意した。家がなくなるのは、何も初めてではない。自然の力を前にしては人間では到底太刀打ちできず、猛烈な嵐に見舞われて避難先の洞窟から戻ってみれば、風に全てを攫われていたこともある。
誰一人欠けなかった。長の言う通り、その事実さえあれば、他のことなど全て乗り越えられる。間違ってない。
次の日から、村は総力を挙げて復興に向けて動き始めた。やらなければいけないことは多々あって、毎夜くたくたで床につくような――今は床もろくにないのだが――忙しい日々が始まった。朝から森に入り採集に明け暮れ、夜が近づくと村へ戻ってくる。今は服の換えもないので、明るいうちに身体を流し、火に当ててささっと乾かしてしまう。その後は居住区の島に戻って日用品をちまちまと編み上げる。女達の日常はそんな感じた。
「あまね!」
「コハク?」
地面に作りたての筵を敷き、眠ろうとしていたところだった。あまねの元にやって来たのは双子の姉のコハクだ。同じようにくるくると巻いた敷物を持った彼女は、珍しく何やらもじもじした様子でいる。
「その…一緒に寝てもいいか」
躊躇いがちな誘いに、あまねはきょとんと目を丸くした。その内容が意外だったからではない。コハクの態度が、生まれながらの半身に対するものにしては、いささか他人行儀な気がしたからだ。
「もちろんよ」
あまねが答えると、コハクはパッと顔を輝かせた。いそいそと隣に筵を敷く様子がまたおかしくて、あまねは小さく笑った。
家屋は絶賛建築中なのだが、いかんせん材料集めから行わなければならないため、まだ数は足りていない。巫女の社も開放しているものの、小さな子どもやご隠居が優先だ。しばらくはあまねも野外で眠ることになるだろう。木の枝を立て掛けて樹皮を貼った簡素な屋根ならばあるのだが、基本的には雑魚寝だ。二人の周囲にもちらほらと敷物が引かれており、既に横になっている者もいる。
野獣ではなく人が敵であるならば、森と村を繋ぐ橋を守るだけでは不十分だ。先日の司帝国の襲撃で思い知った。それなので、居住区の端々には夜を徹して見張りの炎が焚かれている。千空やゲンによれば、次に事態が変わるのは冬明けになるだろうということだったが、まだ油断ができる空気ではなかったのだ。
二つの敷物をぴたりとくっつけて、二人並んで横たわる。寝心地は、当然、良くはない。無いよりは遥かにましとはいえ、地面の感触がほとんど直に伝わってくる。
「ふふ、でこぼこしてる」
「つらくはないか。私は平気だが…」
「大丈夫よ」
あまねが大げさだと微笑んでいる。少し、心配しすぎだろうか。
コハクは最愛の妹をじっと見つめた。生まれてから何千日も見続けてきた顔。透き通るように綺麗な瞳も、滑らかな頬も、ふっくらした唇も、何もかもが可愛いあまね。悔しいことに、最近は前よりもっとずっと綺麗になった気がする。
心配というよりは…単に、自分があまねに構いたいだけなんだろう。
コハクは唇を引き結び、視線を逸らした。見上げた空には、いっぱいの星が浮かんでいる。視界の端の炎が明るく、小さな星はその光に紛れてしまっているが、それでも十分すぎるほどの光景だ。
「星を見ながら眠るなんて、久しぶり。…コハクはそんなことないかしら?」
視界いっぱいに星を広げたまま、あまねが言った。コハクは素早く力もあって、昔から一人でひょいひょい森の中へ入ってしまう娘だった。双子だが、自分とコハクはつくづく似ていない。
「ああ、最近は、科学の素材集めで野宿も多かったからな。だが、ここまでの星の下で眠ることは中々ないぞ」
「そっか、森の中でこんな開けた場所で眠ってたら危ないものね」
あまねとコハクはしばらくそんな取り留めのない話をしていたが、周囲の音が消えていくにつれ、二人の声も段々と密やかになっていった。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音が微かに聞こえる。隣でコハクが身じろいだ気配がして、あまねもころりと身体を横にした。
瑠璃色の瞳の中に、ゆらめく光が映り込んでいる。何もかもを熔かすような炎。
「少し、寒いな」
「…もう少し、くっつく?」
「そうしよう」
互いに少しずつ寄り添って、あたたかな身体を抱きしめあう。とくり、とくりと伝わる心臓の鼓動。ああ、そうだ、こんな音だった。
「目まぐるしいとはこのことなのだろうな」
幾千年もの過去から千空がやって来てから、石神村の住民の目には良くも悪くも新しい景色が次々に飛び込んでくる。
けれど、もしかすると…コハクに一番影響を与えてしまっているのは、自分の結婚のことなのかもしれない。あまねがそう思ったのは、コハクの唇が懐かしむような色を浮かべていたからだ。
