肌寒さを感じて目を覚ました。虫の音が止まることなく響いている。
あたしはぼうっとしながら冷たい空気から身を隠すように、薄い夏用の掛け布団を肩まで引っ張った。
いつもより大きく聞こえる虫の鳴き声に違和感を感じて目をうっすら開けると、霞む視界に全開の窓と白いシンプルなカーテンが風に揺られているのが見えた。

窓を閉め忘れたんだろうか。

わざわざ起き上がって閉めるのも面倒だと、ぼんやりした頭で考えていると、窓のすぐそばに、この部屋には異質な影が目に入った。
月明かりに照らされ壁にもたれている姿はとてもうつくしくて、あたしは未だに働かない頭でその影を見つめていた。

その影の人物は腕を組んであたしをじっと見つめていた。月光のもとで見る顔には、見覚えがある。

最後に会ったのは二年前。それから一度たりとも顔を合わせていない。
少し大人びたように見えるそれは、長い付き合いを持つ友人に似ていた。


夢を見ているのかもしれない。そう思って、薄目で彼を視界に留め続けた。まだ瞼が重い。
部屋の中には夜の静寂が満ちていて、虫の音とカーテンの不規則な動きだけが唯一時間が流れていることを教えてくれているようにも思える。
彼は目を細めて私を見つめたまま、ようやく言葉を発した。

「アヤ」

――と。


名前を呼ばれてようやく脳が働き始める。
まさか夢の中に彼が現れるなんて。
しかも会っていなかった二年分の成長をした姿で?
とてもリアル。

あたしが返事をしないうちに、彼はもう一度「アヤ」と呼んだ。今度はさっきよりもはっきりした口調で。
あたしはまだ答えない。答えられない。
夢であるこの状況に違和感を感じていたし、少し、……ほんの少しだけ、怖かった。
夜の薄暗い世界で月に照らされ、かつての友人だった男が部屋の中にいる。
招いた覚えはない。明らかにおかしい。


彼はまたあたしの名前を呼ぶと、こちらに歩み始めた。足音さえたてない優雅な足取り。
ベッドの中でその姿を眺めていると、彼はベッドのすぐそば――あたしの近くに立った。
そこでようやく彼が本当にあの友人であると判断できた。微笑を浮かべてあたしを見下ろす彼の顔は、間違いなく昔の友人と同じだった。


「…リド、ル…?」
「そうだよ」

そう云ってリドルはあたしを覗き込むように体を屈め、私の頬をなぞった。細い指先がするすると肌の上を移動し、唇の上に到達する。
夢?と訊ねると、リドルは首を横に小さく振った。

そうか、夢じゃないのか。

あたしはこれが現実であることを認識すると同時に、昔のリドルのことを頭に思い浮かべた。


リドルは、孤児院でともに育った友人だ。物心がつく前から、あたしのそばには常に彼がいた。
幼いリドルを扱いきれなかったらしい院長は、よくリドルと一番親しかったあたしを頼ったものだ。
並程度には友人がいたあたしとは逆に、リドルにはあたししかそういった存在はいなかったように思うし、作る気もなかっただろう。

信じがたい話だけど、十一歳になった時、彼は魔法使いの学校に通うことになった。
夏休みだけ寮から戻ってくる彼に、あたしは多くの話を訊ねたものだ。
魔法学校では一体何を勉強するのか、先生や生徒はどんなひとたちなのか、空を飛べるってどんな気持ちなのか。

魔法を見せてほしいと頼んだことはあったけど、未成年は学校以外で魔法を使ってはいけないとかで、結局目の前でリドルが魔法を使うところを見たことがない。
だから正直、魔法なんていまいち信じてないんだけれど。

あたしはずっとリドルのことが好きだった。いつからなのか覚えていないくらい昔から。
嫌みなところも意地の悪いところも、たまに見せるやさしさも、ぜんぶぜんぶ大好きだった。

だから、あたしを引き取ってくれると云う親切な老夫婦が現れた時は、嬉しい誘いなのに悲しかった。
あたしがあの孤児院を出たのは十六の時だ。老夫婦は半分大人になりかけているあたしなんかを気に入り、いっしょに暮らそうと云ってくれた。
彼らの善意はとても嬉しかったけど、そうなったらあたしはもう夏にリドルに会うことはない。
あまり気が進まなかったけど、ただでさえ苦しい孤児院経営を、あたしのわがままのせいで余計にひっ迫させるわけにはいかないことも、ちゃんとわかっていた。

