本物はやさしくない

「俺の個性? ――洗脳だよ」

 聞こえてきた言葉に思わず振り向いた。洗脳、と言ったのは、紫の髪を逆立たせ、目の下に濃い隈を拵えた男の子だ。入学式が終わって教室に戻ってきたばかりなので、まだ名前も分からない。

「すげぇ! 誰でも操れるってことかよ!」
「やりたい放題かー、強個性じゃん」
「…それ、相手は人限定?」

 周囲の男子が沸き立つ中、突然割り込んできた私に、皆揃って目を丸くする。

「そうだけど」
「ふうん…じゃあ、ヒーロー科の入試は不利だったね。ロボットだったから」

 紫髪の男の子は隠すことなく眉をひそめた。何故自分がヒーロー志望であることを知っているのか、とでも言いたげな表情だ。

「…まあね」

 別に知ってたわけじゃない。当てずっぽうだ。ヒーロー科の実技試験に落ちたらしいことは、今の言葉で確信した。

「悔しいよねぇ。対人の試験だったら絶対受かってたのに」
「何が言いたいわけ」
「何が…って、言葉のままだよ」

 別に裏なんて何もない。それに、入学式直後、新しいクラスで人に話しかける理由なんて、大体の人は一つだろう。

「ねえ、ところで、…お願いがあるんだけど…ちょっと個性、使ってみてくれない?」

 そう言うと、彼は不快そうに目を細めた後、大きく溜息をついた。ああ、だめだ、タイミングを間違えたかも。

「何、あんた。煽ってんの?」
「ううん――」

 ごめんね、そんなつもりではなかったの。
 続けようとした言葉は音にはならなかった。身体が動かない。石になったみたいに固まって、喋ろうとしても、喉を震わせることさえできない。息はできるけれど、それだけだ。
 周りの生徒が突然動きを止めた私を不思議そうな顔で見ていた。目の前の男子生徒だけがにやりと笑い、そして私は理解する。洗脳。これが、彼の個性――。

「後ろを向け」

 頭がぼんやりする。洗脳と分かっているのに抵抗できず、私の身体は彼の言葉に粛々と従った。奇妙な感覚だった。

「ま、こんな感じだよ」

 その言葉とともに、肉体の支配権が自分の元へと戻ってくる。ぐーぱーと手を握っては広げ、自分のものだという実感を得た。
 くるりと身体を翻し、彼ともう一度相対する。

「…驚いた。話すだけで個性掛けられるんだ」
「怖がらないんだな」
「頼んだのはこっちだし。……ああ、そうだ。ごめんね、煽ったつもりはなかったの」

 言い逃した謝罪を口にするが、彼の表情は変わらない。構わず私は言葉を続けた。

「私も似たような個性でね、人以外には効果がないの 」
「へぇ…」
「だから、実技試験ね、悔しくって」

 似た個性、という言葉で、少しは興味を引けたようだ。訝しむばかりだった視線が僅かに和らぐ。

「あんたの個性はどんななんだよ」
「掛けていいの?」
「いいぜ」

 胸の前に手を差し出す。いくつかの視線が集中する中、手のひらの上に一本の矢が現れた。鏃の部分がハートの形をした、おもちゃみたいな矢。私の個性。

「お、おい、それ刺すのか…?」

 嫌な予感でもしたのか、すぐそばにいたクラスメイトが窘めるように言った。どこか外巻きな周囲をよそに、私は笑う。

「怪我はしないよ」

 投げつけた矢が紫色の男子の胸に沈んで、消えた。その瞬間、髪と同じ色の目の中に小さなハートが浮かび上がる。胡乱なものを見ているようだった瞳が、憧憬を写し、あたたかな火を灯す。

「ほ、ほんとに大丈夫かよ」
「えー何、喧嘩?」
「なんか殺伐としてね?」

 ざわつく周囲の言葉など耳に入っていないようだった。彼は一心に私を見つめて、言う。

「好きだ」

 教室がシンと静まり返る。その静寂を逃さず、私は両の手を叩いた。パンッと響いた音が脳を揺らす。個性解除の合図だ。

「ね、こんな感じ」

 見開かれたその瞳に、もうハートの形はない。
 自我を取り戻した彼は酷く苦々しい顔をした。

「…なるほどね、洗脳に掛かるってこんな感じか」
「私も掛けられたのは初めてだったから、びっくりしたよ。でも――」

 そこで一度、言葉を切って、彼を見た。私が身を持って実感したことを、向こうも同じように感じたのではないかと思ったからだ。

「やっぱり洗脳系の個性って強いよね。ヴィランだって人間なんだから、個性を掛けてしまえば、ほぼ確実にこちらが有利になる」
「ああ」
「…だから、入試が機械相手の一発だけって、納得できない。…悔しい」

 繰り返した言葉は、今度は少し違ったニュアンスで受け取られたようだ。彼の顔に今までとは違う感情が滲む。
 ああ、やっぱり同じだ。悔しさの中に、ぎらついた光がある。こんなところじゃ終われない、そんな貪欲な心が。

「だから――これから一緒に頑張ろうよ」
「……は?」
「体育祭の結果によっては、普通科からヒーロー科の編入もありえる。あなたも、諦めたわけじゃないんでしょ?」

 丸められた目に私の顔が写る。
 その直後、呆然としたようだった表情が、ぱちっと弾けた。

「…あんた、もしかして最初からそれ言いたかったわけ」
「うん」

 高校生活一日目。クラスメイトに話しかける理由なんて、大抵は「仲良くなりたい」一択だろう。私の場合も例外ではないし、ただ、それに加えて切磋琢磨できる関係になりたいってだけだ。
 彼は深々とため息をついた。

「コミュニケーション下手くそかよ…」

 呆れ混じりの言葉に私は唸る。自分では普通だと思っているけれど、幼馴染にも似たようなことを言われたことがある。

「そうかな」
「そうだろ」

 彼は一度目を伏せると、打って変わって鋭い視線を私に向けた。

「いいのか? 最終的には俺もライバルってことになると思うんだけど」
「枠狭そうだもんね。でも、洗脳系の個性って聞いたら、つい話しかけてた。…失敗したかな?」
「そう思ってる顔じゃないだろ」
「まあ、一緒に頑張ってくれる人がいたほうが頑張れるし」

 ヒーローにはなりたいけど、高校生活もなくしたくはない。友達一人目、ゲットできた?
 張り詰めていた空気が崩れる。彼は毒気を抜かれた様子でいた。

「体育祭、やる気なんだな」
「もちろん。…他にもヒーロー科はあるのに、雄英がいい、って拘っちゃったのが、そもそも間違いだった気がしなくもないけど」
「…憧れちまったんだろ。あんたも」

 ヒーローに。雄英に。
 気が合うね、と私は笑った。彼も少しだけ口元を緩めた。

「私、籠宮あまね。よろしくね」
「心操人使。…よろしく」


***


「うそ……」

 ステージの端で起こった爆発を、信じられない気持ちで見つめる。
 緑谷という名のヒーロー科の生徒は確実に洗脳に掛かっていた。私は心操の勝ちを確信していた。
 それなのに、まさか自力で個性を解くなんて。



 心操と友人になってから、体育祭の日までは一瞬だった。私達は放課後、学校の敷地の隅で身体を動かしながら、対策を練った。

「ッぐ……」

 地面に叩きつけられた心操が呻き、呆然と私を睨んだ。まさか女子に投げられるとは思わなかった、という顔だ。

「心操、体鍛えたほうがいいよ」

 腕も男子にしては細いし。私も少し技を使えるだけで力があるほうじゃないけれど、それにさえ押し負けている。

「体育祭では毎年、最後は一対一の対決をしてる。一戦目はほぼ間違いなく勝てると思うけど、二戦目からはさすがに対策取られるでしょ」
「…分かってるよ」
「できるなら武器とか持ちたいよねぇ。サポート科の人、頼んだら協力してくれたりするのかな」
「体育祭に関しちゃ無理だろ。持ち込み自体原則禁止だ。…将来的には欲しいかもな」

