歳の離れた姉はわたしと同じ血が流れていることが信じられないくらい酷く清廉な人だった。夢想家で理想主義でもあった。一途に自分の行く道を信じ、ひたすら美しいと思われる風景写真を撮り続けていた。それはわたしから言わせればとてもありきたりでただ綺麗なだけの、心を震わせることのないつまらないものたちだったけれど、本人はそれを認めようとはしなかった。まるでマリヴロン女史のように自らが清く正しく歩いた時間の後ろに大きな芸術が出来ると信じていて、一緒に連れて行って欲しいと慕ってくる手を振り払い一人きりで旅に出た。置いていかれた方の気持ちも知らないで。それが互いの幸いであると勝手に信じて。

夜のプラットホームにはわたしと花巻さんしかいなかった。不自然に人一人分の空白を保ったまま椅子に座りお互い黙ったまま会話はない。放課後帰宅しようとしたわたしを校門で待ち構えていたのは彼の方で、「ちょっと付き合って」と言われ頷くしかなかった。
電車に乗り花巻さんがわたしを連れて行ったのは綺麗な小さい川で、暮れ泥む太陽に照らされた川面が鱗のようにてらてらと光っていた。会話などなく、辺りが完全に暗くなるまでお互い黙ったまま川を眺めた。ただそれだけだった。何もせずにせせらぎだけを二人で聞いた。彼が何を考えているのか、わたしには容易に想像がついたけれど余計なことは口にするまいと黙っていた。わたしは彼のことを知る必要はない。彼がわたしという存在をもて余していたとしても。

仙台市内へ向かう帰りの電車はまだしばらく来ないようだ。深秋の夜風はもう冷たくて、寒い。冷えた手を握りこんだまま黙って座る。ただ先程まで眺めていた川面のきらめきを思い出す。姉がいかにも好みそうな風景だった。

「寒い?」
「そうですね」

唐突に聞かれたので素直に答えると花巻さんは黙って立ち上がり自販機から温かい飲み物を買ってきてくれた。「ありがとうございます」と頭を下げてから受け取ると冷えた指先がじわり痛んだ。花巻さん自身は姉が好きだった甘ったるいミルクティーを持っている。まるで呪いのようだと思った。
接点などない筈の姉と花巻さんがどのようにして出会いどのように付き合っていたのか、わたしは知らない。初めて姉から彼を紹介された時わたしは酷く驚いた。自らの信じる写真を撮ることしか考えていないような姉が、人間の、しかもかなり年下の男子高校生と付き合うなんてと信じられない気持ちでいっぱいだった。それに何よりわたしと同じ学校の人だとは。
姉から紹介されるまでわたしは彼を知らなかったけれど、どうやらバレー部に所属していてあの何かと目立ち話題になる「及川さん」のチームメイトみたいだった。帰宅部のわたしとはまるで接点がないし、きっと姉となんてもっとないだろうにと不思議に思った。
ただ、姉と花巻さんの関係は普通の恋人のようなものではなかったように思う。もっとあやふやでもっと根深い、やはり呪いのようなもの。そんな気がしていた。
一度だけ姉に聞いたことがある。「花巻さんのどこを好いたの」。姉は心から慈しむような微笑みを浮かべてこう言った。

「あの人のなかに広がるわたしの理想郷に」

あまりにも姉らしい夢を見た返事にわたしは酷く彼に同情した。勝手に理想を投影され憧憬の眼差しを向けられ続けるのは不憫なものだと思った。
そして今年の春、そんな姉は自らの芸術という奴のため一人で旅に出た。花巻さんの手を振り払い置き去りにして。あまりの勝手さにわたしはさすがに憤慨したが、花巻さんは困ったように笑って言った。「まあ、そういう人だって分かってたし」。姉の清廉に毒されている。なんて可哀想な人だと心の底からそう思った。
旅に出た姉は定期的に連絡をくれた。時々旅先で撮ったらしい写真も送られてきたが、相変わらず綺麗なだけのつまらない写真だった。そんな姉からの連絡が途絶えて、今日で四十五日。

「ゴメンネ」

唐突にぽつりと花巻さんがこぼした。

「付き合わせちゃって」
「いえ」

先程までかじかんでいた手は温まってぎしぎし軋む。プラットホームの上に広がる空は黒々としていてそこに広がっているはずの星の一つも見えやしない。電灯の人工光に消されてしまっていた。