あたしはリドルに手紙を書いて、次の夏にリドルに渡してくれるよう院長にそれを託して孤児院を出た。
魔法学校へ手紙をすぐに送らなかったのは、あたしたちがリドルを裏切ったからだ。
リドルが魔法学校から帰ってきた時にあたしが迎えることは、あたしたちの間で交わされた当然の約束だった。



「どうしてここにいるの…?」

上半身を起こしてリドルと向き合う。
ここは老夫婦の家でありあたしの暮らす場所だ。大きな屋敷で、玄関は使用人が見張りをしているはず。こんな深夜に、屋敷に招き入れるはずがない。
彼はこの真夜中にどうして、どうやって入ってきたのだろう。
あたしの問い掛けに対して彼は無言のまま、微笑を浮かべ続けている。

「……答えて」

昔から見知った男とはいえ、こうした雰囲気の中だとやっぱり怖い。
笑みを浮かべたまま何も口にしないことが余計に恐怖を誘った。

あんなにリドルが好きだったのに不自然なくらい再会の喜びに対する気持ちが湧き上がらないのは恐らく、彼の纏う雰囲気があたしの知っている彼じゃないからだ。

この肌寒さは開いたままの窓のせいなのか、それとも目の前の彼のせいなのか。


「…リド、」
「こんなところで幸せに暮らしてるアヤなんて必要ない」

発された彼の科白を聞いて、あたしは言葉を飲み込んだ。

あたしが、必要ない?


リドルは、こんな刺すような、凍てつくような微笑をあたしに……あたしに向けるような男だっただろうか。


「…あたしが離れたこと、怒ってるの?」

そう云うとリドルの顔から微笑がすう…と消えた。
代わりにこの世の全てを蔑むかのような、憎しみの感情を込めた無表情であたしと目を合わせたあと、再び笑い始めた。
はじめは押し殺していた笑みが、大きな笑い声になる。
リドルは哄笑していた。

「…っく、ははっ、」
「……」
「はははははっ、…っ、ははっ」

無意識に掌を握りしめていた。リドルを見て緊張している。
リドルはこんなふうに笑ったりしない。あたしの記憶のなかのリドルは、違う。

少しのあいだ笑い続けて、やっと笑いが治まったらしい。リドルはあたしが寝ているベッドに腰掛けた。
笑みはまだ浮かんだまま。
リドルが座ったせいでマットは落ち込み、太腿のあたりを掛け布団の重みが圧迫した。

リドルとの距離はさっきよりも近くなり、高さも同じくらいになる。
月明かりのしたで微笑むリドルは怖いくらいに綺麗だと思ったけど、その微笑はあたしがそんなことを考えているうちに消失した。
虫の音が作り出す静寂の中、リドルは上半身を少しだけこちらに乗り出させて云った。


「――僕を苛つかせる能力に長けているのは変わっていないわけか」


彼の声と視線は、あたしの体を硬直させるのに充分過ぎた。
明らかに空気が違う。
リドルは怒っている。それも、今まであたしがリドルの怒りに触れたのとは比べものにならないくらいに。

彼の怒りの琴線に触れたあたしは何も言えず、ただ目の前でつめたい光をたたえ鋭くねめつける瞳を見ることしか出来なくなってしまった。


「十年以上の月日をともに重ねてきたのに何も、何一つわかっていない。何故偉大なるスリザリンの血を受け継ぐこの僕がお前のような穢れた血をそばにおいていたと思う?お前がいなかったあの夏、何を伝える予定だったかわかるか?その結論を導き出すまでにどれだけの覚悟が必要だったか想像出来るか?お前は裏切った。裏切り者は必要ない。裏切り者には“死”在るのみだろう?」
「……な、にいって…」

穢れた血?
スリザリン?
血を受け継ぐ?

――わけがわからない。

彼が口にした言葉はあたしが今まで一度も耳にしたことのないもので溢れていた。
あたしは少なくとも蔑まれている。
リドルは、偉大なるスリザリンの血を受け継ぐ……。
あたしは、ならばあたしは…、


“裏切り者には 死 在るのみ”?