 まあ、今から練習して扱いきれるかも怪しいところだ。個性と身体一つで戦うしかない。
 上体を起こした心操がまじまじと私を見た。

「っていうか、さっきから俺の訓練にばっか付き合ってるけど。あんたにメリットあんのかよ」
「え、もちろんあるよ」

 疑り深い視線が続きを促す。

「チーム戦では心操にお世話になろうと思ってるから」

 そう言うと、深々とため息を吐かれた。最近、彼のため息の八割は私が奪っている気がする。

「そういうところだぞ」

 だって、協力できるならするに越したことはないでしょ。

 宣言通り、体育祭の第一種目、第二種目は心操と協力して突破した。
 第二種目の四人一組の騎馬戦では、ヒーロー科の生徒を洗脳してチームを組んだ。私は穏便に協力することを提案したのだけど、以前宣戦布告に行ったせいで、ヒーロー科からの心操の印象は良くないらしい。私はその場で幼馴染と顔を合わせるのが嫌だったから、付いていかなかったのだが。
 まあ、何はともあれ、第三戦目。予想通り、サシでのガチバトルだ。
 騎馬戦で組んだヒーロー科の生徒から情報が漏れてることを懸念したが、心操の対戦相手は個性に掛かってくれた。洗脳状態にさえ置いてしまえばこっちのもの。
 緑谷が場外へ向かって歩いていくのを、私は余裕の心持ちで見ていた。
 洗脳だって完璧じゃない。私はそれを知っていたはずなのに。

「……っ」

 個性を解かれた心操が動揺しているのが見えた。内容は聞こえないが、必死で緑谷に話しかけている。でも、きっと二度目は掛かってくれない。このままじゃ、心操はきっと――。
 …いや。
 駄目だ、そうじゃない。確かに個性はもう使えないかもしれないけど、それは相手も同じだ。緑谷は、先程爆風を起こした指先に怪我を負っている。制御が効いていないのか何なのかは分からないが、個性を使うにはリスクがあるのだ。危機的状況になれば使うだろうが、その前に、隙を突けば。
 私が諦めるなんて、駄目だ。
 
「心操、頑張れ…!!」

 掴み掛かってくる緑谷の腕を振り払い、心操が距離を取った。警戒しながら相手の動きをじっと見定める。唇は、きつく引き結ばれていた。
 緑谷が再び近づいてくる。胸元を狙って伸ばされた腕を、心操がギリギリのところで掴んだ。足を払う。緑谷がバランスを崩し、その隙を逃さず心操が拳を振るう――避けられた。
 踏みとどまった緑谷が、今度は逆に心操の腕を掴む。勢いをつけて、心操の身体がぐるりと回転する。投げられた――その方向は。

「心操くん場外!!」

 主審のミッドナイトが告げる。心操の足の先が、境界のラインを僅かに超えていた。
 ステージを背にする心操に、観客席からエールが送られる。プロ達が、ヒーローにならんと足掻く彼を、認めてくれている。

 そうだよ、心操はすごいんだ。
 ああ、でも、やっぱり――悔しいな。


***


「お疲れさま」

 轟と瀬呂の試合が終わった頃、心操が1Cの席に戻ってきた。
 彼は私を見ると、ぎゅっと歯を食いしばった。そして、何も言わず、黙って隣に座った。そうだね、反省なんかは後でいい。

「あんたは勝てよ」

 氷漬けのステージが溶かされてゆくのを見つめながら、心操がぽつりと言った。

「もちろん」

 負けてやる気なんてさらさらない。私は躊躇わず頷いた。
 けれども、次の対戦にはどうしても覆せない不利がある。はっきり口にした言葉の裏で、それがちくちくと心をささくれ立たせている。
 私は少しだけ迷ったけれど、正直に心操に話すことにした。頭を晴らして、心の整理を付けたかったのだ。

「私の対戦相手さ、幼馴染なんだよね」
「え…」

 心操がぽかんと素で驚いていたので、私は少しだけ笑ってしまった。
 …物心つく前、それこそ、個性が発現する前から、気づいたら傍にいたような幼馴染。最近は昔のように一緒にいることはなくなったけれど。

「当然、個性は知られてる。それに加えて…今まで五回はあいつに個性を掛けようとしたけど、全部、効かなかった」
「何だよ、それ」
「まあ、最近は試してないけどね。でも、たぶん…80パーセントくらいの確率で効かない」

 個性が通用しないなんて、入試に張るレベルで、圧倒的に不利だ。自分のくじ運を呪わずにはいられない。…いや、後でくじを引いて、私の横の枠に入り込んできたのは向こうか。

「だから、全力で相手の攻撃を避ける。隙を見て懐に潜り込んで、本体を叩く」

 彼の強さは知っている。弱みも。私の手持ちのカードでは、その弱点を突けないことも。
 勝算は低い。自分のフィールドに持ち込めない。でも。

「負けない」

  相談ですらない、独り言に近い私の宣言を、心操は黙って聞いていてくれた。

「…あんたは強いよ」

 水浸しだったステージが乾ききった。…バトルの再開だ。
 途中、サポート科の生徒による強かなアピールタイムが挟まれたが、出番までは一瞬だった。控え室へ向かう私の背中に、頑張れ、と静かな激励が飛んだ。


***


『攻防一体! 黒影を従える黒き侍! ヒーロー科、常闇踏陰!!』

バーサス

『なんと一回戦心操と同じクラス! 第二の期待の星か! 普通科、籠宮あまね!!』

 プレゼント・マイクのアナウンスが響く中、対戦相手と向かい合う。踏陰。私の幼馴染。

「…本当、なんであんたが相手なんだか」

 烏のような黒い頭、鋭い嘴、赤い瞳。
 見慣れた顔なのに何故か知らない人のような感じがしたのは、まだ着なれない体操服のせいなんだろうか。

「これもまた運命さだめ。手加減はせん」
「ムカつく。当然でしょ」

 勝ちたい。勝って自分の価値を示したい。手心を加えられては、意味がない。
 踏陰がふっと笑った。

『行くぜ! 第六試合!! レディィィィィ…』

 そして、戦いの火蓋が落とされる。

『START!!』

 はじまりの合図と同時に、私は踏陰へ向かって駆け出した。

「黒影!」
「アイヨ!」

 踏陰の身体から現れた影がぐんぐんとその身を伸ばし、こちらに迫ってくる。黒影が引っ掻くように腕を振るった。私は脚に力を入れ、地面を強く蹴り上げる。背中に生えた翼の補助を得て、攻撃が当たらない位置まで一気に飛び上がり、回避に成功する。
 次いで、私はそのままの位置で弓を構えた。厳しいまなざしでこちらを見上げる踏陰に、素早く狙いをつる。

「払い落とせ!」

 五本の矢を射ると同時に、黒影がぐるりと旋回する。裏拳で殴りつけるように振られた腕によって、全ての矢の軌道が逸らされた。
 それを確認するより先に、私は翼をはためかせて再度黒影から距離を取る。

 想像通りの動きではあった。踏陰は個性に掛からないくせに、他の人達と同じように矢を避けたがる。確かに、怪我をしないことが分かっているとはいえ、射られるのは気分がよいものではないだろう。
 だが、戦いの場においては。今この状況では、黒影を迎撃に向かわせずに攻撃に充てたほうが、私を倒すために効果的なのは間違いない。踏陰が分かってないはずもないのに。
 何故?
 ――まさか、今なら個性が効く?

『籠宮、常闇の攻撃を回避して飛んだーー! オイオイ普通科隠し持ってるな! だが常闇も制空権では負けてねェ! 第六試合は空中戦となるか!?』

 視界に収まりきらない観客席。眼下に広がるステージの中心で、踏陰が私を見つめている。なぜだか胸がずくりとする。
 ……。
 いや、違う。
 私は再び矢を番えた。彼に個性が効くのなら、これはチャンスだ。

 個性、キューピッド。
 体内から生み出した矢で射抜いた相手の心を奪い、支配する力。
 当たりさえすれば、私の勝ち。

『激しいせめぎ合いが続いているぜェ! 常闇の素早い攻撃を籠宮は羽根と柔軟な身体で躱す! しかーし! 籠宮の攻撃も全て黒影な迎撃されているぞ! さあ、どうする!?』

 黒影の攻撃を避け、隙を狙って下降し、踏陰に向かって矢を射る。けれど、私の動きを黒影が予測し始めたこともあり、攻撃は容易く防がれてしまう。攻め切れない。そんな一進一退の攻防が続いていた。
 疲労が溜まってゆく。この状態が続けばいずれ負けるのが目に見えている。
 個性である黒影も、補充していた闇が減っていけば思うように動けなくなるだろう。だが、そこまで削り切るには光や炎の個性でないと難しい。私の動きでは彼の体力を削りきれない。

「無理にでも行くしかない、よねぇ」

 状況は芳しくないのに、口の端が不思議と上がっているのを感じた。
 踏陰に向かって射た矢を黒影が塞き止める。左方向から襲いかかる腕を、翼を一度羽ばたかせて回避。大きく開かれた嘴が続けざまに目前に迫り、身体を横に捻って逃れる。
 再び振るわれた腕をぎりぎりのところで避け、私は弓を構えた。踏陰との斜線上に割り込まねばと、黒影の攻撃の手が鈍る。

