伝令役の雑兵が駆け込んできたとき、私は文机に向かい、筆を硯に置いたまま、白い紙を睨んでいた。
早急に返事を書かなければならないことはわかっているのだが、どうにも筆が進まない。そうこうしている内に書簡の相手が手勢を引き連れて乗り込んできたというではないか。想定していたよりずっと早く仕掛けてきた訳だ。私は元々寄っていた眉間の皺を更に深くして立ち上がった。ここの城主では埒が明くまい。もとより友好的とは言い難い来訪者は話の通じる相手ではないので。
「久しぶりだね、三成。まさか大将御自ら手紙の返事を取りに来るとは思わなかったよ」
私が顔を出したとき、曲輪はちょっとした騒動になっていた。
各地で悪名を轟かす凶王軍が、今まさに戦を起こさんとでもするかのような重装備で雪崩れ込んできたのだから当然だ。完全に此方の守備兵たちの腰は引けている。つくづく情けなく思い、嘆息した。私の溜息をどう解釈したのか、暴軍を率いてきた昔馴染みは牙を剥いた。相変わらず、神経の糸が常時張り詰めきったような男である。
「貴様が付いていながらこの為体…如何いう心算だ!返答次第では貴様の頸も無きものと思え!」
随分な言い種だ。脅しではない証拠に、三成はすでに抜刀している。反射的に柄に手を掛けた。とはいえ、彼が刀を向けている相手は今のところ私ではない。
「これは、これは…」
精鋭の集う覇王軍においてさえ比類なき…と称された三成の斬撃を易々と止めているのは、銀の蓬髪を背に流した出自の知れない怪僧だ。常に二振りの大鎌を携えており、戦場では並の武者より余程目を見張る働きをする。
「奥方様は金吾さんよりも余程凶王様と仲睦まじいのですね」
皮肉な物言い。私はこの得体の知れない男が苦手である。そんな私の反対を押し切って、可哀想だという抽象的な理由で天海と名乗る僧を城に入れ、まるで護衛の如く傍に置くこの烏城の主は、地べたに這い蹲って震えている。
「我らに叛意はない、食糧でも兵卒でも好きなだけ持ち出してくれて構わないよ」
私の言葉に金吾は肩を跳ねさせた。小早川軍が怯えてざわめく。平素通りに薄ら寒くなるような笑みを湛えた天海が、これ以上は無用とみて鎌を引いた。残念なことに、私の指揮下でこの意図を正確に読み取ることができるのはこのいけ好かぬ男だけらしい。
「腑抜け等いるか」
私の挑発的な物言いに輪をかけて居丈高な態度で三成が応じた。裏を返せば食糧だけ持って征く、ということだろう。凶王軍を迎え入れるよう、未だ困惑の抜けきらぬ兵達を目だけで促す。
「それでは凶王御一行様、こちらへどうぞ」
口惜しいことに、ここに至って尚私の意思を汲んで動ける者は件の怪僧しかいなかった。
「ご、ごめんね…」
そっと、まだ柄に掛かったままの私の手に触れるものがあった。重ねられた指先は未だ震えているが、それでも懸命に私の手を刀から剥そうとしているらしい。
先程まで蹲っていた金吾の着物はところどころ土で汚れていたし、今にも泣きだしそうな顔には殴られた跡があった。
「こわかったでしょ…?本当にごめん」
なんで私が三成なんかこわがらなきゃいけないんだ。キッと顔を上げれば、こちらにまで怯えた素振りを見せる。自領内の諍いすら満足に裁けない、情けない男。彼は私が刀を抜いたその後に誰に斬りかかるつもりでいたか、想像もしていないだろう。

三成をこわいと思わないのは、同志だからだ。金吾よりも余程、私はあの男の考えていることが理解できる。
まだ秀吉様も半兵衛様も存命であった頃、私たちは覇王の膝元で文武どちらにおいても過分な教育を受けた。共に戦場を駆けていたその内の二人が天下をめぐって争っている。悪い冗談のようだ。この好機を逃せば天下が間近に迫ること等有り得ないだろう。我々の世代には傑物がいない。
さて、秀吉様に命じられ、安芸毛利と縁の深い小早川家の養子となった金吾がこんな生意気な女を娶るはめになったのは、偏に彼が不確定因子だったからである。金吾は我々と共に幼少期を過ごしておきながら、ついに絶対君主制とでも云うべき豊臣政権の思想に馴染むことがなかった。言い換えれば、それ故に遠ざけられたのだ。戦は嫌いだと宣った。他人はそんな彼を臆病者と罵った。

しかし、臆病な金吾が領主として暗愚だったかといえば、必ずしもそうではなかった。
食に対して酷く執着する性質である彼は、田畑を肥やすことを一にも二にも奨励した。美味しいものが食べたいという一心から、時には自ら鍬を持つことさえあった。餓えるということを彼は何より恐れていたし、満腹であることが絶対的な幸せと信じて疑わない。これはともすれば寝食を忘れて刀を振るう三成とは対照的な思想である。理想のみ見据える凶王の厳しい眼には、金吾は食っちゃ寝食っちゃ寝を繰り返して遊んでいるだけのように見えただろう。傍で見ていた私にしたってそう思ったくらいだ。けれど、小早川領は順調に富んでいった。豊かな緑が城下一面を覆いつくし、どこまでも続いている様を見た時、柄にもなく私は感動した。民を苦しめることなく石高が増える事があるなんて。里を駆け回る子供たちの笑い声が城にいる私たちまで届きそうだ。秋になれば刈り入れ作業をする大人たちの楽しげな声も聞こえてくるだろう。戦で疲弊した郷ではこうはいくまい。
「金吾はすごいね」
賛辞は素直な感想だった。日の本を栄えさせ、統治することが秀吉様の目的である以上、金吾のやり方はとても理にかなっているように思われた。
「そ、そうかな…えへへ」
そうして相好を崩す金吾のことを、名君かもしれないと期待を込めて見詰めたこともあったのだ。確かに。

おしどり夫婦と呼ばれたことはなかったが、夫婦仲は決して悪くはないと思っていた。寝所は別だが、それがどうした。
しかし、その認識が過信であると知ったのは、慶長五年某日。天下分け目の大戦が目前に迫ってからのことである。
「金吾、これはどういうこと?事情を説明して頂戴」
私は苛立つ自分を宥めて、努めて冷静に発信したが、対する金吾がすっかり狼狽えてしまっている為にかえって怒っていることが強調されていた。
「ごめんなさぁあい、ぶたないでぇえ」
許しを乞いながら客間の畳に額を擦り付ける金吾を、屈強な青年が困ったような、けれどどこか余裕があるような不思議な半笑いで見下ろしている。
「ぶったりしないよ、場合によっては元夫の首級を引き摺って大阪に帰るだけ」
金吾は大袈裟に震え上がった。
「ひぃいい〜、なんとかしてよ家康さん!君のせいで結婚生活だけじゃなく人生にも終止符が打たれそうだよ!」
金吾に水を向けられて、当家だけにとどまらずこの国全土を引っ掻きまわしている最中の男は、笑みの種類を明らかな苦笑に変えた。東照権現。東軍の総大将が供も連れずに訪ねてくる程に懇意だとすれば、先日の三成の鬼気迫る様にも納得がいこうというものだ。何も知らずにいた自分が怨めしい。こんなことなら凶王の行軍に加わってしまえばよかった。三成は私を腑抜けとは呼ばないだろう。
「そうは言ってもなぁ、夫婦喧嘩は犬も食わないらしいし…」
そう言って頭を掻く家康とも、我々は幼馴染みである。ただし、織田軍が崩壊した後に豊臣軍の配下になった家康とは、意識の中に随分隔たりがあった。もう離反していることもあり、食えない男、という認識が強い。傑物ではないが、曲者であることは間違いない。三成が家康を殺そうと躍起になっていることを知った時には、(戦の相手は選べよ…)と、内心あきれたものである。
「儂としては金吾に味方になって貰いたい」
快活に宣言する。裏表がないと相手に思わせるのは才能だ。
「…だが、その金吾が恐妻家でな。今日は奥方の説得にきたんだ」
「恐妻家じゃなくて愛妻家って言ってよ!」
金吾の横槍は兎も角、要するに家康は三成を見限るよう催促に来たらしい。慣れた様子を見るにつけても、同様に各地をめぐっているのかもしれないと感じた。
「帰ってくれ、私は秀吉様と半兵衛様に恩がある」
だから、西軍を支持する。担ぐ御輿がどんなにボロくても。
「そう言うと思った…。だが、考えてもみてくれ」
本来なら、毛利家の意向がハッキリしている以上、分家である我々は西軍に与するしかない、という方向で話をするべきだったのに。心情の吐露などしてはいけなかったのだ。ほら、家康はそこを巧みに突いてくる。おそらくは無意識に。
「秀吉殿はもう、この世にいないんだ」
そこからは、坂道を転がり落ちるように、世相は日の本を両断する大きな戦に真っ直ぐ突き進んでいった。多少事情を知る者には天下人である秀吉様の跡目争いにも見えただろう。当人である家康にも三成にも、最早止めることは出来なかったに違いない。