「……ああ、そういえばアヤは見たことがなかったね」

リドルは意義を消失した笑みを浮かべ、笑わない笑顔を繕って言った。
硬直した体が動かない。
何も言えない。何も。


「魔法を見せてあげよう」


ベッドのそばにあるサイドテーブルの上には花瓶が置いてあった。白地の陶器に薔薇色の微笑を浮かべる天使の絵が描いてある。十九世紀の有名な職人が丹精込めて作り上げた傑作なのだそうだ。
あたしを引き取った老夫婦が贈ってくれたとても大切な宝物。だからこそそれにはいつも大好きな花を飾った。今だってほら、赤い花が何輪も。
リドルはその花瓶に棒のようなもの――彼がいつも肌身離さなかった杖だとわかった――を向けた。

何をする気?
魔法…?

何も云わないままリドルの動作を見ていると、リドルはそのまま何か一言口にした。
それだけで、たったそれだけで、花瓶は粉々に砕けてしまった。
あの美しい天使の面影など何処にもない。
彼は花瓶を冷たく見据え、あたしは呆然とその有り様を眺めていた。

これが魔法。
一言で花瓶など簡単に粉砕出来てしまう、この力が魔法なのだ。


「……ひどい……」

ベッドから足を下ろし、花瓶の欠片へと近寄った。

ひどい。ひどい。
あたしが初めて大人から愛されて貰った大切なものだったのに。ずっと大事にしようと思っていた宝物だったのに。
いとも簡単に壊してしまった彼を恨んだ。以前の形が無いのは天使だけじゃない。
あたしが好きだったトム・リドルの面影もすぐそばであたしを見下ろすこの男には微塵も無い。


「これがあたしにとってどれだけ大切だったか知らないくせに……」
「……」
「直して。その魔法とやらで出来るんでしょう?」

陶片を手で集めた。ちくちくした痛みも感じたけど、花瓶が直るならそれで良かった。
湧き上がる怒りのせいか、リドルに対する恐怖心は多少軽減されたようで、あたしはリドルを睨んで割れた花瓶の一欠片を差し出した。
リドルは腕を組んで、相変わらず肌寒く不愉快な笑みを携えてあたしを見ていた。
彼のこの笑みはいったい何なのだろう。

「君にとってそれは大切なものだった?」
「大切なものだよ。おばあちゃんとおじいちゃんに貰った、……凄く大事な……」

だから早く直して、と云う前に、リドルは笑顔を深めて信じがたい科白を口にした。


「じゃあ奴らの遺した遺品もたいそう大事なものなんだろうね」


――今度こそ、あたしの時は完全に止まる。

奴らの遺した い ひ ん ?


「……のこした…って……」
「嬉しいだろうさ。生前使っていたものを死んだあとも大事に使い続けてもらえるなんて」
「…し、ん……」


目の前が真っ暗になり、急激にこの部屋の温度が下がっていったような感覚がした。
心臓がドクリと嫌な音を立て始める。
体中から血の気が引いていくのを感じた。



「……嘘、でしょう?」
「嘘じゃない」
「…嘘……」
「違う」
「…嘘、嘘よ」
「やつらは死んだ」
「嘘つかないでッ!!」


今までに出したこともないような大きさの声を放った。少なくとも、リドルにこんなふうに怒鳴るのは初めてだ。

おじいちゃん、おばあちゃん。二人が死んだとリドルは言う。
そんなのはありえない。あっちゃいけない。切望してようやく掴んだしあわせだったのに、あの楽しかった日々がこんなことでいとも簡単に壊れるはずがない。


おばあちゃんは母親のように料理をたくさん教えてくれた。いっしょに夕飯を作って三人で食べる品はどれも絶品だった。
おじいちゃんはあたしのために棚を作ってくれた。アールヌーボーのデザイン。拙いものだと言っていたけど、貰った時は本当に嬉しかった。
昨日だって三人で近くのレストランに食事に行って笑い合った。
なのに、それなのに、
この一晩で二人がいなくなるなんておかしい。どうかしてる。


「…馬鹿言わないでよ。二人が死ぬ理由が何処にあるというの?デタラメはやめて」

いくらあたしに怒っているのだとしても、こんな嘘、タチが悪い。
彼らが命を落とす理由など無い。
そうだ、何かあれば警備員も使用人も、みんなあたしに知らせるだろう。
リドルの言っていることは無茶苦茶だ。嘘に決まってる。