「…そうだね」
酷いことをしたと思っている。コハクにとっては、きっと裏切りに違いなかった。けれど、今だって後悔など欠片もしていないので、あまねは謝れもしないのだ。
***
じくじくと赤く燃える炭火。それを囲むように、串を通された魚が並べられている。焼き目の下で脂がジュウと鳴り、香ばしい匂いが周囲に漂った。
先程まではあるみのおばあちゃんと一緒に焼いていたのだが、彼女は何やら呼ばれて行ってしまった。石神村の老人達は長く生きているだけあって、色々な生活の知恵を持っている。こういう時には各所で引っ張りだこだ。
魚の番をしなければならないとはいえ、あまりに炎を見つめていると、あの鮮烈な記憶が頭をよぎってしまう。腹の奥が冷たくなるような、あの赤い記憶。あまねは手元の縫い物を続けながら、好きなもののことを考えようと努めた。
一番に浮かんだのは、夫のことだった。どうしてこんなに好きなのかも分からないけれど、大好きな人。どんな手を使ってでも自分のものにしたかった人。
だが、マグマとはここ数日まともに顔を合わせていない。襲撃の後、あまねは怪我を負ったマグマの傍で看病をしていたのだが、彼に追い出されてからはそれきりだ。
マグマは持ち前の頑丈さもあって、既に復帰して力仕事を担っているが、当然あまねと作業が被るわけがない。夜は夜であまねはコハクや他の村の娘達と纏まって眠っているので、中々話す機会がなかったのだ。
…。
言い訳がましいと、あまねは自分でも思った。同じ村にいるのだから、会おうと思えばいつでも会える。それができないのは、…どうしてだろう。
たったの数日だ。話をしていないのは。村が襲われるその前の晩まで、あまねはマグマの腕に抱かれて眠っていた。それがたったの数日で、何が変わったというのだろう。
負傷中のマグマを看病をしていた時に、邪魔だと追い出されたことを気にしている? 自問するが、それほど気にしてはいない、とあまねは思う。斧を振り被られた時に比べれば、恐ろしくもないし、拒絶のうちに入らない。…と、理性は思っているが、それ以外に原因となりそうなことはなく、ならば心はしっかりとそれに傷ついたのだろうか。
「おい焦げてんぞ」
「えっ」
悶々と考えていたあまねだったが、後ろから掛けられた声で、ふと我に返った。目の前の串を見る。いくつかの魚が、こんがりと黒く変色を始めていた。
「わあぁ…」
あまねは魚を避難させようと慌てて手を伸ばし――気まぐれによじれた炎に怯え、一瞬だけ、動きが止まった。風に吹かれたのかほんの少しこちら側に寄っただけで、直接触れるような距離まで火が迫ってきたわけでもない。それなのに、あまねの身体は不自然に強ばった。
しまった、と後悔の念が湧き上がる。背後にいる人物が誰なのか、声で分かっていたからだ。
…焼け過ぎた串を抜き、少し遠ざけた場所に立てる。それからちょうど食べごろの魚を見繕って、あまねは後ろに差し出した。
「ありがとう、ちょっとぼうっとしてた。千空、お腹空いてる?」
「…ああ、ありがてえ」
串を受け取って礼を述べたのは、つい先日、石神村の長となった千空だ。彼はあまねの斜め前に腰を下ろし、ぱくりと焼き魚に食いついた。
「もうお昼時なのに、意外とみんな来ないの。作業に夢中になってるのかしら」
「いやそれはお前もな。…まあ、そのうち思い出して来るだろ」
確かに、縫い物をしつつ考え事に耽って魚を焦がした身で、人のことを言えるわけもない。あまねは肩を竦めた。
焼け焦げた魚をじっと見つめる。これはまだ食べられるだろうか。
「焦げた部分は食いすぎるんじゃねえぞ。魚や肉を加熱すっとヘテロサイクリックアミンが生成されて…」
「へてろさい…?」
「あ゙ー、つまり病気のリスクが高まる。可能性がある」
あまねには千空が口にする科学用語はほとんど分からないが、結論だけはしっかり理解した。病気と言えば、思い出すのは姉のルリのことで、その恐ろしさはよく身に沁みている。
手元の串をくるくる回す。黒く炭化した部分を削ぎ落とせば、僅かではあるが食べられる部分もありそうだ。村の周辺では魚は有り余るほど手に入るが、だからといって全て無駄にしてしまうのも気が引ける。
「あまり食べないようにするわ」
「おー、そうしろ」
千空とあまねの付き合いは、結構長い。彼をこの村に連れてきたのが他でもない双子の姉のコハクだったので、彼女に連れられたあまねはかなり初期のうちに千空と対面を果たしていた。
