三月、まだ肌寒い季節だった。

「…え?こう、こう…?」

あの子ったら銀ちゃんに何も言わなかったの?とおばさんが困った顔をしている。
まだ幼かった俺は、大好きな兄ちゃんが突然いなくなったことにただ茫然としていた。


薄情なことに、今ではその兄ちゃんの名前も顔もはっきりとは覚えてはいないのだが。




「え゛〜〜〜〜〜!!!かていきょうしぃぃいい〜〜〜〜!!???」

「そうよ。この二年間じゅうーぶん、ダラダラ過ごしてきたんだから、三年生からはやる気出しなさい。」

アンタはエンジンかかるの遅いんだから、とか、周りに比べて遅い方だと思うけどね!とか、散々俺を甘やかしてきてくれた張本人は俺の意見など聞く気はないらしい。

「今日から先生に来てもらうからね。授業終わったら真っ直ぐ帰ってきなさいよ。」

「はぁっ!?そんな急に言われてもこっちにも用事ってもんがあんだよ!」

「ふーん…どーせ晋ちゃん達とスイパラでしょ?」

彼女は何でもない事のように言うが俺には月に一度の貴重な糖分摂取の時間なのだ。医者からも母からも止められてしまう程のスイーツ系男子な俺は定期的に糖分を摂らないと、どうにも調子がでない。イライラする。気がする。
去年の健康診断で医者から「糖尿病になるぞ」と脅されてから、毎日がスイーツパラダイスだった俺の生活が一変、こうして月に一度だけスイーツバイキングが許されている以外は、アポロで糖分をしのぐ日々となってしまったのだ。
どーせ、と図星を当てられてしまった俺はうまく言い返せずに唇を噛んだ。
そんなオレをみて母は勝ち誇ったように意地の悪い笑みを浮かべている。

「受験終わったらケーキなんていくらでも買ってあげるわよ。」

「受験終わったらて!!一年後じゃねえか!舐めてんのか!俺に糖分不足で死ねってか!!生きる!!」

「ハイハイ。とにかく、今日は19時までに帰ってきなさいね。それでアンタ、学校の時間は大丈夫なの?」

「無視か!かてきょの事もスイパラの事も俺の意思は無視か!!くそっ覚えてろよクソババァ!いってきまーす!!」

「慌てて事故るんじゃないわよクソガキ!いってらっしゃい!」

唐突とはいえ、母の命令は絶対だ。高杉達になんて謝ろうかと考えながら自転車を漕いだ。4月になったばかりの朝の風はまだ冷たかった。



「ブワハハハお前ェが家庭教師ィ!?ざまぁみろ!!」

高杉、いや低杉の下品な笑いに俺のこめかみはピクピクと震える。悔しいことにコイツはバカやってても成績は優秀な方なので俺がコイツに勝っているのは身長とコミュ力ぐらいなものだった。

「俺だってなあ!家庭教師とか無くてもやれば出来るの!ヤル気スイッチ押せば本気でるの!!」

「どれ、俺が探してやろう。ヤル気〜スイッチ〜君のはどこにあるんだろ〜」

「ヤル気〜スイッチ〜君のはどんなのなんだろ〜〜これかえ?」

「うるせぇええあああ!!放せ!ちんこ触るな!!!確かにヤル気スイッチだけども!!」

必死に弁解する俺の体をヅラと辰馬が某塾のCMソングを歌いながらわさわさと髪やら服をまさぐり始めたのに更に苛立ち振り払った。

「しっかし金時ぃ、家庭教師ちゅうことは若い姉ちゃんとおまんの部屋で二人きりじゃなか?まっこと羨まし〜の〜」

「相手の歳はいくつなんだ?人妻か?人妻なのか!?」

「馬鹿かヅラァ、人妻で家庭教師はねーだろ。あーいうのは大体大学生の若い姉ちゃんなんだよ」

ゼェゼェと肩で息をする俺の体から手を離し、プリッツをむさぼり始めた辰馬が気付いたように声を上げた。のに続きヅラと高杉も勝手に盛り上がり始める。

(あれ、そういえば男か女かとか聞いてなかったな…)

俺とて期待したいのは山々だが、期待の大きい分だけ裏切られた時のショックが半端ないのはよく解っているので、その日の授業は一日中自分に(期待しない、期待しない)と言い聞かせていた。


「明日は家庭教師の授業の感想聞かせろよ〜」

そう言って帰って行った高杉達に 聞きたいのは家庭教師の人物そのものの感想だろうが と心の中で悪態を吐きつつ家路につく。19時までには帰ってこいと言われていた俺は微妙な時間になるため、結局スイパラには行けずファミレスのパフェで我慢し、(それでもパフェ自体は美味かったので結構満足している)これで家庭教師も女子大生とかだったら勉強めっちゃ頑張れるな俺!と息巻いていた。


「ただいま〜」

見ると玄関にはすでに。
(ゲッ、メンズのスニーカー…)
神様とは薄情なもので、少し期待に胸を膨らませただけのしおらしい少年の願いでも簡単には叶えてくれないらしい。
しかも細身といえど結構でかいサイズで殆ど俺と同じぐらいの大きさの靴だった。

(うえぇ…オタクみたいなガリ勉眼鏡だったらどうしよ…)

たとえ相手が男でもどーせ二人っきりになるなら喋りやすい相手とかがいい。最後の期待を胸にリビングのドアを開けた。


「あら、おかえり。思ったより早かったわねえ」

「早く帰ってこいっつったの誰だよ……あ、ども…」

「お邪魔してます。」

先生は早い時間からいたらしく、母が用意したらしきコーヒーも半分ほどに減っていた。
サラッサラの黒髪に切れ長の目、通った鼻筋。所謂イケメンというやつで、ガリ勉という風貌ではないが確かに頭が良さそうだ。

