意思と関係無く僅かに浮いた右手首の感覚と薄い布擦れの音にユースタスは目を覚ました。軋む壁に背を預け座った状態でいつの間にか眠りに就いてしまっていたのだ。扉側を照らすばかりだった蝋燭がもう事切れようとしている。自分達で変える事が出来るよう最小限の物資が其処には鎮座していた。
働かない頭と慣れない視界。分かる事は時折聞こえる不安定な波の音と揺れる船底ばかりで、陽の光など浴びれない今となっては体内時計、時の感覚などすぐに麻痺してしまうだろうと小窓ひとつ無い牢室に舌を鳴らす。 そこでもう一度、右側の空気が確かに動く気配に、この空間には自分一人では無かったと気配へ首を向けた。
「…起こしたか。」
「何してんだ。」
おい、と低く呼ぶと振り返る男の影。蝋燭の橙が完全には此方まで伸びていないため、確かに見えるのはトラファルガーの肩から首、顔半分だった。闇に溶けた男が奇妙な形で目に入る。相手から自分はどう映るのか。伸ばした脚先に当たる灯りがゆらゆらと手をこまねいている。
「寒いもんで。」
「……。」
ユースタスが目を凝らして男の前にある闇を見た。トラファルガーが向いて居た先にあるのは入室した際に鎮座していた薄い布だった。折り畳まれたそれは麻で出来ているようで、酷く簡素なものだ。囚人達への欠片ほどの情けと大きな皮肉が伺える。何故ならそれは一枚しか無く、対して此処は独房では無い。大の男二人が収容されているのだ。 ここでも片手ずつ施された「実験」への地獄側からの嘲笑が見て取れた。
黙ってユースタスが少し右へ体をずらしてやる。目当ての物へ手が届く位置に来たトラファルガーがのんびりと麻布を手に取った。
「軽いなあ。まあ気休め程度にはなるか。」
柔らかさも暖かみも持たないそれにトラファルガーが笑う。手に持った布を広げると二人の間に有る極めて短い鎖がじゃり、と鳴いた。 ユースタス屋は寒く無えのか。呟くトラファルガーに寒く無え、と返す。虚言だった。
二人は手錠を嵌められた直後、空いた片腕と両足首にはそれぞれ海楼石で出来たリングを嵌められていた。完全に奪われた力と性急に体力を蝕むそれらは驚くほどに冷たい。生身の状態でいくら身体能力が高くとも、能力者として背負ったハンデと牢内の劣悪な環境とが彼等の身体を静かに痛め付けていた。現に今、ユースタスは隋眠を貪る事に夢中な程身体が悲鳴を上げている。トラファルガーとしても立ち位置は全く同じで、二人の囚人は未だ不慣れの薄い囚人服と裸足も相俟って身体は筋が固まる程に冷えていた。
「…冷てえな。」
「、」
ただでさえ近い距離を詰めたトラファルガーがひたりとユースタスの足首へ掌を当てる。ジジ、と揺らぐ蝋燭に照らされたそれは白く、重なるトラファルガーの墨の入った手が対照的な画を作った。
するりと撫でられるが冷たさに麻痺しかかっているそれはひくりと脈打つだけだった。眉間に皺を寄せてやめろと唸れば直ぐに手は離される。
「この船で俺にまで反抗的なのは利口じゃ無え。ユースタス屋。」
「……お前が余計な事しなけりゃ良い話だ。」
「心配してやったんだろう?…それなりに良い囚人を演じろよ、看守が五月蝿ェ。」
「何時までもこんな所に居るつもりかよ、てめェは。」
「冗談言うな。でも、まだ「その時」じゃ無えだろう。」
「…んなの分かってんだ。」
「ふふ、だったらそれまでこいつを楽しんでみるのも、悪くは無い。」
トラファルガーが手錠を揺らしわざと鎖を鳴らす。落ちた体力の中に僅かな余裕を孕んだ表情が闇と半々に見えて、ユースタスは苛立ちに任せ額に垂れた前髪を掻き上げた。
ユースタスとトラファルガーの投獄生活は無と皮肉に支配されたものだった。
本来この監獄船へ収容された囚人達は交代制での労働義務が有る。それは巨大な船内に於ける物資運搬や掃除など様々だが、ただただ意味無く多量の水を運びまた戻すという肉体的にも精神的にも拷問に近いものもあった。そんな脆弱化した囚人達に比べれば楽なものではないかとも取れるが、実験と称された二人は殆どが闇の牢内で、拘束された半身と相手との譲歩の駆引きで一日が終わっていくばかりなのだから常人ならいつ気が違ってしまっても仕様が無い。