しかし、最初のうちは、あまねも他の村人と同じように千空や科学というものに懐疑的だった。千空に関わるようになったきっかけは…そうだ、あの光だ。真っ暗闇に突如生まれた、まばゆい一瞬の光。それを綺麗だと思った時に、あまねの世界は開けた。
そしてルリを助けるための薬を作るのだと聞いてからは、あまねもできるだけ彼らを手伝うようになったのだ。
「……」
一つ目の魚を早くも食べ終わりそうな千空の前に、追加の串を差し出す。
先程、恐れから動きを止めてしまった自分の手をあまねが悔いたのは、相手が他でもない千空だったからだ。
石化から解放され、3700年前の遥か過去からやって来た石神千空。石神村の創始者の息子。
彼は、あまね達の知らないものをたくさん見せてくれた。鉄に、ガラスに、ラーメンに、光。世界が澄み渡り広がってゆくようで、胸が沸き立った。
だが、事実だけを述べるなら。村が燃やされた最たる理由もまた、彼なのだ。
司帝国は科学を疎んでいた。千空は科学を再興しようとしていた。その千空がここにいたから、司帝国は村を襲った。
責めたいだとか、何かのせいにしたいだとか、そういうわけではない。けれどそこには、否定しきれない因果関係が、純然たる事実として存在している。
だから、…千空が自分自身を追い詰めてしまうのではないかということを、あまねは気にしているのだ。
別に、ただ少し身体が固くなっただけ。それでも、何もかもを理路整然と見透かす彼の瞳なら、あまねが炎を恐れたことなど一瞬で理解したに違いない。
「ねえ、千空」
「あ?」
黙々と魚にかぶりついていた千空が顔を上げる。あまねは悩みつつも、唇を開いた。
「火事のことなんて、家が建て直されたらきっと忘れるわ」
小さな沈黙が二人の間に訪れた。突然だとは、千空も思わなかった。
彼が口を挟むより先に、あまねは言葉を続けた。
「ルリ姉を助けてくれたこと、本当に感謝してるの。一生忘れない。始めて見た電気が綺麗だったことも、科学のご飯がおいしかったことも、ずっと覚えてる」
あまねは、千空とは何の負い目もなく友人でいたいのだ。だから、あんな理由で生まれた弱さを見せたくはなかった。
本当はこんなタイミングで改めて感謝を伝えること自体がわざとらしいとも思う。下手な波紋を残してしまうかもしれない。けれど、千空の心が曇り掛かっているのだとしたら、それを晴らしたい。天秤にかけたら、そちらに傾いただけのこと。
考え過ぎなら考え過ぎでいい。どうせ本音だ。
千空は頭をガシガシと掻いた。言葉に詰まったわけではないが、これからのことを少しだけ悩んだ。
「あー……何だ、急に。またメシ作れって? 製鉄炉に空気送ってくれんなら大歓迎――」
「ま、つまり石神村のみんなは千空が大好きってことよ」
みんな。あまねも含めて。
千空が村に足を踏み入れたのはごく最近、御前試合の日からだが、ルリのためにしてきてくれたことは誰だって知っている。千空は村ごと科学王国に取り込むためだと言っていたけれど、行動は言葉以上に千空の心を詳らかにした。そしてそれは、頑なだった住民の心を揺り動かすには十分だった。
「あまね…」
名前を呼ばれ、あまねはじっと彼を見た。
千空は感極まった様子――かと思いきや、全然違った。
「いやお前の旦那に関しちゃ100億パーセントありえねえだろ」
千空は呆れを滲ませつつ言った。言った後で、あの凶暴な男が自分に好意を見せてくるイフの想像をしてしまい、うへぇと顔を歪ませた。
あまねは一瞬きょとんとして、それからへにゃりと破顔する。
「それは確かに」
自分も存外適当なことを言うものだ。そんなおかしさと、旦那という呼称を人に使ってもらったことへの気恥ずかしい喜びが、あまねの顔を緩ませた。
千空もまた口元に笑みを浮かべる。大好き、などとよく恥じらいもなく言えるものだ。あまねのそんなある種の豪胆さは、半年近く会っていない大切な友人のことを彼に思い出させた。
二人の元にわらわらと村人達がやって来たのは、そんな頃だ。
「む、あまねに千空か」
「魚貰ってもいいかしら? お腹減っちゃった」
言いながら、村人達は二人とともに焚き火を囲んだ。あれだけあった魚が次々とはけてゆく。
千空はすぐに皆からの質問攻めに遭っていた。村の中にいる者は、皆生まれたときから知っているか、知られているかのどちらかなので、未知で魅力的な千空に興味津々なのだ。
あまねも千空の話を興味深く聞いていた。聞きながら――胸に引っ掛かりのようなものを覚えていた。
自分が口にした言葉を思い返す。
いずれ、きっと、この恐れは消えるのだと思う。そのこと自体はあまり疑ってはいない。
