真夜中の贈り物


いつもの電車、いつもの帰り道。家路を急ぐ大人たちはみんな同じ表情で下を向いて歩いている。
今日も朝からいつもと同じ朝ごはんを食べ、いつもと同じ電車に乗り、いつものコンビニで昼ご飯を済ませ、いつものように残業をし、木枯らしが吹くいつもと同じ道をとぼとぼと歩く。
やらなければいけない事に追われ、我武者羅に一日を過ごす毎日。いつからこんな日々を送っていただろうか。見上げた空は雲に覆われて星は見えない。

親しい友人が引っ越して、久しく声を聞かなくなって二ヶ月。それなりに交友関係のあった知人の急な訃報が一ヶ月前。大事なものを失くした三週間前。

人間というのは不思議なもので何かしら不幸が続き、落ち込んでいると小さな事まで気になり始めてしまう。
会社での小さなミスによる叱責、締め切りのある書類の提出を忘れて自己嫌悪に陥ったり、全然知らない人に道で突き飛ばされただけで心を潰されたような感覚に襲われる。

誰かと話をしたくても、小さなことがたくさんたくさん積み重なった結果の心の軋み。
家族には心配をかけまいと虚勢を張り、断られるのを恐れて友人を誘ったりも出来ず、言い知れぬ孤独感に全てを投げ出したくなっていた、そんな時に起きた出来事だった。

全てに疲れ、服を脱ぐのも忘れてノアはベッドへと倒れ込む。耳をすませば遠くの方で車のクラクションの音が聞こえてくる。深くため息を吐くと、抑えていたものが徐々に徐々に溢れ出す。いろいろな出来事に対するいろいろな感情がぐちゃぐちゃになり、もはや何に泣いているのかも分からず、しかしそれは留まるところを知らない。ぎゅうぎゅうと潰れそうな心が勝手に熱を上げ、頭も痛い。

限界を超えてしまったノアは、次の日のことも人間関係も全てを投げ捨てグラリと揺らぐ頭に任せて死の匂いに沈んでいく。そのときテレビの横でパタリと何かが倒れる音がした。



顔の周りで誰かが話している声が聞こえ、沈んでいた思考がだんだんとはっきりしていく。地面に倒れているのかガサガサと背中に当たる草の感触と、花の甘い匂い。
ノアがゆっくりと瞼を開けると、色とりどりの頭がこちらを覗き込んでいた。

ノアはこの七人のことを知っていた。

いつかの日に夢中で追った実在しないはずの彼女たちの物語。何年も前のことではないはずなのに、感じるのは遠い記憶。初対面だというのに胸をじんわりと温めるのは懐かしさと安心感。
どこか白昼夢を見ているような心地に、出尽くしたはずの涙がまた溢れだしてしまった。

上を向いて、自分たちの姿を捉えると同時に安心したようにボロボロと泣き出した人物に、七人は様々な反応を見せる。彼女たちは、安心させて慰めようとしてくれているのか穏やかに笑い出す。
しかし自分が知っている彼女たちは、見知らぬ人物にこんなに優しげに微笑んでくるような人たちだっただろうか。これはきっと自分が見ている都合のいい夢なのだと、夢の中なのだから思う存分甘えていいのだと、ノアは心の中で自分を許したのだった。



「なんだか妙な格好をしているが、お前はどこから来たんだ?」
「妙な格好のお主が言うのか〜?」
「あんたも妙でしょ」

しばらくして落ち着いたノアが起き上がれば、草がたくさんついていますよ、とエレノアが甲斐甲斐しく背中を払ってくれる。
彼女に、僕についた葉っぱも払って欲しいでフ〜〜と擦り寄っていく小さなシルクハットはビエンフーだ。そんなことを言っていると、マギルゥにお仕置きされるのではと見ていると、案の定だった。

「僕たちの仕事は君を幸せな気持ちにさせることなんだ」

突然ライフィセットが放った言葉に、ノアは目を丸くする。なんとも不思議な夢だ。彼らは今、物語のどのページにいるのだろうか。
辺りを見回し、記憶の中にある情景と照らし合わせた限り、ここはワァーグ樹林だろうか。ロクロウとアイゼンの虫談義を思い出して笑顔が溢れる。

