【3,遭遇】






広い敷地内に響く足音。歩幅は聞いて分かる通り小さく、小刻みに歩く様子が窺える。

その足音の持ち主、都筑煉は今、本日貰ったばかりの生徒手帳を片手に学園を渡り歩いていた。

一度は両親と共に自宅へ帰宅した彼だが、明日の準備をしている際生徒手帳に誤字があることをようやくその時点で気付いたのである。

名前の欄には"都築煉"と印字されていた。正しくは"都筑煉"。何故こんな簡単な誤字にHR中気付かなかったのだろうか。


それもこれもあの綺麗過ぎる先生がいけないんだ…!


小学校を上がってすぐ高校の舞台に立った彼だが心はまだ小学生と中学生の境目。いくら頭が回り賢かったとしても先月ようやっとランドセルを卒業した内面はまだ幼い男の子なのである。

手帳の地図通りに学園を歩いているが、第一釈が違い過ぎる。手のひらの地図上では1pの距離でも実際には数百メートル単位だ。校門を通って噴水前を過ぎ、2つある教室舎とその先にあった実習舎をスルーしてやっとたどり着いた教務室舎。

すでに脚はくたくた。この学園には他にも体育館にグラウンド、そして至るところには中庭が配置されており、全ての校舎に屋上がある。


……馬鹿じゃないの。


小学校の担任に言われるまま入学したはいいが、この広さには流石にげんなりだ。

教務室舎は他の校舎と違い少し小さい。担任である王崎先生は世界史担当。その教務室はこの校舎の2階にあると地図は語っていた。

私立成王学園は創立してまだ数十年しか経っていないからだろう。あらゆる設備が新しく、階段が古臭く軋む気配もない。一段一段それを上がっていると、ふと窓から入り込む夕日に照らされた。



「わ…、もうこんな時間」



そういえばさっきから人に会っていない。今日は入学式だ、部活も授業もない今、校舎に誰もいないのは当たり前と言えば当たり前なのだろう。

急がなきゃ、と階段を2段飛ばしで駆け上がる。すると2階へ到達したところでどこからか鼻を刺激する香ばしい匂いが漂って来た。都筑の目指す世界史教務室と同じ方向へその香りは強くなっている。

数学、化学、国語科と教務室を過ぎればその香りも何の香りなのか完全に理解出来るほどとなっていた。コーヒーの香りだ。都筑の年ではまだあまり馴染みのない、大人な印象のいい香り。

英語科の前を通り、右に曲がる。この通りに目指すべき世界史教務室があるはず……だった。



「……え」



夕日に照らされた幻想的とも言える廊下。そのちょうど中央部に何か黒い影が見えた。ウネウネと動き、時折辺りを見回す動作をしているそれは…どう見ても"人ではないもの"だ。

とりあえず目をこすってみる。確かに昨日は緊張してよく眠れなかった。だからこうして目に疲れが出たのだろう。



よーく目をこすり、ぼやける視界をしばらくやり過ごして再び前を見る。



「……う、わ」



疲れから出た幻覚ではないことが証明された。しかも嫌なことに黒い影はこちらを見ているではないか。

頭のような部分に浮かぶ黄色い点と線。点は2つ。線は三日月状にかたどった、まるで顔のようなソレに都筑は思いっきり見られていた。

数秒間、目が合う。冷や汗を垂らし本能的に都筑が後退ろうとした瞬間。

三日月状の線がさらに不気味に笑った。そして聞いたこともない奇声が彼の耳を貫く。



「キェキェー!」

「うわわわわ!」



もと来た道を全力で駆ける。後ろからソレが追って来るのは近づいて来る奇声からご親切にも感じることが出来た。

都筑はこれでも運動会でアンカーを任されるぐらい足が速い。しかしそれは残念ながら小学校6年生での話だ。足の短い彼が普通の大人より遅いのはリーチの差から見て取れる。

信じられない速さで追い上げてくるソレに声にならない悲鳴を上げる。生死に関わる危機だと本能が警告しているようで、もう涙さえ出てこない。

ようやく階段が見えて来た。あそこから降りれば建物の外へと出られる。あとは人を呼ぶなりして助けを、



「……キィキェ?」

「ひっ…!」



いつの間にか真横を走っていたソレと目が合う。思わず足がもつれ倒れ込んだ。

鈍い痛みが指先に走る。おそらく擦りむいてしまったのだろう。大きめに制服を取り寄せておいてよかったとパニックの片隅に思う。小学校の頃だったら手のひらどころか私服の半ズボンで膝まで酷いことになっていたはずだ。



「キィキェキェキェー!」



突然倒れ込んだ都筑を追い越して行った化け物はこれまたご丁寧にUターンして戻って来た。廊下をジグザグ走行でクネクネと。見ているだけで吐きそうになる光景だ。



「う……」



訳がわからなかった。人生生まれてこのかたこんな危険な目に合ったことがなかったし、危ない奴に会うこともなかった。

学校では同い年の子と同じくらい遊んで、家に帰ったら勉強する。家庭教師の先生とは仲が良くて、よくお菓子を持って来てくれた。

小学5年生の頃、担任の先生が都筑は同い年の子供より一回りも二回りも頭の回転が速いことに気付き両親に進言。その日から学校より家にいることが多くなり、家庭教師だった先生は1人から6人に増やされた。