でも、住居を整えたって、時間が巻き戻るように何もかもが元通りになるわけじゃない。人の心なんて尚更だ。
コハクやルビィ達と夜を過ごすようになって何日か経った。夫とは、それまでの日々が嘘だったようにほとんど話してもいない。
本当なら、村が襲撃されたことと、あまねとマグマの関係は、全く別の事柄だ。そこに因果なんて見出さなくていい。あまねは当たり前のように、妻としてマグマの元に押し掛けていたっていいはずなのだ。当然のことのように、堂々と。
でも――そもそも、マグマにとっては、望まない婚姻だったから。
元から歪だった関係は、同じように歪に戻ってくれるのだろうか。
***
「最近はお肉もいっぱい食べれるから嬉しいねぇ」
「革が足りてないから、そのついでだけどね。これから冬が来るんだから、急いで集めないと」
立て直された家の一つに、村の女達が集まっていた。ガーネットにサファイア、ルビィ。珊瑚に、あずらに孔雀。好き好きに座って、編み物をしながら、他愛のない会話を続けている。
「でも焼いて食べるだけじゃ飽きてくるわよ」
「分かる〜! ね、ラーメン食べたくない? 千空クン、作ってくれないかなあ」
村に来て千空が最初に作った科学の飯、それがラーメンだ。石神村の食事は基本的には魚、果実、それか狩った獣の肉で、調理法のレパートリーも少ない。そのため、かつて味わったことのないもちもちとした食感の麺は、村人達に多大な衝撃を与えていた。
「ラーメンだったら私、作れるわ。作ろうか?」
あまねは千空の手伝いをしていたため、必要な材料やレシピも知っている。科学王国の要である千空にしかできないことは山程あったので、労働力集めの食事を作る作業は段々とあまねに任されるようになっていたのだ。
あまねの提案にルビィはきらきらと目を輝かせた。
「え! ほんと? も〜あまね大好き〜!」
「手伝ってはもらうけどね」
「もちろん! 手伝うよ」
「私もいいかしら。どうやって作るのか気になっていたの」
「あっじゃあ私も!」
今までにないメンバーでのラーメン作りが近いうちに実現するだろう。楽しみだな、とあまねは素直に表情を緩めた。
いつも通りの和気あいあいとした雰囲気の会話が続く。色んな具入れようよ。お肉と魚と…。あっ、栗とかいいんじゃない? 意外と合うかもしれないわね。
けれど、そんな楽しげな空気の中に、ふいに沈黙が訪れた。
誰が意識して作ったわけでもない無音の時間。会話の短い途切れ目に、それぞれ何を思ったのだろう。
明日の天気のことでも考えたのか。食事の話をしたせいで、空腹でも覚えたのか。縫っても縫っても終わらない仕事に疲れを感じたのか。
それとも――あの夜のことに思いを馳せてしまったのか。
小さな罅から感傷が広がってゆく。
きっと、あの恐怖が。全てを焼き尽くす炎に抱いた畏れが。
全部を巻き込んで、広がった。日常に染み込んだ毒のように、侵食していた。
「あ…」
ルビィの目からぽろりと涙がこぼれた。それは突然であって、突然ではなく、いつか訪れると決まっていた、必然のようなものだった。
彼女は自分が涙を流していることに気がつくと、慌てて目元を拭った。いきなり泣くなんて変だ。だって、皆と話しているだけなのに。泣くことなんて何もないのに。そう思うのに、一向に涙は止まってくれない。
「ご、ごめんねっ…大丈夫だから!」
「ルビィ…」
あまねはルビィにそっと手を伸ばした。彼女を抱きしめて、優しく頭を撫でる。あふれた涙が、ルビィの大きな瞳を滲ませながら落ちていく。いつの間にか、ルビィの姉達の目にも涙が浮かんでいた。何も口に出さずとも分かったからだ。彼女の恐れが。
みんな同じ気持ちだった。若者も、年寄り達も。
平穏だった村が、今まさに変わっていこうとしている。
これからどこへ行くのだろう。くっきりとは見えない未来を前に生まれた、漠然とした不安。鈍い曇り空のようなそれが、炎を根源として感染していた。
形の見えない恐怖が、柔らかな心をゆっくりと蝕もうとしている。呑み込まれてしまう前に、どうか。あまねは震えそうな唇で言葉を紡いだ。
「みんな生きてるから」
ルビィを抱きしめる腕に自然と力がこもる。
誰ひとり欠けていない。何も失ってなんかいない。だから。
「一緒にいよう。そしたら、きっと、大丈夫よ…」
ルビィを元気づけることができたらいいと思った。泣くよりも笑ってほしいと思った。口にした言葉は嘘なんかじゃない。
それでもあまねは、自分の中に埋まらないこころがあることを自覚している。
***
あまねは、そっと家の扉を開けた。
