プリーズ、ポストマン続編。
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過去から脱け出せて居ないのは何時だって俺ばかりだ。お前しか居ない、もう俺には。その筈だった。それでおそらくは均衡が保たれて、俺達は。
もう俺を、連れ出してくれよ、お前は目の前と、草臥れた鞄ばかりを見ていやがる。その黒穴へ差し込まれた白の布地を被った掌は、掌を。俺は、俺には。お前には。
秋晴の、青過ぎた空だ。庭に生えた樹へ芽生えた橙の粒の香りが書斎の窓から紙臭さへ纏わり付く様にして入り込んだ。季節が巡るのは早く、春先とは異なるが何かを急かすこの時季独特の空気と匂いへ鼻で笑うだけに留まる様になってもう幾年だろうか。涼しさが肌を霞める洗面所は灰暗く、木桶に溜まったぬるま湯がとろりと音を立てた。手拭いを数度浸して、透明の湯に染まったそれを掬い上げた時だった。玄関口のベルが鳴る。
待ちわびた仕事ながら控え目に音を上げたそれに、桶へと再び手拭いを落としてから濡れた手を拭いつつ扉へ向かった。来客は、久しい。
「……ドレーク屋?」
扉を開けて立って居たのは、街の郵便屋の制服に身を包んだ大きな男。温厚な人柄と誠実さが評判を呼ぶ男は齢も若いままに局長を務めていた。皺一つ無い紺色に、目を細める。
「久し振りだな。」
頭の後ろへ手をやりながら朗かに話すドレーク屋が笑う。ああ、良い仕事振りだ、本当に。顔馴染みであるのが非常に誇らしい程にな。お前を慕う部下は元気か?
「郵便だよ。」
差し出された封の差出欄は二つ駅を越した大学病院。受け取りつつも開く事は無いだろう見慣れたそれらにドレーク屋へ向けた筈の笑みが深まる気がした。手前の事は手前が一番解ってる。
「……配属が変わったのか?」
立ち話は嫌いじゃ無い。徒に尋ねれば眉を寄せたドレーク屋が実に哀しげな顔をした。本当に、本当にお前は上に立つ者の鑑だと俺は思うよ。
「…いや、…此処の地区担当の者が、体調を崩してしまってな。」
だから配属は日によって替わる。局員が少ないと大変だ。 ドレーク屋はそう言って笑った。嘘は良く無ェ。嘘は良く無えがそれも方便とはよく言ったもので、洩れるのは人並みの苦笑と労りの言葉。
「赤い髪の、奴だろう?」
「ああ、そうだ。」
知ってるよドレーク屋、俺は知っている。そしてお前は知ら無えんだ。家裏のブルーシートの下で眠る、錆び欠けたあの赤い自転車を。
忙しいのは本当なのだろう半ば踵を返したドレーク屋が俺の顔をまじまじと見詰めた。
「トラファルガー、」
「あ?」
「痛そうだな。」
「……、ああ、」
指を指されて疼く口の痣。切れて固まる変色したそれは水を飲むのすら億劫で。
「最近拾った犬が、やんちゃで困る。」
笑みを溢したドレーク屋は背を向けて二輪へと向かった。やがて姿は見えなくなって、残る庭の香りを扉を閉める事で塞いだ。ぬるま湯はきっと冷えてしまっているから、新しく沸かし直そう。
力無く握っていた紙は屑籠へ放る。
音を立てて開けた寝室の扉。音へびくりと揺れる赤へ近付くと手にした桶の中で波が立ち、ちゃぷりちゃぷりと響くのだ。
「待たせたな。」
肩へ触れる。白い膚と吸い付く肌理の細かさが静寂と閉められた窓布から覗く光とを映して、目眩がする程に、そして際限無く触れたくなる。気が振れる程にな。拒絶を表す様に引いた身体。気にするでも無く桶へ手を入れ手拭いを絞った。しっとりと項垂れた布地を適当に畳んで肌に這わせる。男は咽を唸らせて嫌がった。
「ユースタス屋、」
お前は体調を崩して、仕事場は「大変」らしいよ。告げれば緋色の目が憎悪とも取れるが如く濡れる。でもお前は変わらない、頭が良い癖に頭が悪い。ドレーク屋が来ていた今、ベルが鳴ったあの時、ひとつ叫べば何かが変わったかもしれない。しかしながらそれは「本能」が邪魔したと俺が都合良く受け取った所でお前は思い出しもしやがら無えんだろう。
擦れたシーツに押し倒した身体に余計な傷なんて有るものか。湯へ浸し直した布は二の腕を滑る。白の手袋を剥いで目にした白い掌も、帽子を奪って抱き締めた頭の旋毛も。何も変わっちゃいなかった。俺ばかりが覚えていた。変化を恐れた俺はお前の身体に傷なんて付けやしないのに、お前は俺を、変えて行く。堪らず口付けてしまったあの時容赦無く咬まれた口の端。痛い。俺は大いに嘆く。触れても触れてもお前は嫌悪にうち震えるばかりだろう。顔を染めて悪戯に押し返してくるあの日迄のお前は何処だ。
「……ッ…」
「……。」
「さわ、る、な……」
首を捉えた温かい布。渇れてしまった低い声に渇望するのはそんな言葉じゃ無ェんだよ。
とうとう、制服姿のこいつを放す事無く家へ引き摺り込んでしまったあの日。疾うに破綻してしまっていた俺の限界は一線を越えちまった。
素肌へ、手袋の下へ、その髪へ、唇へ。触れればお前の中の何かが開く、など夢を見ていたにも程がある。所詮は人間の脳など脆い物で、気付けば残るのは口端の痛みと俺へ向けられる「異常」を恐怖とする男の表情だけだった。頼った身体にまで拒まれてしまった俺はどうすればいい?諦め切れないなど馬鹿宜しくすがり付く俺は何処へ手を伸ばせばいい?お前しか、居なかったのに。紙切れひとつ取り戻せない馬鹿が恋人一人の「心」とやらなんて取り戻せる筈も無いと罵るのか。空も、樹も、遮断したって俺を見ている。ユースタス屋は俺を見ないのに。
鎖骨辺りへ置いた手に力が入って、もう冷えてしまった手拭いに白い肌が粟立つ。ユースタス屋の上で俯いたまま身体を降ろして、ああ、お前の匂いは変わらないのに。
「俺に、」
「……」
俺に、どうしろって言うんだ。
「俺には」
「お前しか、居なかったのに…!」
背へ回る腕なんて無い。ただ無表情に俺を異端とする両目。喉奥へ突っ掛かったまま情けなく転がり落ちた言葉がぱらぱらと落ちて、寝台から落ちた桶からじわりじわりと性急にフローリングが浸されていくのが目に映った。
部屋の隅へ投げられた郵便鞄は空だった。
赤い髪の郵便屋は、仕事が有るだなんて嘘を吐きつつ何時だって最後に俺の元へ来ていたなんて、過去ばかり見ていた俺が気付く筈も無い。
新しい芽を踏んだのは、誰だ。
俺は何処へも行けないでいる
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50000ヒット企画で海乃たまきさんからリクエスト頂きましたプリーズ、ポストマンの続編です。
これは監禁というものに入るのでしょうか…しかし相変わらず暗いです。このまま終わりにするか悩みましたが色々加筆しなきゃあまりにナゾな部分が多いので多分書きますいつか…!
たまきさん、リクエストありがとうございました!
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