「死ねばいいのに……」

 この世を呪いながら趙雲は目を醒ました。何も誰か特定の者に向けているわけではない。誰とは言わない、だからいっそ世界まるごと滅んでしまえばいい。
ただし劉備とその義兄弟、軍師及び彼等を支える将兵とあと民……というか蜀を除く、と付け加えずにいられない自分の小胆さにつくづく嫌気が差した。



 昨夜の宴では随分と飲まされたせいで体は重いが、目はすっきりと冴えてしまった。
せっかく休暇を賜ったというのに染み付いた習慣が憎い。そう、休暇。ただし一日のみ。
『趙将軍は休んだ方が却って調子を崩すのではないか』などと適当な事を抜かしてくれたのは誰だっただろう。
あの主君がそんな戯言を鵜呑みにしたという事は無いだろうが、今のこの現状を見るにあの軍師殿あたり怪しい。

『趙雲は糞真面目だからなあ』
そう言ったのは確か張飛だった。その様に言われたのは昨日が初めてではないし、また張飛だけではない。
けれど真面目だの勤勉実直だの清廉潔白だの、蜀軍における己への評価が趙雲はどうにも解せなかった。

そもそもそれほど誠実で一途な正義の味方であったなら、こんなところまで来ていないだろう。
今こうして生きている事こそが、そうでない証左であるかもしれないのだ。
にも関わらず、どういう訳か皆揃いも揃ってその辺りには目を瞑ってくれているものだから、自分はそれをいい事に、信じたいものを信じ、やりたいことをやっているだけに過ぎない。

『そう口にするのは簡単だが、実際その通りやってのける人間は幾人もいない。充分称賛に値することであるし、仮にそうではないとしても、そなたを得られて私は本当に嬉しく思っている』
仁君と呼ばれる今の主君の言である。感激で胸が詰まった。
だが、そういう風に言って貰えると分かっていて己を卑しめてみたのではなかったか。
卑下しておきながら、殿に、蜀に必要とされているという浅ましい自負が少しでも無かったと言えるのか。

胸の詰まりは鉛に変わる。趙雲は一層自己嫌悪に陥った。






「あら珍しい、まだ起きていらっしゃらなかったのですか」

 前触れも無ければ遠慮も無しに扉が開き、室内に淀む陰鬱な空気がいくらか薄まったように思えた。
もちろん、そうであればいいという彼女に対する勝手な期待から来る錯覚なのだろうが。

「……私が寝室に女性を連れ込みでもしていたらどうしてくれるんだ」
「その時はとりあえず謝って少しお掃除した後洗い物があればお預りして下がらせて頂きますわ。お食事はどうなさいます?」
「いらないよ」
「いけません」

じゃあ訊くな、と口応えするにも物憂い。
この名無にしても、何故こんなどうしようもない男に仕えてくれるのか不思議でたまらない。とか言いながらもしや私の事を、などと自分はまた都合の良い事を意識下で考えているに違いないのだ。
救い難い。しねばいいのに。

『あんまり堅てぇとその内名無にも逃げられちまうぞう!』
とか言っていたのもやはり張飛だった。
何故そこで名無が出てくると言うのか、何故名無を知っているのか、そして何を根拠にそう決めつけるのか気にならないでもなかったが、趙雲は絡んで来る酔っ払いを笑っていなした。
少し照れを見せつつ、しかし余裕のある風を装って。
そういう小賢しいと言うか小利口な所も自己嫌悪に値する。ほぼ無意識なのが余計に質が悪い。
皆が求めているであろう趙子龍を、嫌というほど知っているからだ。
そして皆騙される。
一身是胆どころかただの不埒で卑怯な偽善が趣味の小心者かも知れぬと言うのに。



「あの、まさかどこかお体の具合でも?」

 主がいつまでも鬱々と横になったままなのでやっと心配になったのか、名無が寝台のすぐ脇に歩み寄る。
まさかとはどういう意味だろう、と思考はあくまで卑屈だった。

「……名無」
「はい」
「名無」
「はい」
「名無」
「もう、何です」

今こうして名無がいてくれるのは恐らく趙雲が彼女の主人として少なくとも及第はしているからだろう。
本当はそうではないかも知れないのに。
では、そうでなかったらどうなるのだ。
劉備が要らぬと顔を背け、名無が知らぬとこの手を撥ね付ける。
想像するだけで心臓を冷たい手で掴まれるような不安を覚えた。
重い不安は喉まで迫って声となり、

「嫁に来ないか」
「まあ、趙将軍が冗談を仰るなんて」

そして鼻で笑われた。
日頃真面目だの洒落も通じぬ堅物だのと散々ぱら好きに言っておいてこの有様である。

死ねばいいのに。いやちがう、死んで欲しくなどない。ただ、ただ皆の身に何か、ちょっとした不幸がちょっとずつ起きてしまえばいい。
そして自分は、趙子龍という男は、二度と立ち直れないほど物凄く悲惨な目にでも逢っていればいいのだ。
ただし蜀の人びとを、誰も巻き込まない程度の。





「言わせて頂きますけれどね、趙雲様」

室を辞すべく扉に手を掛けながら、名無は思い出したように声を上げた。趙雲は既に寝たふりを決め込んでいたのだが、名無にはどうでも良いようだった。

「こんな所でそんなだらしのないお姿であんな求婚をされたって、冗談と思わない方がどうかしているでしょう。今さら何をしたって誰もあなたの事を簡単に嫌いになったりはしませんが、せっかくの男前は活用なさらないと損ですよ」

扉が閉まると名無の足音は迷いなく急速に遠ざかっていく。
男前だから何だ。
嫌いになったりしない、など、
分かったものではない。
今更、
誰も、  本当に?



名無の言葉を、また劉備の言葉を、ついでに張飛たちのことばを十回ほど反芻した後趙雲は漸く身体を起こした。

「ああ、くそ!」

似合わぬ悪態を吐いて上掛けを蹴飛ばして身繕いをすると馬を駆って城下に下りるなりまず女物の雑貨屋を訪ね、
偶然出会った魏延の相談に乗ったのち銘酒を携えて名無の親の墓に参り、
街に戻って簪をひとつ受け取った後偶然出会った黄忠の愚痴に付き合ってから抱えられるだけの花を買って屋敷に帰るまでに物盗りを二組縛り上げ、
家中の者に八つ当たり気味に指示を飛ばし、
日が傾き始めた頃に名無を捕まえて贈物を押し付けると、
朝と同じ台詞を言った。
言ってやった。



「将軍、よく真面目だって言われませんか」
「……別に、そうでもない」

名無が明らかに笑いを堪えているのは少々癪だったが、三度ほどねだって漸く口付けるのを許してくれた彼女の方が余程堅いと思う。
結局今日も普段と同じかそれ以上に真っ当に過ごしてしまったのだから、相応の見返りがあってもいいだろうに。

 とりあえず趙雲の目下の悩みは大量の花の置場所だったが、すぐにどうでも良くなってしまった。
きっとそれなりに生きている限り皆は自分を甘やかしてくれるだろうけれど、明日以降の、もしくは名無以外の事を、今は考えるのも面倒臭いのだ。








title:落日
(090128)




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