冷静に考え直し始めたあたしの様子を感じ取ったのか、リドルはまるで見下すような口調で言った。


「僕が殺したんだ。……魔法でね」


瞬間、あたしはリドルの頬を叩いていた。乾いた音が部屋の中に響く。
予想外のことだったらしく、ずっと余裕を持ち落ち着き払っていたリドルは驚いたように少しだけ目を見開いてから、あたしに目を向けた。
頬を叩いた右手を掴んで、今度は妖しく口端を吊り上げる。

ああ、このひとはリドルじゃない。
あたしの思い出の中のリドルは何処にいってしまったというの。


「…あんたは誰?」
「……」
「あんたは違う、リドルじゃない。リドルはあんたみたいに下劣なこと、しない」
「……へぇ、」

相変わらず胸はドクドク煩かった。
二人の安否が心配なうえに、この男はあたしを殺す気かもしれない。それだけで体中の神経は研ぎ澄まされる。
頭は不自然なくらい冷静で、あたしはリドルを睨み付けた。


「よくわかってるじゃないか。褒めてあげるよ」

あたしの右腕を掴んだまま静かに話し始めた。強く掴まれたソレはびくともしない。
隙を見て彼の前から逃げなければ。あたしは彼の空間から脱する時を伺っていた。

「確かに君の見知ったトム・リドルはもう何処にもいない。あの忌々しい名は葬り去られた」
「……」
「ヴォルデモート卿の手によってね」
「…ヴォル、デ、モート…?」

トム・リドルという名前が葬り去られた?ヴォルデモート卿?
リドルが自分の名を酷く嫌っていたことを思い出した。
彼は名前を嫌うあまり、あたしにファーストネームを呼ばせなかった。それはもう彼が魔法学校に行く前からずっと。

バカバカしい。

名前を捨て別名を名乗ったところで何が変わるというのか。自分の過去を消せるとでも?
くだらない。くだらない。


「君の腕を掴んでいるのはヴォルデモート卿だ」
「……リドル、」
「トム・リドルは死んだんだ」
「…死んでない。いまあたしの目の前にいる」

あたしの科白を聞いてリドルは失笑した。

「リドルだと云ったりリドルではないと云ったり、矛盾した女だな」
「してない。あんたはリドルだけどリドルじゃない。それだけの話でしょう」
「二度とその名を口にするな」
「……だったら、…ヴォルデモートは二度とあたしの前に姿を現さないで。今すぐここから消えて。あたしにリドル以外のリドルなんて必要ない。あたしが好きだったのはトム・リドルであってヴォルデモートじゃない」
「……」
「あんたは違う。あんたじゃない。リドルの姿で、リドルの顔で、リドルの振りして、リドルの指であたしに触らないで」


思い出の中のリドルは絶対的だ。それは誰も揺るがすことは出来ない。リドル自身でさえ。
許せなかったのは、リドルが変わってしまったことじゃない。あたしの中のリドルを土足で踏みにじろうとする、その行為が憎たらしくて仕方がないのだ。


「……過去に縋りついて身を滅ぼす気か」

男は無表情を顔に貼り付けている。その声からは冷淡な響きと、微かにトム・リドルを思い起こさせる“呆れ”の感情が感じ取れた。
あたしはリドルの瞳をただ見ていた。闇に暗く輝く静寂の目。それはあたしが愛したものと少しも変わらないのに。


「現実を知れ」


リドルの手が緩み、その隙をついて腕を強く振り払って、あたしは扉の外へと逃げる。
馬鹿な女。そう云った彼の声が後ろから聞こえた。

向かったのは二人の寝室。再び不安と恐怖が入り混じったものに心が支配されそうになる。
もしかしたら、もしかしたら殺されているかもしれない。
さっきはまさか、と思っていたが、あの男の様子を見ているとそれが現実に起こらないとは言い切れない。
むしろ殺されている可能性の方が――。

そこまで考えて思考を振り払った。
そんなわけない。何かあったなら誰かが気付くはずだ。見回りだっている。だから大丈夫。……大丈夫。

今走り続けている廊下の壁に飾られた絵画はいつもと少しも変わらないのに、まるで奇妙な闇の世界に迷い込んでしまったかのような心地だった。
冷静になろうとしてもなれっこない。走るのにも足元が覚束ないくらいだ。ちゃんと進むことは出来ているだろうか。

