システム管理会社に勤務している。その夜、わたしは定時の十八時ぴたりに仕事を終えた。エレベーターのなかの閉塞感に揺られながら、ふと昼間に耳に入った部下同士のやりとりが頭の中を占めている。気になる後輩くんの恋愛事情という、知りたかったのか知りたくなかったのか分からないような腫れ物。

「そうだよな、やっぱり彼女くらいいたよなあー......」

誰もいないというのをいいことに、わざとらしく長い溜め息にのせてゆく。大人になってからの日々は恋愛だけでは暮らしてゆけず、仕事の合間に募る恋心を打ち明ける同僚もいない。

「それにしても、毎日視界に入る場所で満智子さんと仲良くしゃべりやがってー」

安藤君と同僚の満智子さんが気恥ずかしくも羨ましい。だけど「もしも」の先の同僚の「わたし」はあんなに仲良くはできなかっただろうし、「満智子さん」が彼の上司でもきっと可愛がって慕われる関係だっただろう。悔しいのになかなか変えられない性格だって、話しかけたらきっと彼も応えてくれることくらい知っているのに。社会人になって何年目だ。情けない。

地下鉄に揺られて、終点に安藤君の降りる駅があるという路線を運ばれていく。二人は時々、帰り道が一緒になることも何度かある。本当にたまに。定時に帰れないトラブルの方が多い。

『みょうじさん、お疲れ様です』
『疲れたね、お疲れ様です』

何年経っても一緒に道を歩くと落ち着かない。同じ車両に拘束されると逃げてしまいたくなる。実際、ありもしない忘れ物を思い出すように。突発的な寄り道を繰り返すように離脱を行ってしまう。

何度か二人きりから逃げ出したわたしの珍奇な逃げ癖に(何なんだこの先輩は?)と、彼も怪訝に思ったりしたのだろう。

ーー今日は忘れ物もないですか?
ーー安藤君、コンビニ寄りたいから先に帰っていいよ。
ーー歩き疲れたから、待ってます。

三回に一回は先手を封じられて、後輩に先輩としてのあり方を指導をされる始末だ。情けなくて頭が下がる。

揺られる車内。安藤君とは仕事の話ではない、もっとプライベート寄りの当たり障りのない談笑がしたくて会話の糸口を探す。そのくせ、最近気になるマイナー作品と仕事くらいが人に話せる非日常事であるわたしには、安藤君の"理屈っぽい"話にうんうんと頷いて聞いているだけが関の山だ。

『安藤君、何か......楽しい話』

そう言うと、彼はいつも決まって形だけの困り顔を浮かべる。その後で、声のボリュームを隣に聞こえるだけでいい大きさに落とすと、その時々の社会の動きを饒舌に話した。好きなんだろう。そして時折挟まれる、自分の身に起こったことや弟さんとの二人暮らしにまつわる話に、心は弾んだ。わたしの変化が顔に出ていないといいのだけれど。


「みょうじさん、飲みに行きましょうよ」

翌日のことだ。帰るつもりのわたしを捕まえる声があった。颯爽と肩を叩いた方を見上げると、ブラウス姿の満智子さんが楽しそうに顔を覗きこんでいる。ヒールの功績もあるが、安藤君と同じくらいの長身なのだ。

「何か話したい話?」
「そう、会社じゃちょっと困るかなあって内容です」
「いいよ、せっかくだから美味しいところに行こう」

向かった先は、「天々」という名前の全国チェーンの居酒屋で、意気揚々とついてきた満智子さんは可愛い。

「いつもの店じゃないですか」
「安い割に美味しいから、間違ってないでしょ?それに美味しいところに行こうって言うと、美味しいところに来た感じがする」
「それは同意見です」

わたしは軽くご飯を、満智子さんは先輩と二人の手前か、いつもなら次から次へとジョッキを空ける人が今日は大人しい。なんだかちらちらと見られている気がして、隣と視線を合わせる。頬を上気させた彼女は綺麗だ。高い鼻がわたしの方をぴんと向いている。

