好きです、潮江先生 | ナノ


「俺、明日から殆ど顔出さないと思う」

高校三年生に進級して暫く経った頃、美術部部長になったと言うのに、俺は冒頭の言葉を唯一、美術室で懸命に部活動に励む彼女に伝えた。

「…そっか、受験勉強?」
「あーうん、まあ…そんなところ。ごめん」
「何で兵助が謝るの。兵助は真面目なんだし、部活動より勉強する方が、らしいと思うよ」

へらり、と柔らかく笑う彼女に少し胸がきゅう、と縮こまった気がしながらも俺も笑い返すと、画材を片付けて美術室を後にした。


勿論、受験勉強で忙しくなる事も理由の一つだった。だから、部活動を今まで通りに続ける事は出来ない。

だけど、本当の理由は、そうじゃなかった。


高校一年生の頃に同じクラスになった名前を、いつしか俺は目で追っていた。可愛らしい見目で柔らかく笑う笑顔、授業中の真剣な表情一つ一つに気づけば目を奪われていて、一目惚れだったんじゃないかと思う。そして、元々部活に入る気は無かったのだが、絵を描くのが比較的好きだからと多少悩んでいた美術部に入ろうと決めたのは、名前が入部すると知り半ば下心を含ませ入部した。

【久々知くん、だよね?】
【あ、うん。兵助でいいよ】
【じゃあ兵助くん、私も名前でいいよ。同じ美術部同士仲良くしてね】

そう言って差し出された手に俺は心踊る様に舞い上がっていた。それから俺と名前は日を増す毎に仲良くなり、毎日が幸せな日々だった。名前の描く絵はとても線画がしなやかで繊細で、色鮮やかで、彼女の描く絵 も 好きだった。


だが、ある日から、名前の様子が少し変わった事に、俺はすぐに気付いてしまった。


いつもキャンバスから視線を動かさずに懸命に筆を動かしていた名前が、よく外を見るようになった。初めは風景画でも描いているのかと思ったのだが、どうやら小刻みに動く視線は違う事を物語っていた。


――ああ、潮江先生を見てるんだって。


キャンバスを見せてもらおうかと思っていた矢先にそれに気付いてしまった俺は絶望を含んだ想いと共に言葉を胃の中へと呑み込んだ。それからと言うもの、名前は潮江先生ばかりを見るようになり、いつも通りを装いつつも、意識は以前の様に俺には向けられていない感覚に襲われた。辛い。

「だからって、潮江先生と付き合った訳じゃねーんだし、生徒に手を出す事なんて無えだろ?」
「…それは、そうだけど」
「名前だって、その内諦めるって。それまでは辛えかも知れねーけど、諦めんなよ」

俺は授業中以外での潮江先生との関わりなど無く、サッカー部に所属する三郎から色々と話を聞けば、潮江先生は厳しく、とても生徒に手にとれる様な優しさを見せる先生では無い事を聞き、一年生の頃からずっと相談に乗ってもらっていた名前の事についても励ましてくれた。

確かに、潮江先生に限らず教師が生徒になど手を出す訳は無いだろう。名前もそんな事分かっている筈だ。叶う事の無い恋はいつしか薄れ、俺にもチャンスは巡ってくる可能性は大いにあった。だが、俺はどうにも居た堪れなかった。あの日から絵を描く気分になれなくなってしまった俺は、こうして卒業まで美術室に足を踏み入れる事は無くなってしまった。




「…え?」


高校を卒業し、まだ三ヶ月も満たない頃に俺は中学高校と仲の良かった三郎と雷蔵と勘右衛門と八左ヱ門と大学の帰りに落ち合い、他愛も無い話をしていれば、突如八左ヱ門が耳を疑うような言葉を発した。

「…今、なんて?」
「あー…だから、後輩で伊賀崎孫兵っていただろ?あいつとこの前ばったり会ってさ、その時に聞いたんだけど…潮江先生が、帰り道で名前と手繋いで楽しそうに話してた所を見たって」
「……」
「…あー、まじ、か」


衝撃的だった。まさか卒業してからも、名前と潮江先生が会っていた事を知り、一気に体の力が抜け切った様な感覚に陥った。

手を繋いで、か。

そんなの、二人が付き合っている事を物語っている事実に違いないじゃないか。他の皆も目を丸くさせ驚いている様子のまま八左ヱ門を見つめていて、三郎も酷く驚いた様で八左ヱ門を見遣った後すぐさま俺へと視線を向けた。

美術室に行く事も無くなり、卒業して一度も名前に会っていなかったと言うのに、酷く鮮明に思い出される名前の笑った顔が脳裏に思い浮かべば、ああ、俺は本当に名前が、好きだったのだと思い知らされる。それと同時に、気持ちだけでも、彼女に伝えておけば、もしかしたら何か、少しでも変わったんじゃないかと後悔が襲った。

「…兵助、その」

暫く黙り込んだままの俺に皆が心配そうに目配せすると、三郎が恐る恐る声を掛ける。悪いな、三郎、皆。


「…名前、笑ってた?」


「…え?」

不意に、口を開き思わぬ言葉を発した俺に八左ヱ門が聞き返す。

「伊賀崎に聞いてない?名前が笑ってたかどうか」
「あー……凄く、幸せそうに笑ってたって、言ってた気がする…」

言い直した俺に八左ヱ門は、言うか言うまいかと悩んだであろう間を開けるが、再び言葉を発すると歯切れ悪くも、正直に答えた。そっか。名前は今も幸せな、俺の好きだった笑顔を浮かべているのか。

「…なら、良かった」

そう思えば、何故か先程よりも心が幾分と軽くなった気がして、自然に笑みが溢れ出た。



(想いを伝える事も出来なかった俺は、彼女の幸せをただ、願った)



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