向かいに座る男の口はよく動く。しかし、他愛のない話を延々と繰り広げるために、私をランチに誘ったとは思えなかった。彼にはやるべき仕事が大量に残っているし、話すべき本題というものがあるはずだ。
そして時間を引き延ばしたいのだろうか。さっきからペペロンチーノをくるくるとやっているだけで、皿の上はいっこうに減らない。
この男はまたなにを思いつめているのだろう、私は食べ終えた皿を押しやってグラスを傾けた。しゃれていることに、水にはかすかなレモンの香りがあった。なだれこんできた氷をかみ砕く。がりり、という音が頭蓋にまで響きわたる。

「ボス。私はこれから人と会う約束があるのですが」

ぴたりとフォークを回す動作を止めた。
もちろんその時間にはほど遠く急かすようなものではないが、彼をどうにかしなければならなかった。意外と踏ん切りのつかない、手のかかる男なのだ。
彼が観念したように一度目を閉じると、長い睫毛が際立って見える。そうして震える手でまたくるくるとやりはじめた。振動が伝わっているせいか、先ほどより形がいびつだ。

「なまえが仕事を辞めてくれたら、と今でも思うんだ。なぁ、もう一度考えてみてくれないか?」

前にも同じように思いつめた顔で言われたことがある。二回目の言葉に、感情をあらわにして、烈火のごとく怒りだすことはなかった。しかし、どうしてわかってくれないのだ、という思いがじんわりと蝕み始める。
一回目は、私が彼を庇って銃弾を受けたことがきっかけだった。護衛として、部下として、働く私には、彼を守ることがこの世の何よりも大切なことだ。そのためなら死んだってかまわないとさえ思う。
彼は違った。一般人みたいに私を守ってやりたい、と言う。部下を守るボスとしての義務感にしたって優しすぎる。砂糖を山ほど入れたお菓子にさえ勝るだろう。
そうして私たちは夜な夜な話し合い、ボスが折れる方向で決着がついたはずだったが、何らかの理由で再燃してしまった。なんてことだろう。
ウェイターが近寄り、半分ほどに減ったグラスに水を注ぎ、私の皿を下げる。どうぞごゆっくり、と彼のほうを一瞥して言った。十分に離れたことをさりげなく確認して、また彼を見据えた。

「今おっしゃったことは、死刑宣告と同じですよ」

違う、と被せ気味に言った彼は顔を歪ませたが、それでもなお端正な顔立ちである。反対に私は醜い顔をしていることだろう。だって、首を絞められたように苦しくてたまらない。言葉一つで振り回されてしまうくらいには、私には彼しかいなかった。
この仕事を取り上げられるのは、だれであろうと我慢ならなかった。私の存在意義を消し、これまで歩んできた道を全否定されることだからだ。罵って殴ってやれば、落ち着くだろうか。どんどん熱くなる頭を冷やすために水を流し込めば、グラスの中身は尽きた。

「オレのせいで、なまえを失うのは耐えられないんだよ。わかってくれ」

それは、私も同じことだ。だから、戦争の善悪を語るように、一生平行線をたどる言い争いなのだ。ボスがボスをやめない限り、私は部下をやめられないし、安全な状況でなくとも、ボスもまた私を手元に置くことをやめられない。

「わからないですよ」

投げやりにそう呟けば、悲痛な表情は更に拍車がかかり、今にも泣きだしそうだ。彼は袖で目の辺りを拭ったが、すぐに眼球が涙で覆われた。
私は、ボスの顔を直視できなかった。逸らした視界の端で、フォークを皿の右下に置こうとするのが見える。やがて金属の触れ合う高い音が幕引きを告げた。