「――掛かった」

 狙い定めた弓の先にいるのは、踏陰ではなく、黒影だ。精度よりも射出速度を優先した矢が宙を横切る――黒影が、咄嗟に矢を振り払った。
 私の個性は、踏陰以上に黒影には掛からない。勿論怪我もしない。子供の頃さんざん試した。今まで私の矢を払うように言われていたから、つい同じようにしてしまったのだろう。
 だから、それは完全に無駄な動きで――明確な、隙だ。

 矢を避けるために振りかぶられた腕が黒影自身の視界を塞ぐ。私はその一瞬の間に黒影の頭上でぐるりと縦に旋回し、彼の背を蹴って、地上へ飛んだ。

「ッ…戻れ、黒影!」

 踏陰が叫ぶけれど、私のほうが速い。
 黒影の身体を踏み台にした勢いと、重力を味方に付けて、頭から地上に落ちていく。
 
 地上に激突する直前、ばさりと翼をはためかせて衝撃を殺した。ぐるりと身体を起こし、地面を蹴って、踏陰に接近する。
 腰を捻り、足を思い切り振り上げた。頭を狙った蹴り。一撃で昏倒してくれればしめたものだと思ったが、そう上手くはいかなかった。

「ぐ…っ」

 私の足の甲と踏陰の間に、彼の腕が挟まっている。直撃していない。踏陰はたたらを踏んだが、それだけだ。
 私は次の攻撃を加えようとしたが、近くに迫った気配にその場を飛び退く。直後、黒影の腕が私が先程までいた場所を攫っていった。
 間合いに入り込んでも、一瞬で決められなければ黒影の餌になりかねない。やっぱり踏陰の個性は強くて厄介だ。…でも。

『常闇、回し蹴りを耐えるも籠宮の矢が命中! 胸に刺さってるが大丈夫か!?』

 黒影の邪魔が入るまでの一瞬の間に。ついに、踏陰に矢を当てた。
 踏陰はその場に立ち止まっている。胸元の矢に目を遣り、それからじっと私を見た。黒影が、踏陰を守るようにその身を囲っている。
 私はごくりと息を呑んだ。果たして、個性キューピッドは効いているのか? 踏陰の一挙一動に集中する。矢は完全に踏陰の中に吸い込まれた。だが、距離があるせいで、黙ったままの彼の瞳の変化は分からない。
 踏陰の視線が痛いほどに突き刺さる。激しい運動と、緊張のせいで、心臓がばくばくと轟音を立てていた。弓を握る指先が震える。
 個性を掛けたくて矢を射たはずなのに、それを願い切れない自分がいた。

 五秒か、十秒か。もっと短かった気もするし、もっと長かった気もする。私は牽制のために弓構えたまま固まっていた。常闇も黙ったまま佇んでいる。
 だが、そんな時間は唐突に終わりを迎えた。
 踏陰が深く息を吸って、叫ぶ。

「――黒影!」
「アイヨォ!!」

 待っていたとばかりに黒影が応え、私に向かって襲い掛かってくる。

「…ッ!」

 私は頭上に飛び上がり、黒影の腕をすんでのところで避けることに成功した。けれど。

 何よ、何よ、何よ。
 全く効いてないじゃない!!!

「踏陰のやつ…!」

 彼を見下ろし、ギリリと歯を食いしばる。沸騰しそうになる心を無理やりねじ伏せた。
 勝つには、当初の予定通り黒影の隙をついて踏陰を直接攻撃するしかない。だが、こちらの体力は削られてしまっている。向こうも一度弓を喰らい、無事だった以上、もう回避行動は取らないのではないか? そうなると責められる一方になりかねない。
 いや、そのようなことは考えるな。諦めるな――。

「ッあっ…!」

 右の翼に衝撃が走る。避け切れなかった。

「掴め、黒影!」

 バランスを崩した私の身体を、黒影が容易く握り込んだ。どうにか抜け出そうと藻掻くが、拘束は強まるばかりだ。
 腕と翼は全く動かず、足は宙を蹴る。
 私を掴んだまま黒影が移動を始めた。向かう先は、場外。