見張りを除いて、誰もがもう眠っていた。遠くで薪が弾ける微かな音が聞こえる。あまねは皆を起こさないよう息を潜め、慎重に扉を閉めた。
昼のうちから、決めていた。
星明りの暗がりを歩いていると、足元からぞわぞわと這い上がる不安と、仄かな光に導かれる高揚が、一緒くたになってあまねの身体を取り囲んでくる。目的地はすぐそこで、辿り着くのに三十秒も掛からないはずなのに、何故だか妙に時間が掛かった気がした。
居住区には既に数軒の家が建てられていた。そしてその家の壁に斜めにもたれるように、木の枝で組まれた簡易的な屋根がいくつも作られている。彼女の目的地はそのうちの一つだ。
簾のようなもので片側が塞がれていたので、あまねはくるりと入口のほうへ向かう。近づいてみると、小さな男が地面に転がって眠っているのが分かった。マントルだ。と、なれば、きっとここで合っているに違いない。
心臓がとくとくと鳴る音が聞こえる。あまねは胸を押さえながら、マントルをそっと跨いで屋根の下に足を踏み入れた。
「誰だ」
暗闇の中から低い声が聞こえた。
あまねはびくりと身体を固めながらも、じっと奥に目を凝らした。夜闇のおかげで少しは目が慣れている。中の男は、既に上体を起こしていた。そしてどうやら、枕元にある刀を手に取っているようだった。
「わ、私……あまね…」
まさか、夜にやって来ただけで斬られることはないだろう。なんせ、自分は彼の妻なのだ。
そうは思いつつも、あまねはそこから動けなくなった。暗闇に浮かぶ大きな身体は獣のようで、今にも噛み付いてきそうな警戒を見せていた。
「何か用かよ」
「あのね…」
あまねはごくりと唾を飲み込む。緊張していた。もし断られたら、どうしよう。
「一緒に寝ても、いい…?」
返事が帰ってくるまでに時間があった。あまねは自分の声が小さ過ぎて聞こえなかったのかとも思ったが、寝息さえ耳に入るほどの静けさの中では聞き逃すこともないはずだ。
マグマは、にたりと笑ったようだった。
「いいぜ。来いよ」
「…!」
その言葉だけで、頽れそうな不安が一気に霧散した。思わず顔が緩んでしまうくらい嬉しい。あまねはおずおずと夫の元に近づき、その隣に膝をついた。
だが、あまねが身体を横たえる前に、マグマの腕がこちらに伸びてきた。大きな手のひらが背中のほうに回されたかと思うと、躊躇いなく尻をむんずと掴まれた。
あまねはひっと息を詰め、背筋を震わせた。
「あ? なんだ違うのかよ」
「ちがうもん…」
あまねは唇を尖らせて、筵の上にころりと横になった。もう梃子でも動くつもりはなかった。
マグマはその様子をじっと見下ろした。勿論、こんな吹き抜けの場所では声などだだ漏れだろうし、目が慣れれば何をしているのかくらい一目でばれてしまうだろう。それでも、この女ならあり得るな、と──あまねが断固として抗議しそうなことを──考えていたのだが、まさか違うとは。
だが、それなら何のために自分の元になどやって来たのだろう。今日から女達は皆家の中で寝られるようになったはずだ。その屋内の快適さを捨ててまで、何故?
マグマは考えたが、別に自分に損があるわけでもない。そのうちにどうでもよくなって、大人しく身体を横にした。すると、その胸の中にあまねが擦り寄ってきた。
「お」
あまねの予想外の行動にマグマは一瞬固まった。だが、そういえば、村が焼ける前は度々こうして眠っていたのだった。彼女の身体は中々にぬくく、暖を取るには上等だ。それを思い出したマグマは、妻の細っこい身体に腕を回した。
マグマに抱きしめられたあまねは、暗闇の中で密かに顔を赤くした。腕の重さと肌のぬくもりに胸が切なく疼く。
あたたかい。
体の内側がぬくぬくと温まっていく。服越しに触れている部分より、もっと奥。胸や、頭のあたりがほわほわして、そこから全身に広がってゆくような感じ。際限なく体温が上がって、このままだと熱いくらいにまでなってしまいそうだったけれど、あまねは構わずマグマの胸に額を擦り付けた。
あたたかくて溶けてしまいそう。でも、悪い気分じゃなかった。これだったのだ、という感じがした。あまねがずっと求めていたのは。
何故だか目の奥がじんじんする。どうしてだろう、としばらく考えて、あまねははっとマグマから顔を離した。
「寝ろ」
「待、っ…」
胸の中でもがかれるのが煩わしかったのだろう。後頭部に置かれた手がぐっとあまねの頭を抱き寄せた。駄目、駄目だ、ばれてしまう。
マグマはふと胸元に違和感を覚えた。あまねの頭の後ろに回していた手を前に持ってきて、彼女の顔を探る。これは眉で、これは瞼で、これは睫毛で。そこまで来たあたりで、親指に濡れた感触がした。
