片道切符を二枚
のし掛かられたまま 俺は右腕を奴の肩を阻む様に力無く突っ張り、奴は俺の両の肩を頑なに掴んだまま読めない瞳を向けて居た。
橙が徐々に西側へ移る。この時期の夕刻は気が早く、陽射しが動くにつれて目の前の顔の明暗が鮮やかに塗り替えられる。目を細めた自分の目尻が熱い。空気に触れてすう と濡れた感覚をぼんやりと受け止めた。数秒前に男が目元から頬へとかけて熱い舌をなぞらせたそこはずくずくと皮膚の下に何かが蠢く様で、込み上げる下腹からの嗚咽と粟立つ肌が、気持ち悪い。身体が冷える様に熱くて心臓が不規則な暴れ方をしている錯覚に陥る。
「…っなせ、……!」
「嫌だ。」
途切れる息が上手く行かなくて、苦しい。右腕に込められるだけの力を以て奴の顔を見ずにやっとの思いで出した言葉は直ぐに打ち消されてしまった。
肩が、顔が熱い。
これは、もう、
「、……頼、むから…っ!」
「……ユースタス屋?」
込み上げるそれは懐かしいと言わざるを得ない数日前のものと紙一重に酷似していた。頭の中でざあ、と灰色のノイズの具象化されたものが舞って圧迫感に押し潰されそうになる。
「……っ…」
俺はとうとう、手汗に濡れた右の手の平を口許に当てて寒気と吐き気を堪えた。こうする他、無いのだ。閉じた瞼は自然と力を入れてしまい男の最期に見た顔は言い表すには到底言葉が足りなく、それでも僅かな戸惑い、が
「……トラ、ファルガー…ッ……」
「楽にしてな、…上がるぞ。」
「…なっ、……!?」
これが最後だ、と仕方無しにそれでも懇願するかの様に名前を呼んだら
床にじっとりと汗を掻いて着いていた背中に片腕を回され、両の膝裏にも同じ冷たさを覚えた。追い付かない頭と治まらない込み上げが拍車を掛けて、次の瞬間に襲う身体を浮かされた感覚にこれ以上退き所の無かった血の気が完全に姿を消した気がした。
「や、めろっ…!」
「あ?」
「降ろ、せ、」
「命令するな、黙って運ばれてろよ。」
いつの間にか脱がされて居た靴に気を遣る余裕も無いままにトラファルガーは俺を抱えて上がり込みやがった。
直ぐに辿り着く部屋を一瞥してそのままベッドへと足を向けられる。
ぐるぐると回る気持ち悪さと奴が触れる箇所全てが肩と頬同様に脈打って意味が解らなくなる。助けを求める対象なんて無く、この男の細腕にただ、爪を立てた。
そうして信じられない程ゆっくりとそこへ下ろされた。慣れ親しんだシーツの肌理と匂いに張り詰めていた気が少しだけ弛む。いつもは邪魔で上げている前髪ももう、走った倒れたで視界に掛かるほど垂れてしまっていた。奴に運ばれた事への放心がどうしようも無く、汗が伝うのが分かる額へ腕を当ててから目を覆った。
ぎし、と腹の脇辺りが軋んでトラファルガーが腰掛けた事が分かる。
「…そんなに、」
「…………ぁ……?」
額にぴたりと冷たい手の平が添えられて、そのまま撫でる様にして汗を拭われた。その流れで髪に指を通して来る。
だから、触るなって、俺は、ずっと、。
「そんなに、吐く程俺が、…ゲイが嫌か?」
「…………、」
手を止めると同時に静かに響いたその声は、隠した目を使わずとも相手の表情が取れた気がした。
俺は、口を開けない。
開かなくちゃならない。
触るなと、おかしくなるから構うなと言わなくては。
その訳を、また分からないと言って逃げる他術を知らなく、
また顔を隠すのか。
「……なあ。」
頭を這う冷たさが、離れた。
「ユースタス屋。」
「……お前、が、」
「……。」
腕を顔から退けて離れたそれを、掴む。
「お前が、触る から、」
「…ああ」
「鳥肌、立つし、吐き気、はするし、」
「うん。」
「熱くなって、…分かんなくなって、…怖く、なる。」
「……うん」
「どうしたらいい、とか、」
「………」
「こんなの、俺、まるでっ、…」
「………そうか」
「……ッ……」
俺は、。そうまた口を開こうとした。
言い出してしまったらもう止まらなくなるそれを阻むようにしてトラファルガーは笑うように息を吐いてからへばり着いて来やがった。
だから、触るなって、言ってんだ。こいつは何も分かっちゃ居ない。人の話を聞け。殴りたい。
もう十分だ、とトラファルガーは呟いてから頭を腹に擦り付けた。
ふふ、と相も変わらず笑う息が擽ったくて、幾分か楽になってしまった吐き気と熱に気を留めながらも
その髪を引っ張ってから唯一変わらない動悸をどうしようかと思う。
「お前、そんなに俺が好きなのか。」
馬鹿な事を言う変態も、どうしようかと思う。
部屋は薄暗く、奴を染めて帰って行った橙は見る影も無かった。
to be continue-
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