リドルは追ってきてはいないようだ。二人の寝室は一階の奥にある。
あたしの部屋からそんなに離れていないのに今は凄く遠く感じた。

あたしはここに来るべきじゃなかった。あたしのせいでおじいちゃんとおばあちゃんの身に危険が降りかかるなんてこと、絶対にあってはいけなかった。
ここに来なければ、あの夏もその次の夏もいつも通りリドルを迎えて、ここまで捻れることはなかっただろう。
そうしたらリドルは、あたしの好きなリドルのままでいてくれただろうか。あたしを憎まずにいてくれただろうか。
もう今更、なにもかも遅いのだけど。


ようやく二人の部屋に辿り着いた。扉の前に立ち取っ手に手をかける。外からだととくに変わった様子は見られない。
手が震えている。足も力が入らない。もしかしたら立ってるだけで精一杯なのかもしれない。
どうか生きていてくれますように。
どうか、どうか…。


ガチャリ。扉を開くと金属が擦れる音がした。
ゆっくりと奥に押す。
夏の夜の風が立ち入るのを阻むように吹いた。
既視感、そして嫌な予感。あたしは躊躇うことなく強く扉を押しやった。
あの男があたしの部屋に入ってきたときも、同じように風が入ってきた。窓は全開で、カーテンが揺られていた。
今あたしの目には、それと同じ光景が映っている。
開かれた窓、なびくカーテン。床にはキラキラ輝く破片がそこら中に散らばっていた。
窓は開かれたのではない。割られたのだ。あの花瓶のように。

二人はベッドに横たわっていた。
肌が青白く見えるのは、月の光に照らされているから。きっと、そうに違いない。

血が出るのも厭わずベッドの方へと足を運ぶ。そばにいくと、いつも通り寄り添って目を閉じる二人の顔がよく見えた。
結婚して何十年経っても仲が良くて、あたしもいつかこんな夫婦になりたいと思っていた。

ゆっくり手を伸ばす。
おばあちゃんの頬に触れると、異様な冷たさが指先から伝わった。夏の空気に身を冷やしたのだと言い訳するには不自然なほど。

体が震える。手を自分の口元にやり、二人のことを見つめた。


「……お、ばあ、ちゃ……」

二人は死んでいた。

「…や…だ…、い、やああああッ!!」

金切り声を出さずにはいられなかった。
二人はまるで眠っているかの死んでいる。息をしていない。肌が冷たい。目が固く閉じられている。
涙すら出てこなかった。状況把握が出来ない。ただただ怖くて、悲しくて、叫ぶことで感情を発散させた。

「やだ、やだ…っ!起きて!起きてよ!!」

二人の体をいくら揺さぶっても、全く起きる気配はない。
あたしのせいで二人は死んだ。
あたしのせいで、こんな優しい人たちが、命を落とした。
あたしのせいで。

「起きて!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!おじいちゃ…お願いだから…っ」

無我夢中で呼び掛ける。


「あたしを独りにしないで…!!」




過ちは、リドルを裏切ったこと?
唯一心を許し合った存在を置いて、あたしはひとり平凡なしあわせを手に入れた。
あたしとリドルの空白の年月のあいだ、彼はどんどん変わっていった。
あたしを憎み、恨み、今夜、あたしの全てを破壊した。

わかっている。この屋敷に住まう者は皆、彼により命を奪われたに違いない。使用人も警備員も、きっとこの世の存在ではなくなっているだろう。
あたしから何もかも奪うためにここまでやり遂げたヴォルデモートが、今はただ、にくい。


「現実を理解出来たかい?」

返事はしない。
この男の顔を見たくなかった。

「当然の報いだろう?裏切り者と反逆者にうってつけの罰だ」

あたしは死んだ二人の顔をぼんやり眺めていた。相変わらず涙は出ない。
悲しみ、憎しみ、怒り。他にもありとあらゆる負の感情が心を支配し、心の中で二人に向かって謝り続けた。
こんな形で終焉を迎えたあたしのしあわせ。それは何にも代え難く、ずっと守っていかなければならない大切なものだった。

「……てよ」

それと同様に、リドルとの関係も守っていくべきだったというのか。変わらぬと信じていた絆を、永遠に続けていくことをリドルは願っていたのかもしれない。
過去に縋り付いているのはあたしだけじゃない。
リドルも愚かしく、馬鹿な男。


