「春なんて、来なければいいのに」
 赤葦のその呟きは、誰の耳にも届くことはない。だから赤葦のその些細な呟きに耳を傾ける者はいないし、赤葦の心中を悟れるような賢い者もいなかった。ただもう少しだけ素直になればよかっただけだというのに、そのひとつだけが赤葦にとってはどうも難しかった。

「あーあ、赤葦と一緒に帰れるのもあと少しだなぁ」
「そう、ですね」
 なんでそんな悲しいことを言ってしまうのだろう。俺の気持ちなんてこれっぽっちもわからずに、理解しようともせずに、その口は俺の聞きたい言葉よりも聞きたくない言葉ばかりを言ってくることが増えてしまった。別に理解してほしいわけではないし、理解してもらおうとした記憶も心当たりもない。けれどここまで相手の気持ちに鈍感なのは、木兎さんの欠点だ。
 ひとつ大きなため息をついた。木兎さんがどうかしたかと声をかけてきて、無視しては拗ねてしまうのは目に見えているはずなのに、あなたのせいですなんて言えばよかったのか、わからずに返事はできぬままで結果的に木兎さんを無視したことになってしまうのだろうか。ちらりと見てみればわかりやすく拗ねてしまって、ひとりで先に前に行ってしまう。手を伸ばせば届く距離にいるのに、いたはずなのに、木兎さんが先に行ってしまうから届かなくなってしまう。待ってくださいだとか、そういう類の言葉を投げかければよかったはずなのに、声が出てこない。思っていたよりも自分は木兎さんに置いてかれても仕方がないとでも思っているのだろうか。木兎さんは木兎さんで、まだ拗ねたような口ぶりで赤葦はいつもさーと文句をぶつぶつと呟いている。俺が足を止めてもきっと振り返らないのだろうと、振り向いてほしいわけではないけれどそんなことを考えてしまう。俺なんかのために立ち止まってほしいわけじゃなかったし、木兎さんが後ろをいちいち振り返るような人にも見えなかった。このまま木兎さんが見えなくなるまでこうしていたらどうなるだろう。探してくれるだろうか。心配はしてくれるだろうか。泣きそうになっている自分を、慰めるくらいはしてくれるだろうか。でも木兎さんは誰かを慰めるのがどうも下手くそそうだ。勝手な思い込みだが、けれどそれは案外はずれではないのだろう。
「あれ、赤葦?」
 木兎さんが突然振り返る。目が合う。近づいてくる。どんどん距離は縮んでいって、その間も木兎さんと俺の視線はずっと交わっていた。手を伸ばしてみれば、木兎さんに触れることのできる距離で、ひどく安心してしまう。やっぱり俺は、木兎さんの隣にいたかったらしい。隣とは言わずとも、手を伸ばせば届く距離には。だから木兎さんの体温を感じて、涙がこぼれた。
「あ、赤葦!? どっか痛いのか!?」
「大丈夫です」
 それでも木兎さんはひとりでずっと焦っていて、どうしようと混乱の色が伺える。はやく安心させたいのに溢れる涙は堰を切ったかのように止まらないし、「すみません」と「本当に大丈夫なんで」と言えば木兎さんはあからさまに不満だというような顔をしている。
「大丈夫じゃねーだろ」
 そう言ってぎゅっと抱きしめてくれる。子どもをあやすように背中をさすってくれてだんだんと落ち着いてきた。深呼吸を繰り返しする頃には涙は止まっていた。さっきまではあんなに止まってくれなかったくせに、これじゃあまるで木兎さんのおかげで止まったみたいじゃないか。ちらりと木兎さんの様子を伺ってみると、俺が泣き止んだことに安心しているようだった。とんだ醜態をさらしてしまったと、今さらになって恥ずかしくなってくる。
「もう大丈夫そうだな」
「はい。…本当にすみません」
「赤葦なんかあったのか?」
「それは……」
「俺には言えない?」
 無言で居続けるということは、肯定として受け取られてしまうのだろう。けれどだからといって俺が言えることはなにひとつなかった。木兎さんに言えることは、なにひとつなかったのだ。木兎さんは少しだけ悲しそうな顔をして、無理しなくていいかんなー!と無駄な空元気を見せてくる。こんな表情をさせたわけではなかったのに、いつもの明るくてうるさい木兎さんでいてほしかったのに。その後の帰り道は木兎さんが必死に色々と話してくれて、別れ道のときにはいつも通りのあいさつをしてひとりになった。後悔ばかりしかできなかった。俺と木兎さんに残されている時間はもうそれほど長いものではないというのに、しばらくは気まずさが残ってしまうのだろう。下手をすれば卒業式までこのままなのだろうか。過去に戻れるなら、帰りたいと切実に願う。

