「溺れる猿が〜」の続き、キッド視点です。
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男は賢明の皮を被っては居るが稚拙であった。 初見にして壊されたドアノブ。頭ん中ではただ奇怪であるばかりの羅列を作り上げる癖をして、結局は身体を使う事でしか伝えようとしない、否、そうする事しか出来ない。何より欲には忠実だ。呼吸が上手いと、そして知があると、余裕を匂わせておいて何よりも生き急ぐのは紛れも無くこいつ自身だった。
開けられた磨り硝子から死臭を纏わせた身を滑り込ませるなり俺を求めた。相も変わらず理解するには親切でない言葉ばかりを吐き、俺の口を貪る。背を掻き抱く墨の入った両腕は必死なもので、渇いた白い浴槽と俺の背の狭間で幾度も背の水滴に滑っては体温を奪うのだ。こいつの生きた浅黒さと無機質な白のコントラストは醜い。俺が浴室の天井を見る前に飛んだ男の帽子が水気を吸って、足下に触れる。何もかも、中途に濡れていくばかりだ。俺の腹に張り付いたトラファルガーのパーカーが不快で咎める様に目を合わせれば俺がその濁り切った眼球に小さく映っている。そう、男は賢明であり稚拙だが濁りの極みを持っていた。だから白とは相容れる事が出来ない。無垢とは遠い様で紙一重、どうしてこいつは俺を求める。人間として同じ匂いを嗅いだのか、気休めか。何れにしろ不快な事に変わりは無かった。きっとこいつから心底からの言葉など俺には見出だせ無いしその気も無い。だが拒むにはこの男はやはり面倒が積った。今みてえに獣の様な行為をこれでもかと繰り返すトラファルガーは 半端な死にたがりに見えない事も無い。
「……、」
息を紡ごうと顔を反らせば直ぐに追い掛けてくる濡れた口。舌を打つ暇も無しに再び深く重なる。苦しい、気持ち良いのか悪いのかも分からない。
「ん、ゥ、」
「…逃げるな」
「ッ!」
蠢く舌へいい加減にしろとばかりに緩く噛み付くとあろうことか舌を突っ込んだ侭息を送り込みながら話して来やがった。 咽づきたいと唸る喉を無視して唾液が入り込む。流れる。
背を撫でて居た内の片腕が頭の後ろへ回って、反らす事を許さない。うぜェ。目が熱い、意地で開いていた視界が磨り硝子越しの様に滲んだ。ああ、寒ィなとも今更だが感じて身体が震える。冷えた水滴と口元から頬、耳へ駆けて流れる温い唾液が交わる事は無い。
音を立てて離れた口が長く離れて居ることは無く、またトラファルガーの顔は降りて来る。触れるだけ、舐める、吸う、貪る。その繰り返しだった。上顎を舐められると寒さからでは無い鳥肌が立って、仕様が無えから相手の口内も軽く舐めてやる。満足気な息を溢したトラファルガーが目を細めて、もっと、と催促しては手を滑らせ耳を擽った。
いつの間にか塞がれた片耳。薄い水温が蔓延る。ぼやけた視界。不自由な呼吸。動きが鈍る、四肢。
まるで、焦がれる青に沈む様な。
ああこいつがしたいのは。
男は賢明であり稚拙だが濁り切っており、そして死にたがりの振りをする只の海賊という世間の外れ者だった。位置付けは俺と同様容易く、ただそれだけの奇人だった。俺に安い共犯を求める。否、求める振りをして探している。俺の中に在るのかも解らない同種の濁りを。
途端に目の前の男が泣き出しそうな存在に見えてしまった。呼吸を奪うのはこの男だというのに。背の下で爪を立てていた片腕を掴み、引き摺り出し、心臓へ持って行く。死ねる筈も無えだろうと暗に教えてやれば漸く口を離した。
西の小窓から射す陽がタイルを彩り、トラファルガーを包んだ。なあ、まるでお門違いだ。こんな色を見て死ねると思っているのか、お前が選んだ場所は。言ってやれば歪んで笑う奇人。残念だが最早泣いている様にしか見え無えんだ。
怠い事この上無い首と痺れた舌。あとはこいつの衝動に任せて雪崩れ込むだけだ。さっさと終わらせちまって、服を着ようと思う。その頃には漸く闇が拡がるだろう、なあ、トラファルガー。
嗚呼、寒ィ。
寒くて仕様が無えのは俺な筈だが間抜けなくしゃみをひとつ、溢したのは隈の男だった。
其処へ、底へ 橙は射し込むのです
(死臭を落とさないのは其の恐怖を紛らす為か)
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