「お前は俺たちの過去も、未来も、結末も、全部知っているんだろう」

静かに語りかけてくるアイゼンに、それでも言うつもりはないという意味を込めてコクリと頷けば、彼は満足そうにそうか、と返してくる。

「だが俺たちもお前の名前を知っている」

ここはお前の夢の中だからな、ノア、と自然に呼ばれた名前になんだか不思議な心地がした。
ここはノア自身が見ている夢の世界で、"本来の世界"とはまた違った世界なのだと認識する。


「それで、あんたはどうしたいの?」

ベルベットが優しく尋ねてくる。今のノアは、そうやって他人に優しく接してもらうだけで涙が出そうなほど心が荒んでいた。

でもここは自分を癒してくれる世界。

「みんなと一緒に居させて」

ゆっくりと深呼吸をして彼らを見据えると、ライフィセットが手を引いてくれる。

「じゃあ、行くわよ」
「儂は腹が減ったぞ〜!」
「そういやそうだな、なんか食おうぜ」
「姐さんはさっきフルーツを摘み食いしてたでフけどね〜〜」

グリグリとお仕置きされているビエンフーを無視して、お前は何が食べたい?と上から降ってきたロクロウの言葉に、この世界には何があっただろうかと思案する。
迷っていると思われたのか、アイゼンが各地の名産品や行きつけの酒場で出される食事、珍しいスイーツが食べられる店の紹介を始めた。

「スイーツならストーンベリィに新しいお店が出来たんですよ!採れたての新鮮な卵で作られるロールケーキはふわっふわで絶品らしいです!」
「ああ、確かそこはオムライスも作ってたな。オムライスもふわっふわで絶品らしい」
「ふわふわのオムライス……!」

エレノアとアイゼンの話に、ライフィセットのキラキラの目がさらに輝きを増す。そんな彼を見てベルベットも顔を綻ばせている。

「じゃが、ストーンベリィに行くには一度船に戻る必要があるぞ?お主らはノアをそこまで連れ回すつもりかえ?」
「そ、それは……そうですね」
「私は大丈夫。バンエルティア号にも乗ってみたいし、アルディナ草原にも行ってみたいからたくさん連れ回して」
「それじゃあ決まりね。まずはレニードに向かうわよ」

ベルベットの指示でやっと歩くスピードが上がった一行だったが、皆が皆ライフィセットの歩幅に自然と合わせて歩いているためやっぱりゆっくりだ。
その上途中の植物や昆虫、終いには石にまで反応を示す男性陣。まったりとした雰囲気にノアもほっこりする。

ノーグ湿原を抜けてやっとレニード港にたどり着くころには、見慣れているけれども慣れない土地を歩くという奇妙な体験をしたノアは少しだけ疲れていた。しかし目の前に見えてきた大きな船、本物のバンエルティア号に、そんな疲れも吹っ飛び歓声を上げる。
そんな見るからに喜んでいるノアを、アイゼンが誇らしげに案内してくれる。甲板に上がれば、魚釣りの時にアイゼンが壺の業魔を釣り上げたこと、大きな帆を見れば、海門要塞からみんなで飛び移ったことを思い出す。一緒に旅をした訳ではないのに、込み上げてくる懐かしさは大切な思い出だ。

もうお腹が空きすぎて待てないというロクロウとマギルゥの意見で、船の中で一端食事をする。確かに今から向かってもストーンベリィに到着するのは、夜中か夜が明けてからになりそうだと船の中で一夜を過ごす。なんだかまだ信じられない気持ちでいっぱいのノアは、このまま寝てしまっては夢から覚めてしまいそうな気がして、なかなか寝付けないでいた。しかしベルベットが淹れてくれたホットミルクが効いたのか、いつのまにか寝てしまっていた。


翌日、バンエルティアがゼクソン港に到着するや否や、ビエンフーに頑張ってもらい、一行はレアボードを駆使してアルディナ草原へと向かう。彼女たちがストーンベリィへと到着する頃にはビエンフーはクタクタになっていた。

「あ!あそこです!」

エレノアが指を指したところを見ると、こじんまりとした家に"オープン"の看板。

「ふわっふわの……!」

グウウっとなるお腹に顔を赤くしたライフィセットにみんなで笑い合うと早速店内へと入った。
大人数でワイワイテーブルを囲み、各々卵料理を注文する。
運ばれてきた料理はどれも美味しそうで、ライフィセットとエレノアは思わず歓声をあげている。