「泣いてんのか?」
あまねは、咄嗟に違うと否定しようとして、でも結局、その前に踏みとどまった。尋ねてきたマグマの声が、存外、突き放したような言い方ではなかったからだ。責めるような口ぶりでもなく、面倒がるでもなく。純粋な驚きの奥に、動揺が透けて見えたから。
「…怖かったの……」
気づいた時には、あまねの唇からはそんな言葉がぽろりとこぼれ落ちていた。
「村が襲われてから、こわくて、寝れなくて…」
口に出したのは初めてだった。
あの日から、深く眠れた日はなかった。どれだけ疲れていても、真夜中にふと目が覚めてしまう。もう一度眠ろうと目を閉じて、黙って数を刻んでも、一向に夢の世界には落ちていけない。星の明かりを見つめるのにも慣れてしまった。
不安だった。怖かった。皆で一緒に眠っても、心細かった。
寂しさを埋めてほしかった。本当はもっと早く会いたいとずっと思っていた。
でも、全部が怖くて。
あの夜から、世界の何かもかが変わってしまったような気がしていた。マグマに会っても、もう触れてはくれないかもしれない。どうしてお前なんかが妻なのかと罵られるかもしれない。同じ屋根の下になどいたくないと、家を建てることすら拒否するかもしれない。そんなことを考えると限りがなくて、ずっと勇気が出なかった。
どうしてこの人がいいと思うのだろう。自分でも理由なんて分からない。ゲンはマグマに殺されかけた。歯車がひとつずれた世界では、コハクやルリも、もしかするとあまね自身だって、殺されていたかもしれない。マグマがどんなに酷い人か、あまねはよく知っているのに。
けれど、本当は理由なんかなんだっていい気もしていた。思い込みだろうとまやかしだろうと、どうしようもないほどにあまねはマグマが欲しいのだ。
皆に掛けた言葉を、あまねは本当はマグマからもらいたかった。
「…あまね、…」
胸の中で縮こまるあまねは、しゃくりあげそうになるのを堪えているようだった。
彼女の告白を聞いて、マグマは一層解らなくなる。怖いというのなら、尚更、何故こんなところに来てしまったのか。マグマは女の慰め方など知らない。
半ば吹きさらしの屋根の下なんかより、家の中のほうが安全に決まっている。見張りがしっかり働いていれば、今度は容易く火なぞ放たれないだろう。
それに、安心が欲しいのなら家族の元に行けばいいのだ。ルリやコハクなら、妹が怖がっていると知れば揃って寄り添い続けるだろう。あまねが眠れないと言ったならば、姉達も夜通し起きているに違いない。他人のマグマでさえそう思うほどの絆があの姉妹達の間にはある。
それなのに、何故来た。
自分が彼女の夫だからか。
…それが、負けた男でもか。
村が襲撃された時、マグマは氷月とかいうおかしな槍を持った男に負けた。金狼とコハクと三人掛かりでも手も足も出なかった。
圧倒的な力を持った襲撃者達が引き下がっていったのは、科学の毒に恐れをなしたからなのだという。敵を撃退したのは――誰も死ななかったのは、千空と、謀略を巡らせて氷月の槍を砕いた、ゲンの功績だ。
マグマでは、村を守れなかった。
そのことがふとした瞬間に頭の中に蘇る。あの襲撃の夜からずっとだ。その記憶は胸を不快に掻き乱し、苛立ちに似た感情で全身を支配する。
例えば、こんな眠れぬ夜更けにも。
例えば、傷を癒やしている最中にも。
襲撃の直後、怪我を負ったマグマの元にあまねはよく看病に来ていた。氷月に付けられた傷は、浅くはなかったが、立ち上がれないほどの重体でもない。飯も一人で食える。だというのに、あまねはせっせと通ってきては、何かとマグマの世話を焼こうとした。
正直に言って煩わしかった。あまねが何をしても癪に障った。マグマは苛立ちから出た言葉の礫を彼女にぶつけ、もう来るなと追い出した。事実、こんなところで油を売っている暇があるのなら、村の復興を手伝ったほうがよほどマシだ。
あまねは大人しく従って、その後は会いには来なかった。怪我がある程度癒え、マグマが働くようになってからも、彼女が近づいてくることはなかった。
時折、マグマの視線はあまねに吸い寄せられた。だが、話をしたいとは思わなかった。特に用事があるわけでもない。普通に生活していれば、彼女と顔を合わせる必要などなかったというだけのことだ。
しかし、もしかすると――本当は、あまねと話すのが怖かったのかもしれない。
己は強くはなかった。村を守れなかった。それを、あまねにも知られてしまった。
思い知らされた現実は、氷月に付けられた傷よりもずっと鋭く、マグマの心を打ちのめした。
