「人間ほど面白い娯楽はないよ」
 男がマフィアに居た時分、彼はそう云った。
 そうですかと返す私に、彼はそうとも、と答え、口許を歪めた。
 開けてはならない扉に、触れてしまったような気がした。

 この男性は部下や他組織の人間、果ては上司に至るまで、人間を皆ただの駒としか見ていないのだろうと、以前より思っていた。実際、それを匂わせるような言葉を吐くのを聞いたこともある。
 私はてっきり、「駒」と云うのは「道具」と同義であると解釈していた。彼は目的のためなら手段を選ばぬ、すなわち他者を利用しても何とも思わない人なのだ、と。

 しかしそれは違っていた。遥かに甘い認識であった。
 彼にとって人間は、「道具」ですらない、ただの「遊戯盤の駒」でしかなかったのだ。
 何かを得る為ではない。自身やその所有物を護る為ですらない。この男は、人間が蠢く様をただ"娯楽"として眺めていたのだ。人間は皆哀れな役者に過ぎぬと、冷ややかに嘲嗤いながら。
 それに気づいたとき、太宰治と云う男が化け物のように見えた。
 他者に何の感情も抱いていない、機械のような人間であれば、少なくとも納得は出来る。たとえ彼が誰を切り捨てようと、「屹度重要な目的があったのだ」と思える。多少もやもやとした感情は残っても、こちら側での理由付けは可能だ。
 しかし彼の行動には理由付けが出来ない。理解が出来ない。理屈でも感情でも割り切れない、あちら側――彼岸の存在なのだ。


 だから私は、彼が突然姿を消したときも別段驚きはしなかった。と云うより、考えることを放棄していた。もうどうでも良かった。
 実際にこうして再会し、その変貌ぶりを目の当たりにして、漸く私は動揺した。あの淀み荒んだ瞳を持つ最年少幹部の姿は、何処にも見つからなかった。

「また――入水ですか」
 全身に水草や泥を付け、ずぶ濡れでにこにこと笑う彼に云った。
「やあなまえちゃん、久しぶり。元気?」
「昔の同僚の莫迦な姿を見て疲れています」
「それは大変」

 誰だろう、この胡散臭さの塊は。
 否、胡散臭さに関しては、そう変わっているわけでもないのか。中也さんに嫌がらせをしているときもこんな調子だった。

「それでどう、仕事の方は」
「情報を引き出そうって魂胆ですか」
「いやいや、そんなことはしないよ。ただなまえちゃんが思い悩んでいそうだったからね」
 違う?と微笑む太宰さんに、溜め息を吐く。相変わらず鋭い人だ。隠し事なんて出来やしない。

「最近、そろそろ潮時かもしれないって思うんですよ。未だ三十路にもなっていない癖に」
「潮時、ね」
「夢を見たんです。織田作さんの」
 ただ一緒に舞台を観に行くと云う、特に何の変哲もない夢だった。織田作さんが懐かしくなったとか、もうやめろと云われたとか、そんな安っぽい展開は特になかったのだが。
「なんかそれ以来、すっかり引き金が重くなってしまって。唯今休暇中です。散々人を殺しておいて、今更何を云っているんでしょうね。――きっと、何かと中途半端なんですよ、私」
 現に今も、組織の裏切者に愚痴を吐いている。
「そして随分と、贅沢になりました」
 心身共に、決して楽な仕事ではない。堪えられなくなって脱落する人のことを、卑劣だとは思わない。むしろ人間的だろう。だが、私には人間的である勇気はない。資格もない。
 だから嗤って欲しかった。所詮人の生命くらい、と。

 太宰さんはしかし、私に手を差し出してこう云った。
「では、私と心中なんていかがかな」
 手に巻いた包帯が、水をたっぷり吸ってべちゃべちゃになっている。当然生臭い匂いを放つ。
「…その手は取りたくないです」
「手?」
 自分の手を眺めて、漸くその汚さを自覚したようだ。繊維に絡み付いた水草を何度か爪で引っ掻き、諦めて再び此方に手を延べた。
「大丈夫、君も飛び込んでしまえば同じことだ」
「厭です」
 渋々と云った調子で彼は手を引っ込め、外套の裾を絞り始めた。

「そうだなまえちゃん、一つ良いことを教えてあげよう。人間と云うものほど、面白い娯楽はないのだよ」
 びくりと肩が跳ねる。ああ、そうか。結局人なんてそう変わるものではないのだ。この人は、恐ろしいことを笑顔でさらりと云ってのける。
「そう、ですか」
「そうとも」
 何も答えぬ私に、太宰さんは続ける。
「自殺志願者たる私が云うのも可笑しな話だけれどもね。しかし不思議なことに、私にとってはこの娯楽と自殺願望は、なんなく両立しているのだよ」
 ――違う。何かが、何処かでズレている。私と彼の間には――私の思う彼と、目の前の彼の間には、齟齬がある。
「いや、むしろこの矛盾こそが、人間を最高の娯楽たらしめている一つの所以なのだろうね。そうは思わないかな、なまえちゃん」
「私には……未だ、理解出来なくて……」
「それは何と勿体無い」
 もしかして。もしかして彼は、少なくとも目の前の、この男性は。人間はくだらないものだとか、そんなちゃっちいことではなくて、

 ――人間として生きるほど面白く愉快なことはない。

 そう、云いたいのではないだろうか。


「太宰さん」
 掌の表面がちりちりと痺れた。織田作さんを懐ってみる。どうにも彼の顔が憶い出せなかった。
「太宰さんは、今――幸せですか」
 とうの昔に、「幸せ」なんて捨てた。それでも聞いてみたかった。この男性の言葉を。

「先刻から云っているだろう?」
 見たことのないほど穏やかな笑みを浮かべて、彼は続けた。
「人間ほど面白い娯楽はないよ」

 ――良かった。そう思った。織田作さん、たぶん貴方の生命は無駄にはならなかったようです。

「心中の件、考えておきます」
 何を思ったか、私の口からはそんな言葉が飛び出していた。
 心の何処かで、それも悪くないと思う自分がいた。