「どれどれ、お主のロールケーキはどんな味かの?」
「ちょっとマギルゥ!お行儀悪いですよ!」
「やかましい奴じゃの、儂のリゾットもやるからこれでチャラじゃ!」
「そういう問題じゃ……!お、美味しい……」
「ボクのプリンは誰にもあげないでフよ〜〜」
「あ、ビエンフー、そのプリン私食べたいです!」
「え、エレノア様……!」
「私にも頂戴」
「私のカステラも美味しいよ」
「ビエェェェェン!!ボクのが無くなっちゃうでフ〜〜!!」

早速"一口頂戴"を始めてしまった女子達を見ていたロクロウも、ひょいっと隣のアイゼンの皿からオムライスを貰う。

「おい、俺は自分で頼んだものは自分で食べる」
「なんだよ連れないなぁ……ライフィセット!俺のパンケーキ、お前に一口やる」
「ありがとう!ロクロウ」

僕のオムライスも良かったら食べて、とはにかむライフィセットに、やれやれと言いながらアイゼンもロクロウの皿に手をつけている。
気づいたらバイキングのようなことになっており、ベルベットがこぼさないでよ、と優しく注意している。
そんな、旅行先ではしゃぐ家族連れのような雰囲気に、ノアの顔も自然と綻んでいった。
そんな彼女の顔を見てライフィセットが安心したように笑う。

「ノアの、そのお皿に乗ってる白いお花、綺麗だね」
「ほんとね、なんだっけ、これ」
「お!それはあのときの!」
「ああ、アルディナ白草だな」
「よく覚えてたわね」
「お前の弟が教えてくれたことだからな」

矢継ぎ早に話し出す彼らの会話を聞いて、ノアは記憶を遡る。そういえばアルディナ草原の岩山の上でそんな会話をしていたかもしれない。
マギルゥがその花をひょいっと取り上げると、ロクロウの頭にさしてビエンフーと一緒になってゲラゲラ笑っている。

「もう!マギルゥ!お行儀悪いです!」

プンスカと怒るエレノアだが、された当の本人は何だよと笑っている。

するとベルベットがおもむろに残ったもう一つの花を掬い上げると、マギルゥがロクロウにしたようにそっとノアの髪につけてくれた。

「……ベルベット?」
「ちょっとくらい、いいでしょ」
「もーーっ!ベルベットまで……!」
「二人とも、似合ってるよ」
「こいつはないだろ」
「なんだよ俺も似合ってるだろ?なあノア」

みんなで美味しいものを食べて、笑いあって、幸せな時間が過ぎて行く。度々ノアの顔をちらりとのぞいてくるライフィセットを見る限り、彼女を幸せにする仕事というのは本当なのだろう。
なんとも不思議だが、暖かい気持ちになる夢に、ノアは久々に心から笑ったと思った。

「ノア、今幸せ?」

ふとベルベットに尋ねられ、彼女の顔を見る。ええ、と返事をすると、金色の綺麗な瞳が優しく細められる。

「任務完了!じゃな」

マギルゥのその一声で、あたりがだんだんと白みを帯びてくる。ああ、この幸せな夢から覚める時が来たのか、とノアは彼女たちをもう一度見回す。

「またな」

その瞬間、暖かな白に包まれたかと思うと、ノアは足元から落ちていくのを感じた。



ハッと目を開けると、そこはいつもの自分の部屋。帰ってきてから着替えもせずに倒れこんだベッドの上だった。そして先ほどの幸せな夢を思い出し、少し寂しく感じるも心はスッキリとしていた。
ノアは起き上がり、窓の外を見る。あたりは暗いままで、あれからほとんど時間は経っていないようだった。

しかし曇ったままだった空に少しだけ星が輝きはじめ、ノアは微笑む。不思議で幸せな夢だった。
まだまだ余韻に浸っていたノアは、風呂に入って明日に備えようと意気込み、くるりと振り返った。その時、パサリと何かが足元に落ち、そちらに視線を向ける。
床に落ちているそれにノアは一瞬目を見開くと、優しくすくい上げた。
あの日黒髪の彼女がノアにつけてくれた白い花。美味しかった料理たちや、笑い合う彼らの顔を思い出す。

ノアは胸に広がる言いようのない温もりに、ありがとう、と小さく囁いた。
そしてテレビの横で倒れているパッケージを起こすと、その隣にそっとアルディナ白草を添える。

心機一転、また彼女たちに会いにいくのも良いかもしれない。心にあるのは確かな温もりと大切な思い出。

真夜中の思わぬ優しい夢に、ノアはとっておきの笑顔を贈った。