闇に溶けた日、ぬくもりの心地を忘れた。あとに残した奇跡は輝きを失う。悲しむものはいなかった。その瞳に憎悪が揺らめく。









音を立てて倒れたのは自分とよく似た男だった。最後まで無様な抵抗をしたが、死ぬのは呆気無いものだ。杖を向けて呪われた言葉を紡ぐだけで冷たくなって動かない。
少年は冷ややかな視線を貼り付けたまま、まったく表情を変えない。骸となった男を一瞥すると、自分の背後に目をむけ、男と同じように床に倒れている老夫妻を視界にいれた。しわがれた掌は硬く握り締められている。会ったことも無い自分たちの孫を見て恐怖のあまり無意識に力を込めていたのだろう。男は自分を殺そうとした息子を見てどんなに恐ろしい思いをしただろう、と思うとリドルは意識せずともごく自然に嘲笑した。
彼らに対して抱いている感情があるとすればそれは決して一般の家族に見られる(“家族”という言葉は少年にはあまりに無関係だ)ごく普通の感情ではなかった。年月とともに積み重ねられた“それ”は少年の心に暗く影を落とし光を蝕んでいたのだ。

少年は自分を縛る憎悪に決着をつけた。そしてそれは彼に虚空のような孤独を齎した。











まだ戻れたはずだと彼女は言った。
その頬は乾いたままだ。


「…絶望じゃない、失望。」
希望は絶たれた。少年は殺してしまった。しかし彼女の胸に訪れたのは失望なのだという。
彼女は少年が全てを忘れ光の下で生きていくことを望んだが、それは果ての無い暗闇の中で独り太陽を探し続けるような、孤独な思いだった。
「その手と口が後戻りは出来ない過去と果てない頻闇の未来を作り出したのね。」
彼女の言葉は少年の胸のうちに溶けていくように吸収された。そして新たな想いを作り出す。少年は彼女のくらい瞳を見つめた。その暗さは自分の暗黒よりももしかしたら深いのではないのだろうかと思わせた。
彼女はソファの上で足を組んでいる。睫毛が影を落としていた。先ほどまで罪を冒した彼の手を忌々しげに見ていた彼女の視線は、もう二度とリドルのそれには向けられなかった。彼女の前で少年は既に人殺しでしかない。
「どう思った?」
ソファにもたれたままリドルはアヤの強張った顔(しかしそれは恐怖からではない)を見て訊ねた。彼女の思っていることを真に知りたいと思ったのだ。
「軽蔑、憤り?それとも…」
アヤは視線を合わせないまま顔を上げた。長い髪の毛がするりと流れる。
「…あなただけを責めるつもりは無いわ。ひとは結局ひとでしかないのよ。」
核心に近付いた真実こそ奥底に隠される。彼女もしょせん真実を曝け出すつもりなど無いのだ。








無感動に羽根ペンを奔らせていると彼女の指先が目に入った。青白く細い。当たり前だが、人など殺めたことの無い掌だ。リドルはそれに魅入る。アヤは気付いているのかいないのか、何も言わずに文字を書く作業を続けていた。
彼女は少年に何の言葉もかけなかった。全て甘受する彼女の姿勢は、少年に寛容さというよりむしろ拒絶を感じさせた。或いは諦観。儚むアヤの瞳は以前よりも深い暗黒を宿している。それが勘違いであっても、少年の闇は彼女の持つ闇とは明らかに異質のものだったので、彼女の内側に入り込むことなど出来るはずも無かった。
リドルは罪を冒した自分の掌と無機質なままの彼女の掌が決して重なることは無いだろうと悟った。そしてそれは完全なる孤独だった。











「あなたにはもう失うものなど無いのでしょうね。」
彼女の自嘲めいた科白にリドルは眉を顰めた。
「全て捨てて…私からも奪っておいて、…失うものがあるとしたら不公平だわ。」
アヤは奇妙に顔を歪めている。
リドルは今現在自分の内に残っているものはいったい何なのだろう、と考えた。咀嚼した末に出た答えが自分とともにあるたった一人の存在だったが、彼女はもう自分をその対象として認識していないのかもしれない。少なくとも、今の彼女の瞳には自分に対するぬくもりの片鱗も感じられなかった。
「…失うものがあるとしたら、それは命だろう。」
リドルは、口から吐き出されたその滑稽な言葉に自分でも反吐が出そうだった。死に対して畏怖は感じるが、それをこんなに惨めに感じたのは初めてだ。
彼女は恐らく冷めた目で皮肉のひとつでも口にするだろう。リドルは居心地の悪さを感じた。しかし、その後放たれたアヤの言葉は彼の心に酷く虚しい悔恨を刻み付けた。
「結局、あなたにとって私はその程度でしかないのよ。」
乾いていた彼女の頬に一筋の水滴が滴り落ちていた。










「あの日、僕がやつらを殺さなかったら、君はまだ僕の隣にいてくれただろうか。」
風が吹く丘の上でリドルは訊ねた。アヤは背を向けたまま答えない。
リドルは彼女の背中に手を伸ばしたがそのまま抱きとめることなど出来るはずもなく、その手は行く宛も無く中空でとどまった。
卒業の日、リドルの手が彼女と触れ合うことは無かった。










彼は悲しいさだめの上に生まれた。しかしそれは仕様の無いことだった。運命はかなしくまわる。
彼女は彼に出会った。
人は誰しもどこかに闇を抱えているという。だからこそ彼女は彼を救おうとした。彼は憎しみを切っ先に憎悪を連ねる。
彼が命を奪ったとき、彼女の希望は潰えた。二人の絶望は呼応しているはずだった。



少年は闇に溶ける。
軌跡は失われた。






***





ぬくもりの心地を忘れた。あとに残した奇跡は輝きを失う。悲しむものはいなかった。その瞳に憎悪が揺らめく。何度も死の呪文を口にしながら、時折何故か酷く寂寞が溢れ出した。その原因はわからない、わからないが、目に浮かぶのは暗黒だった。
あの日、少年は大切なものを失った。しかし何を無くしたのか、もはや思い出すことが出来ない。かすかに頭の隅に残る影を思い出すが、影は影のまま変わることは無かった。

誰かを泣かせた気がする。
ずっと昔に、
とても大切な誰かを。

暫く思考を傾けるが、やはり思い出すことは出来なかった。それは仕方の無いことだった。少年――今ではもう青年となった彼は、空に手を伸ばす。いつの日か、何かを掴み損ねたその手が、再びそれを掴むことはもう二度と無かった。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -