及川と別れたのは先日のことだった。遊び半分で付き合い始めたのはもう何年も前のこと。高校の卒業を機に別れを告げたのは自分の方だった。思えば三年間も付き合っていたのかと気付き、そしてあっという間だったと振り返る。恋人になるきっかけを作ったのは及川だった。
「俺、岩ちゃんのことが好きかもしんない」
 そんな曖昧な気持ちを俺に伝えてどうしたかったのかなんて、俺は知らない。なのにどうしてか悪い気はしなかった。及川が俺に対する好きは友人に対してのものではなかったし、それが本来異性に向けるべきものだということは知っていたけれど、別にそんなものはどうだってよかった。今考えると馬鹿なことを言ったもんだ。
「じゃあ、付き合うか」
 そう言えば及川はあからさまに顔を真っ赤にしてそうだねと言った。これじゃあ俺が及川に告白をしたみたじゃないかと思ったけれど、実際付き合うように促したのは俺ということも事実。けれどそのきっかけを作ったのは及川なのに、なんでそんなに顔を真っ赤にしているのだろうと不思議だった。本当に顔を真っ赤にしたいのは俺だというのに。
 付き合ったからといって今まで距離が近かったからか特に変わることはなかった。変わったことといえばスキンシップが少し増えたぐらい。幼馴染みだった期間が長かったせいか、それともお互いのことを知りすぎていたせいか、妙にギクシャクしていた。この変な感じがたまらなく嫌で、恋人なんてならなければよかったと後悔をしたくらいだ。けれどそんなことを考えていたのもつかの間、及川と帰り道に手を繋いだ。あの日のことは今でも鮮明に思い出せる。四月の春から付き合い初めて、五月になった頃手を繋いだのだ。部活帰りにコンビニに寄って、買い食いをしてから宙ぶらりんになった手を合わせていた。まるで小さい子どもがするように。それが恋人らしい手の繋ぎ方とは思わなかったけれど、別によかった。手を繋いだという事実だけで頭がいっぱいになって、無性に恥ずかしくて、顔を合わせられなくて。思い出しただけで顔が赤くなる。初めて手を繋いだ五月から三ヶ月後の八月の夏休みにキスをして、その更に半年後にセックスもした。及川と恋人ではあったけれどあまり恋人とは思えなかった。確かに恋人らしいことはしていたけれど、恋人らしいことをするだけだったから。手を繋いでキスをしてセックスをしたけれど、それだけだったから。これじゃあただの恋人ごっこみたいだと思った時期は少なからずあったけれど、そんなことはいつしか忘れてしまっている。それほどに三年間はあっという間に過ぎていったのだ。
 もしかしたら俺と及川は恋人らしいことをしていただけのただの友人だったのかもしれない。それはあくまでも『かもしれない』だからなんとも言えないけれど、別れた日はただそう思った。だって別れようと言ったのは俺だったけれど、その言葉に直ぐに頷いた及川は俺のことが本当に好きだと思えなかったし。ふつう好きだったら別れようなんて言ったらもっと戸惑うはずなのに、あいつは簡単にそれを受け入れた。だからあいつにとって俺ってその程度のもんだったんだなぁなんて思ってしまうのは当たり前だろう。
 でも、別れるにはあまりにも丁度いい時期だったからそのせいなのかもしれない。
「岩ちゃんって進路どうするの?」
「あー、とりあえず大学に行く」
「俺まだ決まってないんだよなぁ。もう面倒くさいし岩ちゃんと一緒のとこでいいかも」
 どう思う? なんて笑ってたくせに、結局大学はお互いに別々になった。小学校から十二年間一緒だったというのに、終わりというものはずいぶんとあっけない。そもそも出会いだってただ単にクラスが一緒だったとかそんな些細な理由だったんだから、別れだってそんなものなのだろう。俺としては別に一緒の大学でもよかったし、どうせ一緒なのだろうと思っていたから正直驚きを隠せないでいていた。合格したなんて笑顔で言われたときは素っ気ない態度だったと思う。その時にはもう別れを覚悟していたのかと聞かれても、正直わからない。
 及川は忘れているかもしれないが、もう随分前に、多分高校二年生になろうとしている春だったと思う。高校卒業したら一緒に暮らせたらいいよねなんて言ってた頃に戻れたのなら。俺はその時の及川に無理だと言ってしまうのだろうか。お前は俺と違う大学に進学をして、そして高校卒業と同時に俺と別れるんだって言ってしまうのだろうか。もし及川がそれを実現してくれていたら、とても幸せな大学生活になれたのかもしれない。まだ大学に通い始めてもいないからわからないけれど、及川のいない学生生活ははじめてだから正直どう過ごせばいいかわからない。けれどきっと新しい友人を作って、案外ふつうに過ごせてしまうのだろう。そんな自分が容易く描けてしまって、どこかショックだった。
 ねぇ岩ちゃん、そう呼ばれることはもうないのかもしれない。及川は東京の方の大学に行くのだからもう会えることもないのかもしれない。俺は高校でバレーを辞めるけれど、及川は違った。プロになるために東京へ行くのだ。だから別れを告げた。別に及川のためを思ってとかではなく、なんとなくで別れを告げた。特に理由はなく、区切りもいいしみたいなノリで言ったことは正直後悔をしているのかもしれない。
 ピンポーン。機械的な電子音がリビングに鳴り響く、母親にちょっと出てと頼まれてはいはいと玄関へ向かう。ガチャリとドアを開ければ昨日まで隣に並んでいた及川徹が立っていた。やっほーなんて相変わらずうざったい顔をして、当たり前のように家に上がってきた。母親は及川が来るのをまるで知っていたかのようにお茶請けを出して、俺に渡した。出されたものを返すわけにもいかず、二階にある自室に向かう。及川はどこか楽しそうにきょろきょろとしていて、どうせどこに何があるか知っているくせにと悪態をついた。
「で、なんか用か」
 自室に入って直ぐにそう聞けば、早速それ聞いちゃうのー? なんて相変わらずやけに高い声で言ってくる。
「大した理由じゃないんだけど、明日から暫く岩ちゃんに会えなくなるし、見納めみたいな?」
「明日出発だったか」
「うん、10時過ぎ発の新幹線で」
 明日になれば及川は自分の家を離れて東京の方で一人暮らしをはじめる。大学はまだ始まらないけれど、大学のバレーチームには来週から参加するらしい。それまでに色々と準備をしておきたいらしく、卒業して間もないのに家を出るとまだ付き合っていた頃に及川にそう告げられた。俺といえば特に大学の準備もせずに毎日だらだらと過ごす予定だった。バイトは詰められるだけ詰めたが、それでも春休みはバイトと家の往復になるのだろう。
「ねぇ、岩ちゃん。キスしよって言ったら怒る?」
 それはもうキスをしようって言ってるもんだってのに、怒るもクソもねーだろ。相変わらず頭が弱いのは変わらない。
「俺とお前はもう付き合ってないんだし、怒るに決まってんだろ」
「そうだよね」
 弱々しく笑ってるふうに見えたのはきっと気の所為。俺が勝手に都合よくそういう風に解釈してるだけだ。携帯の画面を操作して時計を確認すればもう夕方と呼ぶには遅すぎる時間だった。いつの間にこんなに時間が経ったのだろう。別れを惜しむはずが、いつも通りただ二人で過ごして別れる。これが本当の終わりかもしれないのに、あっさりとしたものだった。玄関まで送れば、またねと明日も会えるような口ぶりでドアの向こうへ行ってしまう。及川はいつだってそうだった。俺になら来れるとどこか信じていて、けれどそこは俺には遠い。お前はいつだって軽々と遠くへ行ってしまう。そこに追いつくためにどんだけ必死になってたか知りもしないで。けれどそれはもうないのだ。これ以上俺が及川を追いかけることはないし、追いつくこともない。及川は俺の手の届かないところで過ごして、そうして俺との時間をもいつか忘れてしまうのだ。ドアを開けて及川の行ったであろう方向をぼんやりと見つめても、もう及川の姿はなかった。これでおわりか、とひとり呟いたところで返事は来ない。