 翌日、予想通り木兎さんの俺に対する態度は余所余所しいものだった。他の三年の先輩方に気を使わせてしまって、申し訳ない気持ちだけが残る。木兎さんとの時間が作れているのは木兎さんのお陰であって、俺は特に何もしていない。だから木兎さんが何もしなければ会える時間は圧倒的に減ってしまうわけで。休み時間にも事あるごとに訪ねてきた先輩が突然来なくなればクラスメイトも不自然に思ったのか珍しいこともあるもんだねと声をかけてきた。原因はすべて自分にあるのでなんとも言えない。帰りのホームルームが終われば勇気を振り絞って三年のクラスへと向かう。木兎さんいますか、と木兎さんのクラスメイトに聞けばあからさまに木兎さんは驚いていた。話があるので、と言えば俺もあると言われて、体育館へ向かった。沈黙が続いていたことだけは、つらかった。こんなに静かな木兎さんを見たのは初めてな気がしてさらにつらくなる。ふたりだけしかいない体育館は静寂に包まれている。この静寂さがどうも木兎さんには不似合いで、この場所はいつもバレーをしていた場所だったから、黙り込んでしまう。
「俺に言いたいことって、なに?」
 やっぱり昨日のこと? と、目がそう訴えているが本人はそれに全く気がついていないのだろう。無自覚ほど怖いものはない。返事をしたいのに、どれから言えばいいのかわからなくて言葉を選ぶ時間がとても長い。
「卒業しないでください」
「……え?」
「最近のあなたはひどいです。別れを思わせる言葉ばかり言って、俺がどんなにそれが悲しいのか知りもしないくせに」
 また泣いてしまいそうになる。目が潤んでいるのだということは何となくわかって、また木兎さんの前で泣くのは悪かったから思わず俯いてしまう。これで隠せた気になってしまうのだから、俺はきっとばかなのかもしれない。俯いていた顔を木兎さんが無理やり前に向かせる。「また泣きそうな顔してる」と困った顔をして、笑っていた。笑わないでくださいとは言えなくて、言葉が言えない代わりに涙がこぼれた。木兎さんのせいで泣いているというのに、なんでそれに気がついてくれないんだ。木兎さんが涙を拭ってくれる手はやはりあたたかかった。きっと、こんなにもあたたかく感じる手の温もりを持っている人は、赤葦にとって木兎しかいないのだということを赤葦は薄々勘づいている。それでもそのことを気の所為にして、そのあたたかさを無償で感じてしまう。木兎さんのあたたかさが、温もりが赤葦にとってひどく安心できるものだったからこのまま時間が止まればいのにと子どもみたいな考えを浮かべる。
「俺は卒業するよ」
 わかってます。知ってます。仕方のないことですよね。わがまま言ってすみません。頭に浮かんだ言葉をすべて言う。
「俺、赤葦に言いたいこと、あるんだ」
「…なんですか」
「うーん、でもやっぱ言うのやめた!」
 放課後にバレーをしない日なんて以前は一度だってなかったのに、今ではそれが毎日になっている。引退をして、それでも木兎さんとは変わらず下校を共にしていて、部活に木兎さんがいない現実から目を逸らして。そんな毎日だった。部活が終われば木兎さんに会えるけれど、学校でも休みの日でも会うことはできるけれど、俺が一番会いたい木兎さんは俺の投げたトスを嬉しそうな顔でスパイクをしたり、とりあえずバレーを俺と一緒にしてくれる木兎さんだった。木兎さんが俺に何を言いたかったのかはわからない。知りたいとも聞きたいとも思うのに、それを無理に聞いたりすることはしなかった。
「帰るか」
 木兎さんが一言そう告げるだけで、俺はそうですねと思ってもない言葉を言う。本当はまだ一緒にいたくて仕方のないくせに、そう言ってしまう。立ち上がった木兎さんを見上げて、差し出された手を掴んで、今日がもう終わって木兎さんとの別れが近付いていることが重くのしかかってくる。でもまだそのことを考えたくないから、頭の隅に追いやってみる。まだ、まだと、嫌なことばかり先送りにしたって結果は目に見えているくせに。どうなるかなんて、わかっているはずなのに。

「やっぱり今言うよ」
「なにを、」
「これからもずっと、俺とバレーして。だから大学は俺と一緒のとこにしてほしい。赤葦が俺と一緒の大学に来てくれれば、また一緒にバレーできるじゃん?」
 言葉が出なくて、木兎さんはどう?と期待を込めた瞳で俺のことを見つめてくれているのに返事ができない。ただ一言、いつもみたいに「そうですね」と言えばよかっただけなのに。それだけなのに。それだけだったはずなのに。やっと出てきた言葉は、俺が予想していた言葉とも、言いたかった言葉とも、違うものだった。
「そんなの断るわけないじゃないですか。俺は木兎さんとするバレーが大好きで、木兎さんに上げるトスが大好きで、木兎さんが打つスパイクが大好きなんですから」
 大好きで大好きで、仕方がないくらいなのだから。どれもこれも、あなたのせい。こんなにバレーボールに魅せられたのも、こんなに春が訪れてしまうのが嫌なのも、全て。だから責任を取ってほしい。俺をこんなんにしてしまったあなたが。
「俺をこんなんにしたんだから、責任を取ってくれますよね?」
「あたりめーだろ!」
 ならいいんです。そう言って笑う。木兎さんの差し出した手を、遠慮がちに握ってみると木兎さんは笑ってくれた。ああ、これでよかったんだなって、そう思ったから俺も笑ってみる。

 そろそろ、木兎さんのいない春が来る。木兎さんと出会ってから三度目の、春が来る。その春は一体どんなものなのだろう。どんな風景を俺に見せて、木兎さんに見せてくれるのだろう。先日とは違って、やけに期待で胸がいっぱいなのは、きっと木兎さんのお陰なのだ。木兎さんのせいで苦しんでいたというのに、悲しんでいたというのに、悩みの種となっていた木兎さんが解決してくれたのはきっと必然だったのだろう。そうなるべき運命だったのだ。ならばそれを俺は受け入れよう。そうしてまた、木兎さんにトスを上げるべき日のためにこれからを過ごしていくのだろう。
 春はもう、目の前だ。

別れを悲しんではいけない/150322



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