もう同じ家で眠ることはないのかもしれない、ふとそう思った。居住区が更地になった今がいい機会だ。どさくさに紛れて、彼女が姉と同じ家に帰り続ければ、きっと皆、あまねがマグマの物だったことなど忘れる。石神村に訪れた大きな波に飲まれて、最初からなかったことのように忘れてしまう。そんな予感がしていた。
――それなのに今。あまねは、あっさりとマグマの元に戻ってきた。父や姉の元ではなく、もはや一番の強さを持つわけでもない、この腕の中に。
腹の底から笑い出したいような気持ちがした。
そうだ、この女はこういう奴だった。こちらの機嫌も事情もお構いなしに、いつものこのこと自分の元にやってくる。わけが分からないのは結婚する前からずっとだ。何も変わってやしないのだ、この女は。
目の奥が僅かに熱を持ったのは、きっとあまねに釣られたせいなのだろう。
剥がれないように強く、腕に力を込める。心細そうに泣くあまねを、マグマはぐっと抱きしめた。
「自分の女くらいは守ってやるよ」
見開かれたあまねの目の縁で、濡れた睫毛が震えた。掻き抱く腕の力強さと一緒に、マグマの言葉が全身に染み渡ってゆく。不安が一気に消えて、空いた隙間をあたたかなものが埋めてゆくような感覚。
歓びが体中を駆け巡り、目元まで涙を迫り上げる。あまねは、嬉しくって泣いていた。こんなことは生まれて初めてだった。
だって、こんなにも胸を満たす言葉があるだろうか。
「うれしい」
あまねの唇から熱い吐息がこぼれた。それは掠れた涙声だったが、笑っているようでもあった。
しばらくの間、暗闇の中には時折小さく鼻を啜る音が響いた。それが夜闇に消え、深い寝息に変わるまで、マグマは黙って鼓動を聞いていた。
***
「うえええええ!?」
早すぎる目覚ましは、男にしては高く、女にしては低い、そんな裏返った悲鳴だった。しかし、切羽詰まった様子ではなさそうだ。直感的にそれを悟ったマグマは、重い瞼を持ち上げ、ゆっくりと数秒を状況把握に費やした。
肩周りを中心として、身体が若干痛い。体勢がほとんど変わっていないせいだろう。腕の中には眠る前と変わらずあまねがいて、大人しく寝息を立てていた。今の悲鳴で起きないくらい、よく眠っている。
「ええっ、なん…誰ぇ!?」
そして、朝っぱらから叫んでいるのは村の若者の銀狼のようだ。すぐ近くから聞こえる悲鳴には、驚きと混乱が満ちているものの、追い詰められた様子はない。皆に注意を呼びかける言葉もなく、敵襲ではないようだ。
つまり、銀狼のこれは単に傍迷惑な騒音でしかない。
寝起きの頭に瞬間的に血が昇った。苛つきながら上体を起こすと、少し先にいる銀狼がこちらを見ていることに気がついた。マグマは頭が回るほうではなかったが、この件に関してはすぐに原因を理解した。あまねだ。
全く、面倒くさい奴が来たらどうしてくれる。
「うるせえぞ銀狼!」
怒鳴りつけられた銀狼は縮み上がった。銀狼とて、朝っぱらから皆を起こすのは忍びないとは思っていた。それだから、叫んでいる途中で口を押さえるという涙ぐましい努力をしていたのだが、そんなことで怒りを鎮めるマグマではない。
「いやマグマの声のほうが大きいし…」
せめてもの反抗に言ってみるが、マグマは眉を吊り上げギロリと睨みつけてくる。凶暴な男なので、いつ殴りかかってきてもおかしくはない。まともに戦えば当然銀狼は負ける。
用を足しにふらりと寝床を出たところだった。銀狼は眠い目を擦りながら居住区を見渡した。まだ日が出始めたところなので、起床までは少しばかり早い。時折鳥の声が聴こえる以外、辺りは静かなものだった。
今の居住区には、建てられたばかりの家の他に、小さく簡易的な寝床がいくつか作られている。そのうちの一つの入り口に、マントルが転がっていた。ということは、この奥にはマグマが寝ているのだろう。銀狼は、そのままなんとはなしに屋根の下に視線をやった。
体格のいい男と滑らかな肌の女が、絡み合って眠っていた。
それだけでも驚きなのに、男の身体に隠れて一瞬女が服を着ていないように見えたので、銀狼はびっくりして思わず叫んでしまった。彼の事情としてはこんなところである。
確かに起こしてしまったのは悪かったけれど、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。銀狼は不満に思いつつも、さっさとこの場を離れてしまうのが正解と見た。しかし、彼が立ち去る前に、こちらに向かって猛烈な勢いで走ってくる少女がいる。
「あまねがいないと思ったら…! マグマ、またお前か!」
「チッ、来やがった」