「みょうじさんは彼氏いますか」
「......切ないことに、いないねえ」
「好きな人はいますか」

満智子さんの目はきらりと輝いている。何かの確信がある時、こんな目をする人を映画やテレビドラマでよく目にする。それが今、自分に向けられようとは思ってもみなかった。店内の喧騒が遠くなる。耳の神経が彼女の口元に直接繋がっているみたい。

「......もしかして、ばれてる?」
「ばれてる、かもしれません」

彼女はおもむろに、こちらに身体を寄せると「安藤君、かなって」とすんなりと正解を当ててしまった。上手く隠せていると思っていた。いつか「諦め」という名の、はたまた「冷める」という名の終わりがきて、誰にも気付かれずに最初から無かったことになるはずの代物だった。それを耳元でこんな風に、女学生みたいに言い当てられてこちらは狼狽するしかない。

「やつは今フリーですよ」
「わたし、そんなに態度に出てた?」

今すぐ誤魔化して逃げ去りたいとも思った。それでもそうしなかったのは、この気持ちを誰かが見つけてくれて嬉しいと思ったからだ。当の本人じゃないと意味がないといわれても、楽しいと思う気持ちは仕方がない。恋の話に花が咲く感覚なんて、随分忘れていた。

「みょうじさん、分かりやすいですよ。安藤君の前だと可愛い」
「え″ー......もっと厳しくした方がいいかな」

真剣に頭を抱えると、満智子さんは「そのままでいいのに」と笑った。それから、他からの印象を尋ねるわたしの相手を適当に流しつつ、我慢していたジョッキを空けて楽しそうに酔っ払った。質問し足りないが、こうなると次の台詞はこうだ。

「満智子さん、そろそろ出ようか」
「先輩の奢りありがとうございます!」

一晩寝て起きて考えさせられる羽目になった。人から寄せられる好意に、安藤君は気付いているのだろうか。もしかして彼が満智子さんに言った可能性も......いや、わたしよりグレードが高い満智子さんにわざわざ漏らす馬鹿がいるか。わたしなら秘密裏に処理する。

「......やっぱり、安藤君は気付かない気がする」

こうして寂しいような、有り難いような気持ちになるのは何回目だろう。言わなければ相手にしてもらえないのは、土俵に立っていない人間にとって当たり前のことだ。それを、立たずにいられることに安心しているだなんて、どれほど臆病に育ってしまったんだろう。

「......口から勝手に言葉が溢れたらいいのに」

誰か優しい人が、わたしの口を使って勝手に喋らせてくれないかしら。世界の偉い人たちが「今日で戦争を終わらせましょう」と言うように、いじめっこの口から「こんなことやってられねーよ」とそんな言葉が出るように......ううん、それじゃきっと最初から言わないのと一緒なんだ。ばっかみたい。

自分で思ったことを、血を通わせた言葉を口にしないと意味はないんだ。意味のないものを貰っても、安藤君は嬉しいともうれしくないとも思ってくれないだろう。


「おはようございます、みょうじさん」

今朝はエレベーターの前に安藤君が立っていた。今だ。今、言ってもらおうとわたしは精一杯の気合いをつくる。人と向き合うように、これから変わっていきたい。

「おはよう、安藤君。朝からごめん、お願いがある」
「......? 俺にできることなら」

ーーわたしに、ばっかじゃないのって言ってくれない?勇気を出したくて。

「どうしたんですか?」

安藤君は目を丸くしている。当然の反応にこちらの顔も赤くなるけれど、もう引き返したくはないんだ。

「人助けだと思って、どうか」
「ええ?」

安藤君は本当に困った顔をしていた。それから随分と両者の攻防もあったが、最後には折れてくれる。先輩の頼みだからとそれはとてもとても言いにくそうに「バッカジャナイノー」と、言ってくれた。

「ありがとう」
「いや、すみません......」

もっと仲良くなる努力がしたい。安藤君に気軽に笑ってもらえるような人になりたい。

「迷惑じゃなければ、携帯の......アドレス聞いてもいい?」
「ああ、俺もお願いします。そういえば、みょうじさんの下の名前って......?」
「......安藤君の下の名前って?」

勇気を持とう。わたしのペースでゆっくり、一歩ずつでも進めるように。いつか安藤君もこの後ろをついてきてくれたらいいな。