それでもそんな生活は楽しかったし勉強も嫌いじゃなくて。だから両親や担任の期待に応えてあげようとこの学校を受験したのだ。

まさか自分が高校生になるとは思わなかったけれど、きっと今まで以上に楽しいことがある。



……そう、思っていたのに。



「……っ」



すぐ目の前まで迫っていた化け物に強く目を瞑る。頭が回る彼だからこそ、わかっているのだ。自分が"コレ"に殺されるだろうことを。

世の中不公平なことばかりだとニュースを見ながら何度も思った。何も悪くない人々が自分に狂った者達に次々と殺される日々。

人間が相手だったらまだよかったかもしれない。なのに都筑はこの訳もわからない化け物に殺される運命にあったのだ。まだ齢12才でこんな死を受け止めることは出来ない。きっと死んでもこの学園をさまよったりするのだろう。


ごめんね、父さん母さん。僕は期待に応えられないダメな息子だったよ。


ようやく涙が頬を伝う。化け物の声が頭上で響き渡った。



空気を切り裂く短い音。つんざくような化け物の奇声。床に響いた金属音。



……そして、静かなる静寂。



「……?」



痛みが走ることなく静かになった廊下に疑問を持つ。恐る恐る顔を上げてみるとそこには映画やゲームに出てくるような変わった形の剣が落ちていて。その周りには小さなホコリとも塵ともとれるようなものが降り積もっていた。

何が起こったのか理解できずよろめきながら立ち上がる。すると重心を失った都筑の頭に何か当たり、そのまま体ごと受け止められた。


後ろから香る、ほんのりといい香りが彼の脳に記憶される。



「無事だな」

「!」



頭上から声が落ちてきた。驚いて顔を上げればそこにはあの担任の先生が都筑を見下ろしていて。

頬に伝う涙を拭われながら気付いた。瞳が、金色に輝いている。そう思ったのもつかの間、彼が瞬いた瞬間その瞳はもとの色へと戻っていた。



「せ……先生…」

「今見たことは忘れろ。なにもかもだ。…いいな?」

「え、と…?」

「司貴。こいつを手当てしてやれ。手にケガをしている」

「わかりました。でもここではなんですからとりあえず教務室へ。手当てするにも道具が見当たりません」

「そうか。…ついて来い、都筑」

「ぅ、ええっ?」



流れるような会話の後、これまた流れるように教務室へと足を運んで行く王崎先生。

先ほどまで命の危機に瀕していた都筑はこの展開について行けなかった。しかしただ突っ立っている訳にもいかず、慌てて彼の後を追う。

王崎先生の横を並んで歩く見知らぬ男が気にかかり視線を送っていると、それに気付いたのかペースを落とし彼が横に並んで来た。さらには本人に聞こえないよう声のトーンを落とし、都筑にこう耳打ちして来る。



「ああ見えて心配してるんです、君のこと。だからほら、ちょっと足早になってる」

「ち、違いが分かりにくいけど……、そうなんだ」



詳しい表情は見えないが確かにその後ろ姿にはどこか焦りが見える。…ようにも見える。

手のひらを見るが、指の腹が擦りむけてあるだけでさほど酷いケガをしている訳ではない。痛みはあるが顔に出る程でもなく……転んだ現場を見られたことはすぐに察すことが出来た。

少しばかり恥ずかしくなり自分も思わず小走りになる。肝心なことに歩幅が小さい為先ほどと対して変わりがないのが彼の虚しい現状でもあった。



「ふむぐっ」



急に立ち止まった彼の背中に見事激突する。いい匂い、などと考えながら彼が見つめる先を何事かと覗いてみれば。



「あ……あいつ、なんでまたっ…!」



廊下の先に見える黒い影。つい先ほども見たそれはまだこちらに気付いていないらしく、クネクネと体を揺らしながら窓の外を眺めていた。

その動きと人ではない外見に一瞬であの時の恐怖が蘇る。


何もなかったのは先生達が来たからで、きっと僕を探しに来たんだ…!


震え始めた体を必死に押さえ込もうと努力する。2人とも逃げて。そう言いたいのに喉が掠れて声が出ない。



影が。あの影の目がこっちを向いた。口が裂ける程の弧を描き、奇声を上げながら駆けて来る。



「……げて」



カラカラに渇いた喉から声が漏れた。もう一度。今度は張り上げるように肺から声を絞り出す。



「先生は逃げて!」



竦む足をどうにか動かして力の限り彼を横へ突き飛ばす。後はもう無意識だった。直前にまで迫っていた化け物を強く見据え、都筑は思う。


"この人だけは"守らなきゃ!


自分の命よりも何故か彼を優先してしまう。来るなら来い!そう意気込み化け物を睨み上げた。振り上げられた細長い腕のようなもの。奥歯を食いしばり、体に来るだろう衝撃に耐える。



……はずだったのだが。



「キェー!」



奇声を残し、目の前で塵と化す化け物の姿。そのすぐ側には燕尾服に身を包んだあの男がいて。その手には何故か西洋風の長剣が握られていた。


いつの間に、剣なんて…。


さっきまでは何もなかったのにいったいどこに隠し持っていたのか。さらにはあの時の担任と同じく男の瞳が黄金に輝いている。



「……都筑」



ハッと呼ばれた方に目をやれば、そこには尻餅をついた彼がいて。全力で突き飛ばしたのが祟りその顔は僅かにしかめられていた。







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