そして投獄から二日目、とうとうユースタスが向かいの懲罰房へ身を伏せる羽目に至ってしまった。
決して浅くはない思慮の持ち主であるユースタスだった。今回の投獄に関しても不快が募る一方ではあるが、立ち位置と時機を弁えるほどの気の余裕は持っている。
しかし、質素な、言わば「餌」のような食事を運びに来たある一人の愚劣な看守の言葉が彼の琴線に触れたのだ。
『三億と二億の首にこの餌は安いか?』
『……。』
『ああ、そう睨むな。キャプテン・キッド。』
さして期待もしていない食事に不満を持つ意味など無い。しかし下品に口元を歪め足で皿を寄越す下卑た人間性を露にする看守にユースタスは黙って眉根を寄せた。
『宝に目が眩んで地獄入り。笑えるなァ?下ら無え夢追い人、卑しくて…、反吐が出る。』
看守は言い捨て、瓶に入った水をトラファルガーからユースタスへ横一文字に浴びせ掛ける。トラファルガーは僅かに目を細めはしたが何一つ言わず濡れた頭を持ち上げ首を鳴らした。横で同じく濡れたユースタスを見ると完全に遺憾の表情が浮き出ている。トラファルガーが『ユースタス屋』と咎める様にして呟くがユースタスの耳には届かない。
海楼石に戒められた白い足が前に有る皿を踏みつける。容易く皿は砕け、足裏から赤い血が一筋流れ出す。
ぴくりと看守が片眉を上げ、青筋を浮かべるユースタスを見下ろした。
何れの看守も身に付けている筈の黒レンズをしていないあたり、位ばかりは高いのかとトラファルガーが品定めをするようにその光景を眺めた。
『……。』
『仲の良い手錠、外す気か?』
言いながら看守が不快に笑う。ユースタスは黙って首を持ち上げ、吊り上げた瞳で射抜くようにして相手を睨み上げた。 初めてユースタスとトラファルガーの距離が離れる。向かいの懲罰房の鍵が静かに開かれた。
両手両足を海楼鎖で縛られたユースタスが壁に背を預け胡座を掻くようにして座っている。足を踏み入れた懲罰房には何も無かった。ぽっかりとした狭さが分かるだけの閉鎖的な空間。トラファルガーと伴に入っている牢よりもずっと明るく、それは四面に備えられたランプによるものだった。
ユースタスが殺気をぶつける看守が前に立つ。肩書きばかり持ち上げる制服を纏った、何処までも愚劣で、腐ったような眼をしている人間だった。
「お前の美学に反したか?」
「……。」
ユースタスを見下ろし喉で笑う。同じ笑い方でトラファルガーが浮かぶが、不快の種が違うとユースタスは感じた。
「何か言ったらどうだ。」
何を期待しているのか、つまらなげに吐き捨てる。 初めて牢へ入る際に目にした看守は何処までも機械的ではあったがただ職を真っ当するだけの看守だった。しかし今目前で笑う看守は全く愚かでタチが悪いとユースタスは決め込んだ。
「諭して欲しいってか、政府の犬。」
「……あ?」
ユースタスが鼻で笑いながら強い眼光を当てた。
「どの島行っても善良な振りした面下げたてめェら犬が心底哀れだっつってんだ。非力な庶民共の味方を気取り、実際は海を駆ける度胸も力も無え腰抜けばかりだ。」
制服の男の顔が醜く歪む。豚小屋の豚はどちらだか分からないとばかりに赤い髪の男が笑った。
瞑想など生温い懲罰で済むはずが無い。そのような物が既に廃れた事はユースタスが背を預ける壁に染み着いた年期ある血痕が物語っている。
「……ッ、」
「只で済むと思うなよ、…海の屑が」
顔、首、肋。直ぐに浮かぶ数々の痣。ユースタスが赤い唾を看守の足に吐き付け、掴み上げられた髪に反抗する事なく無表情に首を鳴らした。強く赤い瞳が更に看守を憤らせる。
殴打の音、擦れる音。
一人残された牢に居座るトラファルガーの耳に、届いている。
「……。」
片割れの居ない手錠。
或る感情を孕んだ青黒い瞳が、空いた輪を映した。
ペンシルバニアの銃狂い
to be continued -
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