その男に航路を見た。
秋島の朽葉の色を眼倩へ、焼けない肌には幼い記憶へ残る処女雪の白を見た。

お前となら、原初の乳の海へ沈んで行ける。そう思った。






無法地帯を歩けば転がる死体。靴裏へ蔓延る樹脂と血溜まりのない交ぜになった粘液が糸を引き、目指す宿への足取りは意に反して重い。
死臭の立ち込める一帯では腹を空かせた犬や鳥が動かぬ肉体へ群がっていた。

死した人間は犬に喰われるほど自由だ
流涎を呈した獣の牙が肉を裂き、骨の髄まで貪り尽くす。そこへ見る肉と血の赤、骨身の白は濁り無く、朽葉や雪へ重ねたあの男のような彩りを持ってはいなかった。
生と死の差はここなのだろうか。
小蠅が控え目な影を落とし、宙を飛んでいる。光に引き寄せられる蛾のように、死臭へ向かって飛んで行く。死を厭う者と好む者が居るから世界は成り立つのだと、先日捨てた書物には得意気に記されていた。

弔われるのは、喪われるのは、愛された者だけだと言う。 愛された者の墓は色が違う。悲しみに暮れた訪問者が口付け、手を添えるから。褪せていく。墓を見て死の中の不平等を思い知らされるのなら、俺は海を、海葬を選ぼう。



ユースタス屋が一味の為に貸し切った宿が、俺が歩く地帯の外れに在った。
エントランスを通っても閑散としている宿は男の匂いがする。海賊の好きに扱われるこの宿の成れの果てにさして興味は湧かないが、一味の頭の機嫌次第では建物の寿命もそう長くは無いだろう。海賊とはそういうものだ。

夕暮れ時の近い、喧騒も何もない一帯は沈静を保っていた。彼奴の仲間達も思い思いの場所へ足を運んでいるのかユースタス屋の部屋へと辿り着くのには容易い。二度目の来訪だった。
一昨日初めて足を運んだ際に、自分でも解る気の短さから壊した安い鍵がそのままになっている。口端が吊り上がる感覚をそのままにノブを捻った。彼奴の生きる音が聴こえる、匂いがする。それを耳が鼻が肌が、感ずるだけでざわさわと胸の辺りが煩わしく蠢き、その嘔吐感にも似た感覚が気持ち良くてたまらない。

足を踏み入れた広くも狭くも無い部屋には不規則な水音が響いていた。備え付けられたシャワー室の磨り硝子越しに揺れる赤色に誘われるがまま体を向けたが俺が辿り着くよりも一歩手前で止まる水音と開いた磨り硝子にただ立ち止まる。片腕でしとどに濡れた赤髪を掻き上げながら身体を半分覗かせたユースタス屋が視線を上げて停止した。元より寄せられていた眉間が顕著になって可笑しい、合わせられた視線に俺の喉が笑うように鳴って足が動いた。
浴室へ引っ込んでしまった男が鳴らした舌打ちがタイルへ染み込まれて行く。やたらと思考は巡る癖に追いつかない口のせいか語彙のせいか、引き結ばれたままの事の多い口元がユースタス屋の常だ。 水を伝わせるノズルがぴちゃりと音を落としてそこに俺の笑う声が響いた。硝子戸を開け放したままにより湯気は逃げ、視界が鮮明になっていく。 退け、と漸く口を開いた男の腰元へ目をやれば何も纏ってなど居なかった。 今更、とか、元来は男同士、とか、取るに足りない理由が蔓延る気怠い空間は俺とこいつにとって毒だ。横に鎮座する湯の張られていない白い浴槽が口を開けて来る事の無い使われ時を待っていた。

ユースタス屋の肌を温度を無くした水が幾筋にもなって滑っていく。さぞかし寒いだろう、と腕を伸ばして包めば俺の服が余すところ無くぬるく湿った。身動いた男からは白い花の香りがする。お前は俺を騙せねえ。花の持つ言葉をそのまま口にしてやってから髪へ鼻先を埋めると一層深くなる香りに脳が痺れた。

「……離れろ。死体臭え、お前。」

首の辺りを掴んだユースタス屋が容赦無く俺を引いた。回した腕がほどかれて俺は濡れた服と肌に寒くなる。

「お前に会いに来る時はいつも死臭を通るさ。」
「じゃあ来るな。」
「心にも無え事言うなよ。淋しいだろうユースタス屋。」

花の言葉を借りてまで教えてやったのにどうも飲み込みが悪い。気が長くは無い事は壊した鍵の件で知っているだろう。

本格的に寒いのか腕を軽く震わせた男を空の浴槽へ倒す。血色の悪い唇が戦慄く様に、忘れていた動悸と昂りを煽られて堪らず噛み付いた。
浅くも深くも無い、底を持つが水は持たない此処は俺達が死にたいと思わせる風景を持っては居ない。

背と尻を打ち付けた痛みに涙の膜が厚みを増してユースタス屋の瞳が鈍い赤色に光った。
人間誰しも眼球には常に涙の膜が蔓延るのだ。今や渇いた世界は涙の膜を通して初めて得らているだなんて。皮肉を噛んだまま暖かい男の口内と舌に甘んじた。
タイルに落ちる水よりも、俺達から発せられる音の方が随分と積極的に木霊している。

お前となら沈んで行ける

繰り返す夢心地の言葉。ここに在るのは水音だけで深さも水圧も潮辛さも足りない。
セックスも心中も擬似にさえ成り得ない俺達は、いつかは死臭の源となる。御託に塗れた花の香りを持てる時期ってのは今みてえに呼吸の合間に垣間見る一瞬の快楽に似ていると俺は思う。


掴んだ赤い後ろ頭に、溺れる。
溺れる猿が掴んだ藁は伴に沈んでくれるほど柔じゃ無え場合だってあるかもしれない。
服を着たまま裸の男に乗り上げて、こうして気の赴くままにキスを仕掛けて幾度も死臭を紛らしていく。
枯渇した身体の潤いは何に浸かっても満たされてはくれないのだろう。
ユースタス屋、お前だってそうだ。




左ポケットに忍ばせた百合の花弁を浮かべる水面が無えから、気紛れにただ握り潰して、俺は。

(濡れて沈んだお前を見てから瞼を綴じる。)






end_
溺れる猿が をも掴む



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キッド総受け企画「WLC!」様へ提出させて頂きました。
素敵な企画、ありがとうございます!















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