「消えてよ、お願い。……消えて」
「僕が君の“お願い”を聞くとでも?」
「…あたしの目の届く範囲から、いなくなって」
「……」
「じゃないとあたし…」

――リドルまで憎んでしまう。



影から彼が壁にもたれているのがわかっていたけど、あたしは一度も振り向かなかった。
言葉はもう力を持たないだろう。あたし自身も、負けてしまった。

どんな表情をしているのか全くわからない。だからこそ怖い。
あの男はリドルだ。でもリドルではない。


「僕は君に罰を与えるためにここに来たんだ」

彼はいつの間にあたしの後ろまで移動し、背後から抱き締めた。あたしが抵抗を試みている間も、ぴくりとも動かず、ただ耳元で話し続ける。

「はなし…っ、放して!」
「君の大切なものを壊して、それで終わったと思う?」
「放してよ!」
「まだひとつ、やり残したことがある」
「…っ殺したければ殺せばいい!!」

決して切れることのない鎖のような腕の中で、大きく声を荒げた。

「あんたが望むなら殺せばいいじゃない!!あたしは…っあたしはもうこの世で失うものなんか何もない!!」
「……」
「あんたを残して消えたのがあたしの罪ならば憎めば良い!けれどあたしもあんたを絶対に許さない。あんただけは、ヴォルデモートだけは…っ、絶対に許さない…!!」

憎しみは連鎖する、とはよく言ったものだ。
こうまで捻れたあたしたちの関係は、もう修復出来ない。



ねえ、リドル。
あたしは思ってたよ。
あの日、ああしてあなたを置いて行ったけれど、いつかまた再会出来る日が来るのだと。
それは容易なことだと、勘違いをしていた。




「君が引き取られて行ったことを知ったあの夏、君からの最後の手紙を読んだあの日、何も知らない僕は君に、ともに生きていこうと、ずっとともにいようと告げる予定だった」
「……」
「駆逐すべきマグルだとしても、アヤだけはそばにいて欲しいと、伝えようと思っていた」
「……放して」
「君を愛してた。だから君がいなくなったと知った時、憎んだ」
「…放して」
「君を奪ったもの全て、消してやろうと思った」
「放して!!」

――狂気は、トム・リドルの中にも潜んでいた。
ヴォルデモートと同じように、けれどそれをじっと押し殺して、あたしとの十年近くを生きていた。

ならば、リドルとヴォルデモートの違いは……?
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
あたしの知ってるリドルが、ヴォルデモートと同じように狂気を孕んだ存在なのだとしたら、あたしの心に確固たる記憶として存在し続ける彼は一体誰なのだろう。


「……い」
「アヤ」
「お願い、放して、お願い…」

頬を雫が伝ってゆく。
二人が死んでも流れなかったのに。

「君は殺さない」
「…おねが…、」

彼は強い力であたしを自分の正面へと向かせた。暗く妖しい光を放つ彼の瞳にぼんやりと、涙を零して生気を失ったかのような表情をした情けない自分の姿が映っていた。
昔と変わらない、大人びただけの彼の姿。


「今度は自由を奪ってみせようか」


――限界。


あたしを抱き締め、嬉しそうに微笑む彼の瞳は支配欲で満たされていた。
言葉は力を失い、何もかも彼の手中に。
噛み合わない歯車はゆっくりと廻り始める。
彼は、あたしを蹂躙し、心を荒らす。


「幸せな微睡みから突然無理やり視界をこじ開けられるってどんな気分?」
「……」
「大丈夫だよ。今度は僕が幸せにしてあげるから。またあの時に戻るだけだ。君の世界が僕だけだった、あの時期に」
「……」
「そうだろう、アヤ」


何もかもが遠のいていく。
あたしの手からするすると零れ落ち、一体何処へ消えゆくのか。
大切なものを失ったこの残骸のような体はどうなるだろう。

まるで遺言のように、口にした。


「……あたしから全て奪い尽くしたくせに、思い出まで、……リドルまで奪わないで」


リドルが消えていく。
消されていく。


涙は止め処なく流れていった。次々と頬を伝うソレは彼の手によって拭われることもなく、まるで、思い出が体から流れ出ていくような錯覚さえしてしまう。


「あなたがリドルを過去へと葬ったように、あたしもともに殺して欲しかった」


最後の望みを掛けてそう呟くとリドルは、抱き締めている腕を緩め、涙で濡れた瞼に口付けて云った。
絶望への路が開かれ、再び彼は腕を絡ませ強くこの身を拘束する。


「逃がさないよ」


たったいま、あたしのなかでリドルが死んだ。






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -