何もかもが順調に運び、“まさに今、私の人生は波に乗っているのではないか…?”とすら思っていた時の折の事だった。

使役する刀の一振りである彼が私へ囁き掛けてきたのだ。


「このところは、実に事が滞り無く進んでおる様で何よりだな、主よ。」
『本当にそうですね。でも、お陰で先日会議で挙がった議案も無事通った事ですし、暫くの間は何も心配する事無く審神者業に専念出来そうです…!』
「そうかそうか、其れは良かったなぁ。――…して、そんな好調そうな主に一つ俺から提案があるのだが、良いだろうか?」
『うん…?何ですか、三日月?』
「―せっかく事が順調に運んでおるのだ…このまま御代の位まで伸し上がる気は無いか?」


一瞬、彼が言った言葉の意味を図りかねた。

だが、二度目に同じ文言を繰り返された時には、どういう意味でその言葉を言われたのかの意味を理解した。


『え………っ、御免なさい、今何と仰りました……?』
「おや、言葉の意味を掴み損ねたか…?では、もう一度同じ事を申してやろう。――主よ、このまま御代の位まで伸し上がる気は無いか?」
『み、だい……とは、どの様な意図で…?』
「ふふふ、賢き主の事だ。其処まで言わずとも今の言葉だけで計り知れるところだろう?長年政府の御足許で仕える身なのだからな。よもや、今更になって“御代”の意味を知らぬとは言いまい…?」


みだい、みだい…御代。

頭の中でその単語だけを反芻して意味を読み解いた。

御代とは…帝、つまり今の時の政府の頭や将軍、最も中枢を司る要そのものの事を意味していた。

―“御代の位まで伸し上がる気は無いか?”

其れ即ち、“御代――今世の帝になる気はあるか?”という事であった。

今、時の政府の帝を務める方も、其れは其れは立派な御方である。

私なんて下々の端くれ者が容易に近付ける立場でも、ましてや言葉を交わすなんて事すらも出来ない立場の存在。

―そんな立場に、私がなれと彼は仰っているのか…?

瞬時に事の大きさを理解した脳が、躰の熱を奪い、躰中から嫌な汗を吹き出し始めた。


『…な、にを、仰っているのやら…私には、さっぱり………ッ、』
「惚(トボ)けぬとも良い良い…。今は御主と二人だけ、何も憚る事は無いぞ。他に聞く者も居らん。」
『し、かし…だからといって、謀反に相違なき事を唆されたとあって簡単に“はい、そうですね”とは頷けぬものです……っ。そ、其れに、気の小さい私には、その様な野望を持つ事は出来ません…っ。他の方々は、そうではないのかもしれませんが…。』
「…ふむ、そうか。だが、其れに関しては俺も初めから知っておるぞ。」
『な、ならば、何故その様な事を戯れに私なぞに……?』
「決して戯れなどではないぞ?全て俺の本心から申した事だ。別に今の世がつまらんという訳ではない…。しかし、今のままの世では何が変わろうとも根本が取って替わらぬままでは面白味に欠ける世が続くばかりであろうなぁ。歴史修正主義の時間遡行軍との力の差も拮抗したまま、ただ無為に時が過ぎ行くのを待つだけ…。其れでは何の解決にもならぬだろうし、実に退屈が過ぎる。故に、俺達が降ろされた意味も分からなくなる。――俺達の本質は刀だ。戦に勝つ為に用意された武器、力である筈が…今や如何(ドウ)だ?人の道楽の傍らに置かれた骨董品と変わらぬ扱いではないか。付喪が宿った俺達は末席とは言えど神の位に在る事を努々忘れてもらっては困るぞ。」


ビリビリと底冷えする様な静かな気迫が肌を刺して縮こまった。

小心者な私は、其れだけで恐怖に芯を染めた。

唇が勝手に戦慄き震えて、息が乱れて呼吸が浅く小さくなる。

圧倒的歴然とした大きな力が、今、私の前に立ちはだかろうとしていた。

ただ目の前に力の壁が立ちはだかるだけに終わるなら、其れだけで良かった。

私は力に従って頭を垂れるだけに終えるから。

しかし、現実はもっと熾烈で重苦しいものだった。

いっそ息苦しささえも感じている程の圧力である。

其れだけ、彼の持つ付喪神としての力が強い事を指し示していた。

言葉の意味に耐えかね、恐怖心から視線ごと顔を俯けていれば、つと顎の下を掬う様に上向けてきた彼に無理矢理にも視線を合わせさせられた。

視線の合った先、深き青の中に三日月を浮かべる瞳が私の目を覗き込んできた。


「そう畏れぬとも良いぞ?俺は御主の事を取って喰らおうなどとは思っておらん。ただ、言葉通りの意味さ。…俺はな、主こそが今の世の御代に相応しいと、そう思っておるのだよ。」


