まだそこは誰にも踏み荒らされていない美しい世界だった。イヴの夜に降った雪がクリスマスの朝に積もっていた。朝日はまだ登りきっていない頃。薄暗い青色の空の下、家の前に引かれた真っ白な絨毯の上を一人ザクリ、と踏みしめる。独ぼっちの足跡。生まれてからずっとイヴもクリスマスも共に過ごしてきた兄が、今年はいないのだ。

「クリスマスの朝には帰るから」

そう言って兄はイヴの日に恋人と出かけていった。きっとその恋人と昨夜降り始めた雪を眺めて、ホワイトクリスマスだね、なんて言いながらロマンチックな夜を過ごしたに違いない。俺はといえば、クリスマスっぽく両親と3人でケーキを食べただけで、その後は独り部屋の中でゲームをして時間をやり過ごした。兄のいない事への不満は一切口にせず、自分の中の妬ましい気持ちを抑えて、ただ約束の朝が来るのをいい子にして待っていた。
徐々に空が開けていく。空に登る太陽の光を浴びた白い絨毯は輝きを帯び銀糸へと変わっていった。もう、完全に夜も開けた。朝だ。だけどまだ兄は帰って来ない。こんなにも美しい景色が目の間に広がっているのに、一人で眺めて全く感動なんてしない。零した溜息が白へと変わり、周りの景色と同化をして消えていく。
凍てつくような寒さだけが身体を覆っていた。ダウンコートもマフラーも、手袋でさえこの寒さを埋めてはくれない。別に寂しいわけじゃない、ただ、ちょっと寒いだけ。悠太の暖かい手が恋しくて仕方無い。だって、好きだったから。これが兄へ対するただの友愛なのか、恋愛感情であったのかはわかないけれど、本当に好きだったし、今も尚好きでいる。だから、まだ夜も開けきらないうちから、こうやって玄関の前で帰りを待っている。

「早く帰って来ないと…寒くて死んじゃいますよ悠太さん……」

その場に踞って呟いた言葉に返事があるはずもなく、膝に顔を埋めると冷えきった鼻先がズボンを掠めて少し痛かった。時間だけが静かに過ぎていって、銀色の世界に俺は1人っきり。










バシャッ





いきなり頭にあたった雪塊。少し離れた所に兄泥棒が澄ました顔で立っている。そして、目の前には…

「あてられちゃったね、祐希」

柔らかい雪のような笑みをふわりと浮かべた待ち人が立っていた。綺麗な銀色の世界に現れた天使と、その後にぷらす悪魔。愛しい兄との再開を雪玉で邪魔をしてきた兄の恋人。昔の俺のバイト先に店長。悪魔だと比喩したのは兄を連れ去った事を恨んでいるからじゃない、雪玉をぶつけられた事に少しだけムカついたからだ。でも「ただいま」と言う悠太の手が俺の頭の雪を払ってくれて、触れたその手に心は少しだけ暖かくなった。

「おかえり、なさい…」

「ずっと外で待ってたの?」

「そんなわけないじゃん」

強がって吐いた嘘はきっとバレているだろう。「そうですか」と一言だけ呟いた兄が少しだけ目を細めたのがわかった。そしてもう一度だけ悠太は俺の頭を撫でてから恋人の方へと振り返った。店長が悠太に向けて軽く手を振っている。悠太の足が一歩前へ踏み出して、雪の上に一つ足跡を付けた。その歩みを俺が思わず服の裾を掴んで止めた事は店長からは見えていないだろうか。立ち止まった悠太に対して「愛してる」と口パクて伝えるキザな男。その行動を悠太がどう思ったかなんて、赤く染まった耳を見ればわかる。羨ましい程の両思い。いや、別に羨ましいなんて思ってはいないけれど、煙草に火を付けて去って行く後ろ姿に向けて舌を出したくなったのは本音。店長の後ろ姿が見えなくなってやっと悠太は俺の方を向いてくれた。

「寒かったでしょ?中、入ろうか」

「…へーき」

本当は寒くて仕方無かったけど、今は悠太がいるから暖かい。日が昇り色づいていく世界。やっと訪れた俺と悠太の二人の世界。だけど、あんなにキラキラと輝いていた雪の絨毯は既に恋人達の歩んできた足跡によって踏み荒らされていた。さっきまでの綺麗だったあの世界はもうここにはなくなっている。


「それより、悠太、今からイルミネーション見に行かない?」

「今からって、まだ朝だよ?」

「いーじゃん、ちょっと遠くの方まで行きたい気分なんですよ…」

「………そ。うん、いいよ。せっかくのクリスマスだし、いい子で待ってた祐希くんの我が侭聞きましょうか」

「わーい、悠太大好き」

本音だ。これが兄弟の好きかそうじゃないのかなんてやっぱりわからないけど、本当に大好きな人。だから、嬉しかった。イブは恋人に取られたけど、実際のクリスマスは俺の元にちゃんと帰ってきてくれた事が。優しい優しいお兄ちゃんが大好きで、大好きで堪らない。でも「何処行くの?」なんて小首を傾げる悠太の首元に赤い痕が見えて、悠太はもう俺だけのものじゃないんだという現実を突き付けてくる。そんな現実はやっぱり見たくもなかったし、永遠に訪れなければ良かったけれど、悠太が幸せそうな事もまた事実だから。俺はただ「着いてきて」と目的地も決まっていないのに、その手を握って歩き出す事しかできない。踏み荒らされた雪の上をザクリ、ザクリと二人で歩く。ほのかに香る煙草の匂いなんて気にしない。だって今、繋いでいるこの手の温もりは俺だけの物。こんな時間が、これからずっと続けばいいのに。きっと、それは叶わない事だけど。せめて今日は、クリスマスの今日だけは二人だけで何処か遠くへ…。









理想は足跡の無い銀世界


悠太とメリークリスマス」に提出
お題提供元: 反転コンタクト