(志村姉弟/微銀妙/うっすら完結篇)


ふう、と息をついて、うっすら汗ばんだ額を拭う。
短い春はすぐに終わり、季節はもう夏に向けて足早に準備を始めている。
汚れの移った雑巾をもう一度バケツ内の水につけて、固めに絞る。
そのまま雑巾を広げ、バケツの淵にかけておく。
水に濡れた手を軽く払って、お妙はぐるりと辺りを見渡した。
それなりの広さを持つこの屋敷では掃除も一苦労だ。
でも、かなり綺麗になったと思う。
そう満足気に微笑んで、お妙は目を細めた。
この家で生まれて、もう二十年以上が過ぎた。
室内のあちこちは年月の経過で傷みを見せている。
だけど、それすら価値のあるものに思えてくる。傷みの数だけ、この家には思い出が詰まっている。
ふいに、斜め前にある柱に目を向ける。
木でできたそれは、不自然な傷がたくさんついていた。
そっと柱ににじり寄って、その傷をなぞる。
柱に対して垂直になるように、短い線を描くようにいくつかの傷がついている。
懐かしい。
浮かんだ感想にお妙はクスクスと声をあげる。
この傷は子供の頃の自分と新八がつけたものだ。
柱に背中をつけて頭の先に釘で印を刻む。そうして競い合うように背比べをしていたのだ。
再び無数についた傷を指先でなぞる。何故だかその傷がとても愛おしいものに思えてくる。


「姉上?」


声がした方に振り返れば、新八が襖から顔を覗かせていた。
手にはスーパーの袋を抱えている。多分、数日分の食料品だろう。
おかえりなさい、と声をかけると、少しだけ照れたように笑って、ただいまという声が耳に届いた。


「掃除、ご苦労様です。夕飯は僕が準備しますね」

「あ、それなら私も、」


手伝う、と告げようとした声は、立ち上がった瞬間感じた浮遊感に遮られる。
くらり、と一瞬だけ視界が揺れるのを感じ、身体を支えきれなくなる。
ぶつかる。反射的にぎゅっと目を閉じる。
しかし、倒れそうになる身体は間一髪のところで抱きとめられる。
目を開ければ、心配そうな新八の顔がすぐそばにあった。


「大丈夫ですか、姉上!」

「ごめんなさい、なんか立ちくらみしちゃって…」


新八の腕をとりながら、ゆっくりと立ちあがる。
ふいに、小さな違和感を感じて、お妙は目を瞬たせた。
新八はおろおろと心配そうにお妙を覗き込んでいる。
その目線は、お妙よりも少し、上。


「…新ちゃん、背伸びたわね」

「えっ、そ、そうですかね?」


不意打ちをつかれて新八は驚いたような声をあげる。
つかまっていた腕を離して、まじまじと新八をほんの少しだけ見上げる。
ずっと近くで、そう誰よりも近くで、弟のことは見てきたつもりだった。
小さな変化も見逃さない自信があったのに。
知らない間にまた一つ大きくなる弟の姿に、嬉しいような寂しいような、そんな複雑な気持ちになる。
そしてそれは、僅かな焦燥感も含んでいる。
置いていかないで、と身勝手に嘆く自分が心の片隅でちりちりと小さな痛みを作っていた。
何故だろう。全く似てやしないのに。
今感じている痛みが、突然どこかへいなくなってしまったちゃらんぽらんの姿と重なる。


「新ちゃん、」


誤魔化すように出した声は震えてはいないだろうか。
そんな心配を押し隠すように、お妙は笑みを浮かべる。


「久しぶりに背比べしない?」


せめて今この瞬間だけは刻み込んでおきたい。
そうしていつか帰ってきたあの人に、最愛の弟を自慢するために。


(背比べ)


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