 …不意に、頭の片隅を昔の記憶がよぎった。
 小学校に入ってすぐの頃だったように思う。私と踏陰は、私の母に連れられて、少し遠くの街まで出かけていた。おしゃれな街に、子供ながらに浮足立っていたことを覚えている。
 ひとしきり歩いた後、私達はカフェに入って足を休めることになった。お手洗いに立った母の、大人しくしててね、という言葉に生返事をしながら、私は向かいに座った踏陰と互いのデザートをつつき合っていた。アップルパイだったか、シブーストだったか、細かくは覚えていない。踏陰の顔が綻んでいたので、美味しかったことだけは確かだ。
 事件は、そんな時に起こった。
 私達がいるカフェを、一人のヴィランが襲ったのだ。
 客達が騒ぎ、激昂したヴィランに制されて大人しくなるまでの短い間に、踏陰はテーブルの下をくぐり抜けて私の隣に来ていた。

「ふみかげ」

 呆然としながら名前を呼ぶと、固い声で、黙っていろ、とだけ言われた。私は踏陰に庇われるまま、窓側に追いやられる。
 母の姿を探して、化粧室のほうに目をやった。彼女は恐怖に青褪めながらも、私と目が合うと、しいっと、唇の前に指を一本だけ立てた。私は頷いた。
 そのヴィランは拘束系の個性を持っていて、客や店員の動きを次々封じていった。
 私は別の世界のことのようにそれをじっと見ていた。
 ヴィランがこちらの席に近づいてくる。
 ――今思い出しても、何が私をそうさせたのか分からない。ヴィランが子供の私達に油断して完全に背を向けていたからか。他の客が個性でもって抵抗しても拘束されるに留まり、暴力を振るわれなかったところを見ていたからか。私を庇う、踏陰の背中に勇気づけられたからか。
 私の心に遅れた恐怖がやってきたのは、見慣れた矢がヴィランの背に刺さってからだった。
 踏陰が、信じられないものを見る目で私を見ていた。
 耳鳴りがした。視界が狭まって、心臓の音に食われてしまいそうな心地がする。
 ゆっくりと振り向いたヴィランの瞳に、あの形が浮かんでいるのが見えてからさえ、鼓動はうるさいままだった。

「みんなをほどいて」

 小さな私が拙い声で言った。
 そこから先の記憶は、しばらくの間、朧げだ。
 気がついたらヒーローが現場に到着していた。怪我人はなく、奪われた物も何一つなく、ヴィランは暴れもせず捕縛されている。
 その頃には、私は恐怖を忘れてすっかり高揚していたように思う。自分の力がヴィランに通用したのが、嬉しかった。だって、これで、きっと――。
 しかし、そんな喜びに浸っていられたのは一瞬だった。

「あまね」

 踏陰だ。私はぱっと振り向いた。後ろの踏陰の顔を見るまで、私は彼が褒めてくれることを疑っていなかった。
 始まったのは怒涛のような説教だった。その勢いたるや、本来私を宥めるべき大人達…母やヒーローが踏陰を宥め始めたほどだった。何故あのような危険なことをしたのか、逆上したヴィランに襲われたらどうするつもりだったのか、怪我をするかもしれなかったのに…。
 小さな私は混乱に襲われた。踏陰の言葉が次から次へと頭の中に入って、弾けて、目の奥がぐるぐる回っていた。
 踏陰は普通の子供のように喚きはしなかったけれど、静かな怒りを湛えていた。彼は小さい頃から同級生と比べて大人びた言葉遣いをしていたし、矢継ぎ早に言葉を続けるので、私は半分近く意味が分からなかった。ただ、叱られていることだけは理解していた。
 でも、どうして? どうして踏陰はそんなことを言うの? 私は頑張ったのに。皆を助けたのに。それだけがいつまで経っても解らなくて、不満で、でも口を挟むこともできず、私は黙って踏陰の言葉の雨に打たれていた。
 結局、踏陰の説教は私が泣き出すまで続いた。同級生と喧嘩した時も、ヴィランを目の前にした時も泣かなかったのに、私は箍が外れたみたいにぼろぼろ泣いていた。その時の、彼の狼狽えた表情が、なんとなく記憶に残っている。

