及川徹は目の前に広がる光景を見て、こんなはずではなかったと頭を抱えるほかなかった。
遡ること1ヶ月前。大学卒業を機に会えなくなるかもしれない意中の相手にどうやってこの想いを伝えようかと悩んでいた時のことだった。同じ講義を選択している同級生が卒業旅行の話をしていたのを聞いて、これしかないと思った。
「思い出づくりに温泉でも行かない?俺運転するし」
俺がたったこれだけ伝えるために、例えば負けたら即終了のトーナメント戦で相手のマッチポイントの場面で自分にサーブのローテーションが回ってきたとき以上にドキドキしていたとか、この台詞をどんな言い回しで伝えようかと二日間考えたことなんて知らない名前は「及川の運転?ラッキー行く行く」と近所のカラオケにでも行くかのようなテンションであっさり答えた。
事前に調べあげた温泉旅館は各部屋に風呂がついていたりサービスが充実しているおかげで中々に人気が高く、卒業旅行シーズンということもあって空きは殆どなかった。予約サイトを見ている最中に残り三部屋の表示が残り二部屋になり、一部屋になり…部屋を抑えるなら迷っている場合ではないと割高な料金を表示するネット予約サイトを恨めしく思いながら予約完了ボタンを押した。
続いてレンタカーの予約サイトを検索して一泊二日で借りられる車を選んだ。理想を言えばカッコをつけてSUVなどを借りたいところだが、割高になってしまった宿泊費を考えて今流行りのハイブリッドカーを選んだ。
日程も観光する場所も全て事前に完璧に決めてあとはエスコートするだけ。朝イチで名前を最寄駅まで迎えに行き助手席に乗せ出発すると、名前はテキパキとバッグから500mlのお茶のペットボトルを二本取り出して運転席と助手席の間にあるペットボトルホルダーにストンと差し込んだ。表面にうっすらと汗をかいているそれは名前が直前まで冷蔵庫で冷やしてくれていたのだろう。普段がさつでもこういうさりげない気遣いができるところがたまらなく好きだったりする。
「及川今日どこ行くの?」
「内緒」
「ミステリーツアー?ウケる」
ウケるな。こっちは大真面目だ。
ナビ通りに目的地までの道のりを走っている最中、名前は俺のスマホとナビをBluetoothで繋いで、好き勝手に曲を選んで楽しそうに歌っていた。俺に対して遠慮がないところも好きだ。
「ガム食べる?」
「あ、うん。欲しい」
わざわざガムの銀色の包装紙を剥いで口元に持って来てくれる名前。そしてそれをパクリと食べる俺。やりとりはまるで熟年夫婦のそれだが、俺たちはまだ始まってすらいない。
目的地付近のパーキングに車を停め、名前を連れ出す。温泉街らしく足湯処やら小間物屋や土産物屋がたくさん並んでいて名前はそこらへんの女子と変わらないように目をキラキラさせていた。
「及川、すっごい楽しい!」
「本当?良かった」
寝る間を惜しんでリサーチした甲斐はあったようだ。そのあともパワースポットと呼ばれる神社や、伝説の由来となった井戸などまるで修学旅行のようにパンフレット通りといっても過言ではないような場所を巡った。
程よく疲れが出て来たところで料金割高の人気旅館にチェックインした。フロントで予約の名前を告げるとすぐに部屋に通してもらえた。人気なだけあって部屋からの景色も良いし、雰囲気も良かった。名前は待ちきれない様子で部屋風呂を覗き「超楽しみ!」と笑顔を輝かせていた。
お風呂も良いけど先にご飯にしようよと名前を落ち着かせ、フロントに電話をして食事を運んでもらうことにした。順に出てくる懐石料理を今時の女子らしく全て写真に収め、「あとでインスタにあげてもいい?」と聞いておきながら次の瞬間にはもう料理に夢中で俺の答えなど聞いていないのだから困ったもんだ。