マグマは顔を顰めた。さっさと銀狼を追い返してもう一眠りしたいところだったというのに。
目の前では、あまねの双子の姉であるコハクが眦を上げてこちらを睨んでいる。
「あまねに何もしてないだろうな!」
「別にしてねえよ」
「本当だろうな! こんな外の硬い床で寝かせるなど…かわいそうに」
「あ? あまねのほうから来たんだよ、それなら文句ねえだろ」
コハクはぐっと言葉に詰まった。銀狼の悲鳴で目覚めた彼女は、あまねの姿が見当たらないことに気づくと、勢いのままここまで駆けてきてしまった。しかし、あまねが望んだことだというのなら、いくら姉とはいえ口出しする権利はない。
明け方からコハクに構うのは面倒くさいので、マグマはぺっぺと手の甲を振り、彼女を追い返そうとする。しかし、悔しさに歯噛みするコハクを眺めているうちに、マグマの中にふとある考えが浮かんだ。
あまねとコハクは双子だ。外見はあまり似てはいないが、しかし中はどうだろう。もしかすると、あまねと同じようにコハクも快楽には弱いのかもしれない。改めて観察してみれば、あまねよりは小ぶりだが胸もあるし、野山を駆け巡る身体は引き締まっており、中々に具合が良さそうだ。マグマは口端を引き上げて、下衆な考えを名案とばかりに口にした。
「なんならお前も来ても良かったんだぜ」
「は…?」
コハクは眉をひそめてマグマを見た。彼の台詞はコハクが受け入れられる正常な思考の範疇になかったので、ちょっと、いやかなり意味が分からなかった。
「喜べコハク、お前も俺の女にしてやらんこともない」
自身の唇に指を押し当てたマグマが、チュッと投げキッスをした。
11.0の視力で捉えたあまりにおぞましい仕草に、コハクの全身に鳥肌が立った。シンプルに無理だ。
「オェ」
コハクはあからさまに、むしろ見せつけるようにえずく振りをしてみせた。振りどころか、下手すると本当に何かが出てきそうだった。
そんな様子を見てマグマは青筋を立てる。なんだその舐め腐った態度は。
「てめ…メスゴリラが調子乗ってんじゃねえ!」
「誰がメスゴリラだ! ハ、そちらこそ脳筋のただのゴリラではないか!」
そこからはもう、売り言葉に買い言葉という状態だ。取り残された銀狼はハラハラと気を揉みながら二人を交互に見やった。残念ながら彼にできることは何もなかった。
馬が合うとか合わない以前に、コハクは自分の姉妹やゲンのことがあってマグマが嫌いだ。あまねがマグマのことを受け入れているという事実を知ってはいても、これまでの狼藉はやすやすと許せるものではない。というか、今でも理解できない。妻の姉に手を出そうとする奴だぞ。この男のどこがいいのだ?
マグマはマグマで、やはりコハクはないなと結論付けた。強い男は好きだが、強い女など生意気で邪魔なだけだ。女は女らしく、男に守られていればいいものを。その点あまねは上出来で、可愛ささえある。
「くっ、できることならあまねには指一本ですら触れさせたくないというのに…!」
「ムハハハ、なんだそりゃ! もうとっくに手遅れだぜ」
「貴様…!」
マグマは見せつけるように手のひら全体でわしゃわしゃとあまねの髪を掻き乱す。
その感触で、あまねはぱちりと目を覚ました。頭上で何やらとても起きにくい会話が繰り広げられている。二人はまだあまねが起きたことには気づいていないようだ。
彼女はすぐに状況を察し、ひとまず目を閉じた。朝起きたら皆からつつかれるのは必至だし、何をどう話そうかな、と夜から考えてはいた。自分が恐がっていたことまでは伝えたくないなと思っていたが、単に夫と一緒に眠りたかったから、と説明するのも気恥ずかしさがある。しかし、口喧嘩も中々白熱していることだし、起きて何らかの仲裁を入れるべきだろうか。
あまねが悩むその傍らで、マグマが優越感たっぷりに叫んだ。
「大体よ、あまねに何しようが俺のモンなんだからいいだろが!」
きゅん。
すぐ隣で放たれた言葉に、あまねの胸が激しく高鳴った。
嬉しい。マグマが自分を手放さないことが嬉しい。好きな人に心も身体も支配される感覚が堪らない。
ああ、もう、どうしようもない。本当にどうしようもない妹でごめんなさい。眠っているふりをして、あまねはマグマのほうに身体を寄せる。
爽やかな風が頬を撫でた。まだもう少し眠っていたいが、深い睡眠を取ったおかげか心は晴れやかだ。騒がしいけれど、悪くない朝だった。
「そういえば夫婦なんだっけ…」
銀狼が呆然と呟くのが聞こえた。
そうなのよ、とあまねは笑った。
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