 …勿論、高校生にもなった今なら何故あんなに踏陰が怒ったのかも分かる。
 本当に愚かで無謀だった。ヴィランが確実に一人なのかも定かではなかったし、矢を外せばどうなっていたのか、考えるのも恐ろしい。全てが子供の夢想通りにうまくいったのは、奇跡のようなものだ。
 でも、どうしても、その時の私には分からなかったのだ。
 だって、これで私もヒーローになれると思ったのに。これできっと――踏陰と一緒のところへ行けると思ったのに。




「籠宮さん、場外! 常闇くんの勝利ー!!」

 足の裏に固い地面を感じるのと同時に、主審のミッドナイトが無慈悲に判定を下した。黒影が私の身体を解放し、静かに踏陰の中に帰っていく。
 ――負けた。

「踏陰の馬鹿!! 信じらんない、ほんと趣味悪い!」

 私の半ば理不尽な罵倒に、踏陰は何も返さなかった。
 消化しきれない思いが胸のうちに燻っていいた。もっと喚きたいような気持ちだった。欲しい答えなんて持ち合わせていないくせに、気の済むまで問い詰めて正解を求めたいような、そんな乱暴な思いだった。
 けれど、踏陰が黙ったまま踵を返してしまったから、私はそれを飲み込まざるを得なくなる。

 どうして、踏陰は私の道の邪魔をするんだろう。
 立ち去ってゆく後ろ姿を呆然と見つめる。歓声に包まれる競技場で、私はひとり取り残されたような気分でいた。
 もちろん、本当は、そういうわけじゃないことくらい分かっている。これは正統な勝負の結果で、私は、ただ負けただけ。でも、でも。

「……何よ…」

 負けたけど、弱かったわけじゃない。
 戦える。
 戦えるの。この個性でも。

 それなのに、どうして、踏陰は私を置いていこうとするんだろう。

 そんなことを思うと、どうしようもなく胸が蝕ばまれるような思いがした。
 私はあふれかけたそれを無理やり押し込め、歯を食いしばって、競技場に背を向ける。




「おつかれさま!」

 自分達の席のほうに戻ってくると、クラスの皆が私の健闘を讃えてくれた。
 荒んでいた心の、柔いところをくすぐられるような感覚を覚えながら、ありがとう、とどうにか礼を言う。

「やっぱ籠宮はやる奴だと思ってたよ」
「最初から違うなーって感じだったもんね」
「いきなり心操に喧嘩売りに行ってな」
「売ってないし」

 否定するけれど、あの時の会話を聞いていた皆からは苦笑いされただけだった。

「私、絶対あまねが勝ったと思ってた」
「ねー、あたしが言うのもあれだけど、超くやしくない?」
「それな。なあ、なんで個性効かなかったんだ?」

「…さあ、分かんない」

 皆の脇を過ぎて、自分の席へと向かう。

「相性とかあるのかね」
「まじー? だったら、運がなかったよなあ」

 運がなかった。確かにそうなのかもしれない。
 いつからかずっと私の運命は踏陰の形をしていて、そしてそれは、決して私を導いてはくれないのだ。
 なんだか酷く疲れた気分だった。あれだけ動き回ったのだから当然なのかもしれないけれど、それ以上に、何か胸を塞がれるような心地がする。
 ベンチに腰を下ろすと、お疲れ、と隣から声が掛かった。うん、とだけ頷いた。

「…なんで、個性効かなかったんだ」

 この距離だ。分からない、という返事が聞こえていなかったわけもないだろうに、心操は同じ問いを重ねた。
 試合を始める前に交わした言葉がヒントになったのか。個性で苦しんできた心操は、人一倍、心の機微に敏くなってしまったのかもしれない。
 ステージの上では、硬化の個性の生徒達の試合が始まろうとしていた。熱い勝負の予感に、会場のボルテージが上がってゆく。その熱に乗れないまま、私は口を開いた。

「私のこと、好きな人には効かない」

 隣の気配が微かに息を呑んだ。
 少し離れた、ヒーロー科の席のほうに目をやる。踏陰は私のことなんて忘れたみたいに次の試合に集中していて、それは雄英で学ぶ者としてこれ以上なく正しいことのはずなのに、今だけは、どうしても嫌でたまらなくて、私は顔を俯けた。

「あいつ、趣味が悪いのよ」





=====

常闇踏陰:告白するタイミングを逃しに逃している

籠宮あまね:告白されたら付き合う気はある

ミッドナイト:青春の香りを感じた


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