 翌朝、なぜか早く目が覚めてしまったのは習慣だったのだろう。早起きは三文の得と昔の人は言っていたけれど、だとしたら今日の俺はなんの得をするのだろうか。時刻はまだ六時。きっと両親も今日から暫く学校がない俺と会社が休みの父親だったから、母親は久しぶりに朝をゆっくりと過ごせるのだろうしリビングに降りるのはやめておいた。小さな物音でも起きてしまうかもしれないという岩泉なりの配慮だった。
 携帯を開けば及川から新着メッセージが届いていた。こんな早朝からなんなんだと思いつつ開いてみた。
『今までありがとう』
 それだけしか書かれていなかった。何に対してのありがとうなのか、岩泉はよくわからなかった。思い当たる節がありすぎたのだ。けれどきっとこれは及川なりのけじめみたいなもので、これで及川と岩泉はもうただの元チームメイトで元恋人で、幼馴染みだった人になったのだと、何となくだがそう思った。付き合うきっかけを作ったのは及川で、別れを切り出したのは岩泉だった。けれど今さら岩泉は別れを切り出さなければどうなっていたのだろうと考える。もう終わってしまった関係について。及川から別れを切り出したのかもしれないし、もしかしたらあのまま付き合っていたのかもしれない。及川と岩泉は確かに恋人であったし、例え恋人ごっこみたいだったとしても、二人を繋いでいてくれるものはちゃんとあったのだ。それを切り裂いたのは岩泉自身なのに、なにを今さら振り返るのだろう。
 恋人ごっこみたいだったかもしれない。少しぎこちない関係だったかもしれない。けれど岩泉は及川のことが好きで、及川も岩泉が好きで、付き合うにはそれ以上の理由はいらなかったのだろう。一緒にいるのにそれ以上の理由はいらなかったのだろう。岩泉はそのことに気が付いて、確かに俺たちは恋人同士だったのだと自覚する。後悔をするにはもう遅い。昨日及川がくれた最後のチャンスを断ったのは紛れもない自分なのだ。あの時にキスをしていれば、受け入れていれば、まだ俺と及川を繋ぐものはあったのに。
 岩泉は泣いた。及川を想って、もう届かない及川のことを想って、泣いた。昨日までは届いたはずなのに、今日からはもう届かぬ人だったから。岩泉は後悔をして、泣くことしかできなかった。

もう届かない/150213



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