(? どっかで見たことあるような…)

妙に打ち解けている二人を不思議そうな顔で眺めていると、母は気付いたらしい
「あんた、十四郎ちゃんのこと覚えてないの?」と訊いてきた。

「とおしろうちゃん???」

オレが更に訳が分からんという顔をすると、『とおしろうちゃん』と呼ばれた先生が「無理もないですよ、もう5年も前の話ですから。それより時間だな、銀時君、早速だけど勉強始めようか。」と腰を上げた。

「あら、そうね。じゃあ十四郎ちゃん、新しくコーヒー持ってくから銀時の部屋で始めててくれるかしら?銀、早く手ぇ洗って部屋に行きなさいよ。」

「へーい」

「わかりました、どうぞお構いなく」

イケメンは決して愛想がいいとは言えないが微かに笑みを浮かべて母に返事を返してた。




「で?お前の苦手教科は…英語と?数学?おおかた成績は聞いたがひでぇなありゃ。」

俺の部屋に入った途端この態度である。さっきまで『銀時君』と呼ばれていたが今では『お前』だの『テメー』だのに変わっている。

「サイテーだな。母ちゃんの前では『イケメンです?』みたいな態度だったのによ。」

「親御さんの前で猫かぶるのは大人として当たり前だろうが。いいからさっさと教材出せコラ。」

「横暴教師!こわい!ひん剥かれる!!」

「竹刀でも持ち出したほうがいいらしいな?」

「いえ…結構デス…」

いかんせん目が本気なのでこれ以上怖いものはない。俺は大人しく教材を出して勉学に励むことにした。


*****


「ふあー!終わった!!」

「お疲れさん、やりゃあ出来るじゃねえか。解くスピードはまぁ遅いが文法自体は分かってるみてーだし、教えやすくて助かる。あとは数学だな。」

お疲れさん、とわしゃわしゃ頭を撫でられてうっかり落ちるかと思った。やっぱイケメンてずりぃな!
でもそれだけじゃなくて、掌と笑顔に懐かしさも感じていた。昔に面識があった風な言い方をされたからかもしれないが、憶えているような、いないような。
ぼーっと考えていると先生はいつのまにか筆記用具とか片付けたらしく、鞄と空になったマグカップを手に持って立ち上がった。

「良い時間だし、今日はここまでだな。また来週な、銀時。」

「お、おう…あ、マグは俺が片付けるし置いてていーよ。玄関まで送る。」

「そうか?悪ぃ、ありがとな。」


部屋を出ると音で気付いたのか母がリビングから顔を出してきて「もう帰るの?折角だし十四郎ちゃんも晩ご飯食べていかない?」と声を掛けてきた。

「いえ、母が出前を取ったみたいなので今日はやめておきます、すみません。」

あらそう?じゃあ来週はぜひ食べて帰ってね。とどうしても一緒にご飯を食べたいらしい俺の母親に、はい。とひとつ愛想笑いを浮かべている先生は俺の部屋にいた時とは全く違う態度になっていて、さっき惚れそうになっていた単純な自分に往復ビンタしてやりたくなった。


「なんだよ、その猫被りやめてくんね!?すげームカつくわ!」

いいから俺が見送るから、と母をリビングに押しやり、玄関先で向こうに聞こえないよう先生にもやもやをぶつけてやったが、本人は涼しい顔だ。ククッと悪戯っぽく笑うとまた俺の頭を撫で、「じゃあな、銀時。」と言って出ていった。







「とおしろ兄ちゃん今日も遊べねーの?」

「悪ぃな、兄ちゃん勉強しなきゃなんねーんだ。」

サラサラの黒髪は長すぎず短すぎず、彼の小顔を強調するのに程よい清潔さを感じる長さで。少し長めの前髪から覗く目はまだ幼さが残っている。自然に整っている眉を顰めて兄ちゃんは困ったように謝った。

「ふーん。勉強のジャマしねぇから明日は兄ちゃん家行ってもいい?兄ちゃんの勉強終わったら一緒にゲームしてぇ!」

「ぷはっそれ目当てだろうが。…ああいいぜ、また明日。じゃあな、銀時。」

「おう!バイバイ兄ちゃん!」

兄ちゃんは悪戯っぽく笑うと俺の頭を撫でて随分と傾いている太陽の方角に歩き出して行った。


夢に見たのは俺がまだ小学生の時の記憶だった。とおしろ兄ちゃんと呼ばれたその人は確か…

あ。アイツだ。
「先生…」



朝、ちょっと早い時間に家を出て、俺は学校に向けて自転車を走らせていた。
先生のことを少し思い出したものの、やっぱりまだ小さい記憶の「とおしろ兄ちゃん」には結びつかなくてモヤモヤする。
夢の中のとおしろ兄ちゃんはガキの俺を邪険にせずよく遊んでくれて、とても優しかった。たぶん小さいなりにあの人のこと好きだったし…
だがしかしこの前あったアイツは口は乱暴だし親の前と俺の前とじゃ全然態度ちげーし勉強してる間なんて鬼みてーな顔だったしオーラ怖すぎだったよまじで。それがあのとおしろ兄ちゃんとか…ナイナイナイナイ。

春の朝はまだ肌寒い。
考えを捨てるように首をぶんぶんと振ってペダルを漕ぐ足に力を入れた。

坂田銀時、高校三年4月の出来事だった。



(4月)








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