季を巡る | ナノ



十一の夏。

今年も夏がやってきた。
朝は家のすぐ側の木々が揺れると、少し心地の良い風が吹くのに、昼が近づくにつれ、だらだらと汗が垂れ落ちる程の暑さに変わる。
そんな季節は、汗が垂れる度に拭いながら忙しなく店を営む。夏は氷菓子を好むお客が増える為、しがない甘味屋のうちも少しは繁盛する時期なのだ。


「なまえ!」

昼を過ぎると徐々に客足も疎らになってきて、漸く一息つけるといった頃、彼は今日も元気に店の暖簾をくぐると、私の名前を呼んだ。

「…利吉だけ?」
「…来ちゃ悪かったか」
「…べつに」
「じゃあ構わないだろ」
「あら。利吉くんいらっしゃい!」
「おう、利吉くんか。今日も元気だなあ」
「おば様、おじ様、こんにちは!」

利吉と、利吉のおば様とおじ様、山田家の皆が初めて店を訪れたあの日から、私達家族はあれからすっかり意気投合すると、徐々に交流を深めていった。利吉も初めは警戒していたのかあまり話しかけては来ずにいたのが、去年の夏頃にはすっかり心を開ききっていた。私の父と母も私同様に利吉を可愛がり、何だか「きょうだい」が出来たようである。

けれど、私はあまり、そうは思っていなかった。

「なあ、今から川に行かないか?」
「え…やだ、行かない」
「!何でだよ」

利吉が一人で店を覗きに来る時は、決まって私を遊びに誘う。誘ってくれるというのは多少嬉しい事なのだが、男女の差であるのか、あまり利吉の楽しいと思う物は私が楽しいと思う物ではなかった。そして、この季節は特に、利吉と関わりたくないとまで思っていた。

去年の夏、利吉と森へ遊びに行くと、元々苦手であった虫を意地悪そうに笑って目一杯に見せられ、叫び散らした事は今でも鮮明に覚えている。そしてあの日を境に、利吉が苦手になったと言っても過言ではない。
秋や冬なら、苦手な虫も見る機会が無い為に利吉に誘われれば、家族付き合いも考えて連れ回されてもまだ良いのだけれど。
(夏に川なんて、きっとまた近くで採った虫だとかを見せられるに違いない…)

「…店もまだ終わってないし…」
「あら、店なんて気にしないで行ってきたらいいじゃないの」
「!お母さんっ(余計な事言わないでよ!)」
「いいんですか!」
「いいのいいの。子供は外で遊ぶのが一番よ。ほら、行っといで。ただしあんまり遅くならないようにね」
「ありがとうございます。っほらなまえ、早く用意して来いよ!」
「…わかったよ」

母にそう言われてしまえば最早断る事は出来ず、私は店の奥でエプロンを脱ぐと、重い足取りで店の外に待つ利吉の元へと向かった。



「ねえ、利吉。まだ?」
「もうちょっと先なんだ」
「このままじゃ日が暮れちゃうよ」
「寧ろそれ位の方がいいんだ」
「?」

利吉に連れられて暫くが経ち、段々と足がくたびれてきた頃、利吉にまだかと催促をするも、利吉はずんずんと歩みを進めて行く。一体何なのだ、と私は首を傾げ、暑さで余計に体力を削られていく中、休みたい気持ちを抑えながら必死に後をついて行った。



「よし、ついたぞ」
「…何の変哲も無い川じゃない」

あれからまた時間をかけ、恐らく町の外れ程まで来たであろう漸く辿り着いた場所は、店の近くでも見かけるような至って普通の川だった。一体何のつもりだろうか。くたびれた足を休ませようと、私はその場に座り込むと恨めしそうに利吉を見遣った。だが、利吉は口元を吊り上げたまま「もう少しだけ待ってくれ」と何故か川の先にある林を見つめた。

「…!いた!なまえっ、あれ見てみろ」
「っもう、一体なん…」

不意に、利吉がそう叫ぶと、私は呆れながらも利吉が指さした林の奥へと視線を向けた。
すると、林の奥に一つ、何か光が点ったのが見え、思わず出しかけていた言葉を引っ込めた。

「…わあ…!」

そして、その光は点々と広がり始め、徐々に幻想的な世界を作り出していく。そんな光景に、私は思わず感嘆の声を漏らした。

「これっもしかして蛍?」
「ああ」

鮮やかな光を目の当たりにして興奮気味に利吉へと問いかければ、そんな私に満足そうに利吉は笑って頷いた。知識として知ってはいたが、家の近くには生息しておらず実際に見た事など無かった為、私の胸は高鳴った。
(蛍ってこんなに綺麗なんだ…!)

「…去年の夏、」

暫く蛍に夢中になっていた私に、不意に利吉が隣でぽつりと言葉を漏らす。

「私が見せた虫に泣き喚いていただろ」
「…そりゃ、急にあんな近くで苦手な物見せられたら誰だって泣き喚くでしょ」
「…あの時はまさか苦手だったなんて知らなかったし、なまえにも見せたいって純粋な気持ちで見せただけだったんだよ」
「え?」

そうだったのか。
そう言って少しバツの悪そうな顔をして俯いた利吉に、私は思わず目を丸くした。嫌がらせかと思っていたが、どうやら勘違いだったらしい。

「だから今日蛍を見せて、少しでも去年の嫌な思い出が少しでも払拭出来れば、と思って連れてきたんだ」
「…そうだったんだ」
「まあ、本当はもう少し暗い方がもっと綺麗なんだけど、あんまり遅い時間だと皆が心配するだろうから、これで勘弁してくれないか」
「…ふふ」

蛍が見せる幻想的な光の世界に、去年の、否、今までの虫嫌いはほんの少しマシになったかもしれない。(…ほんの少しね)けれど、それよりも、今の今まで自分さえ楽しければいいんだろうと思っていた利吉が、私の事を考えてくれていた事に何よりも驚きで、凄く嬉しかった。

「ありがと、利吉」
「!…べつに。払拭できたんなら、良かった」

先程よりも日が落ち、少し涼しい風が吹く夕暮れ。私達はもう暫く蛍を眺めると、元来た道を軽い足取りで歩き始めた。



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