「前にあの川に連れて行ってもらったことがあってさ」
「はい」
「あの人は烏瓜の明かりを流したかったらしいんだけど、俺にはその意味が分かんなくて」
「でしょうね」
「それを酷く残念がってた」

勝手な話だと思った。自分の理想を彼に投影して、それが上手くいかないと悲しむなんて。

「花巻さんは物好きですね」
「そうかも」

かすかに笑うのが聞こえた。自覚はあるみたいだ。
花巻さんがもし姉と同じ大人だったとしたら、二人は並んでどこまでも一緒に行ったのだろうかと考える。結局のところ、姉は高校生の彼の幸せはここに残る事だと信じ彼を置いていった。夢見がちなくせに、そこだけは酷く冷静だった。冷静で、正しくて、残酷だ。
自分の世界に引き込み手を取るなら、どこまでもどこまでも一緒に行けばいいのに。肝心なところで姉は怖じ気づいた。自分のその湧き上がった欲が全ての幸せに繋がらない事、彼の中にある自らの理想郷を枯らす事を知ってしまった。清廉で夢想家で理想主義の姉は、彼女が思う本当の幸いという奴を見てしまった。
綺麗な風景しか撮ることがなかった姉の部屋に残された唯一の風景以外の写真。コートの真ん中でチームメイトとバレーをしている、花巻さんの姿。その写真はとても美しくて、心が震えるほど姉の欲が溢れていた。そして姉はそれが許せなかった。

「花巻さん」
「うん」
「幸せですか」

わたしの問いに彼は黙る。秋の夜風が冷たく吹く。しばらく経って彼はぽつり「いいや」と答えた。

「姉は、本当に正しい事をすれば全て幸せになると思っていました」
「うん」
「わたしからしてみれば、そんな訳がないのに」

わたしは姉を許せないです、と言うと彼は「そう」と小さく呟いた。
最後に旅先の姉から届いた写真は二枚。黄金色の稲穂が一面に写る写真と、小高い丘のような場所で撮ったらしいぽつんと立つ何かの柱とその後ろに広がる果てしない夜空。写真の裏側に、油性ペンで走り書きされた姉の汚い文字。

−−Felico de Ihatovo

その言葉すら正しいのか間違っているのかわたしには分からない。けれど隅にあった「Ha-mukiya」の文字が雑に塗り潰されていた事の意味は考えるまでもなかった。
たまたまその瞬間を見た人によると、飛び出してきた野生の動物を避けたのだという話だった。川底からは姉の車しか見つかっていない。四十五日経った。正しい事が幸せに繋がらない。わたしは姉を許してあげない。

ブツン、という音がして間もなく電車が入線するという構内アナウンスが流れる。立ち上がったわたしに花巻さんはぽつり言う。

「俺はもう少しここにいるよ」
「そうですか」

これを乗り過ごせば次の電車は三十分後。風邪をひいてしまうのではないかとも思ったけれど、あの甘ったるいミルクティーを握り締めるその姿を見たら何も言えなくなった。
線路の向こうからライトが近付いてきて、耳障りな音を立てながら電車が減速する。

「花巻さん」

わたしは彼の目の前に立つ。困ったような顔で笑うその姿を見下ろしてわたしも同じように、どうしようもなく救いが見つからない子どものような、そんな気持ちで困ったふうに笑った。

「その切符はどこまでも行けない、仙台行きの現実的な切符です」

ちゃんと家に帰って下さいね、と告げると彼は瞬きをしたあと可笑しそうに吹き出した。

「やっぱ姉妹だわ」
「全然似てないですよ」
「や、似てる」

ギギイッという音とともに電車が止まった。人はほとんど乗っていない。まるで夢でも見ているかのような、慈しむかのような、そんな目でわたしを見上げる花巻さんがいたたまれなくて「さようなら」と一方的に告げてから振り返ることなく電車に乗り、彼に背を向けて座った。暖房の付いた車内の温度で頬がかあっと熱くなる。ここで泣いてしまえるほどわたしは清くも正しくもなく、ましてや姉を想う彼の手を取って共に本当の幸いとやらを探しに行けるほど、傲慢にはなれなかった。
ゆっくりと動き出した車窓の向こうに“黒い川の水がちらちらと小さな波をたてて流れているのが見える“。手に握りしめていた温かい飲み物はとうに冷えて温度が失われていた。わたしは一人きりこうして夢から覚めてゆく。


参考
『マリヴロンと少女』より、マリヴロン女史