料理を食べ終えしばらく余韻に浸りながらゆっくり過ごし、それからどっちが先に風呂に入るかを決めようとする名前に、一緒に入りたい気持ちを何とか抑え込んで先にいっておいでよと言うと「一緒に入る?」なんて冗談で言ってくるもんだから本当に腹が立った。今すぐ犯すぞと思いながらもそんなこと言えないし出来ない。
「バカじゃないの、早く行きなよ」
「ありがと!行ってくるね!あ、覗かないでよ」
「覗かねぇよ!!」
どこまでも憎たらしくて、それでいてどこまでも愛くるしい名前に俺の想いをどうやって伝えようか。頭の中はそればかりで、気付けば30分ほど時間が経っていた。部屋風呂へ続くドアの向こうから物音がして飛びかけていた意識を戻すとすぐにドアが開いて、浴衣姿の名前が出て来た。てっきり着方がわからないとばかりにだらしない仕上がりになるのだろうと思っていたのに、案外きっちり着こなしている名前。逆に色気がある気がした。多分これは俺の欲目のせいなのだろうが。
名前と入れ替わりで風呂に入る。床は濡れているしところどころに名前が使った形跡が残る風呂は、邪念ばかりの俺の妄想を駆り立てるのに十分で、しばらく出ることができなかった。時間をかけて下半身の昂りを沈め、俺はやっとの思いで名前の待つ部屋に戻った。
そしてここで冒頭へ戻らせていただきたい。
俺が風呂に長居しすぎたのがいけなかったのか、名前は晩酌用にと買い込んだアルコール類を次々と飲み干して酔っていた。先ほどまでキチッと着ていたはずの浴衣はだらしなく乱れており、酒のせいか湯あたりのせいか知らないけれど顔も、露出した手も足も赤く火照っていた。
「名前?何してんの?」
「お酒飲んでたの、及川遅いからさ」
「それはごめん。でもこんなに一人で飲むなよ」
「美味しくてつい」
言葉はハッキリしているが、眼はトロンとしていて動作も鈍い。名前が口元に運んだはずの酒は口に入りきらずにそのまま顎を伝って胸の谷間へと垂れた。ちょっと待てお前ノーブラかよ。
「うわ、冷たい」
「は!?ちょ、脱ぐな!」
「なんで?風邪引くじゃん」
「バカなの!?お前ブラジャー着けてないだろ!」
「ブラジャー着けてたらいいわけ?」
「そういう問題じゃないっつーの!」
「ええ、及川と私の仲じゃん?だめ?」
「俺たちどんな仲だよ」
「及川私のこと好きじゃん。私も好き、そういう仲」
もう本当に絶句するしかなかった。
俺の計画は?悩んだ時間は?すべて無駄?バカバカしい。
「お前が今ここで脱いだら俺抱くからな。文句言うなよ」
「文句なんか言わないし」
「起きて覚えてないとかも言うなよ」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと覚えてる」
「俺…名前が好き」
「うん、私も」
にへらと笑う名前はただのタチの悪い酔っ払いであることには違いないが、好きで好きでたまんない女の子であることにも違いなくて、ここまでの道のりを思い出して漸く苦労が報われた気がした。
やっとキスできる、やっとセックスできると思ったのに、名前は眠っていた。ありえない。
とはいえ赤く火照った体に、肌蹴た浴衣、なんの躊躇いもなく露出された長い手足。据え膳食わぬは男の恥だと自分に言い聞かせて触れようと試みてもやっぱり酔っ払い相手にと思うと気が引けて結局手を出せずじまいだった。
翌朝、本当に全てを覚えていた名前に意気地なしの称号を与えられ、一人悶々としたまま一泊二日の短い旅は終わった。
「及川」
「なにさ」
「また行こうね、温泉」
「もう行かないし」
「今度は一緒に温泉入ろうね」
「…それなら行ってやってもいいけど」
「うん、約束。それと…」
旅費はちゃんと割り勘にしてよね、そうじゃないと行きづらいから。と半分よりすこしだけ少な目にお金を渡してきた名前は男の立て方をよくわかっているなと感心した。そんな名前も好きだった。
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