深き青の中の三日月が弧を描いて笑った。

凡そ人が描く笑みではないと、そんな風に思った。

ただ、彼は真(マコト)の意味で神らしい御人なだけであったのだ。

今は仮初めに人の身の器を得てこの世に顕現せしめているが、その身が在るべき姿は彼の言う通りただ一振りの刀に過ぎない。

だが、器は人であれど、中身は末席と言えども神の位を戴く人為らざる者…。

今、その本質・本性をまざまざと見せ付けられた様だった。

見た目が人の其れと似通っているだけで侮ってくれるなよ、と…そうも言われている気さえした瞬間である。

彼が再び私に向けて口を開く。


「俺は、主こそが今の世の御代に相応しいと思う…その言葉に嘘偽りは一切含まぬ。主はほんに器量の良き娘だ。ただ少し気が小さ過ぎる嫌いがあるのが難点かもしれぬが、まぁ、そんなのは些細な問題に過ぎんだろう。嘗ての世にも女人の御代の者は数人居った、故にその点について憂う必要は無いぞ。楯突く者が居れば、俺達が払ってやるだけの事…。主が御代となる事を口にすれば、きっと本丸の皆も同意し認めてくれる事だろう。思う事は皆一緒なのだ、心配は無用さ。主はただ一言宣言するだけで良い。後の事は皆全て他の者達が遣ってくれるだろうからな。」
『………三日月よ、』
「何だ、主…?」


無邪気さすら滲んだ空気であった。

何を考えているのかが読めぬ彼の目を見つめて問う。


『…此れは、時の政府への反逆を意図するお誘いですか…?其れとも、ただただ現状に不満を抱いたが故の時の政府職員であるの我々への謀反ですか?』
「―答えは否さ。まぁ、聞くにはそう捉えられても仕方のない話だがな。はっはっはっは…っ。」


愉快そうに笑んだ彼が、着物の袖先を口許に当て、優美に微笑む。

そして、再び口を開いて言うのだ。

きらり、神としての吟持を煌めかせた瞳で。


「俺は元々政府の元に在った内の一振りに過ぎんが、故に政府の内情も裏の顔も全て事細かに知り得ておる。だから、顔も利く。其方の上の役職に就く者等程度ならば、一言で下がらせるくらいは優にこなせよう。己の立場が高いと胡座をかき与えられた身分に酔いしれるだけで何も出来ぬ馬鹿で阿呆な屑共などに於いては一握りで潰してくれよう。主が御代に就いた後に沸くだろう虫けら共も、全て俺達が薙ぎ払ってやるさ。…俺が思うにな、其方はこんなところで燻っていて良い御人ではないのだ。――故に、俺が御代まで祀り上げてやろう。」


この人は本気でそう言っているのだと、今更ながらにじわじわと実感出来た。

何時からそんな思想を私に抱いていたのかなんて事、既に問うのも押し憚られるとこにまで知らぬ間に来てしまっていた様だ。

彼の思い抱く意図は相変わらず読めぬままだが、ただ一つだけはっきりと分かる事はあった。

―彼はやはり人ではないのだ、という事を…。


「なぁ、主よ。俺に全てを委ねる気は無いか…?さすれば、御主を御代まで祀り上げてやろう。俺が付いているからには、何の心配も要らぬさ。御主は、ただ一つ頷いてくれるだけで良いのだから。――して…、この話の返事は如何答える?」


嘗てより帝の側に在った刀であるが故に、帝になる人も帝たる人だと認めぬ限りは不満で仕方ないのかもしれない。

彼は、最早帝すらも選定せしめる力を持っているのだろう。

彼の言葉には其れだけの力が込もっていた。

この問いに用意された私の答えはただ一つだけしか無いのである。

そして、私は其れに頷くしか能を持たない上に、彼の意に抗う術を持たぬのだ。

私は震える口で喉で答えを発した。

嗚呼、私は愚かでしかないな…。

“御代まで祀り上げてやろう”という彼の意図に私は是と答えてしまった。

そんな思惑、端から抱いていなかった癖に。

彼に従わねばならぬと本能が告げたから、つい従ってしまった。

もう後戻りは出来ない。

私は此れから彼の手によって時の政府の要となる御代という位に伸し上げられる。

其れは、まさに、神である彼等に祀り上げられる事を意味していたのだった。