伝令役の足軽が呼びに来たとき、私は陣幕の奥で筆を片手に軍師の真似事などしていた。
戦況はどちらにとっても芳しくないまま、膠着状態が続いている。望まぬまま西軍の大将首のひとつと数えられるようになった金吾には、先刻からひっきりなしに客が来ている。遣いを寄越す相手が敵だったり味方だったりするのが面白いところだ。困り果てた金吾は重鎮ばかり集めて大掛かりな会議をすることにしたらしい。そう長引くとも思えない合戦の最中に悠長なことである。
上座に着いた金吾の前には二人の男が進み出ていた。一人は武人、もう一人は僧形。どちらも辣腕家で知られる御仁である。それぞれ東西に割れる派閥の中心人物にあたる者たちで、その活躍は安土時代に遡ることからして、我々に比べて随分な年増だ。侍は私を見て渋い顔になり、僧はほくそ笑んだ。
「どうぞこちらへ」
大鎌を二つ携えた死神が、いやに礼儀正しく私に場所を譲る。立ち位置から判断するに、天海は東軍への助力に好意的らしい。少し意外だ。そこで初めて気が付く。いつも金吾の腰巾着のように侍っているこの男が、家康が訪れていた折には姿を見せなかったことに。
「寝返るつもりなのだろう?」
それが金吾の意思ならば、一介の室に過ぎぬ私にはもうどうしようもない。責めるつもりはなかったが、怨みがましい言い方にはなった。
「そ、そんな風に言わないでよ!僕だって辛いんだよ!」
怯えた小動物のように金吾はキーキー喚く。思えば可哀想な立場である。家臣たちが各々勝手に保身のために両軍に通じていた。おかげでどっち付かずのまま今日を迎えてしまった。この調子では東が勝てば西を裏切ったと誹られ、西が勝てば東を見捨てたと謗られるであろう。
「家康が好きかい?」
物事を簡単にしようと思って、そんな風に問うてみた。東西どちらに与するか、決定打になるのは本来このくらい単純なことである筈だ。金吾も含めてキョトンとする一同の中で、怪僧だけが頷いている。どうやらこの一群において、私の意図を察することが出来るのはいよいよこの男だけであるらしい。
「う、うん。だって、家康さんは三成くんみたいに酷いことしないし…」
金吾はこの場に居ない凶王に遠慮するように身を縮めながら、それでもはっきり言い切った。残念だ。私はあの男を観方になってやってもいいくらい気に入っていたのだが。
「そうか…」
結局のところ、あの男は敗けるのだろう。否定し続けた絆というものによって。金吾は三成に兵を貸す気が無い。自分のことを見下し、虐げた相手が嫌いだからだ。私怨だが、こんなにわかり易いことはない。
「金吾、もういい」
そもそも戦国の世の再来なんて、時代遅れも甚だしい。
だからね、もういいよ。終わりにしよう?
この戦の勝敗を無理矢理決するだけの兵力を我等は有している。
「ひ、ひぃいい…」
怯えた金吾が後ずさるのも構わずに、私は立ち上がった。精一杯、声を張り上げる。渦中の男たちすべてに届くように。
「これより進軍を開始する!」
緊張が走った。
「目指すは山中村、大谷吉継の首級!」
まず、東軍に味方せよと主張していた軍勢が鉄砲玉の如く勢いで駆け出した。引き摺られるように、他の部隊もそれに倣う。
雄叫びを上げながら、雪崩のような勢いで小早川軍は松尾山を飛びだし、笹尾山の麓に布陣する西軍の要、大谷軍に向かっていった。
「なんということだ…」
老僧の呟きを振り払い、元居た陣に戻ろうとする私を金吾は追いかけてきた。慌てて出てきたのだろう、唯一の武器である鍋を忘れている。
「待ってよ!」
言われなくても、私はちゃんと待っていた。傍まで来るのかと思ったら、甲虫によく似た影はそこで止まったままだった。
「本当にこれでよかったの…?」
私は金吾を見詰めた。私の忠誠は覇王に誓ったものであり、凶王とは何の関係もない超個人的なものであることや、豊臣政権という途方もない夢幻は既に亡んでしまっていることを、彼に上手く説明できるとは思えなかった。
私は最善を尽くしただけだ。現状維持の為に。
「もう少し、金吾がどんな国を作るのか見ていたくなっただけだよ」
それはあの男も同じだろう。あの大きな鎌が稲穂を刈る様を想像して、小さく笑みを零した。